あさま山荘事件よりもリンチ事件のほうが私にはショックだった。
どうして次々と仲間をリンチして殺したのか、何冊か本を読み、そして『実録・連合赤軍』を見てもやはりわからない。
リンチのシーンは凄惨に描かれているが、植垣康博や坂口弘の手記を読むと実際はこの程度のものではない。
なぜあんなことができたのか。
彼らがアジトを移動する際にバスに乗った時、ひどい悪臭のために運転手や乗客に気づかれ、あとで通報されたというが、臭いにマヒしてくさく感じなくなるように、暴力をふるうことや他者の痛みにマヒしただけではない気がする。
そして、ささいなことで総括を求め、追い詰めていく残酷さ。
突然やり玉にあがり、「総括しろ」と責められ、自分はこう思いますと自己批判しても、「それじゃ総括になっていない」と否定され、「どう総括すればいいんですか」と尋ねると、「自分で考えなきゃ意味がない」と怒鳴られる。
どう言おうと、何をしようと許されることはない。
殴られ、縛られ、柱にくくりつけられ、食事を与えられず、寒さの中、結局は死んでしまう。
これは魔女裁判の論理に似ている。
魔女裁判では、「お前は魔女だろう」と問い詰められ、「魔女じゃない」と否定すれば、「嘘をついている」と決めつけられて拷問にかけられる。
拷問に耐えきれずに「魔女です」と認めれば、「やはりそうだったのか」というので火あぶりに。
あくまでも否定すると、「これだけの拷問に耐えるのは魔女の証拠だ」というので、さらに厳しい拷問を受ける。
以下、同じことの繰り返し。
光市事件の被告は反省していないと言われる。
面会はしないし、謝罪の手紙を読まないのだったら、反省したかどうかわからない。
つまりは何を言っても無駄で、私は魔女ですと認めて胸を張って死刑台に登れば、そこで反省しているということになるという魔女裁判の論理である。
じゃ、どうすることが反省なのか。
寝屋川市小学校少子殺傷事件の加害者(広汎性発達障害の17歳)の母親は、
「言葉で言えるものではないのですが、ご家族の幸福を一瞬にして奪ってしまい、償うという言葉では済まないと思います。一度謝罪の手紙を書かせてもらいましたが、その後は何もしていません。何をしたらよいか、自分でも分かりません」(佐藤幹夫『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』)
と言っているそうだが、下手なことをしてかえって傷つけてしまわないだろうかと危惧して、何をしたらいいかわからないという気持ちになるのはわかる。
ところが、ある掲示板に「どうしたらいいのか」と聞くこと自体が反省していない証拠だと書いている人がいて、これまた魔女裁判みたいなものである。
「反省していない」と決めつけられ、「私はこのように反省しています」と答えたり、謝罪の手紙を書けば、「死刑になりたくないから反省しているふりをしてるんだ」と見なされる。
「じゃ、どうすれば反省することになるのか」と尋ねたら、「やっぱり反省していない」と言われる。
村瀬学同志社女子大教授が、
「テレビの中で、乱暴な発言をするタレントの中に、再犯を犯す者を例にあげて、「少年院で本当に更生なんてできるのか」と発言する者がいる。こういう「不信感」は、多分にその人自身の内面の不信に対応している。自分自身が反省することがないものだから、人もきっと「本当の反省」なんかしないだろうと考えている」
と、『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』にきついことを書いている。
森恒夫は一度逃亡したあとに復帰している。
だからこそ、森恒夫は「自身の内面の不信」があり、人は裏切るものなんだと思っていて、それで総括を求めながら、「きっと「本当の反省」なんかしない」と決めつけていたのかもしれない。
そして、逃げたことがあるという弱みがあるものだから、余計に他者に攻撃的になり、死ぬまで許すことができなかったのかもしれない。
リンチ事件の怖さは、そうした状況に置かれたら自分も同じことをするんじゃないかという、自分自身の闇を見せられるからということがあると思う。
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認知をまず変えていく中で行動も変わっていく。
これはわかる気がします。
落ちこんでいる時はどんなことでもダメさ加減を証明するものとなりますが、落ち込みから回復している時だと、いちいち細かいことまで深くは考えませんから。
ひきこもるほうが楽です。
べてるのDVDを見てて改めて感心。まず、現実のしんどい状況(経歴)があって幻覚や幻聴が起こるのが大半なようだけど。いきなりしんどい「現実」に対応し、それを改変しようとするのでない。
自分に見えてる幻覚や聴こえてる幻聴のことをしゃべっても笑いものにしない、バカにされない仲間。その安全・安心な場所で、幻聴や幻覚が悪化しないように、「その二階から覗いてる牛はどういう模様で、体長何メートルで。。。」とだんだん幻覚の正体を見極めようとする。
簡単に言えばこう。個人(自分)を取り巻く環境がある。それは、家庭や社会という状況であり、他者というものである。まずはこれを操作しようとはしない。
個人には感情や身体反応にいろいろ症状が現れる。しかし、そのことにはフォーカスを当てない。インプット。つまり外界を認知する考え方と、アウトプット。つまり行動に着目しそれを変えて行こうとする。
この内的相互作用を変化させることによって、環境や他者という外的相互作用に変化を及ぼすこと。これは、一見「心の持ちよう」をいってるように見えるけど。
よく「あるがまま」が救いだというけれど。この認知行動療法によると、身体反応や、気分はいわばあるがままにしておいて、認知と行動を気づきによって変える。
当たり前と言えば当たり前のようにも思いますし、私と他者の現実が同じものかどうか、現実は一つなのかどうか、という疑問も浮かびます。
題名は忘れましたが、家族も含めてみんなが自分のことを知らないと言い出すという小説がありました。
怖いですね。
>われわれが生きる現実はわれわれ相互の交流を通して、社会的に構成されるものである。われわれの思いや他者との交流とは別のところに現実が存在するわけではなく、あくまで、われわれの共同作業をとおして現実が立ち現れてくると考える
らしい。
>他人に確認してもらわないといけないわけで、確認してもらった人がトンデモ系かもしれません。
まあ、確認する人がいろいろであって何度も確認の機会にさらされるのなら、その個人の「主観」は「主観」のままにとどまったり「客観」に格上げされるものもあるということなのでしょう。
ということは、他人に確認してもらわないといけないわけで、確認してもらった人がトンデモ系かもしれません。
妄想ではないんですが、聞いた人が今考えるとおかしくて、しばらく私の真宗理解が間違っていたのかと悩んだことがあります。
その反動でスピリチュアル嫌いが加速しましたが。(笑)
>このお客さんに振り回されない。
「お客さん」を煩悩と置き換えてもいいですね。
煩悩をなくすことはできないけど、煩悩に振りまわされないでいることはできる。
というのが真宗だと思います。
>「客観」的なお客さんともうまくつきあう方法をみつける。
これは難しい。
ひきこもるほうが楽です。
>彼らはネガティブなメッセージを有無をいわさず送ってくる「幻覚・妄想」を「お客さん」と称しています。
ネガティブなメッセージが、その人にだけしか聞こえないのか。それとも、他人にも聞こえ、見えるものなのか。それによって、「主観」と「客観」を区別できますよね。
しかし、「主観」だからまったく「ない」とは言えない。主観にとっては確かに聞こえ、見えるものである。では、この「お客さん」とうまくつきあっていく方法を探ろうというわけでしょう。「お客さん」をまったく根絶のではない。しかし、このお客さんに振り回されない。
これと同じく「客観」的なお客さんともうまくつきあう方法をみつける。その落としどころをはかる。
小心者の私としては、メールに返事がないとすごく気になる。
返信が来ないのは妖怪のせいだったのか……
でも、それって「要は心のもちようだ」ということになりませんか。
トンデモ本の著者は愛読者がいるわけで、世に受け入れてもらえなくても孤独ではない。
恵まれてますね。
予定の時間を大幅に超えてしゃべくっていたら仲居さんが「お呼びですか」と。「だーれも呼んでへんけど」と言ったあと、ふと。「そろそろ時間でっせと知らせに来たんやでぇ」。 おお、これぞ「まあ、ぶぶ漬けでも」っちゅうやつでんなと感心ひとしきり。
ここで、またべてるを思い出す。
http://zatsunen-karada.seesaa.net/article/21181035.html
彼らはネガティブなメッセージを有無をいわさず送ってくる「幻覚・妄想」を「お客さん」と称しています。『お客さんには礼儀正しく接する』と言われてますが、たまにはこの
「まあちょっとぶぶ漬けでもおあがり」などといえば、長居しづらくなるかも知れません(笑)。
しかし、小牧博士や太田先生らには「訪問客」がいっぱい来るんでしょうなあ、手土産持って。
だから仏教はすごいんだ、ということではないですけどね。
>竹田現象学の発想は、心が実体で物は幻想だということが言いたいわけではないんですね。
仏教もキリスト教も二元論ではないそうですね。
でも、要は心の問題だ、というのはわかりやすい。
>教祖が何をやっても信じているような感じですね。
苦しむのは自分自身だし、苦しみの原因は教祖やその教えにあるのですが、外部にその原因を持ってくるというパターンですね。
光市事件の懲戒請求騒ぎがなければ私も喝采していたでしょう。
この話題も去年の二月ごろだったかおととしだったかにさんざん書かせていただきました。
竹田現象学の発想は、心が実体で物は幻想だということが言いたいわけではないんですね。心が実体であるというと唯心論的で、これはこれでまた問題を引き起こす。すべては私の心にうつる幻であり、つまるところ心の持ちようだ。だからどんなことがあっても耐え忍びましょう。。。みたいなことではない。
>ぼろを出しても問題にしない人が多いのは橋下知事のご人徳なのですかねえ…
宗教の信者さんが、教祖が何をやっても信じているような感じですね。まあ、カリスマ支配に、はまってしまっているということですよ。やれやれ。
若い方が寺の法座に来てくれたらありがたいのですが。
で、橋下府知事。
支持率が80%とか。
小泉元首相と似てますね。
ぼろを出しても問題にしない人が多いのは橋下知事のご人徳なのですかねえ…
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2008061801000549.html
給料を減らすから、そのぶん職員もバイトにせいを出せということでしょうか。
えーと、京山幸枝若さんの「左甚五郎」。
親なし子なし妻もなし~ 金も無ければ色気もない~ と言うて死にたいこともなし~
なんだか強烈なリアリズム!!脳天を直撃されましたあ!!ゴルラァ橋下ぉ~上方演芸資料館・ワッハ上方縮小するなあ!!資料室の浪曲のテープ聞くの最近唯一の愉しみにしてるんじゃあああああ。
で、天満天神繁昌亭で今週、女流浪曲聞きます。千日前にもいこううっと。
http://video.mainichi.co.jp/viewvideo.jspx?Movie=48227968/48227968peevee168851.flv
素朴な突っ込みにウーン。
「私が恐れを抱いてるから」ということは、私の心が霊(親鸞の言葉だと鬼神)を造り出すということですね。
夜道を歩いていて蛇だとびっくりしたら縄だったという三性のたとえがあります。
親鸞さんですと現世利益和讃を私風に解釈するとそうなるのですが、突っ込まないでくださいな。
>茂木健一郎さんのクオリアですかね。
「クオリア」ではなく「茂木健一郎さんのクオリア」なんですよね。
他の人じゃ満足できないということでしょうか。
やっぱオーラなんですかねえ。
>今が盛りのスターは輝いているから、何をしても、どんな曲を歌っても人を惹きつけるものがあるし
「この芸人さんは華がある」ってなことをいいますな。巧いのに華がない芸というのもある。「いま売り出し中の芸人」というのもあります。芸に勢いがある。「色気のある芸人」なんてこともいいますな。別にしなを作ってるわけやないけど。
まあ、フッサールの竹田読みとご自分でもいわれるようでしょうし、フッサールはデカルトの方法論を使っていることでしょうし。どんどん遡る。。。
「信念の補強型思考」とか、ネーミングの妙なんでしょうね。同じようなことを言っても、時代に受けるような形で再提出しなければ。
ところで、お釈迦さまは何と言ってはりますか。お東聖典で行くと親鸞聖人はどう言うてはりましたっけ。
>美人で演技もうまいのにちょっと、いう俳優さんもいるし
茂木健一郎さんのクオリアですかね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
竹田氏の独創ではなく、お釈迦さんや親鸞さんも同じようなことを言ってるでしょう。
>ある芸人さんにオーラを感じる。それは、ある人には感じられるけど、ある人にはまったく感じられないものである。。。
蓼食う虫も好き好き、あばたもえくぼ、じゃないですけど、好みの問題もあります。
それとは別に、今が盛りのスターは輝いているから、何をしても、どんな曲を歌っても人を惹きつけるものがあるし、美人で演技もうまいのにちょっと、いう俳優さんもいるし、いい人だけど何だか好きになれない人もいて、ビートルズじゃないけど、サムシング、something to elseがあるのかなと。
これじゃ神秘主義と変わりませんが。
ある芸人さんにオーラを感じる。それは、ある人には感じられるけど、ある人にはまったく感じられないものである。。。
あるものについて不快感を抱く。「乞食」がいるから私に不快感を抱かせるとふつう考える。これが、竹田さんのいう直観(信念)の補強型思考。それに対して、そもそも「乞食」って何ぞや。果たして今目の前にいる人は「乞食」なのかと検証するという態度。そのことをあらためて竹田さんから学んだ。
それはありますね。
だめ映画でも、光っている人が出てくると、そこだけ見せますから。
そういえばマリリン・モンロー、『イヴの総て』にちょっと出てきただけで、アン・バクスターやベティ・デイビスの影が薄くなりましたから。
やっぱ芸人さんのオーラはすごい。
http://jp.youtube.com/watch?v=u-0SELjgwo8&feature=related
分裂生成をしているときに外部から第三者としての笑いという異化をおこせばどうなんでしょうね。
「おまえはあほか~」
けっきょく、私はお医者にかかったことはなかったですが。本を読むことが自己治療のひとつ。
でもそれ以上に自分には音楽と笑い。子どもの頃に熱狂した横山ホットブラザーズ。これが最高!すべてはここに帰る。
http://jp.youtube.com/watch?v=g3rqyx-C3AQ
最後の音程がヘン。ドドドド ドソドです。
http://www.ka-pro.com/profile/yokoyama_hot_brothers/index.html
アホちゃいまんねん、パーでんねん。。。パァ
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1156163
私もちっとも読めなくなりました。
とにかく頭に入らない。
で、竹田青嗣『現象学入門』も途中でお手上げになりました。
>人はどのようにして対立をエスカレートさせていくのか。
リンチ事件は「相捕型の分裂生成」でしょうね。
我が家の親子関係は「相捕型の分裂生成」から「対称型の分裂生成」になりましたが、ま、これは健全なあり方かなと。(笑)
対称型の分裂生成が起きている状況の時に、相捕型の行為をしたら相手がつけ上がってエスカレートする場合もありますね。
リンチ事件でもそういう状況があったようです。
分裂生成を起こしている二人の人物のなかに外部からもう一人の人物が入っていき、二人の注意をその人物に向けさせるということも、もう一人の人物が生け贄みたいになるかもしれませんし。
こうした考え方も「結論がまず先にあり、論理はなんとでもこじつけるという状態」という後付けかもしれず、診断はできるけれども、治療法がわからない病気みたいなものですね。
ああ、そうだったのか、ということはあっても、じゃ、どうしたらいいのかはわからない。
『知識0からの哲学入門』は私でも読み通せるかもしれません。
忘れていなかったら読んでみましょう。
たとえば、次のベイトソンなどにふれたときはおもしろかった。人はどのようにして対立をエスカレートさせていくのか。
http://www.factree.org/content/01/02.html
実弾こそ使用しないものの、血で智を洗う報復合戦。なんでそんなにおスキなのか、と。
そしておなじみ竹田さん。本質直観という考え方や、信念の補強型思考(認知バイアスといまなら言い換えてもいいかも)というのはまさに学校では教わらなかった考え方でした。
http://www.phenomenology-japan.com/honntai.htm
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/ittokutomano/comment/20080523/1211766948
この事件の以前から内ゲバをやっていたわけで、暴力革命を肯定する彼らの論理から言うと、リンチをすることも当然肯定されるのでしょう。
となると、彼らの思想そのものに本来的にああいった事件を起こす要因があったと言えるかもしれません。
大塚氏の本は未読ですから読んでみましょう。
このあたりは植垣氏の証言によるものですが、本来基本的な思想という点では異なる部分が多かった「革命左派」と「赤軍派」が「武力革命」という一点で結束したようですが、結束後もどちらがイ二シアチブをとるのか、幹部同士の微妙なパワーゲームがはたらいていたり、また本来なら「逃走」というマイナスな過去を持った森氏が指導者になることはありえないはずなのになぜなれたのかという問いに対し、「党」というものにこだわりはじめた時点で、実働的な技術屋よりも忠誠心の高い人間のほうが重用されるようになったと答えられていました。
最近大塚英志さんの「彼女達の連合赤軍」という本を読みましたが、価値観や文化という点でもちょうど「転換期」を迎えつつあった時代のようで、またそうした視点からだと違った印象を受けましたね。
コメントありがとうございます。
『実録・連合赤軍』はやたらと登場人物が多いので、予備知識がないと、なんのこっちゃという感じかもしれませんね。
それと時代がどういう雰囲気だったかということもあります。
>元メンバーだった植垣氏の証言を聞き、なぜあそこまで凄惨な事態に至ったのか少し納得できるものがありました。
植垣氏の『兵士たちの連合赤軍』を読むと、客観的に書こうとしたのだろうと思いますが、慚愧があまり感じられないんですよ。
出所後に出した『連合赤軍27年目の証言』を読んでもそう感じました。
>万次さん
オウム真理教事件と連合赤軍事件との比較ですが、似てるようでもあり、違っているようでもあり。(当たり前ですが)
赤軍派たちの言ってること、坂口弘『あさま山荘1972』を読みましたが、まるっきり了解不能です。
『実録・連合赤軍』でも、総括されたメンバーが「森さんたちの言ってることがわからない」というセリフがありました。
自分たちだけで通じる言葉に依存して仲間をまとめようとする点は似てますね。
内ゲバをするのはどんな組織でも陥る穴なんでしょうね。
ゲバ棒で殴るというのばかりじゃなく、足の引っ張り合い、おとしめ合いはどこでも見られますから。
私は「全共闘世代の新撰組」が連合赤軍かいなと思いました。少しでも士気を下げるようなことをする臆病なヤツは、切腹ぅみたいな。まあ当時はそれも折り込み済みで入隊したのでしょうけど。
じっさい、主流派から見て分派活動とか気に食わないなら寝こみを襲って惨殺するとかもやるし。
まあ、むかしは共産党でもリンチ殺人事件というのがあって。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E5%AE%9F_(%E6%AD%8C%E6%89%8B)
http://jp.youtube.com/watch?v=dD-r2NR8A7g&feature=related
敵が外部にいるものと思いきや、内部にいるとなると誰もが疑心暗鬼になり「あいつもスパイ、こいつも二重スパイ」てなことでタイヘン。いちばん、近くにいる敵は自分だったりするもんだから。
私も先日「実録・連合赤軍」を鑑賞しました。世代的にはちょうど親世代(実際うちの住職はドンピシャの世代ですが)のことということもあり、当時の雰囲気がイマイチ理解できず見終わってもラストの最年少メンバー(思想的にあまり染まりきっていない)の叫びの部分くらいしか共感できるものはありませんでした。
ただ、その後随分以前「朝まで生テレビ」でちょうどこぞ事件をテーマでとりあげた回の録画を見直したのですが、その際元メンバーだった植垣氏の証言を聞き、なぜあそこまで凄惨な事態に至ったのか少し納得できるものがありました。
すべてのメンバーがそうとは言いきれないのかもしれませんが、少なからず山に入った時点で近い将来の「死=戦死」という前提があり、そうした緊張感の弱い人から攻撃の対象になっていったようですね。また自分の「死」が前提にあったがゆえに、他者の死も軽いものになっていたそうです。
しかも「銀行強盗」やら「猟銃強奪」やらですでに社会に戻っても居場所がない、そうした逃げるに逃げれない状況も悲劇を拡大させたようです。
そのへんの背景を思うとなんともやりきれない事件という気がしますね。