私は以前、「生まれてきた意味を見つけることが大切だ」と思っていました。
ところが、平野修先生が「人生の意味なんてあるんでしょうかねえ」というようなことを話されました。
正確にどう言われたかは覚えていませんし、どういう意味合いで話されたのかはわかりません。
だけど、私としては「人生の意味」ということに疑問を持つようになり、「人生の意味を問うことは無意味だ」派に転向しました。
そして、「人生の意味」とか「人生の役割」とか言う人に胡散臭さを持つようになりました。
ま、あっさりと考えを変えるわけですから説得力のない話です。
なぜ無意味なのか、私の考えた屁理屈というのは、私に起こった出来事は必然的なものではない、すべて偶然である、だから意味がない、ということです。
ちょっと条件が変わっていれば、その出来事は起きない。
たまたま。
運命ではないし、条件を左右する絶対者もいない、まして私が選んだわけではない。
前もって出来事に意味が与えられているわけではないから無意味。
そして、人生には様々な出来事がありますが、人生に意味があるならば、一つ一つの出来事に意味があるわけで、一つ一つに意味づけできるはずです。
しかし、すべての出来事に意味づけすることは不可能ですから、意味づけできない出来事は無視することになります。
つまり、意味づけできない出来事は意味がないということになります。
そして、仮に意味づけできたとしても、状況が変われば意味づけも変わってきます。
たとえば、「私の人生の役割は家族の世話をすることだと思う」と言ってた奥さんが離婚したとします。
家族の世話という人生の役割も、離婚と同時に消滅したわけです。
というわけで、あとから意味づけをするのも無意味ということになるわけです。
人生に意味がある、意味がないということは仏教で言う分別です。
「意味がある」「意味がない」ということにとらわれてはいけないわけでして、「意味がある」と言う人には「意味がない」と否定し、「意味がない」と言う人には「意味がある」と反対する。
どっちなんじゃということになるわけですが。
意識不明のまま植物状態で何年も寝たきりの人を、そこまでして生かさなくてもいいじゃないか、という声をよく聞きます。
ただ生きているだけでは生きている意味がない、というわけです。
一応はもっともなようですが、だけど違うと思います。
尊厳死を主張する人の話はどうもおかしい。
葛藤があればともかく、あっさりと「生きていても意味がない」と断定する人には、どんな状態で生きていようとも無意味ではないと、私は訴えたい。
そうは言っても、「何でこんな目に」ということはあるわけで、そういう苦しい目に遭った時に、「それはこういう意味があるんですよ」と納得させてほしく思うもんです。
一つ一つの出来事に意味づけするのではなく、人生まるごとに意味があるのではないか、それは何なのかと。
プロジェクト卍さんご紹介のブログに、野矢茂樹氏の『ここにないもの』から引用がされていて、孫引きします。
ほんと、ぴったりの表現です。
では、その全体とは何なのか、ということになるわけですが、ニューエイジ(ヨハネ・パウロ2世によると「グノーシス主義だ」)では、目に見えない世界(天外伺朗氏の言葉では「あの世」)とか意識レベルの高次な世界とかなるんでしょう。
1ピースが自分だと思っていたが、パズル全体が本当の自分であったというわけです。
神の摂理というのも、我々には理解できないことも神様には深いお考えがあるんだということですから、私にはジグソーパズルのように思われます。
しかし、これも意味づけの一種です。
飯田史彦氏の生まれ変わり生きがい論だと、生まれる前に自分で選んだ人生だといくら言っても、どうにも説明できない出来事(たとえば児童虐待、ユダヤ人虐殺などのように)もあるわけで、そういう都合の悪いことはブレイクスルー、つまり「考えない」ようにしなさいと飯田史彦先生はおっしゃってます。
すごいご都合主義です。
で、最初に戻りますと、「人生の意味を見つけると満足した人生を過ごせる」、あるいは「人生の意味を見つけることが本当の満足なんだ」ということになるのでしょうが、それは自己満足という満足にすぎないという気がします。
では、満足とは何か。
これまた前に書いたことのくり返しですが、「これは本当の満足ではない」という否定の中から浮き彫りになるのではないかと思ってます。
そして、「これは間違っている」と何となくでも感じるのは、何らかの基準が自分の中にあるからです。
聞法することで、その基準が自分なりにはっきりしてくるような気がします。
とりあえず今日はそんなふうに考えてます。(明日以降はどうなるやら)
「人生の意味」がはっきりしないということは、「意味」とはどういう意味かが曖昧ということがあるかもしれませんね。
違った問いをたてるほうがいいように思います。
あるいは、意味を考えることに意味があるのか。
頭がこんぐらがります。(笑)
「人生に意味がある」というのは、「生きる」そのことに大きな意味があるとも思っています。
そして、世の中に存在するものは、すべて意味がある(人間にとって良し悪しはありますが)と思っています。
これは、事実ではなく、私の信心です。
だから、誰にでも当てはまるわけではありません。
検索でお邪魔しながら、長々と失礼しました。
勝手ながら、TBさせてください。
>疑う足場があるから、疑うことができる。
足場とは、まずは「私」の足場ですね。
「私」の足場だから、私の都合とか気分とか、そういったものでコロコロ変わる足場です。
仏教徒になるとか、信心をいただくというのは、仏さんの足場を自分の足場にするということだと言えるんじゃないでしょうか。
もちろんその足場がはたして仏さんの足場か、私の足場かはわかりませんし、私の立場を捨て去ることなんてできません。
そのあたり、機の深信と法の深信の関係でしょうか。
ま、よくわからないことを仏教用語を使ってごまかしているだけですが。(笑)
これってヘン。少なくともマチスという人がいて、その人が描いた絵があるから鑑定団が、「この絵は残念ながら21世紀に入って描かれた模写です」といえるのじゃないでしょうか。
いろんなことを考えることができる。いろんなものを疑うこともできる。でも、そもそも言葉があるから、考えることができるのじゃないでしょうか。言葉があるから、誰かにそれを伝えることもできるのじゃないでしょうか。そして、それからその「言葉」そのもの、「考えること」そのものについて考えることができるんじゃないでしょうか。
まず疑う足場があるから、疑うことができる。それから次に、自分が疑ったその「疑う足場」について検討してみる。。。そういうプロセスがあるのじゃないですか?
ひろさちやのは超訳ですね。(笑)
小乗といっても、部派によって主張はさまざまですから、五蘊・十二処・十八界があると説く部派もあるでしょうが、しかし無我とするのが基本じゃないでしょうか。
また、十二縁起や四諦を煩雑な教理だと言われたら、仏教そのものを否定することになると思います。
そして、すべては空だから十二縁起や四諦といったものはない、とまで言うのはどうでしょうか。
そのように何もかも否定するのは空無だと思うのですが。
『般若心経』ですが、最後の真言、あれが気に入りませんよね。
玄奘さんがちゃんと翻訳してくれてたらよかったのに。
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/hannya-t.htm
といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、
そんなものはいっさいありません。また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった
煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。
そしてまた、分別もなければ悟りもありません。大乗仏教では、悟りを開いても、
その悟りにこだわらないからです。現代語訳(ひろさちや)
「般若心経」
が思い浮かびました。
真宗では、読まれることがないのですよね。