三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「年報・死刑廃止2006 光市裁判」(3)マスコミ報道

2007年01月13日 | 死刑

安田好弘弁護士は最高裁の弁論に欠席したことで、抗議や脅迫の電話がかなりあったと、「年報・死刑廃止2006 光市裁判」で語っている。

僕はこの間、光市の事件でかなりの脅迫電話を受けたわけですが、そういうのと対応しているんですね。私は、凶悪だと批判し、死刑にすることを求める彼らの底意に、凶暴性、凶悪性というものをものすごく感じるんですよ。(略)
あんな悪い奴はすぐ殺してしまえ、あんな奴を弁護するお前も殺しちゃえ、司法なんて全く必要ないという話が、何のためらいもなく湧き上がるんですね。

「殺してしまえ」「リンチしろ」と言い放つ正義ほどこわいものはない。

抗議ないし脅迫というような電話がありました。そのなかで共通に見られるのは、弁護人の弁護は不要である、ということです。あの被告人に対して弁護する必要はない、死刑にすべきだ、ということです。つまり被告人が弁護を受けるということ、弁護を受けて死刑からまぬがれることを否定するということは、司法そのものを否定していると言っていいだろうと思います。それは、最高裁がやったことの反映であるといっていいだろうと思うんです。

自分が被告になっても、「裁判なんかする必要ない」と裁判制度を否定するのか。

先日、兄が妹を殺すという事件があったが、いつものようなのぞき見的な報道がなされた。
殺人事件の4割は家族が加害者だから、多くの被害者遺族は、同時に加害者家族でもある。
なのに、「被害者の人権がないがしろにされているのに、加害者の人権ばかりが大切にされている」とか、「被害者遺族の気持ちを思えば、加害者の人権を奪い、加害者家族も差別すべきだ」と主張する人がいる。

こういった人が少なくないのは、マスコミの報道にも責任があると思う。
受ければいいと考えるメディアは、我々の期待に合わせて情報を送り、あることないこと扇情的な報道を垂れ流し、卑俗な好奇心を満足させている。

我々は「どのチャンネルも朝から晩まで同じことばかりやっている」と我々は文句を言い、「テレビは当てにならない」と思いながら、テレビで言ってるんだから正しいと報道を鵜呑みにする。
眉をひそめつつ、人の不幸を楽しみ、自らの正義感を確認する。
被害者感情を声高に言い、加害者を攻撃する人は、本音のところは興味本位で事件の報道を楽しんでいる。

安田好弘弁護士はマスコミについてこう言う。

いわば、忠臣蔵の仇討ちを見て楽しむレベルを超えて、もっと激しく仇討ちをさせようとしているような情勢にあるわけですね。


人類の歴史は復讐を認めなくなったのに、なぜマスコミは復讐心を美化するのか。

暴走するマスメディア、あるいは暴走する世論を止める力というのはまったくなくなってしまった。


裁判所がマスコミや世論に流されている現状は大きな問題である。

マスコミも市民も、司法に厳罰を求めるんですね。「殺せ」、「吊せ」とガーッと騒げば司法は簡単に動くものだと、実際動いてしまうんですけどね、そういう全体としての同化現象というか軟弱現象が起こっているという気がします。


本来、司法とはどうあるべきなのか。

感情とか政治的な要求あるいは世論の動向には一切影響されることなく、法に忠実に、事実に忠実に、公正・公平に法を適用するのが司法だとされてきたわけです。(略)
世の中全部が「殺せ、殺せ」と言っているときに、ほんとうに被告人の権利を守るシステムがシステムとして機能しているかどうかという問題だと思うんです。


ところが、現実にはちゃんと機能していないらしい。

司法の誕生は、政治的思惑や私的制裁あるいは被害者感情からの分化の歴史だったと思うんですよ。ところが司法の側にこれを守りきるだけの力がないから、その垣根が総崩れになっている。司法は時の政権におもねり、世論や感情に同調し、もう手がつけられない状態になっている。

そういう状況の中で、我々はどうあるべきか。

メディアリテラシーという言葉がある。
小笠原喜康「議論のウソ」によると、「マスコミの論調に踊らされず、報道や宣伝のウソや誇張に惑わされない、批判的態度を養おうという広汎な運動」である。
たんにマスコミを批判すればいいということではない。

小笠原喜康はこう説明する。

必要なのは、自分自身の受け止め方、自分への反省的視点である。自分はどういうニュースなり情報に関心があり、それをどう受け止める傾向があるのか、そうしたことに自覚的になる必要がある。

しかし、無意識にバイアスがかかっているから、ホント難しい。

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3 コメント

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国選弁護人 (京都8月2日)
2007-01-15 20:42:08
国選弁護人が付くのは起訴後からで、被疑者の間は付かないんですね。資力が無ければ甚だ不安な問題です。

それと、外資系金融マンバラバラ殺人事件。
被疑者とその友人との電話の会話がワイドショーで公開されているらしいですが、テレビ局もあそこまでする必要があるのでしょうかね・・・
返信する
刑法199条 (京都8月2日)
2007-01-16 13:19:49
あまり見ない六法全書を見ますと、
 
 刑法199条(殺人)
 人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の 懲役に処す
 
死刑の適用に、永山基準というのがあって私は、ひとを2人以上殺さないと死刑にならないのかなと漠然と思ってました。
でも永山基準は、あくまで基準なんですね。過去の判例で死刑判決が人数で決まると云うのも無いですし、小林薫被告も1人殺して死刑になってますし。
そして、刑法199条の条文を見ると、人数なんか一言も書いていないですよね。だから私が殺人を犯しても、100%死刑にならないという根拠は無い様です。
そして、通貨偽造は、殺人を犯さずとも最高刑は無期懲役・・・・知りませんでした。







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満足したブタになった私たち ()
2007-01-16 20:23:16
>国選弁護人が付くのは起訴後からで

それは知りませんでした。
ウィキペディアには、「法改正がなされたためまもなく被疑者国選弁護の運用も開始される」とあります。
起訴されてから弁護するんじゃ、ろくな弁護はできそうにないですね。

>外資系金融マンバラバラ殺人事件。
被疑者とその友人との電話の会話がワイドショーで公開されているらしいですが、テレビ局もあそこまでする必要があるのでしょうかね・・・

ということは、その友人が会話の内容をマスコミにばらしたということですか。
そんなの友人じゃないですよね。

そういう報道は卑俗な好奇心を満たすだけです。
そんなことより、防衛省に昇格したのはどうしてなのか、そうしたことのほうが大問題なはずです。
文句を言いつつ、同時によだれを垂らしながらワイドショーを見る私たちは、愚民化政策に自ら加担して、自分の首を絞めているようなものだと思います。

>刑法199条(殺人)
 人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の 懲役に処す

刑法だけだと、一人殺して死刑にしてもいいし、十人殺しても3年の刑でもかまわないことになるんでしょうね。
そこらあたりをどう判断するかということで、最高裁の判例が重視されるんでしょう。

検察が光市母子殺人事件の加害者を死刑にしたいというのは、判例を作りたいからだと思います。
18歳だろうと、二人を殺したのなら死刑にしてもいい、という判例です。
さらには、死刑を執行できる年齢を引き下げたいという思いもあるでしょう。
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