『スッタニパータ』には、この言葉が出てくる説法が二つある。
身分の卑しい者と高貴な者、どちらについても「生まれによる」ということを否定している。
生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。
もう一つは、バラモンの青年たちに対する説法である。
バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。「父方についても母方についても双方ともに生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく、かって非難されたことがないならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」
ヴァーセッタ青年は次のように言った。「人が戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」
バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。
(そこで二人は釈尊にこのことについて尋ねた)
ゴータマに、我らはおたずねします。生まれによってバラモンであるのでしょうか。あるいは行為によってバラモンとなるのでしょうか? 我々には解りませんから、話してください。
「人類には生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによって仮に設けられて伝えられているのである。
(姓名は、仮に付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々は我らに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。
生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。
バラモンは父方、母方の7代前の先祖までちゃんとわかっていないといけない、というのだから、これはすごい。
おそらく日本では天皇家も含めて、そういう家はまずないだろう。
父方はさかのぼれても、母方となるとせいぜい4代前ぐらいしかわからないと思う。
それはともかく、仏教徒の立場は「行いによって」である。
ところが現実はなかなかそうはいかない。
ある病院のHPにこういうことが書かれてあった。
貴種が貴種たる所以は、高貴な血統が連続して途切れていない、ということに尽きます。天皇家の貴種のそもそもの始まりは神武天皇であり、その后ではありません。つまりは神武天皇という英雄の血統が連綿として連続している。ということが天皇家の貴種たる所以です。
最近、皇室典範の改定の準備として、有識者とやらの集団によって皇位を決定する基準が決められましたが、この有識者とやらは一体全体なにものなのでしょうか?
先祖は百姓町人の末裔かなにかわからない、要は皇室とは縁もゆかりも無い、どこの馬の骨とも知らぬ人間どもが、皇位継承の原則を決める資格がどこにあるのでしょうか?
女帝は確かに歴史上存在しましたが、それはあくまで、皇族がごまんといて、男子の皇族が天皇に即位するまでのつなぎとして存在しただけです。皇族が極端に少ない現代とは事情が違います。また、古代の皇族ははじめ皇族とのみ婚姻していたのです。
清子さまは黒田さんと結婚されましたが、もし、清子さまが女帝であったと仮定して、都庁勤務の黒田さんを天皇の婿として受け入れることが出来ますか?
女帝の婿がたとえば徳川家の子孫だとしますと、天皇家はそこで断絶し、新たに徳川家の王朝が始まると言うことになるのです。また、そのような天皇家を貴種としての天皇家として受け止めることが出来ますか?
歴史とは重いものです。
文章にかなり混乱があるし、論理的に穴だらけだし、あまりにもあからさまな差別だが、これはこれですごく正直な意見で、感心してしまった。
自分のことも「馬の骨」だと思っているとしたら、大したものです。
天皇が美智子皇后と結婚する時、平民の血が混じっては日本の伝統が断絶する、平民の子供を天皇として受け入れることができるか、と主張する人もいたんでしょうね。
三島由紀夫は「小泉信三は不忠者です」と言ったそうだが。
寺だって世襲制になってしまっているわけで、「生まれによって天皇である」と考える人がいるのも当たり前である。
明治維新の際、廃仏毀釈が行われたが、仏教側の抵抗を受けておさまった。
しかし、僧侶の肉食妻帯蓄髪を認められ、仏教側も無批判に同調した。
以後、「生まれによって住職となる」ことになってしまった。
伝統的に妻帯してきた浄土真宗はもちろんのこと、他宗の方でも自分の子供が後継者になること、「生まれによって住職となる」ことを当然と考えているようだ。
真宗ではタテマエとして「門徒さんからお寺を預かっている」なんてことを言っているが、東本願寺の紛争は「本願寺は自分のもの」という思いから起きた。
結局のところ、廃仏毀釈はある意味では成功したと言えるのではないだろか。
私も負けずに、ない知恵をしぼってウンチクを傾けてみましょう。
http://sfc-forum.sfc.keio.ac.jp/forumnews/news51/forumnews51-2.html
ナショナリズムの発明とか、伝統の創作などという言葉が面白いと思います。でも偽史と聞いて思い出すのは、キムタクならぬキムタカですね。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0511.html
「伝統文化とは、近代化の中でつくられてくるもの」
「現在のナショナリズムの背景には、グローバリゼーション下の社会不安がはっきりと大きな影響を与えている」
「現在のナショナリズムは、歴史、特に戦前というものを、夢のように理想化してつくっている」
「現在のナショナリズムが、(略)現状からの逃避という意味で、人々の間に広がったら大変だと、憂慮している」
ブログに使わせていただきます。
感謝。
キムタカの大半の世界文明は日本が起源であるという破天荒な妄想ですが、平田篤胤がその先駆者です。
平田篤胤の影響を受けた明治維新の理念は橿原の御代の復活を目指していたわけですからね。
で、生まれた後に、「生まれ」を乗り越えることもできる。。。というのはどうでしょうかね。
中国大陸も朝鮮半島もずーーっと、ひとつの政権が続いてきたのではないですね。日本にも、中国大陸や朝鮮半島から渡ってきて、定住した人もいますよね。
国の境界があったとしても、それを超えて交易をしたり、移住したり。ヒト、モノが国境を越える。
生物的な遺伝子ばかりでなく、文化的な情報も混ざり合いながら。。。
ある時期までは、京都にある朝廷や幕府には東北地方や北海道地方は「日本」としては意識されなかったのでしょうし。ある時期までは、「くに」は藩であったりしたのでしょうし。
これも差別でしょう。
たとえば、家族に殺人犯がいたら、生まれによって差別されます。
こないだ某氏と話していて、被爆二世への差別についてちょっと考えてしまいました。
広島に住んでいると、被爆二世だからといって差別があるように感じたことはありません。
しかし、某氏は広島生まれでも、広島育ちでもないけど被爆二世で、被爆二世だということで差別を受けた話、また自分と同じような人がいるということを言われてました。
前にも書きましたが、私には逆に自慢したい気持ちがあります。
差別のややこしさをあらためて気づかされました。
日本でも同じですね。為政者、支配者から虐殺された民衆もいて。一向宗の末裔は、フィギュアスケートの織田信成さんを恨みつづけるべきなんでしょうか。
>前にも書きましたが、私には逆に自慢したい気持ちがあります。
宮台真司さんのなんの本だったか忘れましたが。ある若者が「自分はに生まれたかった」といったそうです。何か困難なものを抱えていたほうが、生が充実するということだそうですが。しんどさを抱えているからこそ、しんどさから解き放たれることを待ち望む気持ちが強い。
これも手元にない資料で。2000年に解放同盟が調査したものを読んでたのですが。外に住む人々がに対して「きたない」とか「あぶない」とかいうネガティブイメージを持っていることが多いのですが、に住む人も同じくネガティブイメージを持っている、と。
でもの人はまた、「人情にあつい」とか「助け合って生きている」とか「団結している」といったようなポジティブなイメージも抱いている。そんなことが書かれていました。
日本が中国や朝鮮で多くの人を傷つけたことは自分には関係がないということでしょうか。
それとも、過去のことなんだからあれこれ言うべきではないということでしょうか。
どちらにしろ、それは考え方の違いとしか言いようがありません。
>しんどさを抱えているからこそ、しんどさから解き放たれることを待ち望む気持ちが強い。
どういう意味で「に生まれたかった」と言われたのかわかりませんが、しんどさの原因がはっきりとわかれば楽ですね。
そのせいにすればいいわけですから。
また、に住む人がネガティブイメージとポジティブなイメージの両方を持っているということ、これはごく当然ではないでしょうか。
誰だって自分に関係するものの肯定的、否定的なイメージを持つものでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=qeHvcD6ehH0&mode=related&search=
http://saiga.seesaa.net/article/32376765.html
>日本が中国や朝鮮で多くの人を傷つけたことは自分には関係がないということでしょうか。
自分の生まれる前の、日本(人)が行ったことについては、当然のことながら自分の意志や行動は関わっていないでしょう。ただ、そういった行為や意志決定の当事者だった人たちの文化を継承している社会(土壌)の中で、私(たち)が生まれ育っているということは言えるでしょう。
過去の事実を知ったその時点から、自分がどう感じ、どう考えるかという責任は生じるとは思いますが。
日本人が行った過去の行為について、あらゆる日本人は罪の意識を持ちなさい。。。のような雑駁な「さよう心得よ」という教育は、それに対して反発を生み、よけいに頑なな態度を引き起こすのではないかと思うということです。
そんなアホなことは言っていません。