宮城顗先生の講話の中で、原爆投下後の長崎に入った米軍兵士の話が紹介されていた。
その話は、スタッズ・ターケルが第二次世界大戦についていろんな人にインタビューした『「よい戦争」』(1984年刊)に載っている。
題名の「よい戦争」というのは、アメリカ人は第二次世界大戦をファシズムに勝利した「よい戦争」と考えてきたから。
しかし、「よい」と「戦争」は言葉としてなじまないとスタッズ・ターケルは言う。
原爆に関わるインタビューから、いくつか紹介しましょう。
まずは宮城先生が話されたビクター・トリー「全米原爆復員兵協会」を。
海兵隊員だった。
「1941年に戦争がはじまったとき、私の暮らしはまったくアメリカの夢そのものだったよ。白いくいがきの小さな家、小さな女の子、優しい妻、それに立派な職業だ。29歳で、熱烈な愛国者、好戦派だった。海兵隊に入ったんだよ」
広島に原爆が投下されたときにはサイパン島にいた。
「我われは歓声をあげ、かっさいし、だきあい、とびあがった。たぶん、このいまいましい戦争は終わりになって、我われ日本本土に進攻しないすむってね。みんなそう思ったんだ」
若い中尉から「我われは長崎を占領しに行く」と指示される。
「百年たたなければ誰も入れないといわれてるのに、どうやって長崎を占領するのでありますか」と質問すると、中尉は「海兵隊員、心配することはなにもない。科学者がすでにはいっている。きわめて安全だ」と答える。
9月23日に長崎の港に入り、次の日、長崎の街を見に行く。
「墓場にはいりこんだようだった。完全に静まりかえっている。あたりは、死のような臭いがする。ひどい匂いなのさ」
ある日、合州国科学探検隊と船側に書いてある船が入ってくる。
「おれたち二週間ほどここにいたことになるじゃないか。いまごろになってこの科学部隊を送ってきやがって。安全かどうかを調べようってんだぜ。おれたちはたぶん子どもができないってわけさ」
みんなで冗談を言い合って笑った。
深刻に考えたことはなかった。
しかし、口には出さなかったが、心のどこかでだれもが気にしていた。
この原子爆弾は何をしたのか。
「ある日相棒たちからはぐれてしまったことがある。見知らぬ街にひとり。敵兵だよ、私は。ちいさな日本人の子どもたちが道で遊んでいる。アメリカ人の子どもたちとまったく同じように遊んでるんだが、私はオーイといって手を振ったんだ。こっちをみると、海兵隊だろ。みんな逃げる。ひとりだけ逃げない子がいて、私はその子に近づく。英語がわからない。私も日本語がわからない。しかし、なんとなく通じるんだ。基地に帰ろうとしてるんだということを伝えようとする。彼が、ワイフが私に送ってくれたこのブレスレットに目をつけるんだ。
なかには、娘ふたりとワイフの写真があるんだ。彼はそれを見て指さすので、私はそれをあけて写真を見せる。彼の顔が輝いて、とびはねるんだよ。自分の住んでいる二階のほうを指さして、「シスター、シスター」というんだ。身ぶりで姉さんが腹ぼてだっていうのさ。
このちびさんが家にかけあがっていって、父さんをつれておりてくる。たいへんいい感じの日本の紳士だ。英語が話せる。おじぎをして「おあがりになって、お茶でもごいっしょにできれば光栄です」というんだ。それで、この見ず知らずの日本の家にあがりこんだんだよ。炉だなみたいなところに若い日本兵の写真があるので、「息子さんですか」ってきいてみた。「これは娘の夫で、生きているかどうかわからない。何も聞いていないのです」というんだ。
彼がそういった瞬間、私たちと同じように日本人も苦しむんだってことがわかりはじめたんだ。彼らは息子たち、娘たち、親類を失ってるんだ、彼らも苦しむんだってね。
日本人には軽蔑しかなかったんだよ。日本人が残酷だっていう話ばかり聞いてね。私たちは日本人を殺す訓練をうけた。敵なんだ。パールハーバーで連中がしたことを見ろ。しかけたのは連中だ。だからこらしめてやるんだ。この男の子と家族にあうまでは、それが私の気持だったんだよ。姉さんがでてきて、おじぎをする。ものすごく大きな腹をしてる。あの瞬間を私は忘れないよ」
ビクター・トリーは広島長崎復員兵委員会に加わる。
異常に多くの復員兵が、癌、白血病、多発性骨髄腫、その他の血液の病気などにかかっていることがわかる。
「私は政府を信じてた。ルーズベルトのいうことは何でも、神にかけて――いやルーズベルトが神様だったけどね――信じたのさ。(略)いまじゃ、私は疑うことができる。政府を疑っているんだよ。アメリカ人はみんなそうするべきだ。(略)
大統領だろうが誰がなんといおうがだめだよ。私は自分で考えなけりゃならないんだ。そして、みたものは、みたんだ。
私たちは、あのふたつの原爆を軍事施設に落としたんじゃない。私たちは、女たち子どもたちの上に落としたんだ。私がとんだりはねたり、相棒とだきあって、得意になってたその瞬間に、道路に幼い赤んぼがころがっていて、黒こげに、焼かれて、生き残るチャンスがない。七万五千人の人間がいて、生きて、呼吸して、食べて、生きたがっていた。それが一瞬にして黒こげにされてしまった。これはアメリカが永遠に背負わなければならないものだ、と私は思う」
アメリカ軍は、日本兵は夜でも目が見えるなどと信じていたという。
日本にしたって、鬼畜米兵、女は強姦されて殺されると、自分たちがやってたから、そうされるものだと思い込んでいた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、知ることの大事さを思う。
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むむ、原爆に遭った浦上天主堂が取り壊されたのは、高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』によると、長崎市長と長崎教区司教の渡米と関係があるそうです。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/582d2b8f477402fd9f5939554f6c36b6
アメリカはやり方がうまいですね。
アメリカに行った原爆乙女の人選は、もめたそうですね。つまるところ、アメリカ好みのお嬢さんだったそうです。
選考条件
①キリスト教徒
②内科的疾患がないこと
③裕福な家庭の子女
これは、谷本牧師の強引な主張だったそうです。(全員彼の洗礼を受けている乙女)
土門拳の随筆によると、その後、彼女たちは、アメリカから毎月送金されていたそうです。
そして全員が申し合わせたように、原水爆禁止運動に曖昧な非協力的態度で終始しているそうです。
1957年10月9日、ネール首相の広島、訪問のとき、原爆乙女は一人も平和記念公園原爆慰霊碑の前の全市をあげての市民大会に出席しなかった。
何も知らない、参加者はどうして出てこんか?と不思議がったという・・・
差し詰め、ケロイド整形するも地獄、しないも地獄といったところ。
あるいは原子力という神を。
神は信者にも祟るんですよ。
気まぐれなんですね。
いいこと言ってますね。
神と氏子のアメリカ村ですね。
神あるいは神の名を借りた者が村を造り村人を洗脳して支配する。
村人にとって神は絶対に正義だけれど、それが守り神か祟り神かは判らない。
よい戦争でアメリカ村に勝利をもたらした原子爆弾(核)。
今の日本村のとある地方には原子力村という村があるそうです。
勿論、その村の神は原子力(核)なんだそうです。
村人にはよい神様として崇められていますが、村人以外には祟るそうです。
私はよくは知りませんが。
神様には支配されたくないです。
大村益次郎の銅像を見て、「このオジサン、メチャ昔っぽい人だし」というのは間違ってはいません。
ですから、半分正解。
連れと待ち合わせしたのは、靖国神社の大村益次郎の銅像の下。そこで、待ち合わせしていた、隣の若者の会話にびっくり。
「こんなに、混んでる中、なんで、こんなとこで、待ち合わせするのよ。迷子になるとこだったじゃない!!で、なんなのここ?」「なんか、よくわかんねぇけどさ、戦争に関係あるとこじゃん」「戦争?いつの話してんのよ」「たしか、昭和に戦争あったって、聞いたことねぇから、そうとう昔のことじゃん」「な~るほど。このオジサン、メチャ昔っぽい人だし」
大村益次郎が、日田の咸宜園で学んだことや、伊予宇和島でシーボルトのお嬢さんと出会っていたことや、明倫館で兵学の講義してたこと、とか、知らなくても、ぜ~~んぜん、驚きませんが、こういう会話が、まじで成り立っているのには、どうも・・・
花吹雪 昭和は遠く なりにけり
次回の日記も、期待してます。