三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

イスラーム(1)井筒俊彦『イスラーム文化』

2020年05月09日 | 

サウジアラビヤとイラン、スンニ派とシーア派が争うのはなぜかと思い、何冊か本を読みました。
まず井筒俊彦『イスラーム文化』です。

『コーラン』は神の啓示を記録したものだが、全部が一挙に下されたのではなく、約20年の年月をかけて少しずつ断片的に下った。
この20年を2つに分け、前期10年をメッカ期、後期10年をメディナ期という。
前期と後期とではイスラームはがらりと性格を変えてしまう。

① メッカ期 自己否定的
最後の審判で罰を受けるという終末論的な怖れがある。
現世的秩序に独自性は認めず、来世に重みがかかっている。

神は全知全能、唯一、人格神であり、絶対に善だから、悪をなすことはあり得ない。
人間がたった独りで神の前に立ち、個人が神と一対一の契約を結ぶ。
神はあくまでも主、支配者であり、人間はその奴隷という関係にある。
義務を負うのは人間だけで、神は人間に対して義務を負わず、権利だけを主張する。

罰を下さずにはおかない怒りの神、正義の神。
人間が正義の道にはずれたことをすれば絶対に許さない。
人間は根強い悪の傾向性をもっており、神の前に立つなら、いかに罪深い存在であるかという自覚をもたざるをえない。
罪悪意識に基づく神への怖れがメッカ期のライトモチーフである。

② メディナ期 自己肯定的
終末論に基づいて、神の慈愛のしるしに満ちた場所としての現世を生きていく
人がムハンマドと契約を結び、ムハンマドとの契約を通して神との契約に入る。

ムハンマドを神の代理人として認めることにおいて、ムハンマドは人々の絶対的指導者となるから、神の命に従うのと同じようにムハンマドの命に従う。
ムハンマドと契約関係に入った人々が、お互い同士が同胞として、信仰共同体が神と契約を結ぶ。
神と人との個人的契約のタテの関係だったのが、人々との結びつき、ヨコの広がりを加えることになる。

個々の人が神にすべてをまかせ切って絶対服従を誓うという信仰ではなく、共同体的に組織された社会的宗教となり、制度化されていく。
開放的であって、排他的ではなく、誰でもその一員になることを許される。

血のつながりに代わる信仰のつながりを立て、共同体の宗教として確立されたイスラームは普遍性を持ち、世界宗教となった。

現世の悪は人間の力で直していけるから、現世を少しずつよいものに作り変えていこうとすることが正しい人間の生き方。
神は慈悲と慈愛、恵みの主で、善人には来世で天国の歓楽を与えることを約束する。
神にたいして人間のとるべき態度は感謝あるのみである。

イスラームは聖なる領域と俗なる領域とを区別しない。
世俗世界は存在せず、現世がそっくりそのまま神の国である。
宗教は人間の日常生活とは別の、何か特別な存在次元に関わる事柄ではなく、生活の全部が宗教であり、政治も法律も人間生活のあらゆる局面が宗教に関わってくる。

現世が神の世界としての正しい形で実現していないなら、神の意志に従ってこの世界を正しい形に建て直していかなければならない。
人間生活が悪と罪に汚れていても、人間の努力次第で正しい形に建て直していける。
地上に神の意志を実現していくことが、イスラーム共同体の任務、存在意義と考える。

多くの場合、アラブとイラン人は、世界観、人生観において、存在感覚において、思惟形態において、正反対の関係を示す。
アラブを代表するスンニー派(いわゆる正統派)的イスラームと、イラン人の代表するシーア派的イスラームとは、これが同じ一つのイスラームなかと言いたくなるほど根本的に違っている。

シーア派はムハンマドの死以来、イスラームの歴史が正義に反する、間違った歴史であり、自分たちは間違った世の中に生きているという感覚を持っている。

ムハンマドは最後の預言者だから、ムハンマドが死ねば、神の啓示は『コーラン』を最後にして途絶えてしまう。
しかし、シーア派では、それはコーランの表面に書いてあることで、イマーム(預言者と一体化した後継者)がいる限り、内的啓示は続いていくと信じている。

ムハンマドの死後、ムハンマドの娘ファーティマと従弟のアリーに政治権力と宗教権威が継承され、その後は特別な宗教的能力が備わっているアリーの血統に受け継がれて、イマームとしてイスラーム世界を宗教的にも政治的にも指導することが、あるべき歴史の展開だった。
ところが、9世紀に12代イマーム(869年生まれ)が4歳か5歳のときに姿を消し、存在の目に見えぬ次元に身を隠し、イマームは12人で終わったとされた。

誰も12代イマームの姿を見る人はないが、信仰深い人の夢や祈りでのエクスタシー的状態のときにイマームと会うことができる。
終末の日に先立って最後のイマームが救世主として再臨するまで、正しい支配者であるイマームの統治は行われない。

シーア派にとって、イマームは人間的存在を超え、宇宙的実在である。
イマームという神的人間の存在を認め、すべてのことの根底とするシーア派はキリスト教により近いと考えていい。

神の代理人がムハンマドだから、ムハンマドの言いつけに従うことは、そのまま神の言いつけに従うことであり、ムハンマドの言いつけに背くことは、すなわち神に背を向けることとされる。

コーランをどう読むかは各人の自由だが、それには許容範囲がある。
解釈が許容範囲を逸脱した場合、共同体の指導者たちが異端宣告をして、共同体から追い出してしまう。

意識的に解釈学的なシーア派は、『コーラン』をふつうのアラビア語の文章や語句として解釈するだけでなく、暗号で書かれた書物だと考える。
通常のアラビア語の知識ではとても考えることもできない秘密の意味を探ろうとする。

暗号解読をタアウィールという。
タアウィール以前に見ていた世界は俗なる世界であって、タアウィールのあとに現れてくる世界が聖なる世界だということになる。

現世は完全に俗なる世界であり、悪と闇の世界であるというゾロアスター教の善悪二元論がシーア派には認められる。
だから、人は存在の聖なる秩序を探り出さなければならない。

ところがスンニー派の見方では、現世がそのまま神の国であり、聖と俗の区別はない。
だから、罪と悪とは人間の決意と努力次第で正しい形に建て直していけるものであり、理想的な姿に向かって現世を構築していくことができる。

それに対し、聖と俗をはっきり区別するシーア派は、スンニー派の現世肯定的な態度を認めない。
この点において、シーア派はスンニー派と完全に対立する。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« NHKスペシャル取材班『戦... | トップ | イスラーム(2)池内恵『シ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事