森絵都『カラフル』、藤野千夜『ルート225』など、子供だけに読ませるのはもったいない本が理論社から出ている。
安東みきえ『天のシーソー』もその一つ。
小学校5年生のミオが主人公の6篇の短編。
いずれも最後にホロッとさせるところがうまい。
なぜ読後感がいいのか。
ミオは人の痛みがわかり、そして人を傷つけたことに気づく子なのである。
悪いことをしたと気づけば、謝らずにはおれない。
たとえば「マチンバ」である。
町に住んでいるので、ヤマンバならぬマチンバとあだ名されている老婆の家を、ピンポンダッシュするミオたち。
ところがある日、逃げようとしてマチンバのシクラメンの鉢をミオは割ってしまう。
他の子どもたちは逃げたが、ミオは玄関先に立って老婆が出てくるのを待ち、憎たらしいことばかり言う妹のヒナコもミナの後ろに黙って立っている。
小6の次女にこの本を読ませ、もしもシクラメンの鉢を割ったらどうするかと聞いたら、「逃げる」と答えた。
大きな声で言えないが、以前スーパーの駐車場に車を停めようとして、よその車にぶつけた時、私はすぐに逃げた。
子供が一緒にいたのに。
考えてみれば、私だって子供のころ、何か悪いことをしたなと思った時、心にちくっと痛みを感じたものだが、年とともに心の面の皮が厚くなったのか、痛みに鈍感になってきた。
バイオリンの先生は、スーパーの駐車場で他の車にこすってしまった時、その自動車の持ち主が来るまでずっと待っていて、弁償したそうだ。
ミオのような人も世の中にはいるわけです。
私もせめてトラックのおねえさん(「毛ガニ」)のように、「わかった」と約束したことぐらいは守りたいものです。
「天のシーソー」は、転校生のサノという男の子をめぐる話である。
ちょっとした気づかいのできる優しい子であるサノは、同級生を自分の家に連れて行くことをしない。
家がどこなのか、ミオたちは学校帰りにあとをつける。
サノは「佐野」という表札のあるレンガ造りの洋館の中に入る。
ところが翌日、サノの家は実は「ゴミ屋さんみたいなとこ」だということがばれてしまう。
あとをつけられていることを知っていたサノは、自分の家を素通りし、父親がいたのに知らん顔をしていたのだ。
わびるミオにサノはぽつりぽつりと言う。
これは原罪についての話かなと思った。
北森嘉蔵『日本の心とキリスト教』に、原罪が次のように定義されている。
どういうことか。
仏教の言葉で言えば宿業ということか。
ギリシャ悲劇では登場人物は「そうせざるをえないことをする」が、それはオイディプスが知らずに父親を殺し、母親と交わったように、そのように運命づけられたことを行なったのであり、本人にとって避けることのできないことなのである。
しかし原罪は、自己の意志で「そうしたいことをする」のである。
土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義』に、「彼は学生だ」「彼は正直だ」と「彼は長身だ」という文は根本的に違う、とある。
「彼は学生だ」ということは自分で選んだ結果だが、「彼は長身だ」というのは選択した結果ではない。
同じように、「彼は正直だ」も自分で選ぶことができる。
「本当の自分とは何か」ということも、その「自分」ということが「選ぶことのできる自分」(性格、仕事など)なのか、「選ぶことのできない自分」(容姿、年齢など)なのか。
選ぶことのできないことについては「自分とは何か」問うことができる。
しかし、本人が選ぶものについて、「本当はどっちなのか」と問うのはヘンだとツチヤ教授は言う。
サノは自分で選んで父親を無視し、よその家を自分のうちだとミオたちに思わせた、ということになる。
しかし、原罪という考えに立つと、サノは嘘をつくことを避けることはできないのである。
自分の家や父親を恥ずかしく思っているサノは、そうしたいから自分の意志で目をそらす。
ところが、息子が自分を恥じていることを察していて、何も言わない父親の気持ちをサノは知っている。
知っていながら、サノは知らん顔をせざるをえない。
級友の前で父親を無視することは避けえないことなのである。
サノはそういう自分の罪に気づいている。
だから読者はほっとする。
http://www.shinhyoron.co.jp/books/newb/0536-5.htm
そのタイの社会から、「アタック・ナンバー・ハーフ」という映画が生み出されましたが、
http://home.att.ne.jp/wave/zaqs/rev/rev_stlx.html
その続編もあるそうです。近々、セクシャルマイノリティの人と、宗教者の対談というイベントをやるので、その辺を集中的に勉強中です。
水を大量に飲んでは、それを吐くということをくり返す、という治療法だったと思います。
フィリピンの映画で、ホモバー(?)に勤める兄弟の話という映画がありました。
兄のほうは結婚して子供がいるけど、金を稼ぐためにそこで身体を売っている、弟も仕事がないので、仕方なくそこで働くわけです。
親も承知しているんですね。
日本の感覚と全然違っているのには驚きました。
どちらも広島市映像文化ライブラリーで見ました。
キリスト教では、レズビアンやゲイであることをカミングアウトする人もぼちぼち出てきていますが、仏教ではどうなんでしょう。
http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2006-11/ss0611-4.htm
http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20050813A/index6.htm
仏教とゲイとオレ。。。更新ないですねえ。
http://d.hatena.ne.jp/a-qing/20060201
近代になってから、同性愛は健全な社会から追放され、ハンセン病者、精神病者、犯罪者も社会から隔離するようになったわけで、そのため我々もそれらの人を我々の世界とは無関係な存在だという考えの枠組みを作ってしまった。
そこらあたり、理屈ではわかっているつもりですが、もしも息子がカミングアウトしたらショックでしょうね。(笑)
どうかというようなことがメインテーマのように思われます。
で、それは生前の行いによって決まる。もしくは何を信じるかによって決まる、と。極楽なるものがそもそもあるのかと訝ることもあるけれど。そこには、私はどのように生きたらよいのかというテーマが隠されているのかな。これなら、かなり普遍的なテーマかな。
自分は極楽往生間違いなしと思えるか。。。親鸞聖人などは、地獄は自分の住処だといいます。まあ、自分という器はとても極楽行きとは思えない、と。
念仏称えても、五逆・十悪という罪を犯すものは除かれる。。。と経典にあります。五逆・十悪というものが何であるかはさて置いといて。念仏称えるものはすべて極楽へ文句なく行けます。。。と書いてないとこがミソか。
親鸞さんが自分の著書に引用するお経に、菩薩の死ということが書かれています。二乗地へ堕ちるともいうところで、これは浄土教徒にとって地獄へ堕ちるより避けるべきだと言われます。他者を見捨て、切り捨てることによって自分だけが助かろうとする境地とあります。
これは、『蜘蛛の糸』のモチーフとも重なるところですね。
「怖いもの見せてあげようほら鏡」という川柳がありまして、もう少し丁寧だと、「腹立たば鏡の前に立ってみよ鬼の姿がただで見られる」でしょうか。
お経は我が身の姿を教えてくれる、ということです。
鏡には別の意味もあって、「円さんは坊主の鏡です」というように、こうあらねばという姿をも見せます。
こうあらねば、というのはちがいますね。
仏とはこういうものだ、という鏡です。
「仏心というは大慈悲これなり」ですから、慈悲の心が鏡の両面というになりますか。
地獄、極楽もそういうことではないかと、数分前に思いつきました。
この人と対談してみたいデス。。。プロテスタントもカトリックも超えたいとおっしゃる。
↓平良さんの説教も非常に共感を持ちました。
http://www.rikkyo.ne.jp/~kayama/zenkari/2004taira.htm
四分律には、快楽を感じることを悪いこととして認識しているように読めます。出家とは独身のことでしょうし、結婚には重きを置かないのがやっぱり、仏教の本流なのではないでしょうか。
キリスト教は同じく快楽や欲情をよくないこととする禁欲主義的傾向が強くなっていったようですが、オトコとオンナが一生離れない、「結婚」を秘蹟として評価する考え方(ロマンティック・ラブ)があるようです。
どうしてでしょうね。
出家主義が仏教の正統かどうかですが、ごく初期から在家信者がいたわけですから、仏教が結婚を否定していたわけではないと思います。
セックスに関するいろんな戒律があるそうで、やはり出家といえども性の悩みが尽きなかったんでしょう。
そういえば、「A」というオウム真理教信者のドキュメンタリーに、ある出家信者が「質素な食事は慣れるが、性欲の問題が一番難しい」と言ってました。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama2000/sbzm2.htm
神様は「産めよ増やせよ、地を満たせ」といったのですから、本来結婚より独身を優先させたということはないのでしょう。
で、出家と在家ですが。。。
http://www.j-theravada.net/sakhi/suttanipata-2.html
ビク(男性出家者)ビクニ(女性出家者)ウバソク(男性在家者)ウバイ(女性在家者)が、仏教教団の構成メンバーですが、生産活動に従事しない出家者を布施で支えるのが在家者の存在意義なのではないでしょうか。
http://www.ne.jp/asahi/fas/soc/activities/1reading/shukke.html
で、悟りへのステップ(預流・一来・不還・阿羅漢)四つのうち、在家者だって第三ステップまでは到達できるのでしょうが、阿羅漢にはなれない。
で、布施して功徳を積んで次の世に修行できる出家者に生まれ変わって、最後のステップに達すると考えていいのではないでしょうか。すると、「結婚」というものは、否定されるべきものではないけれど、枝葉なのではないのでしょうか。
http://user.komazawa.com/~inseikai/sukke2.htm
もっとも、浄土教徒は仏教の本流ではないと思いますから、