『ツチヤ教授の哲学講義』によると、ツチヤ教授は哲学の考え方には二つあるという。
形而上学とは何か。
たとえば、神とか、価値とか、存在とか、意味が形而上学的なものである。
「この世界は何のために存在しているのか」とか、「神は存在するか」とか、「自分とは何か」とか、こういった形而上学の問題を解決し、深遠な真理を解き明かすものが哲学だと思われている。
しかし、ツチヤ教授はそれを否定する。
たとえば、「本当の自分とは何か」という問題である。
「本当の自分とは何か」、プラトンはふつう「人間」と呼んでいるものは本当の意味では人間ではなく、人間のイデアこそが本当の意味で人間であると主張している。
しかしツチヤ教授は、「人間のイデアが本当の人間なんだ」ということは「AはAである」と言っているにすぎない、「人間」と呼ばれているものは本当の人間ではないと否定するのは言葉の使い方を変更しようと主張していることだ、形而上学は言葉の規則に反対を唱えているだけだ、と言う。
形而上学的な問題に答えはないということである。
スピリチュアル・ペインということが医療の現場で問題にされている。
闘病生活が長引いている人や、死を目の前にした人が、「私の人生は何だったか」「なぜ死ななければならないのか」「どうして苦しい思いをしてまで生きなければならないのか」「死んだらどうなるのか」といった苦痛な問いを持つ、それをケアしましょうということである。
しかしながら、こうした問いは形而上学的な問題だから、答えがない。
田畑正久『生死を超えて』だったと思うが、中学生がナイフで教師を刺して死亡させたという事件があり、そのお通夜の席で同僚の教師が「どうして、死んだの」と嘆き悲しんでいたら、側にいた医師が「出血多量で死にました」と答えた、ということが書かれてあった。
医師の答えは場にふさわしくはないが、しかし医学的には正しい答えである。
宗教的な答えはいろいろあろうが、「そういう業を作ったからだ」が答える仏教者もいるだろう。
ウィトゲンシュタインだったら、「答えはない」と答えるのだろうか。
ツチヤ教授はこう言う。
天願大介『AIKI』という映画にこんなセリフがある。
これにはほとほと感心した。
プラトンは、形而上学的な真理を知らなければ、われわれの人生は意味を失ってしまうと考えた。
しかし、ツチヤ教授は疑問を呈する。
そしてこう言う。
つまりは、「なぜ死ななければいけないのか」「どうしてこういう目に遭ったのか」「いかに生きなければいけないのか」といった問いに答えられないからといって、それで悲惨だということにはならない。
だからといって、そうした問いが無意味だとは思わないし、スピリチュアル・ペインは大切な問題である。
しかし、答えの出ない問いは、問いの立て方が間違っているのではなかろうか。
ならば答えを探すよりも、正しい問いは何かを考えていかないといけないと思う。
じゃ、何が正しい問いなのかとなると、これまた難問ではありますが。
安易に答えを与えるスピリチュアリティの先生より、ツチヤ教授のような人を本願寺は招いてほしいものです。
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/muga-0.htm
無記でした。
立つことができるのか。。。ということ。
人生の意味。。。とか、宇宙が持っている目的。。。これらに答えようとすると、自分の意識の
外側にあるような、「神様」や「仏様」や「輪廻」
や「霊的進化」。。。のような、見たり触ったりして確認できることから遠いものに言及しなければなりません。
科学や歴史だって、直接見たり触れたりできない
ものを「真理」として扱いますが、例えば顕微鏡とか望遠鏡とかの観測器具を使い、地質やら文献資料を
いくつか照合するとかで、推測していくので、これら
の「形而上学」的なものとは、区別されるでしょう。
原理的に事実であるか、ないかを確かめられない種
類の事柄が、「形而上問題」ですよね。
でも、こういった「哲学すること」は流行らないでしょうし、ビジネスにもつながらないですね。
スピリチュアルペインが問題にされているわけですから、「なぜ生きているのか」といった問題(形而上学的問題ですが)はすたることはないでしょうし、ビジネスにつなげる人も出てくると思います。
ただし、それは哲学によって問題を考えていくのではないでしょう。
「哲学は、ふつうの人であればだれでも納得できるような理屈を立てないといけない。どう考えても否定できないような、合理的な理由をつけて主張しないと相手にされないんです。」
とツチヤ教授は言っています。
それは難しいですからね、「合理的な理由」をつけない、たとえばスピリチュアリティ的な思考で形而上学の問題を考えていくことになります。
ツチヤ教授の講義によると、形而上学的問題は意味がない、意味がないことを哲学によって知るんだそうです。
釈尊は形而上学を語りませんでした。
では何が問題なのか、そこを釈尊は教えてくださったのでしょう。
宗教に課税しないのって、ヨーロッパのパクリ?
収益事業には課税されますし、僧侶も給与所得者ですから所得税を払っています。
固定資産税がかかるようになると維持できなくなる寺院や神社が出てくるでしょうね。
そういう税金逃れは芸能人や漫画家などの高額所得者もやってますよね。
生活保護のことであれこれ言われていますね。
不正受給はさほど多くはないそうです。
宗教法人についても同じだと思います。
創価学会などの政治力のある宗教に弱い自民党や民主党の問題もありますね。
夫婦円満こそ信仰家庭だみたいな話をしてて、自分は離婚する。
なのに信者はおかしいとは思わない。
創価学会と日蓮正宗のケンカもそうで、言ってることが急に変わったのに、日蓮正宗を昔から批判していたみたいに信者も思い込んでいる。
おかしいですよね。
わたしが通ってるスイミング(町営)にも生活保護受けてて月会費支払ってきてる人いる。暇がたっぷりあるんだね。いついってもその人いるらしいよ。みんなから、陰口たたかれてる、なんかあったらチクってやるって。お父さんにそのこと言ったら、その人にはその人の事情があるんだから、お前はよけいなことしない方がいいという意見。お母さんもそういう、そういうことは行政に任せなさいって。円さんはどう思う?影でいろいろいってるの聞くのヤなんで、最近プール行かない。
入院患者でも生活保護受けている人大事にされるんでしょ、絶対国から支払ってもらえるからって、そう聞いたけど、違う?
不正の人、さほど多くないかもしれないけど、ワーキングプアーには、おかしな話だなって思うときあるよ。不正のような不正じぁないような・・・おかしな人見てるし。
だけども、生活保護を受けている人がみんなうまい汁を吸っているわけではありません。
町営プールの会費は生活保護の範囲では無理な金額なんでしょうか。
生活保護受給者206万人で、不正受給は0.3%だそうです。
http://cafesta.jugem.jp/?eid=1997
http://blog.goo.ne.jp/ngc2497/e/9bbde93a3b95113149d53b750ec03bd6
日本の貧困率16%で、生活保護を受けられない率70%。
>入院患者でも生活保護受けている人大事にされるんでしょ
貧困ビジネスをしている病院はあります。
でも、そこに入院している人が得をしているかどうかは別問題でしょ。