最首悟さんの41歳になる重複障害者の娘さんは、障害1級で、目が見えず、しゃべらず、自分で食べず、噛まず、排泄は無関心、動くことをあまり好まない。
『開けられたパンドラの箱』の談話で、最首悟さんは次の指摘をしています。
植松青年の問題提起の先にあるものを考えれば、与死法ができて、お医者さんが条件を満たした意識のない人たちに死を与えていくということになるけれども、果たして若者はそういう職業に就きたいのか。
松村外志張さんが提案した与死とは、社会が一定の基準を満たした人に死を受容させるというもの。
守田憲二さんの「死体からの臓器摘出に麻酔?」というサイトに、「移植学会 脳死概念を放棄か 松村氏の「与死許容の原則」を紹介“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”」という記事がありました。
http://www6.plala.or.jp/brainx/2005-4.htm#20050410
松村外志張「臓器提供に思う-直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案」(2005年)という論文について書かれたものです。
松村外志張さんは医者の負担なんて考えていないようです。
臓器移植法が制定されたが、脳死者からの臓器移植が伸び悩んでいるので、死者の生前の意思表示より、遺族や親密な関係者の意志を優先して尊重すべき。
ドナーカードで拒否している死者からの移植臓器の摘出もありえる。
臓器移植といった課題に対応するために、三回忌が済んでからでは間に合わない。
緊急の場に悔いない判断をするためには、日常的な訓練によって冷静な判断に到達する時間を短縮できる。
飛び跳ねている魚や蝦を見て「うまそう!」と口走る者がいてもあまり驚かないだろう。その時これらの生物は、脳の中では生命が無視された存在であり、なんの感情もなく殺せる「虫けらのごとき」存在ということとなる。(略)
与死は殺害と類似して、本人以外の者(あるいは社会)がある者に対して死を求めるものであるが、ここで殺害と異なるのは、本人がその死を受け入れていることが条件であるという点である。与死が尊厳死とは異なるのは、尊厳死は、死を選択するという本人の意志を尊重するという考え方であるに対して、与死は、社会の規律によって与えられる死を本人が受容する形でなされる。(略)
「殺」意を完全に非倫理的な観念として否定することはできず、限定した条件においては 、現在においても生きたその必然性があるもの(と)見るのが冷静な判断なのではなかろうか。
死を「与える」なんて究極の上から目線です。
本人の承諾がない、あるいは本人が拒否していても、臓器提供すべきだと主張する松村外志張さんにとって、人間は「虫けらごとき」のものかもしれません。
江崎玲於奈さんの優生思想的教育論もそうですが、頭のいい人の言っていることが正しいとは限らないといういい例です。
守田憲二さんは以下のように批判しています。
・時代に合わせて国民が決める条件で与死を許容するならば、脳不全(脳死)患者だけでく、臓器不全患者(移植待機患者)も「高額な医療費がかかる」として与死が許容されるだけでなく、脳不全患者がさらされているのと同じ生命を短縮される環境におきかねない。
最首悟さんの批判です。
冲永隆子さんも「「安楽死」問題にみられる日本人の死生観 自己決定権をめぐる一考察」(2004年)も問題点を指摘しています。
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tokinaga24.pdf
ジョセフ・フレッチャー、太田典礼、松村外志張たちは、障害者、認知症・寝たきりの人たちへの安楽死(殺人)を主張しています。
結局のところ、社会の負担を減らすための手段としての安楽死であり、個々の人より社会の利害を優先しています。
このことは優生思想につながります。
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