アンナ・ポリトコフスカヤ『チェチェンやめられない戦争』は、1999年から始まった第二次チェチェン戦争を取材した本である。
訳者あとがきによると、「この本を読んだロシアの読者から、「自分の国の名誉を傷つける恥知らず」「汚らしい嘘八百だ」という罵声」が浴びせられたそうだ。
自国の恥ずべき事柄は隠すべきだという主張は洋の東西を問わないらしい。
そのアンナ・ポリトコフスカヤは2006年10月に何者かよって暗殺されている。
慰安婦問題についても、「自虐的」とか「隠すべき」といった言葉がよく使われている。
はたしてそうなのか。
吉見義明・川田文子『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』に、
「こんな問題(慰安婦問題)を子どもに教えようとするのは自虐的な考えで、日本人としての誇りを失わせることになる」
というQがある。
Qに対するAの中にこういうことが書かれている。
「次の時代をになう日本の子どもたちが、将来、アジアの人々との友好関係を築きあげていくうえで、アジア太平洋戦争の真実を知っておくことは欠かせない条件である。なぜなら、アジア諸国の子どもたちは、近代における日本軍の侵略行為について、日本の子どもたちに数倍する知識を持っているのだから」
ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンは講演で
「(広島・長崎の)平和資料館に入って、私がアメリカの小学校で受けてきた原爆に関する授業内容が、いかにアメリカ政府に都合のいい、ウソとデマの宣伝であったか…、ということを悟りました」(『そのとき、赤ん坊が私の手の中に』)
と話し、そして「どのように教えられたのか」という質問にはこう答えている。
「教科書については、「きのこ雲」の写真があって、「これによって正義が勝利した…」という意味の記述があり、また「いわゆる民家といえども、兵器の部品製造に協力していたから軍需工場であった…」という解説がありました」
日本に限らずどの国も学校で自国の加害責任についてあまり教えないものらしい。
中学生だから慰安婦問題を理解できないだろうとバカにしてはいけない。
慰安婦問題を習った中学生たちの感想が『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』に引用されている。
「自国を守るために戦争をしたのだから、仕方がなかったという人がいますが、犠牲になったアジアの人たち一人ひとりの傷跡はすごく深く、埋めあわせるのはきっとできないけど、だからこそ傷跡を少しでも浅くしてあげたい。戦後50年というけれど、まだ本当の戦後50年ではないと思う。本当の戦後50年は戦争の後始末がついてからだと思う」
「今、私たちは子どもだけれど、大人になって子供を産んだら、もう戦争を体験した人は少なくなっていると思う。だから、未来に生まれてくる戦争をまったく知らない子どもたちにも、こういうことをちゃんと教え、わかりやすく戦争というものがどれだけ悲惨かをわからせてあげたいと思う」
いいこと言ってるじゃないですか。
戦争体験を語る人が少なくなっているが、実体験をしていない人でも戦争の悲惨さを語り継ぐことはできるし、またしなくてはいけない。
そのためには若い世代に事実を伝えていくべきである。
アレン・ネルソンはアメリカと日本の反戦運動のどこが違うのか、このように指摘している。
「アメリカの反戦運動を支えているのは、若者たちです。中学生・高校生・大学生たちの若者の世代です。しかし、日本の平和運動は、お年寄りが中心ではないでしょうか。私は、小・中・高校・大学でも講演をしていますが、日本の若者は非常に保守的だと思います」
「戦争というものがどれだけ悲惨か」を学校で教えないのはアメリカも日本も同じなのに、この違いはどうしてだろう。
「事実にたいして目をふさいだところから、「誇り」が生まれようもない」
というのは先のQに対する答えの中にある言葉だが、事実と向き合わないと反省も生まれようがない。
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アメリカでは、退役軍人のホームレスが増えているそうで、ある調査ではホームレスの四分の一は退役軍人だそうです。
http://www.news.janjan.jp/world/0706/0706187533/1.php
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-11-10/2007111007_01_0.html
お国のためにがんばったはずなんですが、、、攻めてこられた方はもちろん悲惨ですが、直接攻めにいった方もロクなことはないんじゃないか、、、ということですね。アメリカなら現在進行形のハナシで、、、
子供たちだって戦場で育てば、心に傷を受けないはずはありません。
日本でも昭和30年代に犯罪が多かったのは戦争の影響があると思います。
そういう点からも、戦争の事実を隠すべきではないと思います。
>自国の恥ずべき事柄は隠すべきだという主張は洋の東西を問わないらしい。
自国というのを「自分」に置き換えるとこれまた耳が痛いことです。
>次の時代をになう日本の子どもたちが、将来、アジアの人々との友好関係を築きあげていくうえで、アジア太平洋戦争の真実を知っておくことは欠かせない条件である。
肉体労働する現場で、マレーシアやインドネシアの若い人々と同僚であったりもします。フィリピン・バーや韓国バーで、ホステスとして外国人女性に会うということもあります。ま、彼・彼女らが、「日本人」の私をどう思ったんでしょう。
>「事実にたいして目をふさいだところから、「誇り」が生まれようもない」
「日本人としての」誇りということですね。
むかし、竹田青嗣さんがすごいと思ったのは、在日の生き方として、民族か(日本に)同化かという二つの道しかないように思われたとき、自分のどっちつかずの立場で生きていくことも構わないというメッセージを発しておられたからです。
彼がまた、『在日という根拠』で批評した金鶴永さんにも非常にひかれました。
http://www.asahi-net.or.jp/~pd4j-ktrg/kogokuti.html
同朋たちが「民族運動」に身を投じる中で、まったくそれに乗れない自分。そして、吃音という障害を抱える中で自分を表現しようと口を開けば笑われてしまう。そこで彼は、書く、書く、書く。また書く。家族との確執という問題を書く彼は、私にとって、もはや「在日コリアン」という「異邦人」ではなかったでしたね。
>だから、未来に生まれてくる戦争をまったく知らない子どもたちにも、こういうことをちゃんと教え、わかりやすく戦争というものがどれだけ悲惨かをわからせてあげたいと思う。
仏教徒である私は、「人生はドゥッカだよ」ということをまったく知らない子どもたちに教えてあげたいと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=6U6apQgxlFg
経済侵略とか公害輸出とかが問題にされていますが、そのことに東南アジアの人たちはどう思ってるんでしょうね。
>「日本人としての」誇りということですね。
日本人限定ではありませんが。
>「人生はドゥッカだよ」
争いもその一つですね。
しかし、リアルタイムで聞いていた頃はしんどい時期だったんですが、イーグルスにとってもしんどかったでしょう。レコードを出すたんびに前作を上回るものを期待され、プレッシャーは相当なものでグループは解散してしまいましたが。今は、リラックスして演奏してはりますねぇ。
子どもの頃、TVで懐メロ歌手が出てるのを見ると、みんなお爺さんやお婆さんでかっこ悪いなあと思っていましたが。いまや自分もただただ昔をなつかしむばかりになってしまいました。けれど、イーグルス節。やっぱりこの裏声コーラス、快感ですぅ。
で、円さんは「事実にめをそむけるものは、、、」といわれてますが。
内田樹さんの本では、近頃の若いもんは学ぶことそれじたいをしないというお小言(笑)になってます。
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8B%E6%B5%81%E5%BF%97%E5%90%91%E2%94%80%E2%94%80%E5%AD%A6%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%81%E5%83%8D%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E8%8B%A5%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4062138271
うん。今のホームレスになってるおっちゃんたちはずっと働いてきた。「わしは、万博の太陽の塔つくったんやで」とか「通天閣のペンキを塗り替えたんはおれや」とか。昔とった杵柄を語る。
でも、今の若い人が齢をとったとき、どんなことを語るのかなあ。
よくある「近ごろの若い者は」というレベルの話とはちがうのでしょうか。
近ごろの若い者と接することがあまりないので、実態がどうかわかりませんが、正社員になりたがらない人が結構いると聞きます。
何を考えているのか、将来のことは考えないのか、と感じることもあります。
内田氏の「格差社会って何だろう」。
http://blog.tatsuru.com/2007/07/24_0925.php
そりゃパンだけで人は生きているわけではないけど、パンがなければ死んでしまうとも思います。
AAで、「違い探し」より「同じ見つけ」をしたほうがいいという話をされた方がありました。
内田氏は「違い探し」のような気がします。
ある時ある場所でぺらぺらしゃべっていたら、ある人から「全共闘世代とひとくくりにしないで欲しい」と釘を刺されたことがありました。うん、なるほど。シラケ世代とか、新人類とかイロイロな世代論が語られてきましたけど、私のような偏屈ものもしょっちゅう「ちょっと待ってモーメント。勝手にいっしょにせんといてくれ」と思うことが多かったですねえ。
自分の思う「共通点がある」という人たちとなら、一緒にされてかまいませんが。
>経済侵略とか公害輸出とかが問題にされていますが、そのことに東南アジアの人たちはどう思ってるんでしょうね。
インドへ旅行したときに、しつこいリキシャー・ワーラーがいたのでさすがにキレたら、相手から「ここはインドだぞ!わしの国だ!いい加減にしろ!地獄へ堕ちろ!」というようなニュアンスで罵倒されました。
まあ、汗水垂らして生活かかって仕事してる相手からすれば、子どものように見える私なんか、海の向こうから物見遊山にやってきたとんでもないお気楽野郎なんですね。どれだけ、インドに関する知識があったって、こういう人はもうキレてしまうような、、、
でも、むか~し真宗のお寺で在日コリアンの女性が「もうあやまるんはいいんよ。大事なのはこれからどーするかなんよ!」と言われたことが私にとって大きいですね。
いろんなことを知っているにこしたことはないけど、あらゆることについて知ってることはどだいムリ(と早くも諦める笑)。本でイロイロ読んでも一部を除いて忘れることが私の場合、多いんですわ。
でも直接的な人の言葉とかは、強烈に脳裏に焼きつくんであって(本人にあとから聞いたら、そんなこと言うったっけと言われることもあるので、受け止める側が勝手に強烈な体験にしたりもするんやけど)。
そこから始まると思うんですね。
ある時「わしら坊さんは」と複数形で言ったら、「どうして一緒にするのか」と言われました。
坊さんというのはみんなこういうふうに思ってると、勝手に思い込んでいたわけです。
でも考えてみると、自分と相手が共通しているという前提があって人と接してますね。
たとえば、冗談にしても、こういうことを言えばみんな笑うだろうと思って、冗談を言うわけです。
ところが、さっぱり受けずに白けたり、不快に感じる人もいます。
自分に対して人はどういうふうに思っているかはわからないわけで、そういうことを考えだすと何もできなくなってきます。
>「もうあやまるんはいいんよ。大事なのはこれからどーするかなんよ!」
ということで、どうしたらいいものやら。
http://keishin.way-nifty.com/scar/2007/02/3_e3b7.html
参加者は大満足。運動型と伝道型と彼は釜ヶ崎のキリスト者を大別されます。いいかえると、リベラル派とファンダメンタル派なのですが。また彼はそれを、物質的ケア提供型と精神的ケア提供型と分けたのですが。
↑このブログでは、ケアを提供する側が、対象者をどのようにみてるか。ケアを受ける側が、何を求めてるかと問題を深められてます。
対象者を、社会的に排除されている者ととらえるか(彼らから教わる)、宗教的に救済されていない者ととらえるか(彼らを教える)。
ケアを受ける側は、とにかく腹を満たしたいと考えてるのか、心を満たしたいと考えているのか。その両方なのか。
かつて青木秀男という人は、寄せ場での労働者の「ミジメ」と「ホコリ」という問題を考えていましたが。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/homeless.htm
仕事がなくなって、みずからを「労働者」と規定できない「失業者・元労働者」は何をもって自分のアイデンティティ、誇りとするのかという問題は興味深いです。
さらにこれは、叡尊や忍性という中世の仏教者たちが、ハンセン病者や障害者をどのように見ていたかという問題にも私の中でつながります。
さらに、網野善彦さんなどが描いている中世の遊女がどう見られていたかという問題についても考えさせられます。こんな本も出てますし。
http://www.shinchosha.co.jp/book/603590/
そしてさらに言うと、罪の自覚をさせようというえらそげな気持ちが臭っていると思います。
法然のもとに遊女たちが訪れたという伝説がありますが、法然さんにはそういう臭みがなかったんでしょうね。
親鸞の弟子には移動民が多かったそうですが、親鸞からパンだけではない何かをもらっていたんでしょう。
>対象者を、社会的に排除されている者ととらえるか(彼らから教わる)、宗教的に救済されていない者ととらえるか(彼らを教える)。
親鸞さんはどっちとして田舎の人々をとらえていたのでしょうか。