三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

伊藤実『アイシテル―海容―』

2012年11月23日 | 厳罰化

アーミッシュが犯罪被害に遭っても加害者を赦すのは、神への信仰と共同体の力があるからできることだと思います。
そうした信仰がなく、共同体の力が弱まっている日本でも赦しはあり得るのでしょうか。
伊藤実『アイシテル―海容―』は一つの答えになるかもしれません。

小1の息子が11歳の子供に殺される事件をめぐり、被害者の家族、加害者の両親の苦しみを描いた漫画です。

まず被害者遺族の悲痛、憤怒、そしてマスコミの過熱報道や匿名の嫌がらせなどの二次被害が描かれます。

『年報・死刑廃止2012 少年事件と死刑』の座談会「少年に死刑を科すとはどういうことか」で、青木理氏は被害者の抱える問題点について言及しています。
「被害者や遺族に社会はどう向き合うか、どうフォローしていくか。この点はさらに考えなくてはいけないと思います。木曽川・長良川事件の被害者遺族の一人も、初公判の日取りすら知らされず、メディアを通じて初めて知ったと憤っていました。別の死刑事件の遺族ですが、メディアの猛烈な取材攻勢に悩まされ、ショックと疲労で精神的に病を抱えてしまった人にも会いました。今はだいぶ増えているけれど、犯罪被害給付金も非常に少なかったころ、金銭的に困窮して借金に頼って暮らしている人もいました。金銭的なケア、心のケア、メディア取材への対応など、本来ならばそういった面での社会的フォローをもっと考えるべきです」
以前、犯罪被害者への賠償が支援の一つだと書いたら、「金で済まそうとするのか。ひどいな」とコメントされたことがありますが、お金は大切です。

「海容」とは「海のように広い寛容な心で、相手の過ちや無礼などを許すこと」という意味です。
『アイシテル』の被害児童の母親は加害者を許したわけではありません。
しかし、他人事とは思えなくなり、不安や自責の念を持つようになります。
そのきっかけは、加害児童が母親を嫌っていて「ババア」と言っていたと知ったことです。
「(加害者の母親は)自分の子が恐ろしいことをして、どんな思いかしら」

ニルス・クリスティ教授「人を殺すことができる背後には、その人を人間でないと考えてしまうことがあるのではないか。それが、死刑問題の根底にある」(『年報・死刑廃止2012』)
加害児童の親も苦しんでいるのでは、と想像することは、加害者やその家族を一人の人間として認めることです。
しかし、そのことは自分や家族が加害者になる可能性を想像することでもあります。

私たちは犯罪者の世界と自分の世界を分け、犯罪者を自分の世界から排除することで安心しようとします。
たとえば、姉を刺殺したとして殺人罪に問われた男性の裁判員裁判で、裁判長は「母や次姉が被告人との同居を明確に断り、社会内でアスペルガー症候群(広汎性発達障害の一種)という精神障害に対応できる受け皿が何ら用意されていない」「許される限り、長期間刑務所に収容することが、社会秩序の維持にも資する」などとして、検察側の懲役16年の求刑を上回る懲役20年の判決を言い渡したというのは、排除の一例です。

裁判所が発達障害を持つ人の基本的人権を否定したひどい判決ですが、裁判官と裁判員のどちらが主導したのでしょうか。
本当なら社会に受け皿のないことを問題にすべきです。
アスペルガー症候群の犯罪者なんてどうしようもない奴は刑務所に放りこんでおけ、ということですから、本音では抹殺すべきだと思っているのでしょう。
こんな判決を出した裁判官・裁判員は被告が20年後に社会復帰した時にどうすべきだとと考えているんでしょうね。

さらに困ったことには、安田好弘弁護士が「こういうことがあると検察の求刑が上がってきますね。検察にとって、判決が求刑を上回ったのは恥になるから。(略)
感情が先行すれば重くなりますね。いずれにしても求刑を超える判決というのは、裁判が裁判の役割を果たしていないということだと思います。だって、検察は、公益を代表しているんですから」(『年報・死刑廃止2012』)と言っているように、厳罰に処することが社会のためなんだという前例になってしまうということです。
犯罪者を社会から排除すれば安心できるかというと、そんなことはありません。

体感治安の悪化は自分が被害者になるかもしれないという不安によって作られたものです。
この不安は厳罰化への圧力や加害者家族への非難につながります。

『アイシテル』でも、被害児童の母親は「不安」という言葉を何度か口にします。
息子の写真に向かって「ママはいいママだった? 少年の親が特別悪い親だったの? それならなぜ皆こんなに不安なの……」
夫に「そうよ、わからないのよ。本音なのよ。子供の心の奥底なんてなにもわからない。みてんなそうなのよ。みんな不安でたまらないのよ」

加害者の家族になるかもしれないという不安をごまかすためには、加害者や加害者の親はモンスターにして、自分の世界と関係がないものにするのが普通だと思います。
しかし、『アイシテル』では加害者の親への共感が語られます。

中2の娘との間がギクシャクしたということもあり、
「私はいい母親だったのかしら。私だってののしられてもしようがない親だったんじゃないかしら」と夫に尋ねます。
そして娘と言い争いをし、夫に「私だって……いいお母さんじゃない。「いいお母さん」なんてそんなのどこにもいやしないのよ。子供を平気で深く傷つけて、そのくせなにも気がつかなくて。私も加害者の子のお母さんもみんな一緒よ」と言います。
そうして母親は加害児童の親に手紙を出し、加害児童の母と会います。
「私は思うのです。あなたと私は同じ姿を鏡に映しているのではないかと」

自分のあり方への疑問、自分の弱さの自覚が、他者(加害者)への共感に結びついたのではないかと思います。
『アイシテル』の母親のような人が実際にいるかはわかりませんが、許しと救いへの道を示しているように感じました。

コメント
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