三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『アーミッシュの赦し』3

2012年11月12日 | 厳罰化

アーミッシュの赦しはすぐに報道され、大きな反響を呼んだそうです。
多くは赦しに驚愕し、称賛しているが、疑問を持つ声もありました。
「その場に相応しい感情の欠落」
「健全な情緒が抑圧される」
「赦すのは犯罪を真摯に受け止めないことだ」
「赦すのが早すぎる」
「悪への運命論者的な態度」
「悔悛しない罪人も進んで赦してしまうこと」
「他者に代わって赦しを与えてしまうこと」など

オドーネ(カトリックのコラムニスト)「彼らは無垢な者の大量殺戮を前にしても、主は与えたもう、主は与えたもう、と繰り返すばかりだ」

殺された姉妹の祖父とテレビのレポーターとのやりとり。
「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか?」
「いいえ」
「もう赦している?」
「ええ、心のなかでは」
「どうしたら赦せるんですか?」
「神のお導きです」
正直なところ、こりゃなんだと私も思います。

時間の経過ともに怒りや恨みがほどけてくることはあるにしても、事件発生直後にも加害者に対して怒りを持たないのはなにやら不自然で、感情を抑えつけて信仰に逃れているように感じます。
しかし、アーミッシュは赦したからといって悲しまないのではないし、悪行を大目に見たり、加害者を司法によって罰することを否定しているわけでもありません。
アーミッシュにとっても赦すのは簡単なことではないらしいです。

「事件に対してアーミッシュが抱いた感情は、とてもこんなふうに言い切れるものでなく、もっとずっと複雑なものだった。同じように、彼らが与えた赦しの贈り物は、一部の評者が思ったほど、迅速でも容易でもなかった」

また、信仰があるからといって子供たちの死が軽くなるわけではありません。
「アーミッシュの親たちも、外の人間と同じように我が子の死を嘆くのである」

アーミッシュは「赦しとは終わりのないハードワークだ」と言っています。
乱射事件で娘を失った母親「時間が経てば自然と赦せるようになる。でも、最初は意志が必要なんです。だから、赦したつもりでいても、後で恨みが蘇ることもあります。また初めから赦し直すしかありません」

「現在進行中の罪を赦すことのほうが複雑で難しいのだ。些細な罪でもそれはいえることで、たとえばの話、くる日もくる日も上司から侮辱され続けているような者は、なかなか上司を赦せないものである」
我々も日常生活でのもめごとを赦すほうが意味難しいわけですが、そのことはアーミッシュにとっても同じだそうです。

アーミッシュもこんなことを語っています。

「悩ましいのは仲間うちの恨みつらみです。ロバーツのような外の人間[を赦す]より、仲間を赦すほうが難しいことがあります。私たちにも不満の種はありますから」
「大きな罪は簡単に赦せるけれど、些細な出来事がどうしても駄目、ということもあるよ」
「アーミッシュにも、赦すのに難儀する連中はいる。赦しは闘いだよ。人を赦すというのは難しいことだ」

乱射事件はアーミッシュにとっても特別なケースでした。
犯罪規模が大きかったために、コミュニティ全体が相互扶助の精神で支えあうことができたということがありますし、加害者を赦すことができたのかもしれません。

「殺された少女の一人の親にとって、いくつかの意味で、殺人犯より赦し難いのは、マスコミに情報を漏らした身内だった。赦しがうまくいかない例として、ほかに家族間の対立、夫婦の不和、遺産相続のケースなどが挙げられた」
相手を赦せないという気持ちがしずまっていくとは限らないし、怒りが湧くことはあるので、何度でも赦し直さなければいけないわけです。
その中で赦しの生活が習慣となっていくのではないかと思います。

コメント (2)
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