ネットでは、卒業式に君が代を歌わない教師をクビにするのは当然だという意見を見かけるが、そういう考えの持ち主は祝日に国旗を掲げているのだろうか。
それにしては、日の丸を見かけることはあまりない。
なぜか。
陳舜臣氏は「旗と城」(『日本的中国的』昭和47年)に、こんな説を出している。
「戦後、日本では祝祭日に国旗を出す家がすくなくなった。これは、日の丸がいやな戦争の記憶とつながることのほかに、日本人の気質のなかに、旗をかかげることに消極的なものがあるからではなかろうか?
日本人は旗が好きではなかった。源平合戦の白旗、赤旗も、敵味方を区別する必要に迫られて、やむなく使ったらしく、竿に模様もなにもない布地をくくりつけただけの、いかにも愛想のないハタであった」
日の丸も凝った意匠ではない。
「遊牧の民族は、先頭がどのあたりにいるのか、行方はどちらかといったことをしらせるために、どうしても旗好きになる。そして、町が城壁で囲まれている、いわゆる城郭都市でも、旗はさかんに使われる。城壁のうえに、翩翻とひるがえる旗は、
――ここには備えがあるのだ。大将軍が守っているのだ。
と、掠奪の機会をうかがっている蛮族にたいして、威嚇する効果をあげている」
これは旗というより紋章じゃないかと思う。
ウィキペディアには「紋章とは、個人及び家系をはじめとして、地方自治体や国家、並びに学校、公的機関、組合(ギルド)、軍隊の部隊などの組織及び団体などを識別し、特定する意匠又は図案である」とある。
自他を識別するだけなら、源平の旗のように色分けすればいいわけで、凝った図案なのは自己主張というか、自分がどこに所属しているかを人に知らせる意図があるんじゃなかろか。
日本が中国から採り入れなかったものに、科挙や宦官、纏足、そして「町ぜんたいを城壁で囲む城郭都市の形式も、その一つであった」と陳舜臣氏は言う。
「もし平城京や平安京を、五メートル以上の城壁で囲まねばならぬとすれば、大へんな大工事となるはずだ。日本の人民は、その造営でへとへとになったであろう。
そのかわり、城壁には房のついたあざやかな旗をずらりとならべて、いまよりはすこし旗好きな国民になっていたかもしれないが」
日本では城郭都市が造られなかったから、日本人は旗が好きではないという理屈は、話としてはおもしろいが、あまり説得力はないように思う。
話は飛んで、三浦しをん『神去なあなあ日常』の舞台は三重県中西部にある神去村。
といっても実在する村ではない。
美杉村がモデルらしくて、となりの奈良県御杖村には神末という地名がある。
山仕事をする人たちも花粉症に悩まされるそうだ。
それはともかく、「なあなあ」とは神去の言葉で、「ゆっくり行こう」「まあ落ち着け」というニュアンスであり、さらには「のどかで過ごしやすい、いい天気ですね」という意味まである。
イタリアやドイツのように近代に入ってやっと統一国家となった国や、ポーランドのように他国に侵略され分割された国や、アメリカのようにいろんな民族の移民によって成り立っている国なら、自分がどこに所属しているかを明らかにすることや、国家統合のシンボルが必要かもしれない。
しかし日本だったら、条例を作って君が代、日の丸を強制するよりも、「なあなあ」のほうが過ごしやすいように思う。