死刑を求刑する検察官、死刑判決を下す裁判官は、死刑についてどう考えているのか。
堀川恵子『裁かれた命』によると、やっぱり嫌なものらしい。
検察庁には長谷川武の裁判資料が残っていた。
堀川恵子氏は資料を閲覧しようとして、法律では資料の閲覧を認められているにもかかわらず、拒否される。
土本武司氏は当事者なのでコピーできた。
資料をもとに堀川恵子氏は、東京地裁で長谷川武に死刑判決を下した裁判官の一人である泉山禎治氏に電話をして尋ねる。
泉山禎治「覚えていますとも。あの事件は私は主任裁判官でしたから。彼が死刑判決を言い渡されたその瞬間の顔も、今でもずっと覚えています」
堀川恵子氏は泉山禎治氏に会って話を聞く。
泉山禎治「長谷川被告人のことは実を言うと、あなたにお電話いただいて初めて刑の執行が終わったということを知ったんです。極刑の裁判をやりますと、ずっと心のどこかにいつまでも引っ掛かっているんです。一人で決めたわけじゃない、合議をして議論をして、これでやむなしという結論になったので裁判としてはそれで良かったのかなと思いながらも割り切れないものが残るんですよ。(略)
極刑ですからね、どんな極悪非道の被告人であったとしても一人の人間がこの世から抹殺されるわけですから、処刑というものは、それが良かったかどうかは別にして、やっぱり自分がやったことに対しては責任があります。それは終生、消えません。
これから本格的に裁判員制度が始まって極刑も扱うことになりますが、裁判員の方にはかなりの負担をかけることになると思います」
二審の裁判長も小林健治弁護人に「何とか、ならないものでしょうか」と語りかけている。
長谷川武の弁護人である小林健治氏は元裁判官で、死刑判決を何度も出している。
小林健治氏が裁判官退官後に新聞記者に語ったところによると、「当時、死刑判決を下した裁判官には、裁判所から慰労の意味を込めて多少の手当てが支給された。死刑判決を下した日は必ず新橋に立ち寄り、その金でまずい酒を飲んで気を紛らわせたという」
というわけで、堀川恵子氏によると、「死刑判決を下すとき、裁判官は悩みに悩んだ末にこれで間違いないと確信をもって判決を下す。しかし、心のどこかでは「本当にあれでよかったのか」という疼きを抱え続ける。だからこそ、死刑判決が自分の裁きの段階で決まることを畏れる。被告人が高裁、そして最高裁へと上訴するよう願う。上級審で他の裁判官のお墨付きを得て死刑が確定すれば、自分の判断は正しかったのだと自分に言い聞かせることもできるだろうし、もし結果が覆れば、一人の人間の命が救われたとも思える」ということである。
では、裁判員はどうなのだろうか。
毎日新聞の裁判員経験者へのアンケート。
死刑を求刑されるような事件について、50%が「関わった方がいい」とし、「関わった方がいいが判決は全員一致とすべきだ」との回答も14%。約3人に2人は死刑求刑事件への国民の関与を肯定的にとらえていた。(5月18日)
死刑判決を出した裁判員がどう考えているか、これだけではわからないが、裁判員は自分が出した判決に疑問を感じたり、悩んだりしていないように思われる。
法務大臣はどうか。
毎日新聞の「<死刑執行>決裁は2ルート 手続きの詳細判明」という記事に、小川敏夫法相の談話が載っている。
基本的に開示に賛成だが、それに伴い生じる弊害は考慮すべきだ。執行された方や遺族の名誉、プライバシーに配慮しなければならない面がある。また、刑の執行に関して具体的なことがあまりにも明らかになった場合、未執行者の心情を不安定にする。ことさら残酷なことをしているわけではないので、(不開示部分は)都合の悪いことを隠しているわけではない。(毎日新聞6月1日)
「ことさら残酷なことをしているわけではない」のだったら、「未執行者の心情」を気にすることもないと思うが。
小川前法相は死刑を執行される死刑囚や執行する刑務官について何も考えていない。
堀川恵子氏は『裁かれた命』の最後にこのように書いている。
「人が苦境に追い込まれたとき、運や出会いに恵まれて救われる人もいれば、自らの力で苦境を打開していくことの出来る人もいます。人一倍の努力で苦難を乗り越えてきた人ほど、それが出来ない人の不甲斐なさを責めることがあります。努力することの必要性は否定しませんが、同時に、努力が報われる人と報われない人がいることも忘れてはなりません。
この世に生を受けたときから体格や容姿がほぼ決まっているように、心の防波堤が高い人もいれば低い人もいます。頑張って成果を出す人もいるし、同じように頑張っても成果を出せない人もいます。克服できる欠点もあれば、それを抱えたまま歩まざるをえないハンディを生まれながらに負っている人もいます。絶望に追い込まれたとき、踏みとどまることが出来る者もいれば一線を越えてしまう者もいるでしょう。
罪を犯すような事態に、自分だけは陥らないと考える人は多いかもしれません。しかし、人生の明暗を分けるその境界線は非常に脆いものです。私たちはいつ被害者になるか分からないし、それと同じようにいつ加害者になるかも分かりません。被害者や加害者の家族にもなりえます。たとえ人の命を奪わないまでも、相手の心に生涯消えない傷を負わせることもあるでしょうし、たとえ自ら手を下さなくても、傍観や無知を通して加害の側に立っていることも少なくありません。
死刑という問題に向き合うとき、いったいどれほどの人間が、同じ人間に対してその命を奪う宣告をすることが出来るほどに正しく、間違いなく生きているのかと思うことがあります。そして、その執行の現場に立ち会う人間の苦しみも想像を超えるものがあります」
堀川恵子氏の言ってることに全面的に賛成である。
アメリカの研究によると、親から虐待を受けた子ども千人のうち、20歳までに2人に1人が軽犯罪で捕まっており、5人に1人が傷害や殺人を犯しているという。
イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったそうだが、小川前法相も含め、石を投げる資格のある人はあまりいないように思う。