三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」5 ヴァジラヤーナの救済

2012年06月09日 | 問題のある考え

オウム真理教の事件は救済であり、慈悲の行為とされた。
広瀬健一氏によると、オウム真理教における救済とは「その対象について、まず三悪趣への転生を防ぎ、最終的には解脱させること」である。

ところが、「オウムの教義の見地からは、現代人は悪業を積んでいるために、三悪趣に転生するのは必至でした。さらに、悪業を積み過ぎているので、真理(精神を高める教え=オウムの教義)を受容できる因も尽きており、通常の布教方法では救済されないとされていました」
そこで、「かかる現代人を救済するには、武力を用いて地球上にオウムの国家を樹立し、真理の実践をさせる以外の道はない。あるいは、「ポア」しかない」というヴァジラヤーナの教義に基づく救済が説かれた。

「ポアとは、麻原が救済の対象について、その生命を絶つことによってカルマを背負い、より幸福な世界に転生させる手段でした。また麻原は、武力を用いて地球上にオウムの国家を建設し、人々にオウムの教義を実践させるとも説きました」

麻原彰晃は「数百人の商人を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいた。釈迦牟尼の前生はどう対処したか」という質問を何人かの弟子にし、こういう説法をしている。
「例えば、ここに悪業をなしている人がいたとしよう。そうするとこの人は生き続けることによって、どうだ善業をなすと思うか、悪業をなすと思うか。そして、この人がもし悪業をなし続けるとしたら、この人の転生はいい転生をすると思うか悪い転生をすると思うか。だとしたらここで、彼の生命をトランスフォームさせてあげること、それによって彼はいったん苦しみの世界に生まれ変わるかもしれないけど、その苦しみの世界が彼にとってはプラスになるかマイナスになるか。プラスになるよね、当然。これがタントラの教えなんだよ」(『ヴァジラヤーナコース教学システム教本』)
カルマの法則と輪廻転生を信じるなら、この考えは否定できないと思う。

釈迦牟尼は前生で悪党を殺したのだが、それは「悪党がより厳しい苦界により長い期間にわたって転生するのを防ぐため」だと麻原彰晃は説明した。
「悪党は、悪業を犯し続けるのを放置されれば、地獄転生は必定です。地獄に転生する塗炭の苦しみは、殺される苦痛の比ではない。これがオウムの教義であり、信徒の感覚でした。常識とは相反するこの見地に立脚すると、教団においては、殺人も救済になり得たのです」

麻原彰晃の説法。
「ここに、このままいくと地獄に落ちる人がいたと。そしてそのカルマを見極めた者が、そこで少し痛めつけてあげて、そしてポワさせることによって人間界へ生まれ変わるとしようと。その人は、それを知って痛めつけ、そしてポワさしたと。つまり殺したわけだな。人間界へ生まれ変わったと。これは善業だと思うか、悪業だと思うか。――ところがね、観念的な、法無我の理論を知らない者は、それをそれとして見つけることができないんだね。観念的な善にとらわれてしまう。そうすると、そこで心は止まってしまうんだ。いいかな」(1989年4月28日 富士山総本部道場)

「ヴァジラヤーナの救済におけるポアとは、麻原が救済の対象について、その生命を絶つことによってカルマを背負い、より幸福な世界に転生させる方法でした。ですから信徒が日頃なじんでいたヴァジラヤーナの指導法も、ヴァジラヤーナの救済におけるポアも、考え方そのものは変わらなかったのです。
 異なるのは後者の場合、エネルギー交換を起こすための〝働きかけ〟が生命を絶つことだった点です。〝働きかけ〟が何であるべきかは、最終解脱者である麻原が、対象のカルマを見極めて決定することでした。現代人の場合、あまりにも悪業を蓄積しているために、その〝働きかけ〟が生命を絶つこととされたのです」

ヴァジラヤーナはカルマを浄化し、三悪趣に堕ちることを防ぎ、解脱へと導くためである。
いくらポアが三悪趣への転生を防ぐ慈悲の行為だとしても、殺人には違いないから、実際に手を下す弟子はカルマ(悪業)を作ることになる。
そのカルマも麻原彰晃が背負う。

「麻原は信徒について、「苦しみ」を与えることによってカルマを背負い、解脱・悟りに導きました。
 つまり、麻原が信徒に「苦しみ」を与えることによって、両者の間に〝関係〟が生じ、「エネルギー交換」が起こるわけです。そのとき、麻原の持つ最終解脱状態の情報が信徒に移り、また同時に、信徒のカルマが麻原に移ります。その結果、信徒はカルマが浄化され、解脱・悟りに導かれるのです。これがそもそものヴァジラヤーナでした。また麻原がこの〝神秘的な力〟によって、信徒の精神を高める(煩悩・カルマを減じる)ことが、そもそものポアでした。
 また、ヴァジラヤーナの指導法において麻原が信徒に「苦しみ」を与えたのは、カルマを清算させる意味もありました。教義では、自身のカルマに応じた苦しみが身の上に起こると、そのカルマが消滅するとされていたからです。
 実際に麻原は、竹刀で信徒を叩くことがありました。竹刀が折れるほど強く。また、様ざまな〝働きかけ〟をして、信徒を精神的に苦しめることもありました。よく聞いたのは、信徒の苦手とする課業を故意に指示し、信徒が強いストレスにさらされる状況を形成することです。このような方法で対象のカルマを浄化することを、「カルマ落とし」といいました。
 ヴァジラヤーナの救済において対象の生命を絶つのは、この「カルマ落とし」の意味もあったのです。
 以上のようなヴァジラヤーナの指導法、つまり麻原との「エネルギー交換」や麻原による「カルマ落とし」によってカルマが浄化され、修行が進んだり、さらに解脱・悟りに誘われたりした(と感じた)信徒が多数存在しました。ですから信徒にとっては、ヴァジラヤーナの指導法ひいてはヴァジラヤーナの救済は、幻覚的ではありましたが、その効力が五感によって知覚され、身体に刻み込まれた実際的な教えだったのです。
 以上のように信徒の日常に溶け込んでいた「エネルギー交換」と「カルマ落とし」の教義を基礎として、麻原はヴァジラヤーナの救済の説法を展開しました」

というように、オウム真理教の一連の事件は救済だと、理論的にも、体験的にも正当化されたわけである。

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