三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

野町和嘉『地球巡礼』

2012年05月25日 | 問題のある考え

植島啓司氏は『宗教と現代がわかる本2010』での野町和嘉氏との対談で、こういう話をしている。
「二、三日前、広島の厳島神社に入りました。厳島神社そのものは別にどうってことないけれど、あの裏の弥山はやはり特別な場所だなっていう印象を受けました。宇佐八幡宮の場合も、奥宮の御許神社に行くと、ああ、ここに神様が降りたんだなあって感じが残っている」
私は不感症のせいか、宮島に行ってもそういう感じはしない。
しかし、野町和嘉氏は「神道のほうはもっと、そういうミステリアスな、スピリチュアルな要素のが強いのかもしれませんね」と応じる。
そして、野町和嘉氏の「どの聖地も、1000年、2000という時間の中で、何かある種の「気」に近いものが受け継がれていったんじゃないかと思います」という話でこの対談は終わる。
こういう神秘主義的な考えは好きではない。

野町和嘉の写真集『地球巡礼』を見た。

サハラ、チベット、インド、エチオピア、メッカ、ナイル、アンデスなどの写真には圧倒された。
しかし、文句たれの私にはひっかかることがある。
それは「カルマの法則」「罪の浄化」という言葉が出てくることである。

「人っ子ひとりいない東チベットの極限高地に延びた一直線の道を、聖地ラサをめざし、五体投地で巡礼する2人の女性にはじめて出会ったとき、この人たちにとっては、信仰こそが生涯をかけた仕事であることを思い知らされた。生命から生命へと輪廻してゆく魂が解脱の境地に到達するには、苦行を重ね、何代にもわたって人間として生まれ変わって徳を積むことでしか達成されないと信じられている。悪行を重ねて餓鬼やけだものに転生してしまえば、徳を積むことは出来なくなるのだ。苦行を重ねれば重ねるほど、心はより浄化されてゆくものとチベットの人たちは信じている」
これは苦行によるカルマの浄化である。

チベット人はカイラス山の一周52キロの巡礼路を何度もまわる。
「こうして苦行を重ねることで現世で犯した罪を清め、来世でも再び人間として生まれ変わり、解脱を目標に功徳を積んでゆくことを願っているのだ」
「彼ら(チベット人)の心を深く捉えているのは、カルマの法則である。永遠の輪廻転生を繰り返しているあらゆる生きものは、前世の因果によって様々な姿に生まれ変わると信じられている」

チベットには千人以上の活仏がいる。
「儀式を主催した高位の活仏が退席したあとの椅子に殺到する信者たち。活仏の痕跡に触れることで御利益が得られると信じられている」

ベナレスで。
「人生を、前世の因果を背負った輪廻の宿業と捉えたインド人にとって、この苦痛からの解脱を明快に説いたヒンズーの教えはもっともわかりやすい道筋であった。
それは、
――ガンガーの聖なる水で沐浴すればあらゆる罪は清められ、バナーラスで死んで遺灰を流せば、輪廻の苦海から解脱できる――
というものだった」

業(カルマ)思想、六道思想、輪廻思想はインド思想の中心思想である。
これらを実体視するのは神秘体験(宗教的経験)によってである。
「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」を読むと、こうした考えの危険性を感じる。

コメント (13)
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