三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

江戸時代の結婚、離婚、養子

2012年05月16日 | 日記

江戸時代は早婚かと思っていたら、そうではないらしい。
速水暢氏の研究によると、近世後半は晩婚化だったそうだ。(太田素子『江戸の親子』)
近世前期と後期では男性の結婚年齢が平均25歳から35歳と、約十年遅くなっている。

ところが女性の結婚年齢はそれほど変わっていない。

近世後半の農村では年齢差が15歳以上という夫婦が珍しくない。
人生50年として、夫が50歳の時に妻が35歳。
夫に先立たれると、妻は子どもを抱えて収入を断たれてしまう。

また、出産は命がけだったし、妻は出産後に体調を崩すことがある。

「姑の助力が期待できないときにはとりわけ、若妻にとって子育ては体力と気力を使い尽くす大事業になっている」
妻の具合が悪くなると、夫は子どもの世話で疲れきる。
子守りを雇うか、親戚や近所の人に頼むしかない。

太田素子氏は『柏崎日記』を紹介して、「お菊(妻)が髪を結うあいだ、勝之助(夫)は子守がてらおろく(娘)を抱いてお向いの親戚に遊びに行ったとか、お菊が味噌を仕込むあいだ、おろくをお向いに預けたとか、あるいは子守がまだ復帰しないので」と、勝之助口癖の「困り入り候」が連発されると書いている。

江戸時代は離婚が珍しくない。
岡山藩では、婚姻届356件のうち、36件は離婚。
宇和島藩では、32人の宇和島藩士のうち、13人が離婚経験者で、そのうち5人は二回離婚している。
しかも、離縁された妻はさっさと再婚している。
宇和島藩士の夫婦56組のうち、20年も継続した結婚は四分の一で、他は離婚か死別している。
「貞女は二夫をならべず」というのはタテマエらしい。
離婚率が高かったのは明治時代で、明治16年の離婚率は3.38だが、平成21年は2.01。

江戸時代は養子が多かった。
磯田道史『武士の家計簿』に、「江戸時代は、武家にかぎらず養子のさかんな社会であった。しかも、婿養子が多い。婿養子はすこぶる日本的な制度である。中国や朝鮮には婿養子は少ない。「祖霊は男系子孫の供物しかうけつけない」とする厳密な儒教社会からみれば、日本の婿養子制度はおよそ考えられない「乱倫」の風習である」とある。

加賀藩士の場合、実子が家を継ぐ割合は57.6%、弟・甥などが家を継ぐ場合が7%、養子・婿養子が継ぐ場合が35%。
猪山家の御算用者のように専門技術で仕える「家芸人」は「相続原則がゆるやかで、必ずしも長子相続が絶対ではない。家芸に優れた末子が家を継ぐ例はめずらしくなかった。実子がいても、養子に継がせることさえあった」とある。

『新書・江戸時代2 身分差別社会の真実』に大石慎三郎氏が次のように書いている。
「商家では息子を後継ぎにすることはあまりなく、娘に後を継がせるのが一般的であった。この娘に、家の番頭や手代の中から最も有能な者をめあわせ、経営を委ねるのである。もし、婿養子に迎えたこの番頭・手代の働きが悪い場合は離縁させることもあるので、家の財産権は娘につけて婿養子には渡さないのが普通だった。
商家の息子はたいてい別な職につかせたり、一定の財産を与えて好きな生活をさせることが多かった」

太田素子『江戸の親子』によると、娘に継がせるのは商家だけではない。
「世田谷の代官大場家の場合、近世初頭には家長としての統率力や政治力を重視して、息子でなくわざわざ娘に有能な婿を迎えて跡をつがせる女系家族であったという」
つまりは伝統というのはフィクションで、作られていくものだと思う。

コメント (28)
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