三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

磯田道史『武士の家計簿』1

2012年05月10日 | 

おそまきながら磯田道史『武士の家計簿』を読む。
映画『武士の家計簿』はつまらなかったが、本のほうは面白い。
具体的な数字が出てくるので、その時代の人の生活がわかる気がする。

武士には、主君から領地(知行地)を分与された「知行取」と、領地を分け与えられず、米俵や金銀で棒禄を支給される「無足」の二種類ある。
領地といっても、その土地に住むわけでもなければ、経営するわけでもない。
知行石高に相応した年貢米を藩からもらうだけである。
もともとは家臣が領地を経営していた。

宮崎克則『逃げる百姓、追う大名』によると、年貢は米にだけにかかり、野菜や商品作物(煙草や藍玉など)には年貢はかからない。

年貢率は一律ではなく、村ごとに、あるいは村内部でも知行地ごとに違っていた。
慶長17年(1612)の調査によると、熊本の細川領の知行地は、年貢率50%の上知行地、45%の中知行地、35%の下知行地という三段階に分かれていた。
家臣が自分の知行地の経営をしていたが、経営ができないと知行地の放棄する家臣や、経営を藩に依頼する家臣が増え、延宝8年(1680)、家臣へは藩の蔵米から支給するようになった。

磯田道史氏によると、
「江戸時代は士農工商の厳しい身分制社会のように言われるが、文字通りそうであったら、社会はまわっていかない。近世も終わりに近づくにつれ、元来百姓であったはずの庄屋は幕府や藩の役人のようになっていく。彼らはソロバンも帳簿付けも得意であり実務にたけていた。猪山家のような陪臣身分や上層農民が実務能力を武器にして藩の行政機構に入り込み、間接的ながら、次第に政策決定にまで影響をおよぼすようになるのである」
仕事・役職が階級によって100%決まっていたわけではない。
たとえば、五代将軍綱吉の勘定奉行荻原重秀。
勘定奉行は三千石相当の旗本がつく役職だが、荻原重秀は御家人すれすれの最下級旗本の出身。
他にも御家人出身で勘定奉行や町奉行になった人がいる。

『武士の家計簿』の前田藩猪山家はそんな高給取りではないが、息子の出来がいいため、親子で禄を食んでいた。
天保14年の猪山家の収入は以下のごとし。

父(信之)知行70石=玄米22石=銀1287匁+夫銀34.3匁
息子(直之)切米40俵=玄米20石=銀1230.89匁+拝領金8両(=銀524匁)
計 米に換算すると51.388石(約7.7t)、銀に換算すると約三貫目(=3000匁=11.25kg)

今のお金に換算するといくらぐらいなのか。
米1俵は現在は4斗(0.4石)
江戸時代は地方によって違い、幕府の制度では1俵=3斗5升、加賀藩は1俵=5斗。
1両は1.111石。
玄米7.7tは現在200~250万円。
腕のいい大工の日当は江戸で一日銀5~6匁、地方都市では大工見習いの日当が銀2~3匁。

米1石=金0.9両=銀67.5匁=27万円
金1両=銀75匁=30万円。
銀1匁=銭84文=4000円
銭1文=47.6円。

ということで、猪山家の年収は
信之 530万円
直之 700万円
計 1230万円
とはいっても、玄米42石のうち、食用に8石(家来や下女をいれて8人家族)いるので、実収入はもう少し少ない。

猪山家は明治になると、成之(直之の息子)がお役人になって裕福になる。
明治6年、猪山成之は海軍省七等出仕(奏任官)。
明治7年、海軍省出納課長、年収は1235円(現在の3600万円)。
金沢製紙会社雑務懸りのイトコは年俸48円(現在の150万円)。
成之の家来二人の給料は18円。
明治初年の1円は今の約3万円らしい。
生活費(食費、光熱費等、医療費、人件費、家賃など)は416円、それに建築費等を合わせると支出は633円。
土地を購入し、金沢に仕送りもできる。
「新政府を樹立した人々は、お手盛りで超高給をもらう仕組みをつくって、さんざんに利を得たのである」

コメント (33)
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