三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』(2)

2006年05月03日 | 仏教

田中公明『活仏たちのチベット』によると、妻帯する活仏がいるそうです。

たとえ還俗しても転生ラマの資格を失うわけではない。特にチベット動乱後は、多くの転生ラマが海外に亡命し、チベット仏教の欧米伝播に大きな貢献をしたが、彼らの多くは亡命先で還俗し、妻帯してしまった。しかしながら彼らは依然として転生ラマとして尊敬を受け、なかには還俗してからの方が、社会に貢献したと評価される人物もいる。

『ブータン仏教から見た日本仏教』で今枝由郎さんは日本仏教における僧侶の妻帯を問題にしていますが、僧侶の妻帯は日本だけではなく、還俗するとはいえチベット仏教、しかも活仏が妻帯しているとは驚きです。
活仏が還俗するということは、仏から人間になるということなんでしょうが、仏の時よりも人間になったほうがより活躍するとは、なんだか奇妙な話ではあります。

今枝さんは日本の僧侶についてこのように批判しています。

僧侶ですら、お経の意味を理解せずに、極端に言えばお経に意味があるとすら思わず、ただ呪術的に唱えているのが日本仏教である。日本仏教には、仏教を理解するというもっとも初歩的な努力があまりにも欠如している。そこには、本来の正しい仏教が根付く可能性はない。


今枝さんはブータンのロポン・ペマラ師について学ばれました。
ロポン・ペマラ師は質問を受けると、「すべて記憶から、正確無比によどみなく答える」方で、

ロポン・ペマラの博識ぶりに驚いたが、それ以上に感銘を受けたのは、師の真摯さと崇高さであった。それは、仏教の修行・学習に全身全霊を捧げてきた一生から自然と滲み出、伝わってくるものであった。



私がもっとも薫陶を受けたのは、師の人柄からである。大乗仏教徒としての師の生き方は、経典に述べられているとおり崇高なもので、自ずと畏敬の念が湧いてきた。それは、仏教の理想としている生き方の、生き証人であり、尊厳さと美しさがあった。

と最高の敬意を捧げています。
教えによって人間が生み出されるからこそ、その教えが真実だと証しされるわけで、人間が生まれてこない教え(日本仏教)が真実だと言えるのか、という、耳が痛くなる指摘です。

私にしたって妻や子供に教えを伝えることができません。

そりゃまあ、突然怒鳴りだしたてガミガミ言ったり、酒を飲んではグダグダ文句をたれる私の姿を見ていたら、仏教がどうのこうのといくら言っても、聞く気が起きないものもっともです。
ある人から「救われていない人は人を救うことはできないということです」と、きついことを言われたことがありますが、ほんとその通りだと思います。

とはいうものの、ロポン・ペマラ師のように学識が深く、徳行が高い人だけが仏教を伝えることができるのだったら、教えが広まることはないでしょう。

河口慧海や西川一三たちのチベット旅行記を読むと、僧侶がみなロポン・ペマラ師のような人ばかりではないことがわかります。
ケンカばかりしている僧侶、同性愛にはげむ僧侶も珍しくないし、宗派の内紛は東本願寺どころではない派手さです。

でも、教義をろくろく理解していないごく普通の信者やボンクラ僧侶が大勢いて、そういう裾野の広がりからロポン・ペマラ師のような方が生まれてくるんだと思います。

その意味で、日本の仏教が衰退している理由の第一は何といっても坊さんの怠慢にありますが、今枝さんのお父さんのような方がいなくなったということが大きいです。

今枝さんのお父さんは毎朝『正信偈』のお勤めをされていたそうです。

『正信偈』に何が書かれているかわからず、南無阿弥陀仏がどういう意味かを知らない、だけども念仏を称え、お勤めを欠かさない人が以前は大勢いました。
そうした人たちによって本当に大切なこと(本尊)が受け継がれてきたのです。
ところが、仏教を底辺で支えていたそういう名もなき人たちがいなくなった。
それが日本仏教の一番の問題だと思います。

もう一つ批判を。

ロポン・ペマラ師は次のように説かれています。

病気には三つのタイプがあると言う。一つは、本当の病気で、これには医学的な治療がある。もう一つは、悪霊の祟りであり、これは占いと法要によって対処できる。最後は、過去世の業の結果であり、自分がいま体調が優れないのは、このタイプである。だから、薬も、法要も役にたたず、唯一の対処策は善業を積むことである。だから、自分は念仏を唱えているのである。

悪霊の祟りや過去世の悪業で病気になると、今枝さんも信じているんでしょうか。

コメント
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