新聞を読むと、A級戦犯合祀が靖国問題で、分祀すれば問題解決という感じになっていますが、高橋哲哉『靖国問題』を読むと、靖国問題とは政治問題だということがよくわかります。
靖国の論理は戦死を悲しむことを本質とするのではなく、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするものである。(略)
天皇であれ皇后であれ、親であれ妻子であれ、それこそ「当たり前の人情」を持っていれば、戦死はまず悲しみとして経験されるだろう。だが靖国の論理は、この「当たり前の人情」である悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように仕向けるのだ。戦死の不幸は幸福に、その悲劇は栄光に転換されねばならない。そうでなければ国家は、新たな戦争に国民を動員できなくなるであろう。戦死することを「目的」として戦場に赴く将兵はいないとしても、戦場でひたすら「無事生還」を願っているような将兵を靖国の論理は認めない。
天皇であれ皇后であれ、親であれ妻子であれ、それこそ「当たり前の人情」を持っていれば、戦死はまず悲しみとして経験されるだろう。だが靖国の論理は、この「当たり前の人情」である悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように仕向けるのだ。戦死の不幸は幸福に、その悲劇は栄光に転換されねばならない。そうでなければ国家は、新たな戦争に国民を動員できなくなるであろう。戦死することを「目的」として戦場に赴く将兵はいないとしても、戦場でひたすら「無事生還」を願っているような将兵を靖国の論理は認めない。
戦死を美化することにより、進んで戦争に赴く人間を再生産し、家族の戦死を喜ばせる役割を靖国神社はします。
大日本帝国が天皇の神社・靖国を特権化し、その祭祀によって軍人軍属の戦死者を「英霊」として顕彰し続けたのは、それによって遺族の不満をなだめ、その不満の矛先が決して国家へと向かうことのないようにすると同時に、何よりも軍人軍属の戦死者に最高の栄誉を付与することによって、「君国のために死すること」を願って彼らに続く兵士たちを調達するためであった。そしてその際、戦死者であれば一兵卒でも「おまいりして」くださる、「ほめて」くださるという「お天子様」の「ありがたさ」、「もったいなさ」が絶大な威力を発揮した。
このように死を受容させる靖国神社はきわめて宗教的である。
既成仏教教団も進んで協力している。
自分のものだと思っている財産も、実は自分のものではありません。みんな国家のものです。いや、財産ばかりではない。この身体も、生命も、みんな上御一人からお預かりしているのです。(高神覚昇「靖国の精神」)
靖国という物語をいかに無化していくかをこそ仏教教団は考えていくべきなのに。