三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

パク・チャヌク『親切なクムジャさん』

2005年11月23日 | 映画


パク・チャヌク監督の復讐3部作『復讐者に憐れみを』『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』を見る。

一番よかったのは『復讐者に憐れみを』で、なぜなら悪人が出てこないからである。
「誘拐には良い誘拐と悪い誘拐がある」とは、『親切なクムジャさん』の誘拐犯の言だが、『復讐者に憐れみを』は身代金を払って子供が帰ってきてメデタシの良い誘拐だったはずが、ちょっとしたズレで悲劇になってしまう。
アリストテレスによると、悲劇とは不可避であるべきであり、回避可能なら感動の対象にならないそうだが、悲劇に至る必然性が『復讐者に憐れみを』にはある。
そして、極悪人でも善人でもない人物が過失によって不幸に陥るのが悲劇であるが、その条件も『復讐者に憐れみを』はクリアしている。

『オールド・ボーイ』は原作と比べて、復讐する動機がはっきりしているのがいいし、15年間も監禁しなければならない理由がちゃんとある。
土屋ガロン・嶺岸信明の原作は、なぜ復讐するのか、その理由を主人公は必死になって探るのだが、最後、えっ、こんなことで10年間も監禁するのかと、いささかアホらしくなった。

で、徹底した悪人が出てくるのが『親切なクムジャさん』です。
復讐する気持ちはわかるし、正直なところ私も映画を見てて、もっと残酷な復讐をすればいいのにと思った。

『親切なクムジャさん』のいいところは、主人公は復讐の虚しさを感じたところで終わることである。
前二作は、復讐することによって我が身を滅ぼしてしまうという結末だが、『親切なクムジャさん』は虚しさの向こうに救いがあるような気がする。
見る人によっては、復讐肯定論=厳罰化賛成というふうに受け取るかもしれないが。

坂上香『癒しと和解への旅』は、アメリカの被害者遺族と死刑囚の家族が一緒になって死刑を求めるというドキュメントである。
被害者遺族の一人は、

怒りや憎しみはなんの解決にもならない、かえって怒りや憎しみが増幅されるだけだ。人が癒されるためには相手を赦す必要がある。

と語っている。
現在、苦しんでいる人に「相手を赦しなさい」なんてとてもじゃないが言えない。
だけど、救いは怒り(復讐)によってはもたらされないと思う。

『親切なクムジャさん』では、子供を殺された親たちが一人ずつ誘拐犯に手を下すのだが、親たちはその後どういう気持ちで生きていくのだろうか。
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によるならば、彼らのほとんどはいくら相手が我が子を殺した人間であろうとも、罪悪感に苦しむだろう。

ということで、被害者遺族の代わりに国が加害者に復讐するというのが、死刑という制度だと言う人がいる。
しかし、死刑にしたって誰かが死刑囚を殺さないといけない。
ところが、デーヴ・グロスマンによると、ほとんどの人は「自分自身の生命、あるいは仲間の生命を救うためにすら敵を殺そうとしない」のである。
当然のことながら、死刑を実際に執行することになる刑務官の苦悩は深い。

拘置所の近くで食堂をされていた方の話だと、死刑執行の後、刑務官がやって来て、浴びるように酒を飲んでいったことがよくあったそうだ。
そして、その方は「死刑はないほうがいい」と話された。

復讐とは誰もが傷つくものだと思う。
復讐三部作の意図はそういうことだと思いたい。 

コメント
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