三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

キャメロン・クロウ『エリザベスタウン』

2005年11月19日 | 映画

「週刊文春」の映画評を見ると、『エリザベスタウン』を品田雄吉氏は星4つにしていた。
品田雄吉氏を信頼している私としてはいささか驚きでした。

キャメロン・クロウ作品らしい気持ちのいい映画ではある。
しかし、話の運びがあまりにも雑なのがどうも気になった。
主人公(オーランド・ブルーム)は自分がデザインした靴で会社は約1000億円もの損失を出してしまい、会社をクビになる。
しかしですよ、一足10万円として100万足作って、1000億円。
宣伝費とかの諸経費を含めても、どうしてそんな巨額な金額になるのだろうか。
字幕の間違いだろうか。

そして、主人公とヒロインとの出会いも不自然すぎる。

たった一人しか乗客がいないにしても、美人スチュワーデス(キルスティン・ダンスト)があれこれと話しかけ、携帯の番号まで教えるということがあるものだろうか。
電話してみると、話がすごく弾んで、徹夜して話し込んでしまう。
このヒロインは初対面の女性からも絶賛されるような人である。
それなのに、どうも恋人はいないらしい。
自殺を考えていた時に、こんな女性と知り合うなんていう都合のいい話は、いくら何でもあり得ないと思ってしまう。
そもそもそんな素晴らしい女性がこの世にいるものだろうか。
男の願望の中にしか存在しない女性である。
だもんで、この女性は主人公の妄想かと思った。
それとも何か秘密(夫がいる、あと一年の命etc)を抱えているのかと考えてたら、そんなことは全くない。
二人の間に山も谷もなく、そのままハッピーエンドなんですからねえ。

で、主人公はケンタッキーの田舎町に帰るわけだが、どうも教会での葬式ではなく、告別式というか、親戚、友人が集まってのパーティが葬式ということらしい。
南部の田舎町なら福音主義者ばかり、というのは偏見だが、牧師が葬式を主宰するのが普通ではなかろうか。
火葬をすることについては話し合いが行われ、主人公が説明しなくてはいけなかったが、牧師を呼ぶかどうかでもめることはない。
埋葬(といっても火葬をしているのだから、棺の中は服などの遺品だけ)の際にも、牧師は立ち会っていない。
これはどういうことだろうか、不思議である。

で、その告別式では、親戚から友人、そして家族が一人ずつ舞台に出てスピーチをする。
最後は母親が話をする。
思い出話から、冗談(下ネタである)、そしてタップダンス。
拍手喝采。
夫が死んだばかりなのに、どうして人前でこういうことをしなければならないのだろうか。
アメリカ人はこういうのに抵抗を感じないのだろうか。
国民性の違いのせいだろう、アメリカ映画の中での家族の死に対する表現の仕方について、今までずっと違和感を感じてきたが、『エリザベスダウン』ほどイヤな感じを持った映画はない。
アメリカに生まれなくてよかったと思った。

エリザベスタウンに入るとみんなが行き先を教えてくれたり、いつまでも続く結婚式の騒ぎなど、いかにも自殺を試みた主人公が見た幻想という感じもする。
それならまあ話のいい加減さにも納得できるのだが。 

コメント (2)
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