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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

本田哲郎『聖書を発見する』

2016年01月18日 | キリスト教

仏伝、高僧伝、聖書などには奇跡や超常現象が当たり前のように書かれています。
あるいは、差別的表現や差別を肯定する個所もあります。
そこらをどう受け取るか。

本田哲郎『聖書を発見する』は、聖書に書かれてあることはすべて歴史的事実だという立場ではなく、「自見之覚悟」ではないですが、そうした表現で何を伝えようとしているかが書かれています。

たとえばイエスが病人を治したということ。
実際に「病気を治す」という行ないは、イエスはほとんどしていない。
イエスには癒しのパワーがあると期待しがちだが、福音書を読むかぎり、イエス自身は必ずしも自分に癒しのパワーがあるとは思っていなかった。

たいていテラペウオという語が使われている。これは、手当をする、介護する、奉仕する、といった意味のことばです。(略)病気の人、苦しんでいる人、しんどい思いをしている人の背中を、たとえばさすってあげて、「治りたいよね」とつぶやくようなかかわりがテラペウオなのです。それが、ときどき本当にイヤスタイ、つまり治ってしまうというケースが、福音書の中に五回ほど出てくるというわけです。


ライ病を患う人を抱きしめ、「清められたらいいね」と願いを込めて言ったら治った。

「え、治ったの」と驚くというかたちで出てきます。「治ればいいね」と思って、らい病の人とかかわるイエスのやり方が、結果的に病を治してしまった。そのことに本人が驚くというように。

この個所の本田哲郎氏の訳(『小さくされた人々のための福音』)。

全身らい病におかされた男がいた。男はイエスを見るとひれ伏して、「どうか、お力でわたしを清めてください」と願った。イエスは手をのばしてその男を抱きしめ、「清められるように」と言った。すると、すぐにらい病は去った。

新共同訳ではこうなってます。

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。


盲人が見えるようになったという個所は新共同訳では

イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。

となっていますが、本田哲郎訳は

二人の目があいた。イエスは二人に対して深い感動をおぼえ、「だれにも知られないようにしていなさい」と言った。

とあります。
「深い感動」は本田哲郎氏がつけ加えたのでしょうか。

クリスチャン・サイエンスやGLAの講演会で車イスの人が立ち上がって歩けるようになるそうですが、これは一時的なもので、本当に歩けるようになるわけではありません。
イエスの癒やしはこんなのとは違うでしょうが、「治りたいよね」とつぶやいたぐらいでハンセン病が治ったり、死者が蘇るものかと、そういうのは好きではない私は思います。

病気を治すといった超能力がイエスにあるのではなく、苦しむ人に寄り添い、共に苦しむイエスです。
そして、我々も奇跡的なことが起こって問題を解決してくれるように祈るのではない。
祈りとは行動を引き出す決意のようなものだと本田哲郎氏は言います。

自分たちだけが幸せになって、その一方でほかの人たちが相変わらずつらい思いを強いられているとしたら、それは本当の幸せとは言えない。つらい思いを強いられている仲間たちが少しずつでも解放されるような働きかけができないならば、宗教そのものも偽物ではないでしょうか。


「つらい思いを強いられている仲間」とは、たとえば羊飼いです。

この時代の「羊飼い」は被差別の職業と見られていたそうです。羊飼いは、律法をきちんと守れない人たちと見下されていました。仕事上、守れないのです。仮に安息日が明日であったも、羊を放っぽって自分だけ会堂に走るわけにはいかない。また、安息日には火を焚いてはいけないのですが、羊といっしょに野宿をしていたら、火の気なしには凍えてしまう。仕事がら、律法に違反せざるを得ないようなそういう職業は、罪人の職業、賤業というふうにユダヤ人は見なしていたようです。


虐げられている仲間に、死後の世界としての天国という救いを説いてはいない。

「天の国」とは、死んでから行くところ、いわゆる天国のことではありません。

「神の国」とは、地上に実現されるべき社会のことであり、「天の国」とは「天につながる世界」、この地上で、人間同士の間で、実現されるべき神につながる社会のことだ。

「弱い人の立場に立つ」と言いますが、本当の意味で他人の立場に立つということはおそらく不可能です。歩み寄って、その人の立場に寄り添おうという努力は大事ですが、ややもすると、その人の立場に立てたつもりになってしまって、「自分だったらこう思うから、相手も当然こう思うはずだ」と考えて、そこから「どうしてそう思わないのだ」と相手を非難したり、見下したりすることが始まってしまう。最後のところでは、他人の立場に立つことはできない。だから、相手から教えてもらうしかない。相手より下に立つということが大事なのです。


本田哲郎氏は、understand(理解する)とはunder stand(下に立つ)ことだ、と話されています。
なるほどと思いました。


苦しみをどのように受け止めるか

2013年11月12日 | キリスト教

加賀乙彦『雲の都』の語り手である悠太、そして母や妻、妹、叔母一家たちはカトリックの信者なので、『雲の都』は神について何度も触れている。

悠太は大学紛争の時に、クギが打ちこんである角材で頭を殴られて入院する。
痛みに耐えながら、このように悠太は考える。

神の痛みはどうか。まず明らかなことは、イエス・キリストが十字架上で人間から被った痛みこそ、あらゆる痛みのなかでもっとも激烈なものであった。そして、彼が人間から受けた軽蔑、差別、裏切りの精神的痛みこそは、さらに究極の痛みであった。


自分が苦しい目に遭った時に十字架上のイエスを思うのはキリスト教徒の常らしく、エリザベス・ギャスケル「ベン・モーファの泉」(『ギャスケル短編集』1850年)にもこんなエピソードが書かれてある。
エレナの一人娘が転倒して半身不随になり、婚約者が去ってしまい、メソジスト派の説教師であるデイヴィッドにエレナは訴える。

この世には嫌気が差しました。我が子を見る影もなく悲嘆に暮れさせたままにしておきながら、私は死んで安らぎを見出すことなんかできるでしょうか?

デイヴィッドはこのように答える。

エレナよ。おまえが行く所では、すべてが明らかにされるであろうし、おまえが今とても耐えられないと思っている、そういった悲しく重苦しいことが終わったと分かり、神に感謝するようになるだろう。おまえの苦悩は、あの花園における恐ろしい主の苦悩よりも大きいと思っているのかね。

イエスに比べると、これくらい大したことがないから我慢しろ、というわけである。

松家仁之『火山のふもとで』に、世界が美しいのは神が創造したからというやりとりがある。

彼女はね、分子生物学を研究するようになって、はじめてゴッドがいるって思うようになったそうよ。こんなに精緻で合理的で、しかも美しいかたちは、神でもいなければとてもつくりだせるはずがないって。

へそ曲がりの私は、だったら醜いものは誰が作ったのかと思う。

『雲の都』でも、悠太の叔母と娘が浅間山を見ながらこんな会話をする。

娘「ねえ、ママ。自然てのは美しいのね。その美は神様の傑作なのね。逆に言えば神様は傑作しかお作りにならない。わたしなんかの絵は、いつも失敗して醜くなるのに、神様は醜い作品はお作りにならない。それがわたしは不思議でならない」
母「ほんとだね。(略)もし神様がおられなければ、美はこの世に現れなかった。わたしは絶対にそう思う」
娘「(略)どんな山でも美しいのはなぜかという話になった。(悠太)先生の言うには、自然の山で醜いのに出会ったことがないんだって。(略)驚いたことに、あらゆる方向から浅間は美しく見えたんですって。子供が砂山で浅間山を作ろうとしない理由もわかる。それは子供には神の作った浅間山は再現できないからなんですって」

どうして神は浅間山を噴火させ、多くの人を殺したのか、と私は思う。

阪神大震災でボランティアとしてしばらく滞在した悠太は、ある少女が焼け死んでいく姿を想像する。

体は動かない。「助けてえ」と必死に叫ぶ所に炎が入り込んできた。「熱いよう」と少女は泣いたけれども、物凄いヘリコプターの爆音に消されてしまい、誰も助けに来てくれない。少女の体はじりじりと焼かれていった。少女はついに叫びもがきながら、焼かれていった。

こういう想像力があるのに、その痛みをもたらした神への疑問は出てこないのが不思議である。
というか、都合よすぎるんじゃなかろうか。

デイヴィッド・ロッジ『どこまで行けるか』は、神への異議をはっきりと述べている。

洪水による土砂崩れが小学校を呑み込み、教師と百十余名の児童が死ぬという事件(実際の事件)が起きる。
ブライアリー神父はこの事件について次のような説教をする。

(このような災害を)人間の罪深さに対する一種の罰と見なしたり、神の御意として何の疑いも差し挟まず受け入れたりするのがキリスト教の伝統的な反応だ。その二つの反応はどちらも不十分である。なぜなら、もし罰せられるのが人類の罪深さとすれば、あの子供たちや家族が罰を蒙るのは完全に不当だ。そして、もしそれが神の御意ならば、なぜわれわれは、それに疑問を呈してはいけないのか?キリスト教徒が信じているように、もし神が宇宙に遍在しているのなら、神は宇宙の中の一切のことに責任をもち、こういうときに人間の心に掻き立てられた怒りと敵意を甘受する用意がなければならない。

そして、神に不平をぶちまけ、苦しみを率直に語った『ヨブ記』を引用する。

グレアム・グリーン『事件の核心』では、子供の死について神に問う。

遭難した船から逃れた人たちが乗ったボートが40日間漂流し、女の子は助けられたものの、すぐに死ぬ。
主人公である警察副署長はこう感じる。

自ら創り出したものを愛するほどの人間性を持たぬものとしての神も信ずることは出来なかった。


グレアム・グリーンやデイヴィッド・ロッジはカトリック作家である。

彼らの小説に登場する人物は、神に異議を唱えても、信仰を捨てず、神に無関心でもない。
疑問を持ちながらもカトリックにこだわり続ける。
そこらがキリスト教徒ではない私にも共感できるわけです。


ショーン・マクナマラ『ソウル・サーファー』と福音派

2012年07月05日 | キリスト教

ショーン・マクナマラ『ソウル・サーファー』は、13歳のときにサーフィンをしてて、鮫に襲われて片腕を失うが、プロ・サーファーになったベサニー・ハミルトンの実話をもとにした映画。

悪くはないが、キリスト教のにおいの強さが気になる。
家族そろって教会に通い、兄弟は教会の青年会(?)活動に積極的に参加し、教会の女伝道師(性格が悪そうに見える)の話を素直に聞く。
それがどうしていけないのかと言われると困るのだが。

どうもなあと思ってたら、エンド・クレジットのSpecial Thanksの最初と最後にJesus Christという名前が出てきた。
れれれと思ってウィキペディアを見ると、ベサニー・ハミルトンはI Am Secondというキリスト教福音派と関係があるそうだ。
進化論なんて頭から信じてなさそう。
ベサニー・ハミルトンと親友はサーフィンの練習のために学校に通わず、自宅学習をしているというシーンがあるが、学校で聖書に反する知識を学ばせたくないからだと邪推したくなる。

ネットで調べたら、Youtubeにベサニー・ハミルトンへのインタビューがあった。

Nick interview with Bethany (英語、日本語字幕)

こんなことを話している。
「私はとても小さい時にもう神に人生を任せた」
「直ぐに、それは神が計画した私の人生だという気がした」
「神は私の人生に計画を与える。それに神は私を愛している。だから、神は私に忍耐と力とサーフィンに対する新たな情熱を与えてくれた。そして、私は諦めないことにした」
「サーフィンは私にとって一番大切なものというわけじゃない。イエス・キリストこそ一番大切。イエスに力と希望をもらって日々を過ごす」etc

インタビュアー(障害者)が「あなたは神があなたに与えた計画を実行するためその事故を起こしたと思えるの」と問うと、「ええ、そう思う。神は理由があって私に腕を失わせたと分かっている。その理由は今分かった。だって、たくさんの素晴らしいことが私の人生で現れた。私の信仰を人達に話す機会ができたし、サーフィンをし続けられるし、片手でサーフィンのことを人に話せるし、片手でもサーフィンレースに出られるし、希望を失った人は多い。私の経験を聞いて、彼らの人生が変わった。だから、全然腕を取り戻したいという気持ちはない」と答える。

あらゆることは全能の神のお考え。
だから、ベサニー・ハミルトンが鮫に片腕を食べられたのも、神の意思なのである。

2004年、津波の被害に遭ったタイのプーケット島に、ベサニー・ハミルトンたち教会のメンバーはボランティアに行く。
彼らは、津波で何万人もの人が死んだのも神のお考え、残された人にとっては神の与えた試練だと思いながら、被災者の世話をしたのだろうか。

『ラビット・ホール』という映画は、一人息子が交通事故で死んだ夫婦が主人公である。
夫婦で子どもを亡くした親の会に出席しているが、娘を亡くした人が「娘は天使になって神様のそばにいる」と話すのを聞いて、母親はキレる。
「そんなに天使が必要なら、自分で作ればいいのよ。だって神なんだから」
正論だと思う。

信仰によって障害や子どもを亡くしたことを受け入れることを非難しているわけではない。
だけども、と思う。

本田哲郎『聖書を発見する』に、福音主義、原理主義の人は、
「富、健康、長寿こそ神の祝福のしるしであって、貧困、病気、短命は神の罰だという人たち」とある。
渡辺靖『アメリカン・デモクラシーの逆説』に、こんな例が紹介されている。
2005年8月、アメリカ南東部を襲って1800人の死者を出したハリケーン「カトリーナ」に関して、キリスト教保守派の組織「リベント・アメリカ」(「アメリカを悔い改める」という意味)の創設者マイケルマーカベージは「同性愛者の祭りを毎年催しているニューオリンズへの神の審判だ」と述べ、同派のテレビ伝道師ジョン・ヘイギーは反カトリックの立場から「カトリーナは罪の都市に対する神の罰だ」と発言した。
石原慎太郎都知事の「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」という暴言と同じことを福音派が言っているわけだ。

タイの人たちはほとんどが仏教徒である。
さすがに『ソウル・サーファー』では、石原都知事のようにあからさまに「津波は神の罰だ」なんて言わない。
でも、そんな勘ぐりをしたくなるキリスト教福音派の宣伝映画でした。


キリスト教はどうしてローマ帝国の国教となったのか

2010年02月05日 | キリスト教

キリスト教やイスラム教がどうして世界宗教になったのか、不思議に思う。
タイムマシンに乗って教父を何人か殺したとしても、キリスト教はやはりヨーロッパ全体に広まっただろうか。

ローマ帝国はキリスト教を弾圧したと思われがちだが、多神教のローマ人は宗教に極めて寛容であり、不寛容なのはキリスト教のほうだということは、J・B・ビュアリ『思想の自由の歴史』に詳しく書かれてある。
キリスト教は自らの不寛容さのために弾圧されるようになったのだが、それにもかかわらずローマ帝国のキリスト教勢力が強大になった要因は何か。

塩野七生『ローマ人の物語ⅩⅡ 迷走する帝国』にその要因が紹介されている。
まず『ローマ帝国衰亡史』のギボンである。
1,断固として、一神教で通したこと。
2,魂の不滅に象徴される、未来の生を保証する教理を打ち立てたこと。
3,初期キリスト教会の指導者たちが行ったとされている奇跡の数々。
4,すでにキリスト教に帰依していた人々の、純粋で禁欲的な生き方。
5,規律と団結が特色のキリスト教徒のコミュニティが、時代が進むにつれて独立した社会を構成するようになり、そのキリスト教徒の社会がローマ帝国の内部で、国家の中の国家になっていったこと。

そしてドッズ教授の説。
1,キリスト教そのものがもつ、絶対的な排他性。
2,キリスト教は、誰に対しても開かれていたこと。
3,人々に希望を与えるのに、成功したこと。
4,キリスト教に帰依することが、現実の生活でも利益をもたらしていたこと。

両者の説の詳しい説明は省きます。

塩野七生説です。
ローマ人は現世的であったのに、ローマ帝国の衰退とともに希望を失ってしまった。
「ローマ帝国も三世紀後半になると、帝国内に住む人々に対して、「平和」を与えることができなくなったがゆえに、「希望」も与えられなくなってしまったのだ」
「(五賢帝までの時代の)ローマ人には、アイデンティティ・クライシスは存在しなかったのである。なぜわれわれは生きているのか、という問いには、自信をもって答えることができたのであった。それが、三世紀には、答えられなくなってしまったのだ。(略)一般の人々が直面していたのは、死後や将来への不安よりもまず先に、知的で生活にも恵まれた人ならば味わう必要のない、現に眼の前にある欠乏と不安であった」

外敵の来襲、たび重なる課税、経済の停滞、社会福祉の弱体などなどの結果として、ローマ人は希望を喪失したのである。
「キリスト教の勝利の原因は、実はただ単に、ローマ側の弱体化と疲弊化にあったのである」

ローマ帝国とキリスト教の抗争にとってのとどめの一撃が、ローマの神々とキリスト教の神の性質のちがいだと、塩野七生氏は言う。
「キリスト教の神は人間に、生きる道を指し示す神である。一方、ローマの神々は、生きる道を自分で見つける人間を、かたわらにあって助ける神々である。絶対神と守護神のちがいとしてもよい。しかし、このちがいが、自分の生き方への確たる自信を失いつつある時代に生まれてしまった人々にとっては、大きな意味をもってくることになったのだ」
「他者の信ずる神まで認めることが信仰の真の姿だるとする考えに慣れていたローマ人にさえも、キリストの教えが魅力的に映るようになったのは、ローマの神々の立場が弱くなり、神々も疲れ、それゆえ自分たちを守ってくれる力がなくなったと人々が感じたからだと思う」

希望を失った人にとっては、自分の行動を自分の責任で選ぶよりも、超越的存在の命令に従うことを好むということなのかもしれない。
「キリスト教がその後も長きにわたって勢力をもちつづけているのは、いつまでたっても人間世界から悲惨と絶望を追放することができないからである」
だからローマ帝国全盛期のローマ人にはキリストの教えは必要なかった、と塩野七生氏は書く。

塩野説に従うなら、先行き不透明の現代において、アメリカではキリスト教福音派の信者が増えていること、イスラム国家で原理主義が大きな勢力となっていることは、ローマ帝国でキリスト教が国教となったことと無関係ではないかもしれない。
上坂昇『神の国アメリカの論理』によると、リベラルなプロテスタント主流派教会の多くは所属教会員数が減っている。
その一方で福音派は信者を増やし、
「毎週の礼拝参加者が一万人を超える教会をギガ・チャーチとしている。従来のメガ・チャーチは2000人以上とされる。アメリカの教会トップ100のうち、ギガ・チャーチに入るのは35もある」そうだ。
聖書の神話的記述を現代に生かすためにどう解釈するかなんて面倒なことよりも、原理主義者となってすべて文字通りの真実だと信じこむほうが楽なことはたしかだ。
といっても、自分の都合よくということだが。

たとえばイスラエルとアラブとの争いだが、アブラハムは神との契約で「カナンのすべての土地を、あなたとあなたの子孫に、永久の所有地として与える」(「創世記」)と言われた。
アブラハムには子供がなかったので召使との間に生まれたのがイシュマエル。その後、妻はイサクを生む。イサクの子孫がユダヤ人であり、イシュマエルの子孫がアラブ人である。
どちらも神から与えられた土地だとして自己の正統性を主張する。

地球温暖化についても、上坂昇氏によると、地球の平均気温が上昇していることを示す明確な証拠があるとアメリカ人の8割が認め、地球温暖化が深刻な問題だと考える人も8割。
しかし、白人エバンジェリカル(福音派)は「温暖化のたしかな証拠がある」は70%だが、「温暖化は人間活動の結果」と考える人は37%にすぎない。
聖書は不謬だと言いながら、自分の都合のいいように解釈しているにすぎないと異教徒の私は感じる。

で、イスラム教だが、どうして連戦連勝して、あっという間に世界帝国になったのか、そしてマレーシアやインドネシアといった中近東とはまったく異なる風土でも受け入れられたのか、そこらも不思議です。


クリスマスとサンタクロース

2009年12月23日 | キリスト教

ある人に「クリスマスケーキを食べるんですか」と聞かれ、「クリスマスケーキは食べませんが、ケーキはほいほい食べます」と答えた。
どうしてクリスマスにケーキなんだ。
私がクリスマス嫌いのせいかもしれないけど、クリスマスとかサンタクロースの映画はあれこれあるが、何か善意の押しつけみたいな感じがしていやだなと思うものが多い。
たとえば、子供にこびているとしか思えない『34丁目の奇跡』
(本物のサンタクロースだと自称する男をめぐる物語)とか。
クリスマスだからみんなが仲良くするというのは偽善ぽい。

町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』によると、クリスマス・ツリーはクリスマスと関係ないそうだ。
「イスラエルには樅の木は存在しない。ツリーは本来、北欧ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭りで飾られたのだ。だからイギリスからアメリカに来た清教徒たちはツリーを知らなかった」
「ツリーはドイツからの移民によってアメリカにもたらされたが、最初、清教徒はツリーを異教のものとして禁じていたのだ」
「さらに言えば、キリストの誕生日はいつかわからない。古代ローマ人はキリスト教化された時、太陽神ミトラスを祭る日だった冬至をキリストの誕生日とした」

サンタクロースだって聖ニコラウスのことだから、イエスの誕生日とされるクリスマスとは無関係である。

「サンタクロースもオランダ移民によってアメリカに輸入されたが、白い縁取りのある真っ赤な服という衣装は'30年代にアメリカで作られ、コカ・コーラの広告で一般的に認知された。赤と白ってコカ・コーラのシンボルカラーでしょ?」
知りませんでした。

クリスマスは異教と商業主義によって育てられた、100年も歴史のない祭りなのだとの
ことです。
釈尊の誕生を祝う花まつりのほうがよっぽど伝統のある行事なのに、花まつりケーキを食べる人は少ないのはなぜでしょう。


オリバー・ストーン『ブッシュ』2

2009年10月18日 | キリスト教

それにしても、アルコール依存症で、40歳ぐらいまでちゃんとした仕事をしていなかった人物がどうしてテキサス州知事となり、そしてアメリカ大統領になり、おまけに二期も務めることができたのか。
『ブッシュ』のエンドクレジットの一番最後、十字架がW(原題)になる。
のだろう。

ブッシュ前大統領は1985年にビリー・グラハム牧師と出会ってアルコール依存症を克服したそうだ。
アール・ハッド師という牧師が『ブッシュ』に出てくるが、おそらくビリー・グラハム師がモデルだろう。

で、ビリー・グラハム師についてレイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』にはこんなことが書いてある。
「道徳に関するビリー・グラハム理論では、犠牲者は犯した罪に対する責任を負ってその犠牲を担っているのだ、と考える。だから、黒人は、人種差別の罪を負っているし、北ベトナム人たち自身が、自分たちの国に破壊をもたらしたのだ。こうしたことはすべて、罪を犯した者が地獄を作り出す、という原理に基づいている」
どんな目に遭おうとも、それは因果応報だというわけである。
こういう発言をするビリー・グラハム師ではあるが、上坂昇『神の国アメリカの論理』によると宗教右派の中では穏健派だというのだから、頭が痛くなる。

上坂昇氏によると、宗教右派という言葉は、アメリカでも決まった定義がなく、保守的なクリスチャンやキリスト教右翼(右派)などを指すあいまいな表現だという。
ボーンアゲイン、福音派(エバンジェリカル)、その過激派ともいえるファンダメンタリスト(原理主義者、根本主義者)、場合によってはユダヤ教右派までもが含まれていることがあるそうだ。

宗教右派は、クリスチャン・シオニズムにおけるイスラエル支援、中絶の禁止、反同性愛の運動を共和党に働きかけることで実現しようとしている。

宗教右派の代表的な指導者がジェリー・ファルウェル師だった。
「ファルウェル師のファンダメンタリスト的な姿勢は、建国当時のアメリカの価値観をよみがえらせ、リベラル派が支配した1960年代から始まった伝統的価値観の崩壊を食い止め、公立学校での祈りを復活させ、妊娠中絶と同性愛を禁止することだった。ソ連の軍事力に対抗するために、アメリカの軍事力増強や核使用も辞さないという頑迷な反共主義者でもあった」

『ブッシュ』でも、父ブッシュの大統領選の際、子ブッシュが宗教右派の力を借りるよう父を説得するシーンがある。
どうして宗教右派が共和党を支配する勢力になり、大統領候補の指名や党綱領の採択などの重要な活動に多大な影響力を発揮できたのか、上坂昇氏はこう指摘する。
「その秘密は大統領選挙制度にある。たとえば、1998年大統領選挙の予備選挙の平均投票率はわずか19%であり、党員集会への出席率にいたっては3%にすぎない。つまり、アメリカの有権者は一般的に、本選挙では投票するが、それまでの党の活動には無関心である人が多い。熱心な活動家をもつ草の根の組織であれば、党の地方の代議員に選ばれ党大会に参加することは、それほど難しいことではない」

困ったことに宗教右派はハルマゲドンが起きると信じている人が多い。
「イエスと反キリストが対決するハルマゲドンが起こるかどうかに関する『ニューズウィーク』誌の世論調査では、起こると答えた人は、アメリカ人の成人全体では40%である。しかし、クリスチャンは45%、そのうちエバンジェリカルは71%である」
ブッシュ前大統領がイラクに侵攻したことを非難するより、核兵器を使わなかったことを喜ぶべきかもしれない。

ブッシュ前大統領は人から好かれるタイプなんだそうで、つき合ってみると面白い奴だろうなと、『ブッシュ』を見て思った。
それに、記者会見で「大統領としてどんな間違いを起こしたか」という質問に真面目に答えようとして答えにつまってしまうシーンが『ブッシュ』で描かれ、誠実な人柄だと感じさせる。
しかし、父ブッシュが「人間には器というものがある」と言ったと子ブッシュがつぶやくように、残念ながら大統領の器ではなかった。
『ブッシュ』を見て、麻生前首相がブッシュ前大統領とだぶってきた。


アメリカの保守派と福音派と政治と

2009年09月13日 | キリスト教

オバマ大統領に抗議デモ=保険改革反対の保守派-米首都
オバマ米大統領が目指す医療保険改革に反対する保守派が12日、全米から首都ワシントンに集結し、抗議デモを行った。米メディアによると、参加者は1万人以上。連邦議会議事堂前は「大きな政府はいらない」と訴える人々で埋め尽くされた。
参加者は「わたしの保険に手を出すな」「オバマ大統領は社会主義者だ」などと書かれたプラカードや横断幕を掲げ、首都の目抜き通り「ペンシルベニア通り」を議事堂に向かって1時間以上にわたって行進した。
時事通信9月13日
うーん、このデモに参加している人たちは保険に入っているんだろうけど、マイケル・ムーア『シッコ』を見ていないんだろうか。

アメリカの保守派の多くはキリスト教福音派。
キリスト教福音派はアメリカ人の3分の1を占める。
キリスト教福音派はマイケル・ムーアの映画なんか見ないと思う。

町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』はアメリカ在住の著者が見聞したコラム集。
町山智浩氏によると、2006年に18歳~24歳のアメリカ人に対して行なった調査では、88%は世界地図を見てもアフガニスタンの位置がわからず、63%はイラクの場所を知らなかった。
パスポートを持っているアメリカ人は国民の2割。
外国のことだけではなく、アメリカ人はアメリカ国内のことすら無知である。
ナショナル・ジオグラフィックの調査によると、アメリカの地図をみてニューヨーク州の場所を示せない者が5割いる。
アメリカが日本に原爆を投下した事実を知っているアメリカ人は49%にすぎない。
アメリカの成人の2割は太陽が地球の周りを回っていると信じている。
テレビや新聞のニュースを見ない人が多く、18歳から34歳のアメリカ人で新聞を読むのは3割に満たない。
「主流メディアや知識人はブッシュ政権の過ちを批判し続けたが、まったく一般には届いてなかったのだ」
まして、ブッシュを批判したマイケル・ムーア『華氏911』がカンヌでパルムドールをとったなんてアメリカ人の多くは知らないと思う。

どうしてアメリカ人はそんなに無知なのだろうか。
「アメリカ人は単に無知なのではない。その根には「無知こそ善」とする思想、反知性主義があるのだ」
「歴史学者リチャード・ホフスタッターは、アメリカ人の知識に対する反感の原因のひとつにキリスト教福音主義を挙げている。福音主義とは、福音、つまり聖書を一字一句信じてその通りに生きんとする、いわゆるキリスト教原理主義のことで、自らを福音派とするアメリカ人は全人口の3割を占めている。彼らにとって余計な知識は聖書への疑いを増すだけであり、より無知なものほど聖書に純粋に身を捧げることができる」

まあ、それだけなら個人の考えと言いたいところだがそうはいかない。
「100万を超える自宅学習家庭のうち75%がキリスト教原理主義だ。高等教育を受けていない親が子どもを教え、それが下の世代に継承されていく。アメリカの一流大学の理系学生の半分以上がアジア系かアジアからの留学生になってしまった原因のひとつだ」
アメリカの大学で博士号を取得する者の4割が海外出身者で、2010年には7割を超えるそうだ。

いくらなんでもニューヨーク州の場所を知らない人が5割、天動説を信じている人が2割もいるなんてほんまかいなと思ったのだが、現実は以下の通りでした。
ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。
時事通信9月13日
そういう状況なのである。

問題は、こうした聖書に書かれてあることは100%正しいと信じ込んでいて、世界のことに関心を持たない人たちがアメリカの政治を動かしているということだ。
「福音派は元来、俗事にすぎない政治には関心が薄かった。それが強力な票田になることに気づいたのは共和党だった」
福音派の78パーセントが投票に行く。
「1980年の大統領選挙で、共和党は伝統的モラルへの回帰を唱えて彼らを取り込み、以後、福音派は共和党の強力な支持基盤になった」

町山智浩氏は「アメリカに住んでみて、とにかく驚くのは右翼コメンテーターたちの口汚さである」と言う。
「人口の2割もいない黒人の権利なんか無視しろ」
「不法移民は機銃掃射で皆殺しにしろ」

福音派も負けていない。
「アメリカはイスラム教国に攻め込んで、指導者たちを皆殺しにし、国民をキリスト教に改宗させなくちゃ」
「地球温暖化はリベラルが作ったウソなのよ」
「進化論は悪魔の嘘」
「中絶は殺人」
「ゲイは地獄に行く」

そして、「オバマはイスラムのスパイだ」というデマ。
「キリスト教右翼の父」と呼ばれるフォルウェルという牧師は「政治と宗教の分離は悪魔の計略だ。アメリカの国政は我々キリスト教徒がコントロールすべきだ」と公言していたそうで、フォルウェル牧師の支持がないと共和党候補は大統領になれないわけで、アメリカも宗教国家なんだなと思う。
イスラム国家のことをあれこれ言えない。

「その他、アメリカ人の時事問題への無知の原因には、右派メディアの暴走や、教育の崩壊などいろいろな理由があるが、とにかく、ニュースを知らない人たち、外国に興味のない人たちによって大統領が決定され、その大統領が無茶な戦争を起こし、デタラメな政策で経済メルトダウンを起こして日本や世界を巻き込んでいるわけで、この不条理には、もはや笑うしかない」

そうは言っても、オバマを大統領にしたアメリカはやはり大したものである。
在日の人や被差別出身者が首相になる日はまだまだ先だと思う。
それに右翼の差別的発言は日本だって負けてはいないし、環境問題でも鳩山代表の「温室ガス25%削減」発言に、読売新聞や産経新聞は批判的というか、まるでブッシュである。
こういう点でアメリカに追随してどうするんかいなと思う。


ガス・ヴァン・サント『ミルク』と創造論者

2009年04月28日 | キリスト教

ガス・ヴァン・サント『ミルク』を見る。
今年のベストテン候補である。
ハーヴェイ・ミルクは1977年にサンフランシスコ市の市会議員に当選した。
ゲイであることを公表して当選したアメリカで初めての公職者である。
しかし、1978年に同僚議員によって市長とともに射殺された。
70年代には同性愛は病気であるとされ、同性愛を理由に職業を解雇されることも珍しくなかった。
カリフォルニア州議会議員ジョン・ブリッグスは、カリフォルニア州内の公立学校から同性愛の教師および同性愛者人権を擁護する職員を排除するという提案をする。
ハーヴェイ・ミルクたちはそれに反対し、提案は住民投票によって否決された。
ブリッグス議員は「同性愛は違法にすべきだ」とも言っている。
同性愛者には公民権を認めないという動きはアメリカ各地で行われていて、その運動の広告塔が歌手のアニタ・ブライアントである。
なぜそんなに同性愛者を嫌うのかというと、神が認めていないからという理由。

で連想したのが、マイクル・シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』に詳しく書かれている、創造論者が創造科学を公立学校でも教えるべきだという運動である。
これはアニタ・ブライアントたちが同性愛者の人権を奪おうとする動きと軌を一にしている。

創造論者とは?
「一般的に、創造論者というのは、聖書の記述をそのまま受け取っているキリスト教原理主義者を指す―たとえば創世記に天地創造が六日間の出来事だったと書かれていれば、それは24時間の六日分を意味する。当然ながら、さまざまな種類の創造論者にわけることができる。「若い地球」派は、創造の一日は24時間だったと解釈しているが、「老いた地球」派は、聖書の時間の流れは地質学的な時代のたとえだという説をすんなり受けいれている。また隔絶派ともなると、最初の天地創造と、人類や文明の発生のあいだには時間的な隔絶があると認めている」

そういう人がいるんだなという話ではない。
「1991年のギャラップ調査によれば、アメリカ人の47パーセントが、「過去一万年以内に、神がいまとそっくりの人類をつくった」と信じているという。また、「人類は原始的なレベルから数百万年以上の時間をかけて進化してきたが、その創造を含めて、すべての流れは神によって導かれたものだ」とする中道的な意見は、40パーセントを占めていた。わずか9パーセントの人々だけが、「人類は原始的なレベルから数百万年以上の時間をかけて進化してきた。神はそこになんら関与してはいない」と信じている。そして残りの4パーセントは「わからない」と答えている」

1996年、ヨハネ・パウロ二世でさえ、進化論を動かしがたい自然界の理法だと認め、科学と宗教には争いなどないことを示している。
なのに、アメリカ人の87%が創造論者とはとてもじゃないけど信じられない話である。
こんなことをまともに信じているのはエホバの証人だけではないわけだ。
アメリカでは、イエスを救世主として認める者のみが救われ、あとは永遠に地獄で苦しむと信じているキリスト教徒がほとんどだということになる。

なぜ進化論を嫌うのか?
「アメリカの道徳観と文化をおとしめるあらゆるものの根源であり、ゆえに子供に悪影響をおよぼす」
さらには
「科学的事実の進化論的解釈が結果として、法と秩序の大規模な退廃をまねいたことを明らかにしている。その因果関係は、進化論的な思考様式をもった人々の一部に生じる、健全な精神にやどる道徳観の崩壊と幸福感の喪失が源となっている。すなわち、離婚であり、妊娠中絶であり、氾濫する性病などがそうだ」

「進化論は、人間至上主義の悪の部分、つまりアルコール、妊娠中絶、カルト、性教育、共産主義、同性愛、自殺、人種差別、猥褻な書籍、相対主義、麻薬、道徳教育、テロ、社会主義、犯罪、インフレ、非宗教主義、そのうえいちばんの悪徳であるハードロック、そしてじつにけしからん子供と女性の権利の容認といったものとともに滅びるべきだ」
アニタ・ブライアントたちが同性愛者の人権を認めないのは別に驚くことでもないのである。

1923年、オクラホマ州は教師や教科書が進化論にふれないという条件のもと、無料の教科書を学校へ配布する法案を可決し、フロリダ州は進化論教育禁止令を可決した。
1925年、テネシー州は州内のあらゆる大学、公立学校で教師が神による人類創造を否定するいかなる説を教えることも違法とする法律が可決された。
「創造論者の言い分によれば、進化論に基準をおく生物学を認めないだけでなく、初期の人類の歴史にほとんど触れることもせず、宇宙論や物理学、古生物学、考古学、地質学、動物学、植物学、生物物理学の大半を否定しているのだ」

こんなことでは科学教育の水準が低下してしまう。
1957年、ソ連の人工衛星打ち上げがきっかけとなり、アメリカでは科学教育振興の動きが起こり、進化論も学校教育の場に復活した。
原理主義者たちは公立学校から進化論を排除しようとしたが、進化論を教室から閉めだせなかった。
1960年代末から70年代初頭にかけて、原理主義者は創世記の記述と進化論に同等の授業時間をさくことを要求し、進化論は事実ではなく単なる仮説にすぎないと記載されるべきだと主張した。
宗教上の教義を教えることが憲法違反となれば、公立学校に入り込むために創造論は科学であると主張され、創造科学は「宗教色のない科学的証拠にもとづいている」から進化論と同じように授業で取りあげらるべきだと圧力をかけつづけた。
1981年アーカンソー州で、1982年ルイジアナ州で、「創造科学と進化論は学校教育の場では平等なあつかいを受ける」ことが法律で定められたが、どちらも憲法違反であるという判決が出ている。
1986年、ルイジアナ州の「創造科学と進化論の均等教育法」の合憲性の判断が最高裁で行われ、違憲判決が出た。
アメリカの驚くべきところは、こういうトンデモを信じる人がいかに多くても、また差別や迫害を善意でする人が多くても、『ミルク』のような映画がハリウッドで作られ、アカデミー主演男優賞をとるということである。