高島田(たかしまだ)署の取調室である。通報のあった日の夜は雨が降っていた。害者は祝(いわい)という中年男だった。捜査一課の老刑事、文金(ぶんきん)は手持ちの鏡と櫛(くし)で頭髪を撫(な)でつけながら、参考人で呼ばれた目撃者の和式(わしき)と対峙(たいじ)していた。
「害者が転んだのを見られた訳ですね?」
「はい。ものの見事にスッテンコロリと…」
「ということは、本人の過失による事故だと言われるんですね?」
「はい。まあ…。なにぶん距離があったもんで、しかとは断言できませんが、ご本人以外、人影はなかったと記憶しております…」
「そうですか! いや、お手間をおかけいたしました。今日のところはお引取りいただいて結構です。また、なにかありましたらご連絡を差し上げます」
文金は櫛で髪の毛を撫でつける仕草を止めることなく、器用に語った。一礼して和式が取調室を出たあと、文金は櫛を背広の内ポケットへ仕舞い、あんぐりした顔で立った。
「文さん、やはり事故ですかね?」
若手刑事の仲人(なこうど)が後ろから文金を窺(うかが)いながら言った。
「まあ、今の話からするとな…」
「しかし、あんなところで転びますかね、フツゥ~」
「目撃者が転んだと言ってるんだから、転んだんだろう」
「あっ! 病院から電話が先ほどありました。害者…というか、転倒者の意識が戻(もど)ったと」
「ほう、それはよかった。やはり事故かねぇ~」
「ええ…。聞き込みでは憎まれているような人物ではないですからね。傷害事件とは考えにくいですよね」
「火葬場へ着く前に霊柩車の運転手が転んで死んじゃ、ははは…笑い話だ」
「あの世が困りますよね」
仲人も笑った。
次の日である。高島田署の捜査一課に記憶が戻った病院の祝から電話が入った。私が不注意で転んだ・・という電話だった。
「そうですか…」
一課長の大安(たいあん)の報告に、文金は予想通りだ…とばかりに、攣(つ)れなく返した。すでにこのとき、文金と仲人は、そんな一件に付き合っていられない・・とばかりに、別の事件捜査にかかっていた。
完