薄汚れた段ボールが雨風に耐えられず、いつの間にかところどころに穴が開(あ)くようになっていた。家とは名ばかりの、段ボールで作った住処(すみか)を塒(ねぐら)とする船頭(せんどう)はボリボリと身体を掻き毟(むし)った。そういや、お湯というものに浸(つ)かったのは三ヶ月ほど前だったな…と船頭は思い出した。浸かったとはいえ、それは銭湯とか風呂のお湯ではなく、偶然、街で貰(もら)ったオープン記念のサービス券でのお湯だった。その券で入った温水プールのお湯は幾らか高めの水だった。それが船頭にとって最近、使ったお湯である。快適な入浴の記憶といえば、20年以上前にも遡(さかのぼ)らねばならない船頭だった。
ボリボリと身体を掻きながら、ただ券を拾った記憶を船頭は思い出していた。脳裡(のうり)に浮かんだのは、何か、いいことは? と思いながら歩いていたことぐらいだった。ふと、船頭にある思いが浮かんだ。何か、いいことは? と思ったから拾った…いや、いやいやいや、そんなことはない。あれは単なる偶然だったんだ…と船頭は、また思った。
気づいたとき、船頭は何か、いいことは? と思いながら街を歩いていた。すると、風に飛ばされた一枚の宝くじ券が、舞いながら船頭の目の前へと現れた。どうせハズレ券だろう…と思いながら、船頭はその券を手にした。
数日後、船頭は宝くじ売り場の前で驚いていた。拾った券が最高額の当たり券だったのである。これは!…と船頭は、しばらく身体が震え、地面へ腰を崩(くず)したままだった。何か、いいことは、あったのである。もはや偶然だとは船頭には思えなかった。
気づけば、船頭は交番にいた。
「書類はこれで結構です。3ヶ月経てば、あなたのものです…」
巡査は船頭が発する臭気に顔をそむけながら、嫌(いや)そうな顔で言った。
半年が経ったとき、船頭は豪邸で執事を侍(はべ)らせ、自家製の温泉にゆったりと浸かっていた。人間の業欲とは、とどまるところを知らない。船頭は、また街を、何か、いいことは? と思いながら歩いていた。その姿は、誂(あつら)えた超高級服と特注の靴だった。そのとき船頭は突然、後方から近づく猛スピードの車に轢(ひ)かれた。即死だった。船頭は黄泉(よみ)の国でも道をひたすら歩いていた。何か、いいことは? と思いながら…。
THE END
会員制の超高級一流レストランである。小じんまりした店内へ、さも当然のように入ってきたのは財閥総帥の会長、福山だった。
「あんたね!! こんなとこで待たせて、困るじゃないかっ! こう見えても私ゃ会長だよっ!!」
「はあ…そうは言われましても規則は規則なんで…」
店員の矢島は、偉(えら)い客に捕(つか)まったな…という萎(な)えた顔つきで福山をチラ見した。
「私だよ! わ、た、しっ! 知らないか? 私を!」
「はあ…申し訳ないのですが、存じ上げておりませんので…」
「困った店員だ! 店長は。おらんのかね?!」
「はあ…生憎(あいにく)、ミシュラン関係の会合で出かけておりまして…」
「シェフは!?」
「はあ…食材の交渉で、つい先ほど出かけました…」
それを聞いた福山は小さく舌打ちしたが、ナメクジのように萎えた矢島を見て、『大人げない、少し興奮し過ぎたか…』と瞬間、思った。
「君に言っても始まらんな。水を一杯、くれたまえ」
「分かりました…」
一端、厨房へ下がった矢島は、水の入ったコップを持って、すぐ現れた。福山はそのコップを手にすると、いっきに水をガブ飲みした。
「…あのう、誠に申し訳ないんですが、どちらさまで?」
飲み終えた福山の顔を見ながら矢島は怖々(こわごわ)、訊(たず)ねた。
「私か? ははは…『問われて名乗るも、おこがましいがっ』。…福山だよ」
福山は好きな歌舞伎の台詞(セリフ)の一節を唸(うな)り、僅(わず)かな間合いのあと、やんわりと名乗った。
「待ってましたっ! ○○屋っ!!」
矢島も歌舞伎ファンだったから、間髪いれず唸った。その瞬間、福山の態度が一変し、笑みが漏れた。
「ほう! 君も歌舞伎好きと見えるな…」
「はあ、まあ…」
「そうかそうか…。いや、なに。いつでもいいんだよ私は。また、出直すとするか…。これ以上いるのも、おこがましいからな。ははは…また、来る!」
福山は上機嫌で店を出て言った。矢島は福山が何をしに来店したのか結局、分からなかった。
THE END
田所進は疲れていた。昨日は昨日で疲れていたが、今日も今一、シックリしなかった。体調が悪い訳でもなく至って元気な田所だった。それが、ひょんなことで多忙となり、今では疲労が取れなくなるまで深刻な状態だった。会社に酷使されている訳でもなく、その多忙感は田所のメンタル的なものだったのだが、彼自身にはそう思えず、溌剌(はつらつ)と勤務する他の者が怨(うら)めしく思えたりもした。そうはいっても、どうなるものでもない。結局、一人暮らしの生活は、諸事を割愛(かつあい)する形に変化させざるを得なくなっていった。『まあ、いいか…』と言う心の声が日常となった。カップ麺のゴミが山のようになって散乱したが、田所にゴミを捨てに出る元気はもうなかった。目に見えるのだから、捨てに行かねば…とは思えた。幸い、ゴミ袋に入れる気力は残っていたから、田所はその中へカップ麺の容器の山を入れた。そこまではよかった。しかし、何も解決されてはいなかった。相変わらずゴミ袋の山が部屋中を囲んでいた。『まあ、いいか…』と田所は思った。田所はそのとき、いいアイデアが浮かんでニンマリと笑った。
━ そうだ! ベッド代わりにして、この上で寝ればいいじゃないか… ━
そう思った田所は、その夜、そうした。
朝になったとき、田所にはもう会社へ出勤する気力が残っていなかった。
「あの…田所です。体調が悪いんで、すみませんが今日は休ませてもらいます…」
残された気力で、田所は会社へ携帯をかけていた。
「ああ、田所さん? 課長にはそう言っておきます。お大事に!」
「なんだ、畑山か。頼んだぞ…」
「はい!」
上手(うま)くしたもので、後輩の畑山が電話に出てくれ、田所は事なきを得たはずだった。ところがどっこい、悪くしたもので急に悪寒に襲われ、田所は意識が遠退いた。遠退く意識の中で、田所は『まあ、いいか…』と思った。
気づくと、田所は自分の写真が安置された祭壇を眺めている自分に気づいた。僧侶の読経の声が流れ、自分の横には後輩の畑山が座っている。田所は畑山の肩を手で押した。
『おい! 俺だ、畑山』
しかし、畑山は気づかないまま、気落ちした顔で座っていた。『妙だな?』と田所は思った。それに畑山を押した手の感触がなかった。田所は、俺は死んだのか…と気づいたあと、『まあ、いいか…』と思った。
「ぅぅぅ…、田所さん! ゴミ袋の片づけ…大変だったんすよっ」
畑山の半泣きで小さく呟(つぶや)く声がした。田所は、『そっちかい!』と怒れたが、そのあと『まあ、いいか…』と、また思った。
THE END
あとがき
読者諸氏には、お恥ずかしい小説を披歴してしまい、誠に申し訳なく思っている。ただ、宇宙には人智の及ばない現象が必ず存在する・・と、私は確信している。人は地球科学ですべてを理詰めで論じ、定義づけてはいるが、それらは宇宙全体では成立しないのではないか? とも考える。かつて、天動説が、さも当然のように唱えられたが、それも時代が進むにつれ否定され、今日では、まったく通用しない。はたして、広大な宇宙の果てはあるのだろうか? その先はどうなっているのか? 現代の地球科学をしても、こうだ! とは、誰も解き明かし、断定し、証明することは不可能だろう。すべては、地球に息づく我々人間が、地球科学の常識として宇宙を考察した推論に他ならない。銀河系星雲の地球では肯定されても、異次元や宇宙全体では成立しない理論かも知れないのである。地球で息づく我々の人間世界は、まあ、そんなものだ・・と、お考え戴き、軽くお読み願えれば有り難いと思う次第である。
水本爽涼
[日々、生じる問題がすべて解消する日・・それは、高度な文明を誇る我々、星団をもってしても解けない。その解決の糸口が半異星人である城水、お前にあるのではないか・・と我々は見ている。だから、お前達の協力が必要となる。宇宙のため、ひいてはこの地球、そしてお前達が救われるためにもこの時間に日参して貰(もら)いたい]
そして次の日から、来る日も来る日も城水家三人による坂の下への日参が始まった。時間は日付が変わる午前0時前である。雄静(ゆうせい)も少しずつ馴れ、日常、くり返される生活の一部として愚痴らなくなった。それどころか、むしろ誇(ほこ)らしげに登校していくのだった。宇宙の存亡を僕が担(にな)っている・・という他の者達には想像できない壮大な使命感がそうさせていた。城水や里子もまた、そうだった。いつも坂の下で待ち続ける城水家の諸事情とは、異星人達の諸事情に他ならなかった。
今日も城水家は坂の下で待ち続けている。
完
そんな馬鹿な話はない! それが異星人達にどのような諸事情があるとしても、だ! と、益々、城水の怒りは増した。脳内数値は興奮度を危険と判断し、WARNINGの赤色文字を城水の脳内で輝かせ始めていた。
「馬鹿にしてるわねっ! 私達をいったいなんだと思っているのっ!」
怒っているのは城水だけではなかった。里子は城水以上に憤慨(ふんがい)していた。
「そうだよ! 僕ん家(ち)を馬鹿にしてるっ!」
雄静(ゆうせい)も里子の手下になって怒った。城水に二人を宥(なだ)める術(すべ)はなかった。そのとき、城水は俄(にわ)かに耳鳴りに襲われた。そして、耳鳴りが治まったとき、指令からのテレパシーが聞こえた。
[城水よ、まず、家族と手をつなげ。そうすることにより、私の声が家族達にも届(とど)くだろう…]
城水は指示されるまま、真中に立ち、両手で二人の手を握った。
[お前達を馬鹿にしている訳ではない。これは偏(ひとえ)に、我々の諸事情によるものだ。納得がいかないだろうから、その諸事情を説明しておこう]
勝手なものだ…と思えたが、城水としては聞く他はなかった。
[世界各地で日々、頻発(ひんぱつ)する我々の地球上での環境不適合問題が、お前達家族の移送を困難にしているのだ。我々は日々、その問題解決に力を費やさねばならず、計画は大幅に遅れている。だが、この計画はすでに始動しているのだ。今、計画を停止すれば、宇宙は崩壊し、無と帰すことになる。それだけは、宇宙全体の代表としての使命を担(にな)った我が星団として、何が何でも阻止(そし)せねばならない]
その声は里子や雄静にも響いて聞こえた。声は続いた。
深夜、昨日(きのう)の夜と同じように城水家の三人は坂の下のマンホールまで車で向かっていた。交番日直は藻屑(もくず)巡査ではなく、交替した若芽(わかめ)巡査が、やはり昨夜と同じように机の上へ上半身を預け、ウトウトと眠っていた。
「ははは…また、眠ってるよ」
雄静(ゆうせい)が車窓から交番を見ながら、賑(にぎ)やかに笑った。里子も釣られて笑ったが、城水の胸中は、それどころではなかった。また明日も待ち続けることになるのではないか…という一抹(いちまつ)の不安が過(よぎ)ったからである。城水の不安はピタリ! と的中した。城水がそう思った直後、地球外物質が緑の光を発し、城水のポケットで点滅した光を発し始めたのだった。
[申し訳ないが、また新(あら)たな事情が生じた]
地球外物質は、幾らか小さな響きで三人に聞こえる直接の音声を発した。
[ということは、中止なんだな!]
城水は、すでに怒れていた。
[ああ、そういうことだ。また明日も来るように…]
多くを語らず、地球外物質は即座に緑の光を消した。城水の詰問(きつもん)を予見し、未然に防いだ感があった。城水は、またかっ! と怒りがいっそう増した。だが、その怒りを向ける矛先(ほこさき)が城水にはなかった。いや、むしろ逆に、里子や雄静から毛嫌いされる心配も城水にはあるのだ。二人とも地球外物質の声を聞いたのだから、まあ嘘、馬鹿扱いされることはないだろうが、日々、連続での深夜の日参はとても頼めたものではなく、憚(はばか)られた。これでは城水家の全員が、異星人によって好き勝手に操(あやつ)られていることになる。
「なんだ…」
がっかりしたような雄静の声がした。その声を聞き、明日の夜は里子と二人で出ることによう…と城水は思った。というのも、明日は日曜から月曜になる深夜なのだ。また何も起こらなければ、雄静(ゆうせい)の登校にさし障(さわ)ることになる。自分は寝なくてもなんとかなるが、小学生の雄静には、さすがに堪(こた)えるだろう…と思えた。脳内数値もそれがほぼ正解という97%の数値を示した。
朝が明け、城水は里子にそう言った。
「そうよね…。私とあなたで確認してから、アチラに待ってもらえばいいじゃない!」
里子の恐怖心は完全に消え、開き直ったような言葉が口から出た。雄静は睡眠不足からか、九時過ぎに起きてきた。城水と里子も睡眠不足だったが、そこはそれ、大人である。いつもどおり起きていた。一日は何事もないまま、ただなんとなく流れ、また夜が巡った。
「ゆうちゃん、今夜、あなたはいいから、いつもどおり寝なさい」
「でも、パパとママは行くんでしょ、昨日(きのう)の夜みたいに…。僕だけ、おいてけ堀は嫌だよ!」
雄静はテレビの講談で聞き覚えた『おいてけ堀』を上手く使って言った。城水と里子は互いに顔を見合わせて笑いながら、それもそうだ…と思った。よくよく考えれば、万一、その場で移送となれば、雄静とは二度と会えなくなる。学校は遅刻か休み届で、一日くらいなんとでも出来るのだ。
[そうね…。ゆうちゃん、離れ離れは嫌だわよね」
[よし! 雄静も来なさい。三人がいいよな]
城水は意識的に明るく言った。
城水は、妙だな? と感じた。脳内数値も、予測不能の確率を70%の数値で示した。数分後、城水の背広のポケットに入れた地球外物質が、暗闇の中で緑色の光を点滅し、輝き始めた。
━ 異常事態が発生した。その事情により、今日の移送は中止される。明日の夜、もう一度、ここへ来てもらいたい ━
三人に聞こえる音声を発し、地球外物質はそう伝えるとすぐに光を消した。城水は、どういう事情が出来たのか知らんが、勝手なもんだっ! と、少し怒れた。こんなことなら、家族を連れて態々(わざわざ)、深夜に出る必要はなかったのだ。里子や雄静(ゆうせい)に申し開きできないではないか…。城水の怒りは、いっこう鎮(しず)まらなかったが、そんなことを言っても仕方がない・・とも思え、我慢した。
[この時間に明日(あした)もう一度、来ればいいんだな?]
城水は里子や雄静にも聞こえるよう、声を出しながらテレパシーを送り返した。
━ ああ、そういうことだ ━
地球外物質は短く返答すると、緑色の点滅を消し始めた。
[待ってくれ! 今度は間違いないんだな]
━ 新(あら)たな事情が生じない以上、大丈夫だろう ━
[だろう?! って、確定ではないのか]
城水は諄(くど)く訊(き)いた。
━ グチャグチャと五月蠅(うるさ)い奴だ。私にそんなこと、は分からん! ━
地球外物質は怒りのあまり、切れたように突然、パッ! と光を消した。
[二人とも、聞いてのとおりだ…]
城水は里子と雄静に、そう言う他はなかった。
その解答とは、諸事情が異星人達が地球上で生存する上で生じる種々の環境不適障害である・・というものだった。城水にその兆候が現れないのは、城水の身体が人間の部分を残した半異星人だから・・という。そうなのか…と城水は思いながら、いつしかウトウトと灯りをつけたまま微睡(まどろ)んだ。
「あなた!! 起きてっ! 時間よっ!!」
里子に揺り起こされて城水は目覚めた。腕を見ると、指示された日付が変わる午前0時には、まだ小一時間あった。
[雄静(ゆうせい)は?]
「さっき、起こしたからもう起きてくると思うわ…」
里子は冷静に言った。その言葉どおり、しばらくすると雄静が眠い目を擦(こす)りながら居間へ現れた。
「この前、天体観測で、これくらいに起きたことがあったよ」
雄静の呑気(のんき)なひと言に、城水は少し心が和(なご)んだ。これから起きようとしていることは、城水がいまだ体験していない未知への恐怖である。ただ、半異星人化している分、恐怖心は脳内数値によりある程度は解(ほぐ)されていた。
外は漆黒(しっこく)の闇(やみ)が支配する深夜だった。物音一つしない中、城水は里子と雄静を乗せ、車を始動した。坂の下まで下ると、案の定、交番には藻屑(もくず)巡査のウトウト眠る姿が垣間(かいま)見えた。地球外物質が言ったとおりだ・・と、城水は車窓に映る藻屑巡査の姿を見ながら思った。
指令の時間、三人はマンホールの横に立っていた。幸い、寒くはなかったが、時折り、犬の遠吠えする声が聞こえた。そして、城水が腕を見たとき、ちょうど日付が変わった。だが、辺りには何の変化もなかった。