水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

残月剣 -秘抄-《旅立ち》第十二回

2009年02月28日 00時00分00秒 | #小説

     残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第十二回

 なんとも妙な節回しの掛け声を、辺りの屋敷内に振り撒きながら、冷し飴の入った屋台風の桶を肩に担う行商人の姿が、常松の両眼へ飛び込んだ。
 常松が如何に賢明だったとしても、やはり、子供であることに変わりはない。
「そこのお方、一杯、所望する…」
 と、常松は、思わず声をかけてしまった。
「おう、お坊ちゃん。四文ですよ。今、椀に入れさせて貰いやすから…。ここで飲んでいきなさるかい?」
 常松は、素直に首を縦に振った。歳の頃なら三十を少し出た頃の気っ風のいい男は、担っていた桶を地に下ろして、常松に振り向きながら、そう云った。常松は、使いの銭とは別の、首に巻いた布巾着から四文を出して、行商人の男に手渡した。この時、常松は、この事をそう深くは考えていなかった。ほんの使いの駄賃ほどの事…と、捉えていたのである。
 蝉が、やけに騒がしく鳴いていた。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第十一回

2009年02月27日 00時00分00秒 | #小説

      残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第十一回

 今朝の源五郎が、母の去った後、顔を一瞬、顰(しか)めたのを見た常松である。二つ違いで、こうも違うのか…と、少し兄が気の毒でもあった。
  市之進が昌平坂の御学問所へ通っているとはいえ、本人に有能な才があり、天運に恵まれれば出世が思うまま…という時代ではない。常松の父が七十俵五人扶持の定町廻り同心であり続ける以上、市之進もまた、御家人株を守り、父の名跡を継ぐより他はなかった。無論、出世に見合う働きをし、家を繁栄させる為の肩書きほどにはなるであろう。江戸の時代とは、そういう時代であった。どちらかといえば、頭でよりか、技巧の叡智が、立身出世を容易にした時代でもあった。技巧の叡智…これには常松が父に認められた剣の才も入る。無論、芸事や様々な職人達の技術も含む訳だ。
 常松が八歳となった真夏の昼下がりである。通りの辻を掛け声を響かせ、行商人が通った。常松は、母の使いで、豆腐一丁を買いに、同心長屋を飛び出したところだった。
「冷~~し飴、冷し!!  甘~~い、冷しぃ~!」


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第十回

2009年02月26日 00時00分00秒 | #小説

     残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第十回

 社(やしろ)の樹々の上には、蒼く晴れ渡る空が深々と澄んで、天を覆っている。そして、辺りの其処かしこには、晩秋の芳しい香りが影を潜めて漂っていた。公孫樹(いちょう)の葉が、一枚、また一枚と誰の指図を受けるでもなく、垣根越しに庭へ落ちていた。源五郎、九歳、常松が七歳の秋であった。
 父の清志郎は、市之進が御学問所に通うことを少し楽しんでいるところがある。奉行所仲間に吹聴し、称賛を浴びるのが自慢なのであろう。人が変わったように、「ははは…そうなのですよ」と笑顔で話する父 を常松は見たことがある。確かに昌平坂御問所は当初、旗本の師弟を対象として開設されたのだが、市之進のような一般武士の子息もいたし、また、庶民の子供も通うことが許される時代であった。七歳の常松から見れば、十歳違いの兄は、もう充分に大人の風格があった。体躯だけではなく、思慮や父と母に接する態度なども全く話にならないと思えた。また、常松は、兄が御学問所へ通っていることで、自分も勉学に励めと諄く云われぬことに安堵していた。その点、二つ歳上の源五郎は、この日の朝にも掃除の後、蕗にそのことを云われていた。自分だけが、父にも、そして母にさえ何も云われぬことに、最初の内は怪訝に思えた常松であったが、二年も経つ今では、むしろ気楽に構えられ、また心が休まるのだった。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第九回

2009年02月25日 00時00分00秒 | #小説

      残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第九回

 父も奉行所へと出て、残った源五郎と常松は、日課の拭き掃除をする。これは、手足の鍛錬になるだけでなく、咄嗟(とっさ)に判断して動くための訓練にもなるのだ。また、廊下の雑巾掛けなどは、集中力を養うのに好都合である…とは、父、清志郎の言葉であった。
 長廊下を…とはいっても、同心長屋の一所帯に過ぎないのだから、そう長くもないのだが、その廊下を兄と雑巾掛けで走る心地よさは、表現しようにも表現出来ぬ爽快感があると思う左馬介であった。幾度も廊下を往き来していると、
「そう何度も拭かずとも、よいのです。もう充分に綺麗ではありませぬか」
 と、蕗が顔を出して二人を窘(たしな)めた。よく見れば、確かに、一寸の曇りもない黒艶の光沢である。二人は仕方なく、拭く仕草を止めた。
「庭の掃除を、やっておしまいなさい。裏の社(やしろ)の公孫樹(いちょう)の葉が、随分と落ちておりましたよ」
 そう云い置くと、蕗は勝手口の方へと立ち去った。二人は黙ったまま徐(おもむろ)に公孫樹のある方角の空を見上げた。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第八回

2009年02月24日 00時00分00秒 | #小説

     残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第八回

 市之進は箱膳を持つと勝手口へ行き、食後の椀や皿の類(たぐい)を流し近くへ置く。そうして、箱膳だけを水屋の中へ収納する。勿論、その置く位置も定まっていた。誰が決めたという訳ではないその位置関係が、妙に家族の絆を彷彿とさせた。源五郎は父と常松が席に着く迄の間、じっと正座のまま待っていた。ということは、父と弟、そして母の蕗が席に着くまで、兄が食事をする姿を、じっと何もせず見続けていた、ということになる。
「待たせたな、源五郎!」
 父がそう放って席へと着く。先程まで市之進が座っていた場には常松が座る。遅れて蕗が席へと着き、四人の朝の食事が始まる。
「父上、母上! それでは行って参ります」
 市之進は、いつもこの時分(じぶん)に家を出ていた。
 部屋の襖を少うし開け、清志郎と蕗に座して軽く会釈をする。皆、それを知っているから、軽く頷くのみで、敢えて語りかけようとはしない。市之進の方も、取り分けて言葉を貰おうなどとは思っていない。逆に声を掛けられれば、またそれに返答せねばならなくなるから、結果、家を出る刻限が遅れる。それが返って迷惑なのだ。また、そのことを、残った家族四人も分かっている。特に清志郎と蕗は、親の情として、早く家を出させたい故に、充分過ぎるほど分かっていた。要は五人が、家族という眼に見えぬ絆で結ばれていたのである。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第七回

2009年02月23日 00時00分00秒 | #小説

      残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第七回

「はい。それはそうなのでしょうが…」
 今ひとつ 、自信を持てぬ常松であった。というのも、打ち込んで負かしたことがないのだから、当然といえば当然でもあった。
 そこへ、蕗が顔を出した。
「もう、朝餉の準備が出来ておりますよ。お味おつけ、が冷めぬうちに、お二(ふた)方とも、早(はよ)う膳に、つきなされ」
  母は、いつもと変わらぬ楚々とした声で、清志郎と常松の話に割って入った。父も子も、母の云い分が尤もだと思えたから、敢えて逆らわなかった。と、いうより、話の内容を母に知られることが、お互い憚られた、とも云えた。
 漸く膳に着くと、市之進は既に食事を終えかけていた。父が箸をつけ、初めて食べることが家族に許されるという武家の有り様は、この秋月家とて変わることがなかったが、御学問所への道中と始まる時刻などを考慮して、朝餉だけは特別の許しが出ている市之進であった。父の許しに、幾らか天狗になっている市之進は、時折り、弟の源五郎や常松を見下すようなところがあった。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第六回

2009年02月22日 00時00分00秒 | #小説

     残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第六回

 父が座る前栽(せんざい)の廊下が、朝の陽を浴びて黒艶を浮き立たせ、輝いていた。常松は、父の隣へ、ゆったりと腰を下ろした。手に持った竹刀を地に立てて杖がわりにし、荒い息とまでは乱れていない吐息を整えた。傍(かたわ)らに座る倅(せがれ)へ、父は静かに語り始めた。
「お前は、云わずと知れた三男坊だ。孰(いず)れは、この秋月の家を出て行かねばならん。それは、源五郎だとて同じだが、これだけは肝に銘じておくのだぞ。幸い、そなたは剣の腕が立つ故、どこぞの道場の内弟子にと…儂(わし)も考えておったのだが…。まあ、十年ほどは先の話じゃが…」
 と、尻切れ蜻蛉に言葉を濁して、清志郎は軽く笑った。父として、清志郎は精一杯の助言をした積もりであった。
「父上は私を買い被られているのではないのですか? 私は、兄上の竹刀を受け返すのが精一杯なのです。とても腕が立つなどとは…」
「ははは…。そう謙遜せずともよい。そなたの剣には才が見て取れる。父が申すのだから、間違いあるまいが。如何じゃ?」


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第五回

2009年02月21日 00時00分00秒 | #小説

     残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第五回

「さあ、稽古じゃ稽古じゃ! 朝餉の前にのう。早(はよ)う竹刀を持って参れ」
 それ以上は事に触れず、源五郎は話題を変えて付け加えた。
 暫くして行われた朝稽古は、いつもより熾烈であった。しかし、源五郎の打ち掛かる竹刀を、ことごとく受け返す常松の剣の冴えは、いつもと変わりはなかった。
「手強くなったな、常松。もう、儂(わし)以上かも知れんぞ」
 稽古を終えた時、汗を薄汚れた手拭で拭いながら、源五郎は微笑を浮かべ、穏やかに語った。
「いいえ、私の腕など…」
「いやいや、可也のものじゃ。機会があらば、父上に見て戴こう」
 常松は、軽く笑ってその言葉を受け流したが、云われたこと自体は悪い気がしなかった。
 三日後、御用休みの父が、その稽古を見分した。
「源五郎からは、予(かね)てより聞き及んでおるが、確かに秀でておるな、そなたの剣捌きは…。いや、この儂もな、前々から思うには思おておったのじゃ…」
 稽古を見終えた父は、厳かな語り癖の中にも優しさを込めて、常松に云った。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第四回

2009年02月20日 00時00分00秒 | #小説

      残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第四回

 同心長屋に住む秋月家の裏庭は、源五郎と常松の朝稽古の場になっていたが、そこには、一本の枇杷(びわ)の木が存在感を漲らせて立っていた。清志郎が幼い頃に植えられたものらしく、今では、すっかり大樹となり、空を見上げるばかりである。秋には芳香を放つ白花をつけ、翌年の初夏には、卵形で黄赤色の実をつけた。常緑のため、四季を通して庭に緑の趣を与えていた。
「常松、何をしている?」
 不意に声を掛けられ、常松は、たじろいだ。右斜め前方を見上げると、源五郎が怪訝な表情を浮かべて立っていた。今朝は、いつもよりか早めに起き、枇杷の幹の丁度、自分の立った目線辺りのところに、“常松”と、小柄で刻んだのだった。昨夜、市之進に墨字で書いて貰って憶えた自分の名を忘れないために…ただ、それだけのために…。だから、常松に他意はない。
 彫られた文字を覗き込むと、「なんだ? 自分の名か…。よく憶えたな」と上段の構えの声を振り下ろすかのように源五郎が云う。
「兄上に教わった…」と、常松は源五郎の声を振り払う。
「ほぉ~、合(お)うておる…」
 微笑を浮かべ、源五郎は感心したような声を出した。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第三回

2009年02月19日 00時00分00秒 | #小説

      残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第三回

「常松! なかなか、いいぞぉ~」
 汗を流しながら、源五郎が常松に声を出す。二人は互いに竹刀を構えて渡り合っていた。常松に息の乱れはなく吹き出す汗も見えない…と、その時、清志郎は異質の才を常松の姿に感じていた。この清志郎の想いは、後の常松の生涯に、大きな影響を与えることになる。しかし、清志郎も、そして当の本人の常松にも、この時点では分かる由もなかった。
 月日は流れ、常松は七歳の春を迎えていた。
「行って参る…」
 父は、母の蕗(ふき)に見送られ、いつものように奉行所御用に出かけた。常松は兄の源五郎と剣術の朝稽古を軽くして朝餉を食べた後、いつもの小鳥の世話をする。もう一人の十歳違いの兄、市之進は、既に昌平坂の御学問所へと向かい、家を出ていた。昌平校の試験を通るくらいだったから、この兄の学問への傾倒は、十七歳を過ぎた頃から、常松が見せる剣術の冴えと相俟(あいま)って、家族に或る種、独特の輝きを与えていた。源五郎には食事どきなどに時折り、学問をせよと命じていた両親も、どういう訳か、常松には何一つ云わなかった。常松は、自分が幼い故か…と思ったが、そうでないことを数年待たずして身に知らされることになる。


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