水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

不条理のアクシデント 第五十二話  軽い人 

2014年04月30日 00時00分00秒 | #小説

 矢野は今年で53になった中年男である。職場は、柚子(ゆず)町役場の町民課だ。町自体は人口が7,300人内外のそう大きくない小ぶりの町で、山間地にあった。だから、どちらかといえば町というより山村(さんそん)に近い感じがしないでもなかった。そんな柚子町だが、観光地ではないものの、一応、温泉も湧(わ)いており、町民は無賃で入浴することが出来た。そういうことで、矢野はいつもタオルを持参していることを旨(むね)とし、持って家を出ないことはまずなかった。
「おい! 矢野さんが歩いてるぜ…」
 いつものように町営の湯に浸(つ)かろうと矢野が歩いていると、それを遠目で見ている二人の町民がいた。町営牧場で働く二人だ。
「ああそうだ…矢野さんだ。ははは…あの人は軽い!」
「そうそう、軽い軽い! 軽過ぎて飛びそうだもんな」
「この前なんか、土産持って来てくれたのはいいけどさ、タオル渡して、そのまま土産を持って帰ろうとしたんだぜ」
「ほお、面白い話だ。もう少し、詳しく聞こうか」
「ああ。俺は止めたさ。あのう、これ…ってさ」
「それで?」
「奴(やっこ)さん、『あっ! どうも』って、ペコリと頭さげてタオル受け取ると、出てった」
「土産は?」
「そのまま持って…」
「矢野さん、何しに来たんだ?」
「軽いだろ?」
 二人は顔を見合わせ、大笑いした。二人から遠ざかっていく矢野は町営浴場へ入っていった。
 町営浴場へは、野良仕事を終えた町民が時折り浸かりに来ていた。なにせ、お金がいらないのだから、便利さはこの上ない。しかも、町営牧場の牛乳が飲み放題とあって、矢野は一日に一回は来ていた。
「ああ、どうも、ご精が出ます…」
 矢野が脱衣して湯に浸かろうと木戸を開けると、町長の堀田が木柄の掃除用自在 箒(ほうき)で床(ゆか)タイルをゴシゴシと磨いていた。この作業は町長自ら買って出た専権事項だった。むろん、疲れると湯に浸かり、また磨くという作業の繰り返しだから、当然、丸裸である。女湯の方は、奥さんがやるのが常だった。矢野は無言で別の箒を手にすると、町長に合わせてゴシゴシとやり始めた。
「矢野さん、いいから浸かって下さい」
「いや、町長こそ…」
「そうですか? それじゃ、お言葉に甘えて…」
 矢野はその後、二時間ばかりゴシゴシと磨き、浴場を出たとき、辺りはすっかり暗くなっていた。何か肌寒いぞ…と矢野が気づいて立ち止ったのは、出てしばらく歩いたときである。とうとう矢野は湯に浸かるのを忘れてしまっていたのだった。そんな軽い自分を、ははは…と笑うと、矢野はまた歩き始めた。矢野の身体は、いつの間にかアドバルーンのようにフワフワ浮き始めた。それでも矢野は空気の中を歩き続け、家に向かっていた。

                                 完


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不条理のアクシデント 第五十一話  貢[みつ]ぐ謎 

2014年04月29日 00時00分00秒 | #小説

 下坂は平凡に勤める一サラリーマンだった。今年、久しぶりの定期昇給が復活し、ほんの少しだが、数千円程度、基本給が上ったのだ。今夜はそのベースアップを祝して、同僚と花見の飲み会へ繰り出し、日頃の憂さを晴らす下坂だった。見上げれば桜花が咲き乱れ、ライトアップされたその美しさは、ほろ酔いも手伝ってか、なんとも気分がよかった。樹々の間の雪洞(ぼんぼり)の橙色(だいだいいろ)も、ほどよく情緒を昂(たか)ぶらせる。
「下坂、お前なっ! …数千円ぐらい当然なんだぞっ! 会社に俺達ゃ、どれだけ貢(みつ)いでると思ってんだっ! 労働力だけでも半端な額じゃない!」
「そうそう、室淵が言う通りさ。…昨日、こいつが取った契約だって2億…」
「7千万! …」
 下坂と室淵の会話へ割って入った田山だったが、酔いに押されて額を忘れ、結局、室淵に救助された。
「まあまあ…。今夜はそういう話は抜きだっ!」
「ははは…、そうそう、花見だ、花見!」
 冷(さ)めて落ちかけたテンションを、下坂は作り笑顔で高めた。二人も頷(うなず)いて、注がれたビールを口へ運んだ。
「よ~く考えりゃ、俺達の会社も貢いでんだよなぁ~~」
 田山が桜を見上げながら愚痴った。
「どういうことだ? 田山」
 下坂が赤ら顔で訊(たず)ねる。
「親会社さ…」
 田山は素(す)で、言い切った。また三人は冷え始めた。
「ははは…また、お前は! 花見だ、花見! まあ、飲めっ!」
「ああ…」
 田山は下坂に慰(なぐさ)められた。暖かい微風にライトアップされた桜花が揺れる。三人はいい具合に酔いが回っている。多くの夜桜見物客が等間隔で少しの距離を置いて陣取り、それぞれ賑(にぎ)やかにやっている。
「いづれにしろ、少し会社が上向いてよかったなっ!」
「それは、そうだ…」
 三人は顔を見合わせ、笑顔で乾杯した。
「はは、ははは…ははは…」
「どうした、田山? お前、笑い上戸(じょうご)だったか?」
「いやいや。だってさ。うちの親会社も国に貢ぐんだぜ! 貢がないと脱税だからな」
「おお! そうだ。法人税…国へな、国へ。ははは…」
 下坂はコップを置いて腕組みをした。そのとき、三人の脳裡を掠(かす)めたのは、『それじゃ、国は?』という貢ぐ謎だった。分からぬまま、小一時間、三人は適当に楽しみ、明日、同じ場で花見をする後輩の舟川と交代してその場をあとにした。舟川は寝袋で寝て、夕方まで、ここで場所取りをする訳だ。
 フラフラと地下鉄へと三人は向かっていた。国が貢ぐ先が虚飾に満ちた繁栄を続ける文明国、日本そのものだと朧(おぼろ)げに気づいたとき、すっかり三人の酔いは醒めていた。

                                  完


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生活短編集 50 味噌汁定食

2014年04月28日 00時00分00秒 | #小説

 「えっ!」
  三木は定食屋[おかど]に初めて入って、その品書きに驚かされた。
《 味噌汁定食 百二十円 》
 と、大きく書かれた品書きが、私が主役! とばかりの大きな墨書き札(ふだ)で左右の側壁中央に、ドッカ! と貼(は)られていた。
 この店の売りなんだろうな。まあ、いいか…と、三木は受け流し、見回して他の品書きを探した。だが、壁に貼られた品書きは、主役の左右二枚のみで、脇役札も端役(はやく)札も貼られていない。こりゃ、おかしいぞ…と、三木は思った。
「あの!! すみません! 注文したいんですがっ!」
「は~~い」
 大声とともにフラフラと奥から現れたのは、年の頃なら八十半ばの老人である。呼んですぐに出てきたのだから耳は大丈夫そうだが、目が駄目らしく、三木のすぐ傍(そば)まで近づき、間近(まじか)まで顔を擦(す)り寄せた。そして、ド近眼の、瓶の底のような眼鏡(メガネ)を弄(いじ)り、ようやく三木が客だ…と理解した。
「ああ! お客さん、でしたか!」
 遠目で分かるだろうがっ! と少し怒れた三木だが、そこは抑(おさ)えて、口に出さなかった。
「注文したいんですが…」
「ああ、注文ですか。はい、どうぞどうぞ」
「あのう…、アレしか出来ませんか?」
「はあ?」
「だから、そこに貼ってある以外は出来ないんですか、って訊(き)いてるんですが…」
「ええ、うちは、それだけです。それだけのもんです」
 三木は馬鹿にされているようで腹立たしくなった。
「あのね! 味噌汁定食って、どんなんです?!」
「えっ? 味噌汁定食は味噌汁定食ですよ」
「だから、その味噌汁定食は、どういうのですか?」
「どういうのって? …定食ですよ。お客さん、分からない人だな」
「分からないのは、あんたでしょうよ!」
 三木は少し語気を強くした。
「いやぁ~、分からないのはお客さんでしょ。味噌汁定食は味噌汁の定食です!」
「… … あんた、分からないんだ!」
 三木がそう言ったとき、老人は奥へ素早く戻(もど)ると、トレイに味噌汁入りの椀(わん)と八分目ほど盛った丼(どんぶり)飯(めし)を乗せて、ふたたび現れた。
「お客さん、いいですか! これが味噌汁定食!」
 確かに味噌汁が付いた定食だ…と、三木は文句が言えず、思った。
「あの…オカズは?」
「オカズ? オカズは味噌汁でしょうが。ははは…おかしなお人だ」
「…」
 三木は言い返せず、押し黙(だま)った。

                                  完


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生活短編集 49 軽く!

2014年04月27日 00時00分00秒 | #小説

 愛嬌(あいきょう)タクシーの社屋は周囲が土塀で囲われている。その一角にある通用口は上下線通行のトンネル状になっていて、行き帰りのタクシーが出入りをしている。通用口の上には愛嬌タクシーと書かれた大看板がかけられている。通用口を通り抜けると、広い駐車場と奥に小さな社屋が見える。駐車場には、何台もの同じ車体色をしたタクシーが整然と並んでいる。奥の社屋の一角には、この春から採用された新入運転手養成の研修室がある。研修といっても運転技術ではない。客対応へのノウハウ、平たく言えば接遇(せつぐう)、いや、もっと分かりやすく表現すれば、客と話す要領を完璧(かんぺき)に教え込もうというものだ。愛嬌タクシーでは、今年、二人が定年退社し、三人が新たに採用された。三人のうち二人は中年ながらも会社にとっては手頃な人材で、運転技術もそれなりに熟練していて、なんの問題もなかった。ただ、残りの一人、籠井は、免許を返上した方があなたのためですよ…と言われかねない老人で、しょぼかった。会社が彼を雇(やと)ったのには、それなりの理由があった。社長の広江と籠井は小学校の親友だった。同窓会の席で広江は籠井が生活に困っている事実を知らされたのである。広江が、よかったら、うちで…と、冗談半分に言ってしまったのが事の発端(ほったん)となった。
「重い重いっ! どうして、そう重いんです? もう少し、軽く!」
 籠井に客との会話の接遇を指導しているのは教官役の先輩運転手、清水である。
「はあ…」
 籠井は、か細い声で自信なさげに返した。
「じゃあ、もう一度、言って下さい。私は客ですよ!」
 清水がタクシーを呼び止めたところからの設定だ。すでに清水からOKが出た二人は少し離れたところにいて、あきれ顔で腕組みしながら眺(なが)めている。
「駄目駄目! やる気、あるんですか? 籠井さん」
 清水は優しく言った。社長の広江から、よろしく頼むよ! と両手を合わされ懇願された以上、清水は無碍(むげ)に叱(しか)れず、大弱りである。そこへ広江が様子を見に現れた。
「清水君、もういいよ…。籠井さんは私専用の運転手として雇うから」
「あっ! そうですかっ! 分かりましたっ!!」
 清水の返事は明るく軽かった。助かりましたっ! が清水の本心なのだが、そうは言えなかった。
「籠井さんには軽く! 送り迎えしてもらうさ、ははは…」
 広江は皆を見回し、大笑いした。
 翌日、清水はお抱え運転手となった籠井が軽く! 慎重に運転する軽ワゴン車に乗って、軽く! 出勤した。

                                 完


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生活短編集 48 食に拘[こだわ]る男

2014年04月26日 00時00分00秒 | #小説

 父の代に創業した町工場を引き継いだ大山だったが、世間からは変人と言われ続けてきた。根っからの美食思考家で、あの有名な北大路魯山人をも凌(しの)ぐのでは…と世間に名を馳(は)せたこともあった。その彼が鉄屑(てつくず)を徐(おもむろ)に新作の機器(マシーン)の中へ入れた。この機器は今世紀最大の発明・・と自負する分子変換装置である。詳しく言えば、ありとあらゆる物質を食品へ変換できる装置だった。苦節22年、大山は完成したこの装置を前に万感、迫るものがあった。そして、指がその装置の駆動ボタンを押したとき、彼の頬にひと筋の涙が伝った。
 鉄屑が食品に? えっ!? 何かの聞き違いだろ…? と、最初、人々は自分の耳を疑った。大山の言葉が本心だと分かったとき、人々は下手な冗談(ジョーク)を言う奴だ、と彼を嘲笑(ちょうしょう)した。そしてついには、こいつは変人だな…と、彼を避けるようになった。工場を閉鎖し、機器製作に没入し21年が過ぎ、やがて22年目が半ば去ろうとしていた。
 ランプの点滅が消え、機器の微動が停止した。大山は静かに機器の出入扉を開いた。そして、白手袋の手で中に入れた容器を取り出した。な、なんと! その容器の中には、ふっくらとした美味そうな食パンが出来上っているではないか…。彼は、それを見ながら静かに笑みを浮かべた。TPP体制崩壊以降、世界各国は自国防衛のため食糧ブロックの経済体制を敷いていた。どこの国からも輸入はままならなかった。そんな食糧危機に陥(おちい)った日本を救える…と大山は確信した。
 それから半年が経過したとき、世界各国の食糧危機は回避されていた。特にアフリカ諸国はその傾向が顕著(けんちょ)であった。大山は変人ではなく、英雄としてその名を轟(とどろ)かせた。やがて彼はノーベル賞を授与され、その功績を世界から認められたのである。

                                  完


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生活短編集 47 どうもこうも…

2014年04月25日 00時00分00秒 | #小説

 人間には我慢の限界というものがある。それは肉体的なものと気分的なものに分けられる。この男、浜下は神経がないのか? と他人が思うほど鈍(にぶ)い男だった。別に意識してのことではなく、生まれつきの性分なのだから、誰一人として、彼を怒らせる事は出来なかった。
 あるとき、有名財閥の息子の伊藤が偶然、この男と接触する機会を持った。そんな偶然があるのか…と思えるほどの偶然である。というのも、伊藤には絶えずボディガードが数名付いていて、寸分の隙(すき)なく彼をガードしていたからである。
 浜下はこのとき、とあるホテルへ泊っていたが、単純な新入りホテルマンの手違いで、伊藤の部屋の予備キーを渡され、その部屋に入った。この時点では、伊藤はホテルへ到着していなかったから、なんの問題にもならなかった。伊藤の超高級外車がホテルへ横づけされたのは、その30分後である。到着後、当然のようにボディガードはフロントで手続きやら何やらを簡単に済ませ、部屋へ伊藤を誘導した。いつものことのようで、リッチ気分で鼻歌を唄いながら前後にボディガードを従え、伊藤は歩いた。部屋の前へ到着し、ボディガードはおやっ? と、首を捻(ひね)った。部屋のキーが開いていた。長い経験で、そんな馬鹿なことはないと分かっているからだ。まあ、いいか…と、部屋へ入って驚いた。浜下はバスから出て、いい気分で寛(くつろ)いでいるところだった。
「なんだ、お前は!!」
「あっ! すみません!」
 浜下は訳が分からないまま謝っていた。
「ぼっちゃんの部屋に、なぜお前がいるんだ?!」
「? どうもこうも…」
 浜下はドキリ! としたが、いつもの鈍感さで頭を掻きながら柔らかく返した。
「すぐに出ろ!!」
 浜下は怒ることなく、素直に頷(うなず)くと荷物を纏(まと)めかけた。他のボディガードが内線を手に取り、フロントへ苦情を言っている。浜下は急いで部屋を出た。階下へ降りようとエレベーターを待っていると新入りホテルマンが慌ただしく上ってきて出くわした。
「すみません! 鍵を間違えたようです! お客様はこちらを!!」
 ホテルマンは新しい部屋のキーを渡した。だが、それも間違っていた。国賓待遇のビップクラスがお忍びで御泊りになるという部屋だったのである。
 その一時間後、浜下はまた同じ言葉を口にしていた。
「? どうもこうも…」
 そして、その繰り返しが数度あり、もう明け方近くになっていた。結局、浜下は部屋を取れないまま、ロビーで眠る破目になってしまった。それでも、鈍い浜下は怒らなかった。
「? どうもこうも…」
 ホテルを出がけにロビーで浜下はそう言った。ホテル側は支配人以下が平身低頭で平謝りである。
「誠に申し訳ございませんでした!!」
「えっ?! ロビーで寝違えて、首が少し痛いと言いたかっただけですが…」
「はあ?」
 浜下の鈍さに、ホテル側一同はボケ~っとした。

                                完


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生活短編集 46 落としどころ

2014年04月24日 00時00分00秒 | #小説

 物事には[落としどころ]というものがある。これを逃せば、結果が惨憺(さんたん)たるものになる、その分かれ目だ。
「あいつ、まだ付き合ってるそうだぜ」
「そうそう。もう、かれこれ20年だろ。よく続くよ…」
「ははは…。俺達ゃ数年で落としてるのにな」
「ああ。同期はみな、所帯持ちなのにな。いやぁ~なにか、訳ありなんじゃないか?」
「ああ、それは言える。20年と言やぁ~、ひと世代だぜ。きっと、なにかある」
「ああ…」
 社員食堂で二人が少し離れた一人をチラ見しながら話しては食べている。これは、落としどころを失った恋愛の場合である。食堂を出て階段を降りると、各階の踊り場にトイレがある。男子トイレで大の用を足している男がいる。朝の出がけに子供に先を越された。幸い、便意は遠退いたので出勤したのだが、昼の定食を食べ始めたところで俄(にわ)かに催(もよお)したのである。ウンチや小便の我慢も、ある程度のところで見切り発車しないと、…まあ、こうなる。
『… なかなか出んなぁ~』
 この男、そう思いながら、いきんでいるのだが、固くなってしまったのか、なかなか出づらい。これ以上いきむと、また痔の肛門が切れるから、それもままならず、数十分、格闘している訳だ。[落としどころ]を逃(のが)すと、食べられず、出せずという惨(みじ)めな結果になってしまう。この会社の窓越しに国会議事堂が小さく見える。その中の某委員会の風景である。
「賛成の諸君の起立を求めます!!」
 ドタドタと野党議員が委員長席へ詰め寄り、委員会は怒号、野次雑言が飛び交い、騒然となった。どうも、強行採決に反対する光景のようだ。これは、わざと[落としどころ]を早めた結果、生じたトラブルだ。与党側の委員長は、恐らくこうなるであろうことを予見していたのだろう。その覚悟を背負わされた男の哀愁こもる声が切ない。
「▽◎※! き、起立多数! &%# …よって、本案は…%&”#…可決されましたっ!」
 細く、弱く、小さい声はよく聞きとれないが、そう告げると委員長は、ソソクサと委員会をあとにして退席した。与党委員に守られながらの逃避(とうひ)場面である。そんな国会議事堂をあとにして、街並みを越えると築地(つきじ)である。築地の朝は早い。
 競りが始まっている。
「…###、&&&、”””、&&&、$、$!」
 訳の分からない早口の競り専門語で落札額が決まった。この男は[落としどころ]を心得ている。この築地を離れ、しばらく街並みを迂回する。とある警察署が見えてきた。中の取調室では、若い刑事と年老いた刑事が犯人と思(おぼ)しき容疑者を取り調べている。
「いい加減にしろ! アリバイは崩れたんだっ!!」
 若い刑事が机を叩き、椅子に座って黙秘を続ける容疑者に迫った。
「… …」
「ははは…。お前さん、子供がいたな。父ちゃん、帰ってこないの? って、泣いてたぞ。可哀そうにな…」
 静かなしみじみとした声で老刑事は囁(ささや)いた。次の瞬間、容疑者は机へ泣き崩れた。
「ぅぅぅ…や、やる気はなかったんだぁ~!」
 この老刑事は[落としどころ]を心得ている。“落としの○さん”と呼ばれる警視庁きっての名刑事らしい。犯行は自転車の空気入れを自転車屋から盗んだ単純窃盗だった。
「初犯だっ! まあ、今後は心を改めることだな。ははは…示談にするとさ」
 老刑事が容疑者の肩をポン! と叩く。容疑者は、ふたたび泣き崩れた。さすがは上手(うま)い[落としどころ]である。

                                   完


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生活短編集 45 ハリマーの猫

2014年04月23日 00時00分00秒 | #小説

 播磨(はりま)嘉彦は世界的な新発見でノーベル生理学・医学賞を授与され、今世紀における日本きっての逸材となった。彼の発見は、ふとしたことがきっかけで偶然、見つかった。世界は、その新発見を[ハリマーの猫]と呼んだ。猫から導かれたこの発見は、ロシアのノーベル賞受賞者、パブロフの犬をも凌駕(りょうが)する世紀的な発見となった。
 話は彼の発見前に遡(さかのぼ)る。
 うららかな一日が始まろうとしていた。飼い猫のぺチが、どういう訳か今朝は早くから喉(のど)をゴロゴロと鳴らしてご機嫌がよい。はて? と播磨は考えた。思い当たることといえば、きのう買ってやったマタタビだが…、昼前に与えただけだし、今朝は全然、やっていなかった。きちんと戸棚に収納してあるから、可能性は小さい…というより、ほとんどない、といえた。では…と播磨は巡った。そして、あることに気づいた。播磨はぺチの治療で動物病院へ通ったことがあった。
「可哀そうですが、この腫瘍は次第に大きくなります。余りよくないですね」
 川西獣医は播磨にそう告げた。
「そうですか…。私も医師ですからその辺は覚悟しておりましたが…。そうですか」
「はい。抗生物質のお薬は、いつものようにお出ししておきます。少しは増しでしょう」
 播磨は、ガックリと肩を落とし軽く頭を下げた。
 そんな出来事が播磨の記憶にあった。そして、ふと見れば、今、ぺチの腫瘍は消えている。そんな馬鹿な! と播磨は驚いた。考えられるのは…? そのとき播磨の記憶がふたたび甦(よみがえ)った。研究室から持ち帰った、とある物質があった。とある物質は播磨が人体用に研究を進めていた遺伝子操作で生み出された新種のウイルスだった。一週間前、彼はその薬剤をぺチに筋注したのだった。うっかり、そのことを播磨は忘れていた。
 播磨がノーベル賞を受賞したきっかけは、そんな話である。その後、彼は本格的に学会への論文作成と新種ウイルスの治験(ちけん)を進めた。そして、顕著(けんちょ)な薬効と安全性により認可された薬剤は、広く世間で用いられるようになった。それ以降、世界の患者は激減していった。その功績により、賞の受賞となったのである。世界は、その新発見を[ハリマーの猫]と命名したのだった。


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生活短編集 44 宇宙とは?

2014年04月22日 00時00分00秒 | #小説

  宮野は、今日も空を見上げていた。雨の日も風の日も雪の日も、そして夏の暑い日でも、もちろんその逆の冬の寒い日も、彼は定位置に決めた部屋の一角から見上げていた。一日に一回、見上げるのが彼の日課だった。その時間、ほぼ30分・・これが彼の見上げる時間だった。彼は時間など気にはしていなかったが、体時計がその30分を、ほぼ正確に刻(きざ)んでいた。そして、その日も宮野は見上げていた。
「… まあ…」
 なにが、[まあ…]なのかは分からないが、宮野はポツリと、そう呟(つぶや)いた。彼は考えていたのだ。大学講師で天文学の教鞭をとってはいるが、科学では到底解明できない何かが宇宙には存在している…と。人は慰(なぐさ)めごとのように大気圏を突破し、宇宙ステーションやら人工衛星やらと賑(にぎ)やかに打ち上げ、勝ち誇ったかのように満足はしている。だが、それは単に三次元科学ですべてを解決しようという人間のエゴではないのか…と。そんな疑問が沸々(ふつふつ)と宮野の脳裡(のうり)に滾(たぎ)るのだった。我々は地球上に生息する単なる動物の癖(くせ)に、どうのこうのと知らない宇宙を推断している…と、彼は空を見上げて思った。そのとき、宮野の胸ポケットの携帯が激しくバイブした。着信メールは研究室の上司、中江教授からだった。
━ 陸運局から妙な電話が研究室に入ったんだが、訳が分からない。宇宙人? そんなことはないか。^^ できれば、折り返しの連絡を待つ 中江 ━
 内容を見た宮野はすぐに携帯を入力した。
「陸運局ですか? 僕も心当たりがないんですが…。はい! 詳しくは、明日(あした)」
 その日、宮野は所属のテニスクラブの会合で大学へは出勤せず、会合のあと、早めに帰宅して家にいた。妻は夕飯の準備に余念がない。母は仏壇に座り、いつの間にかミカンを食べながらウトウトしている。そういえば、すっかり陽気が春めいたぞ…と宮野は携帯を胸ポケットへ戻(もど)して思った。
 知らないうちに青空は朱とオレンジ色を含んで暮れようとしていた。夜が間近い。この空の行き着く先に何があるというのか? 宇宙に大きさはあるのか? だとすれば、宇宙の外に何があるというんだ? 宇宙は本当に膨張しているのか? 風船のように? そして、その風船は破れ、ビッグバンを起し…と、学生に教えてはいるが、それは人間の一抹(いちまつ)の慰めなのではないか? 人間は何も分かっていないのでは? つまるところ、何だ! 宇宙とは? いつもの定位置で夕空を見上げながら、天文学者の宮野は、いつも湧く疑問に首を傾(かし)げた。
「Wu~、Wan!!」
 突然、足元のポチが鳴いた。『ご主人、もの好きだわ…』と、宮野には聞こえた。

                                   完


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生活短編集 43 燗冷[かんざ]めの与三[よさ]

2014年04月21日 00時00分00秒 | #小説

 人呼んで、彼を燗冷(かんざ)めの与三(よさ)と言った。本名は与木三男である。彼は何かにつけ、歌舞伎の見得を切った。元は歌舞伎役者を目指していたのだが、事情があって故郷へ戻ったのである。ただ、いつの日か、ふたたび歌舞伎を志そうと、いつも稽古に余念がなかった。ただ、これでは日々の生活は成り立たない。すべてがすべて、歌舞伎仕立てに物事を進めるものだから、手間がかかって仕方がなかった。彼は産業振興部の観光物産課で働いていたが、同僚の職員は彼の存在をなんとも面映(おもは)ゆい目で見るのだった。与木の呼び名のいわれは課で行われる宴会にあった。忘年会、新年会は申すに及ばず、花見など、すべての宴会で残った酒類は、すべて彼の収納瓶に集められた。これはある意味、残飯処理係である。彼はそれで酒代を浮かせ、いつかの日の上京費用に積み立てていたのである。そんなこととは知らない課員達は、彼が事あるごとに歌舞伎の見得を切ることから、誰彼となく燗冷めの与三と呼ぶようになった。
「課長! 与木さん、またやってますよ」
 同じ課の三島が窓口で市民と接遇している与木を見て課長の矢代に言った。
「ああ、与木君か…。放っておけよ。別に苦情も出てないんだから…」
 矢代は半ば諦(あきら)め口調で返した。実のところ、与木の仕事は今一なのだが、市民の受けはよかったのだ。課長の矢代としては市民の受けがいい以上、窘(たしな)めたり叱(しか)ることは出来なかった。公共の福祉が官庁の最優先だからだ。とはいえ、仕事の出来が悪いとなれば、これはもう頭を抱(かか)えて悩むしかない。
「知らざぁ~~言って聞かせやしょう!」
 関係のない市民までが観光物産課の窓口へ集まりだした。
「言って名乗るもおこがましぃ~がぁ! 燗冷めの与三たぁ~・・俺のことよぉ~」
「待ってましたっ! 観光屋!!」
 掛け声もかかり、拍手と喝采(かっさい)である。こうなれば、毎度のことながら与木の独壇場となる。他の課員も楽しそうにチラ見しながら仕事を進めた。与木の評判は朝刊にも取り上げられ、話題はローカルから全国にまで広がっていった。
「ああ…君ですか。私、ご存知でしょうか?」
 ついに、本物の有名歌舞伎スターが姿を見せた。それは、評判になりだしてから半年後のある日のことだった。
「は、はい! もちろん!!」
 むろん、与木はその人物を知っていた。
「君は筋がいいよ!」
 与木の夢は叶(かな)い、その二年後、彼は歌舞伎座の舞台を踏んでいた。

                                 完


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