水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

サスペンス・ユーモア短編集-33- 歩いた財布

2016年07月17日 00時00分00秒 | #小説

 欠伸(あくび)が出るような春の昼下がり、象野池交番の水面(みなも)巡査長はウトウトと眠るでなく眠っていた。詳しく言えば、表面張力で水面を漂(ただよ)う一枚の紙のように、沈まず浮かずの状態で、際(きわ)どく残っていたということだ。完全に眠らせないのは、水面の脳裏に潜在している『自分は警官だ…』という意識だった。
「す、すいません! 私のさ、財布、届いてませんか?」
 一人の紳士が交番へ飛び込んだのは、そんなときだった。水面はハッ! と瞼(まぶた)を見開いて前かがみに倒れていた姿勢を直立に正した。紳士はそんな水面の顔を頼りなさそうな顔で見た。
「いや、届いてませんよ。どこで落とされたんですか?」
「いや。ここのすぐ近くなんですが…」
「色と形は?」
「黒の皮です」
「ほう! それで、中にいくらぐらい入ってたんですか?」
 水面はいつの間にかメモしていた。
「10万ほどです…」
「大金ですな…」
「ちょっと、買うものがあったものでして…」
「なるほど! 届けば連絡しますから、この遺失届の用紙に必要事項を書いてください」
「はい…」
 その後、紳士は書類を書き終えると、水面に頭を下げて交番から去った。
 そして、また何ごともなくポカポカ陽気の中、水面はウトウトした。そして水面は水面下へ撃沈した。いや、寝入ってしまった。水面はいい気分で夢を見ていた。自分が交番でウトウトしている現実に近い夢である。
『あの…私、主人に落とされた財布です』
 水面は現実と同じように、夢の中でもハッ! と瞼(まぶた)を見開くと、前かがみに倒れていた姿勢を直立に正していた。黒皮の財布はまるでアニメのように逆V字形で歩いて近づき、水面が座る前机の上へジャンプして飛び乗った。
『そ、そうですか。預かっておきましょう…』
 水面は自然と話していた。
『よろしく頼みます』
 そういい終わると、財布はパタン! と横倒しになり、眠ったように動かなくなった。そのとき、ハッ! と水面は目覚めた。目を開けると、先ほどの紳士が立って水面を呼んでいた。
「すみません! まだ届いてないでしょうか?」
「いや。届いてませんよ…」
 水面はそう言いながら、ふと自分の机を見た。机の上には黒皮の財布が横たわっていた。
「い、いや。これですか?」
 紳士は無言で頷(うなず)いた。水面は歩いた財布に、怖(こわ)さよりある種のサスペンスを感じた。

                   完


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