水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

連載小説 靫蔓(うつぼかずら) (第五回)

2012年04月30日 00時00分00秒 | #小説

   靫蔓(うつぼかずら)       水本爽涼                                     
 
   第五回

そういえば、昼間の暑気が真夏ほどではないにしろ随分、強まってきたように思えた。店の椅子に座っているときも、午後に入ると長袖ではさすがに、きつさが増す。年代もの? のただ一台の扇風機が小忙しく動き回ってはいるが、よく考えてみれば、今どきクーラー設備のない本屋など、お粗末この上なかった。これじゃ客が来ない筈だ・・とは思える。だが、同業の山彦書店が廃業に追い込まれた経緯(いきさつ)を探れば、設備投資したとしても本屋が儲かるという保証はないのだ。曲がりなりにも経済を学んだ直助には、そこら辺りのところは、よく分かっていた。見栄や体裁ばかり気にして、この界隈でどれだけの店が潰れていったことか…。この二十年ばかりの間の変遷を、直助は見たくもなく見てきたのである。
 文照堂の前を通る道は鰻小路と呼ばれる二メートルほどの細い通路だ。直助の子供時代には、多くの買い物客でごった返していたが、十年前に道路整備が市街化計画と並行して進み、別の幹線道路が完成してからは、俄かに人出が遠退いていった。時代の趨勢、と言ってしまえばそれまでだが、なにか無性に虚しく思えたりもした。自分が一人で文句を言ってみても、たとえ町内会長に苦情をもちかけたとしても、どうなるこうなるという話ではなかった。果して、工事は粛々と進行し、数か月を経ずして瞬く間に新道路は完成を見たのだった。その開通以降、客足は徐々に減り、今ではお粗末この上ない態である。


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連載小説 靫蔓(うつぼかずら) (第四回)

2012年04月29日 00時00分00秒 | #小説

   靫蔓(うつぼかずら)       水本爽涼                                     
 
   第四回

それでもこの年になって考えてみると、まんざら無駄でもなかったように思えている。というのも、その当時では結構、青春を楽しめたし、自分の知らない世界にも少なからず足を踏み入れ、それなりに充実していたな…と直助は思うのだ。ただひとつ誤算があったといえば、それは早智子のことである。順風満帆に人生が展開していたなら、本屋の経営はどうであれ、まあ世間相場の家庭を築き、子供の幾人かにも恵まれていたであろう。やはり自分は馬鹿で阿呆なデクノボウだったのだろうか…と考えながら、白子干しを冷や飯にパラパラと振りかけ、もう味も残っていない出枯らしの茶を淹れて茶漬けにし、また思う。塩っ気の利いた漬物が唯一の惣菜となれば、これはもう身体によくないのは目に見えている。直助にもそのことは充分過ぎるほど分かっていた。中華料理屋の焼肉を肴に生ビールで…とは、ここ数年、全く音沙汰がない。寂寞の静寂の中を、直助はただひたすら、箸を動かした。しかしそれほど自分が惨めだと思わないのは、根っからの神経のズ太さゆえだ。そんな直助なのだが、なんとかなるだろう…と粗末な食を終えた。
 庭の紫陽花がすでに色褪せ始めている。梅雨も近々、上がると昨日、天気予報が言っていたことを直助は思い出した。


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連載小説 靫蔓(うつぼかずら) (第三回)

2012年04月28日 00時00分00秒 | #小説

   靫蔓(うつぼかずら)       水本爽涼                                     
 
   第三回

手には結構な紙幣が握られていて、眼鏡越しに楽しんで数える父親の姿を幾度となく見たものだった。それが、今のご時勢はどうだ。晩に口にするものといえば、香のもので我慢しよう…などと思っている始末なのだ。このギャップは、どうして起こったんだ…と直助は腹立たしかった。幸い、トラウマに陥るほどヤワじゃないが、このままだとそのうち日干しになってしまう…と、体力面への懸念が鬱積している。どのように気持を若く維持したところで、しっかりと老いの迫る年なんだし、栄養失調でぶっ倒れたなんて音沙汰は、ご近所様にも、こっ恥(ぱずか)しくって、合わせる顔がない。そんな些細ことで、もう店を畳もうと直助は思っていた。
 親の代を引き継いだとき、直助は三十を少しばかり越えていた。直吉が中風で寝たきりになったという事情もあるが、世間並の大学を出たあと、気分が萎えていたから就職するということもなく、世間体が余りよくなかったというせいもある。まあこれで、世間様に、どうのこうのと言われる心配もないだろうと、フウーっとひと息、嘆息した。そんな日々の繰り返しに、つくづく意気地のない男だと自己嫌悪に陥った。それ迄は、今でいうフリーターやニートなどと呼ばれる存在の日々を、当時としては肩身の狭い想いで過ごした。


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連載小説 靫蔓(うつぼかずら) (第二回)

2012年04月27日 00時00分00秒 | #小説

   靫蔓(うつぼかずら)       水本爽涼                                     
 
   第二回

「今日も二人しか来いへんなあ…」
 一人の男は千二百円+消費税の単行本を一冊、そして、もう一人の学生が辺りをコソコソと盗み見しながら、素早くエロ本を一冊、買っていったぐらいなのだ。それに、その売上全てというのが儲けか? と考えれば、とんでもない話で、その中のほんの僅かなのである。首でも括りたいというほどのもので、収益⇔利益の違いが厳然としてあった。
 この男、地方ではそれなりに老舗の文照堂の一人息子に生まれ、これという不自由もなく凡々と育ってきた。親の跡を継ごうなどという殊勝な気持もなく、そうかといってやりたいこともなかった。結果、気づけば本屋となり、この椅子へ座っていた。古びたこの椅子も、疾うにあちこちと破れ、俄か修理のガムテープの貼り接ぎが十数ヶ所に及ぶ骨董だった。だが直助には、なぜかこの椅子が愛おしく、捨てられずにいた。子供の頃は親が座っていた椅子に、いつの日か自分も座るだろうと思いながら少年期を過ごした。娯楽が少なかった、ということもあるだろうが、父親の直吉がこの椅子に座っていた頃は随分と客が入っていたように思えた。事実、直助が学校から帰ってきたとき、笑みを浮かべながら、「お帰り…」と、直吉が迎えてくれたことを想い出す。


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連載小説 靫蔓(うつぼかずら) (第一回)

2012年04月26日 00時00分00秒 | #小説

   靫蔓(うつぼかずら)       水本爽涼                                     
 
   第一回

 次第に辺りが暗くなり、読んでいる文字が霞んで見え辛い。
「おっ! もうこんな時間になったか…」
 人っ子一人いない粗末な書店の片隅で、坪倉直助は誰に言うともなく、そう呟いた。無論、ひと気がないのだから仕方がないのだが…。
 直助は今年でついに五十の坂を下っていた。親の代からの書店を頑なに守って数十年が雪崩をうって流れてしまったのだ。
 最近、昔に比べると随分、読み手が減ったように直助には思えている。今日は、つい、ウトウトしてしまっていた。在庫の整理を、あたふたとしていたのだが、いつのまにか睡魔に襲われたのだ。もう六時は疾うに過ぎているのだろう。夏場だから、外の気配は明るいが、それでも昼間に比べりゃ、陽は西の山へトボトボと帰って、夕闇が辺りを覆い始めていた。直助の頭はボーッとしている。
 実を言うと、直助はもう店を畳もうか…と思っていた。読み手が減っていると直助が思うことは、要するに本の売れ行き=収入が減少していることを指す。正直なところ、食うにこと欠く始末で、かなり追いつめられていた。


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連載小説 幽霊パッション 第三章 (第百五[最終]回)

2012年04月25日 00時00分00秒 | #小説

   幽霊パッション   第三章    水本爽涼                                     
                                                 
    第百五(最終)回

『ははぁ~~』
 霊界司に命じられた霊界番人の光輪が一瞬、ピカッ! と閃光(せんこう)を放った。その瞬間、人間界の上山に異変が突如、起きた。俄かに意識が遠退き、上山は気絶したのである。
「課長!! 課長! …。亜沙美! 電話だ!」
「はい!」
 岬は必死に上山を抱き起し揺さぶったが、上山の意識は戻らなかった。
 赤い回転灯を輝かせた救急医療車が、けたたましいサイレンを鳴らして到着したのは、その七分後だった。上山は病院へ搬送され、気づいたときベッドに横たわっていた。
「ここは?」
 正気に戻った上山は、岬に訊(たず)ねた。
「えっ? …って、もちろん、ご覧のとおり病院ですよ」
「…私は、なぜ、ここにいるんだ?」
「嫌ですね、課長。さっき、急に気絶されたんですよ、私のマンションで…」
「君の? ほう…、君のマンションへ行ったんだ」
「んっ? …って、その記憶もないんですか?」
「ああ…。君のマンションへ行くような用向きでも、あったのかなあ?」
「なに云ってらっしゃるんですか、嫌だなあ、課長。亜沙美が妊娠したっていうんで、会いにいらしたんじゃないですか」
「んっ? 亜沙美って?」
「また、ご冗談を…。私の妻ですよ」
「妻って、…君、結婚したの?」
「ははは…、参ったなあ~。仲人(なこうど)ですよ、課長は!」
「? そうだったか…。全然、記憶がないんだ。なんだか随分、前に戻ったような、そんな妙な気分だよ…」
 事実、上山の記憶は幽霊平林が事故で死んだ日以降が完璧に消えていた。というより、当然それは霊界番人によって消されたのである。平林の事故以降の記憶だから、まったくの記憶喪失というのではなかった。
 一方、こちらは霊界である。
『かような寸劇仕立てに致しましたが…』
『その程度でよかろう…。あとは、昇華の者の記憶じゃが…』
『はい。そちらも先ほど、消してございます』
『わはははは…、左様か』
 霊界番人の報告に、霊界司は厳かな笑声で答えた。会話が途絶えると、大小、二つの光輪は、霊空の闇の彼方(かなた)へ瞬く間に消え失せた。
         
                                           完

   あとがき

 もののけ、妖怪、幽霊、ゴースト…などは人が想像を駆使してこの世に創造したものである。人は、それらをもって奇なるもの、とした。これらが現実のこの世に存在するとすれば、それは怖く、恐れ慄(おのの)く対象となるだろう。この物語は、飽く迄も娯楽を目的として私が書き進めたものであり、このようなSF的事象が有り得るとは全く思えない。しかし、あって欲しい…と願う微かな望みも皆無ではないから、これが創作作業に携わる者の冥利とも言えるだろうか。前作「あんたはすごい!」を、さらにスピン・オフさせた部分も含め、面白おかしく、しかも気楽に完結へと導いた。そのプロット中には、社会風刺と、こうあって欲しいと願う人間社会の姿も一抹の望みとして描いたつもりである。無論、評論家諸氏のような苦言を呈するつもりは毛頭ない点だけはお含み願いたい。読者の皆さんには、ただお楽しみ戴くだけでいい程度の作である。
                                                    水本爽涼
                                               2012.04.01~02


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連載小説 幽霊パッション 第三章 (第百四回)

2012年04月24日 00時00分00秒 | #小説

   幽霊パッション   第三章    水本爽涼                                     
                                                 
    第百四回

 勧(すす)められるまま、上山は応接セットのソファーに腰を下ろした。続いて、岬と亜沙美もその対面へと座った。
「あらっ! また動いた! 不思議だわ…」
「何がそんなに不思議なんだね、亜沙美君」
「なんか、お腹で太鼓が鳴ってる感じなんです」
「おいおい! 大丈夫か? 病院へ行った方がいいぞ」
 驚いた岬が心配顔で妻の亜沙美を見つめた。
「大丈夫よ! 動き方がリズムっぽかっただけ…」
「そうか? 予定より少し早いって云うし、俺は少し心配だな…」
「岬君、奥さんが、そう云ってるんだから大丈夫だよ」
 上山が岬を宥(なだ)めにかかった。
『ちょっと、課長! 気づいて下さいよ…って、無理か』
 亜沙美の胎内にいる平林は、ふとそう思った。上山はこのとき、ひょっとすると…と改めて思った。
「おい! 平林か?!」
「課長、何を云ってられるんです。平林って、事故死した先輩の平林さんですか?」
「んっ? いや、なんでもない…」
 上山は失言に、慌てて口を噤(つぐ)んだ。
「あらっ! また、トントン! って動いたわ」
 それを聞き、上山は亜沙美の胎内に紛れもなく昇華した平林がいることを確信した。
 その様子は、霊界司のいる霊界鏡に映し出されていた。
『ふむ…、この辺りが限界かのう…霊界番人よ』
『ははぁ~、左様に思われまする~』
『じゃのう…。さすれば、ただちにこの者の記憶を消滅させよ! ひと工夫してのう…。その方法は、そちに委(ゆだ)ねる。このままにはしておけぬ故(ゆえ)に…』


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連載小説 幽霊パッション 第三章 (第百三回)

2012年04月23日 00時00分00秒 | #小説

   幽霊パッション   第三章    水本爽涼                                     
                                               
    第百三回

 ここは霊界である。霊界司と霊界番人の遣り取りが続いていた。霊界会議が緊急に開かれたのだ。
『仰せのままに致しましたが…』
『左様か…。ならば、よかろう。このまま昇華させた者と人間界の者を別れさせるのは、いささかのう…』
『はい、私めも、そのように…。あの者達は、今までにはない異端の者達でしたから…』
『そうよ…。お前も幾度(いくたび)となく呼ばれたらしいからのう。まあそれは、儂(わし)が命じて授けた如意の筆のせいでもあるのだが…。おお! そうよ、その如意の筆は如何(いかが)致した?』
『昇華とともに、ここへ戻っております』
 霊界番人の光輪の中央が、ピカリ! と一瞬、黄金色に輝いた。
『それならば、よかろう』
 こうした会話が霊界で続いていた頃、上山は岬の住むマンションのチャイムを押していた。
「あっ! 課長、どうぞ入って下さい」
「お久しぶりです、上山課長」
 岬夫妻に入口で迎えられ、上山はマンザラでもない。
「やあ! お邪魔します…」
 上山のその声は、亜沙美の胎内にいる平林にも聞こえていた。
『課長! 僕ですよ!』
 無論、胎内の平林に声は出せない。気持で、そう語っているのだが、上山に聞こえるべくもない。平林は胎児として少し動こうか…と思った。
「あらっ! 初めて動いたわ、あなた。お医者様が云ってらしたのより少し早いんだけど…?」
「んっ? そうか…。らしいです、課長」
「おお、亜沙美君、よかったな。よかった、よかった!」
 テンションを高め靴を脱ぐと、上山は岬夫婦に促されるまま、リビングへ入った。


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連載小説 幽霊パッション 第三章 (第百二回)

2012年04月22日 00時00分00秒 | #小説

   幽霊パッション   第三章    水本爽涼                                     
                                                
    第百二回

「いえ、俄かに、そうなったんで、トラウマじゃ…」
「んっ? …、亜沙美君の具合はどうだい?」
「ああ、妻は至って元気なんですが…」
 この時、ふと上山の脳裡に幽霊平林の陰気に笑う顔が浮かんだ。上山は、ハッ! として、もしや…と思った。平林の昇華…が、ふと、浮かんだのだ。エレベーターが昇るにつれ次第に、ひょっとすると…と、上山の頭は巡った。その、ひょっととは、霊魂平林→亜沙美の構図である。やがて、エレベーターがチーンと鳴り、八階で止まった。ドアが左右に開き、上山と岬は無言で降りた。上山にすれば最初は心に浮かんだ素朴な疑問だったものが、次第に現実の可能性を濃くしていた。その思いは、業務第二課へ入ると益々、顕著になった。課内は、まだ誰も出社しておらず、上山と岬だけである。
「あのさ、亜沙美君に一度、会いたいんだけど、君んちの都合は、どうなんだよ」
「いやあ~、課長でしたら、いつでも歓待しますよ。なにせ、二人の仲人(なこうど)なんですから…」
「そおかぁ? …なら、近日中に伺(うかが)わせてもらうよ」
「どうぞどうぞ、いつでも…。いや、二、三日前に云っといてもらった方がいいですね。妻に手料理、作らせますから。結構、これが美味いんですよ…」
「ははは…、こりゃ、W(ダブリュ)のご馳走さまだ」
 二人は顔を見合わせて大笑いした。そこへ、ドカドカと他の課員達が出社してきた。上山は腕を見ながら、もうこんな時間か…と思った。
「じゃあ、そういうことで…」
「ああ、お邪魔するときは云うからな」
 上山の言葉を背に受けて、岬は自席へと遠ざかっていった。
 上山が岬のマンションを訪ねたのは、その週の日曜だった。メンタル面で、一刻も早く会いたい…という衝動が抑えられず、上山を急(せ)かせたのだった。それが何故なのかは上山にも分からない。岬が妻の話を、なぜか話したくなったのと似通っていた。


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連載小説 幽霊パッション 第三章 (第百一回)

2012年04月21日 00時00分00秒 | #小説

   幽霊パッション   第三章    水本爽涼                                     
                                                
    第百一回

その時、置時計の横にあった携帯が鳴った。
「…はい。なにか用かい? こんな早く…」
 不平っぽく上山は電話に出た。着信は、同じ会社の岬からだった。
「あっ! 課長。朝早くから、すみません。なんか、どうしても云っておきたくなりまして、迷惑を承知で電話をしました」
「そうか…、まあいい。で、云っておきたいことって、いったい何だね?」
「はい。実は、妻の亜沙美が妊娠しまして…」
「ほお! 亜沙美君が。そりゃ、お目出度い話じゃないか。仲人(なこうど)の私としちゃ嬉(うれ)しい限りだが…、それにしてもこの話、そんなに急ぐことかい? 会社でもいいんじゃないか?」
「はあ、よく考えてみりゃ、そうなんですが。どうしてもお電話したくなりまして…。そこんとこが、不思議なんですが…」
「確かにそうだな…。まあ詳しいことは社で聞こう。じゃあ、切るぞ…」
 上山は、まだ眠気があったためか、少し無愛想に携帯を切った。
 その日、出勤した上山を岬は通用門で待ち構えていた。
「おお! おはよう。…なんか、逼迫(ひっぱく)した感じだな、こんな所で…。電話じゃ、亜沙美君の、おめでただったよな?」
「ええ、そうなんですが…、どういう訳か一刻も早く直接、課長に話さないといけない、って気持が消えなかったんですよ」
「なんだ、それは…。トラウマか?」
 上山は通用門からエントランスの入口ドアへ歩を進めながら、そう云った。当然、並んで岬も上山に付き従うように歩んだ。エントランスには早出らしき受付嬢の社員が二名いる他は、まだ誰も出勤していないようで、ひっそりと静まり返っていた。上山も岬も受付嬢に軽く会釈しただけで沈黙してエレベーター位置まで進んでいった。二人が、ふたたび話し始めたのは、エレベーターに乗り、ドアが閉じた瞬間である。


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