幽霊パッション 水本爽涼
第百十四回
「はあ、そうですなあ…」
『課長! そんなことより僕が止まれる手立てを訊(き)いて下さいよぉ~』
幽霊平林は蒼白い光を強めて、じれながら云った。
「おお、悪い悪い。今、訊くさ」
「えっ? 何をでしょう?」
「彼が申すには、止まれる手立ては何かないのか、ってことで…」
「止まる? …よく分かりません」
「ああ、そうでした。教授には、そこから話さねばなりませんね。実は、…霊界の者は静止して翌朝を迎えるようなのです」
『そのとおり!』
幽霊平林が陰気ながらも陽気な声で合いの手を加えた。
「これは貴重なお話ですねえ。霊動学者として大いに参考になります…。で?」
「はい。その静止した状態で朝を迎えられない、ということだそうです」
「ということは、自分の意志で自分の身を動かせないってことじゃないですか」
『僕は、いったいどうなっちゃったんでしょうね?』
「君! ややこしくなるから黙って!」
「えっ? なにか?」
「いえ、なんでもありません。平林君に云ったまでです!」
「ああ、そうでしたか。失礼しました」
佃(つくだ)教授はベッドの寝そべる角度を変えながら謝(あやま)った。
「いえぇ…、別に怒ってる訳じゃないんです」
「ええ、はい。で、その身を安定して止まれないか、って話なんです」
「今日のところは私としても即答はできないんですが、ゴーステンが解決の糸口になるのではと…」
幽霊パッション 水本爽涼
第百十三回
その時、幽霊平林が、いつものように予期せずパッ! っと、現れた。
「なんだ、君! 約束が違うじゃないかっ、首は回してないぜ!」
「エッ!?」
急に空間の一点を見ながら独り言を云いだした上山に、佃(つくだ)教授は思わず驚きの声を上げた。
「あっ! すみません。平林君が今、現れたもんで…」
上山は佃教授を急遽(きゅうきょ)、見直して、取り繕(つくろ)った。
『こちらも、すいません、課長』
「…まあ、いい。佃教授もいらっしゃるから、返って都合いいしな」
『教授はどうおっしゃっておられるんでしょ?』
「ああ、やはりゴーステンのようだと…。それに教授の症状も違いこそあれ似通ってらっしゃるそうだ。ね? 教授?」
「えっ? ああ、そうです。幽霊の平林さんは今、その辺りにおられるんですか?」
佃教授は上山が話す目線の先を注視していたのか、その方向を指さした。
「はい、仰せの通り、その方向に浮かんでおります」
「浮かんでおります、か。こりゃいい、ははは…」
佃教授の笑いに釣られて上山も笑い、当の本人の幽霊平林も笑いに巻き込まれた。むろん、幽霊平林の笑い声は佃教授に聞こえない。
「そういや、君が研究所に現れたとき、霊動感知機の針が激しく振れたんだったね?」
『ええ、確かそうだったと思います。それに、オレンジのランプが点滅してましたね』
「? …彼は何を云ってるんですか?」
上山は空間を見て話しているが、佃教授には幽霊平林の声は耳に入っていない。
「そうだったと…。それに、オレンジのランプが点滅していたも…」
「なるほど…。平林さんも研究所へ現れていたんですね。そうしますと、やはりゴーステンの影響でしょうか」
幽霊パッション 水本爽涼
第百十二回
「じゃあ、先ほどの話ですが、配合されておられたときに何かあったんでしょうか?」
「ええ…。それ以外、私も思い当たる節(ふし)がないんです」
「虚脱感じゃなく、身体の虚脱状態ですね?」
「はい、そういうことです。食欲もありますし、体調は他に、これといって悪いと思えるところはないんですよ」
「そうですか…」
上山は佃(つくだ)教授の言葉に頷(うなず)くほかはなかった。
「ところで、私を訪ねられた訳は?」
「そう、それでした。つい、うっかり肝心のことを訊(き)き逃すつころで…。実は、前にも云ったと思うんですが、平林君の調子が今一なので、先生に報告方々、お訊(たず)ねしようと…」
「ああ…、いつぞやの幽霊さんですか?」
「はあ、まあ…」
「どこか、お悪いんですか?」
「ははは…。平林君は死んでおるんですから、悪い、って云われるのも、なんなんですが…。まあ、調子が悪いと」
「ははは…そうでした。で、どのように?」
「止まれないらしいんですよ、安定して」
「止まれない? 止まれないって、止まらないんですよね?」
「ええ、身体が停止しない、ってことです」
「それは幽霊として致命的なことなんでしょうね? …幽霊さんに致命的というのも、なんなんですが、ははは…」
「メンタル面、いわゆる心理的に安らげないそうなんです」
「どこか、私の状況に似てませんか? それ」
「えっ? ああ、そう云われてみますと…」
「やはり、ゴーステンですなあ…。あれが何らかの作用をもたらした、としか考えようがありません。こうして寝ている私が云うのもなんなんですが…」
幽霊パッション 水本爽涼
第百十一回
「ここだけの話なんですが、どうもゴーステンの影響なんじゃないかと…」
「だって、他の助手の方は大丈夫なんでしょ?」
「それなんですがね。実は、上山さんとお会いしたこの前、お帰りになってからゴーステンを少し弄(いじく)ったんですよ」
「はあ…。でも、それだって他の助手の方々は毎日、弄ってらしゃるじゃないですか。それがなぜ、先生だけ?」
「ええ、それはまあ、そうなんですがね。あの日は弄った、というだけじゃなく、配合から入りましたもので…」
「配合とは?」
「ええ、ゴーステンを作る配合なんですが…」
「作る配合というと、製造工程ですか?」
「ええ…」
「そんなことって、法律には触れないんですか?」
「はい。人骨と云いましても、人骨そのものじゃなく、お寺さんで無縁仏になられた方の骨粉が含まれたお墓の土なんですよ」
「ということは、墓地管理をされておられるお寺さんの了解をとって、ってことなんですね?」
「はい。なんか、怖いことをしているように誤解されたようですね」
「いや、そんなこともないんですが…」
「ははは…、失礼しました」
「それより教授、お見かけしたところ、至って元気そうじゃないですか」
「ええ…。だから妙なんですよ、上山さん」
佃(つくだ)教授はベッドの上に横たわりながら、小さく笑った。
「どう、お悪いんです? お見かけしたところ、具合が悪そうには思えませんが…」
「ええ、そうなんです。別にコレッ! っていうことじゃないんですが、どうも体全体が虚脱感で覆われ、力が出ないといいますか…。早い話、豆腐かコンニャク状態です、ははは…」
佃教授は顔で笑わず、情けなそうな声で笑った。
幽霊パッション 水本爽涼
第百十回
「あっ、どうも! 上山でございます…」
「佃(つくだ)の家内でござ~ます。あのう…宅へお越し下さ~ましたのは、初めてでござ~ますわね?」
「えっ? ああ、はい…」
「まあ、立ち話もなんでござ~ますから、お上がりになって下さ~まし…」
夫人はそう云うと、並んで置かれた数足の高級スリッパを手先で品を作って指さした。上山はふたたび夫人に云われるまま靴を脱ぎスリッパに両足を通した。瞬間、滑らかな極上の感触が上山の足先に広がった。上山の家のものとは明らかに数段の違いがあった。上山が夫人に先導されるまま紆余曲折に廊下を進むと、しばらくしてようやく夫人は立ち止まった。そこに広がる部屋は、どうも佃教授が寝ている寝室のように上山には思えた。
夫人はドアを開けると、「さあ、どうぞ…」とだけ云い残し去っていった。上山は部屋へ入り、ドアを閉じた。ベッドには、二度会った佃教授が目を閉じて横たわっていた。
「失礼いたします…」
上山が声をかけたとき、佃教授の両瞼(まぶた)が急にパチリと開いた。寝ていなかったのである。
「ああ…上山さん」
「お加減は、いかがですか?」
「ありがとうございます。もう大丈夫です、本当に…」
佃教授は、ことの他、明るい声で上山に返した。
「いやあ、教授のお加減が悪いと聞きまして、心配しましたよ」
「ははは…、こんなことは、かつてなかったんですがな。鬼の撹乱ってやつですかな」
「それで、どこがお悪いんですか?」
「はあ、それが妙なことに医者にも分からんと…。診立ては同じ大学の友人なんですがね…」
「そうでしたか…」
幽霊パッション 水本爽涼
第百九回
「はい! そう伝えますわ…」
上山は電話を切り、夫人との遣(や)り取りで気疲れしている自分に気づいた。
翌朝は日曜で、過去の研究所を訪ねるパターンだと、上山はのんびりと起きて、のんびりと出かける、との想定になるはずだった。しかし、三度目の今回は研究所ではなく、佃(つくだ)教授の自宅ということもあり気が張っていたせいか、上山はいつもより一時間ばかりも前に目覚めた。名刺はあるものの、佃教授の自宅へは訪ねたことも過去になく、その緊張感があったとも考えられる。車から出て、駅構内へ入るところまでは、いつもの通勤のリズムと同じだったが、そこからが行き当たりばったりの絵になってしまった。それもそのはずで、佃教授の家のルートがはっきり定まらないのだ。それが行き当たりばったりとなった訳で、上山は警察の刑事が聞き込みをする要領で、通行人から情報を得ながら佃教授の自宅へと近づいていった。
上山がようやくそれと分かる一戸建ての家を探し当てたのは、もっとも近いと思われる駅に下車し、二時間ほど経ってからである。結局、それだけ右往左往したのだった。こんなこともあろうかと、首尾よく七時半頃に家を出たのが幸いして、佃教授に約束した十時にはまだ三十分ばかりあった。ただ、梅雨前の暑気が現れた日で少し体か汗ばみ、気分はよくなかった。しかしまあ孰(いず)れにしろ、上山としては佃教授の病状らしき異変を確かめるまでは気が許せないのだ。その家は、やはり夫人のざ~ます言葉を彷彿(ほうふつ)させる豪邸であった。
「あのう…、お電話を致しました上山ですが…」
入口のインターホンを恐る恐る押し、夫人が「はあ…」と、ひと声発したとき、上山は、か細い声で、そう云った。
「ああ、はい…。どうぞ開いておりますから、お入り下さ~ませ」
やはり変わらない夫人のざ~ます調が返ってきた。上山は夫人に云われるまま、玄関ドアをゆっくりと開けた。待ってましたのよ…とばかりの笑顔で、夫人は上山を見下ろすように立っていた。
幽霊パッション 水本爽涼
第百八回
「そうですか。でしたら一度、ご自宅の方へ、お電話をなさったら如何でしょう? 先生もご自宅での療養で済む程度だという医者の診立てらしいですから」
「ああ、そうですか…。でしたら、そうさせてもらいます」
上山は、そう返して電話を切った。そして、すぐさま、佃(つくだ)教授の自宅へ電話した。幸い、背広に入れたまま忘れていた佃教授の名刺があったことを思い出したのが幸いし、電話できたのだった。
「はい。宅の主人でござ~ますか? …ええ、そうなんでござ~ますの、ほほほ…。まあ、大事に至らず、よかったんですけどもね」
電話に佃教授は出ず、夫人らしき声の女性が上山の応対に出た。
「いやあ、それは何よりでした。研究所の助手の方から詳細をお訊(き)きし、驚いておったところです」
「そうなんでござ~ますの。今まで寝込んだことなど一度もござ~ませんのに、ほんと、嫌ざま~すわ、ほほほ…」
高慢ちきな女だな…と、上山は少々、怒れたが、そんなことは云える訳もなく、気持を押し殺して低姿勢で話そうと努めた。
「ははは…、ご壮健なんですなあ。実は、先生にお目にかかりたいと思うんですが、駄目でしょうか?」
「いいええ~、ちっとも…。気分はすっかりよくなりまして、ごく普通の状態まで回復してござ~ますのよ。ただ、微熱が少し取れない、って申しますか…」
「そうですか。では先生に、上山が面会したいと云っておると伝えていただけないでしょうか」
「はい! しばらくお待ち下さ~まし…」
保留音が流れ、二人の会話はしばし途切れた。
夫人が戻ってきたのは、上山が思ったより早かった。
「お待たせいたしました。宅の申すには、いつでもいいと…」
「…はあ、そうですか。でしたら、早速なんですが、明日にでもお邪魔させていただきます。午前中が空いておりまして、十時頃にでも…と、思っておりますので、そうお伝え下さいますよう…」
幽霊パッション 水本爽涼
第百七回
結局、佃(つくだ)教授をまた訪ねることになったな…と、上山は妙な因縁を感じた。佃教授の研究所へは過去、二度は訪ねている。今回、訪ねるとなると三度目だ。しかし、幽霊平林に止まれないという異常現象が現われたことは佃教授に報告しないと…とは思えた。それは、霊動物質であるゴーステンが介在していると考えられるからだった。佃教授も研究上、当然ながらそうした稀有(けう)な事象の発生は貴重な研究材料となるはずなのだ。上山にしろ、自分の異常を解明する手掛かりになる期待があった。上山は前回と同様に佃教授のところへ電話して了解を取り、同じパターンで研究所へ行くつもりだった。しかし、物事は上山の発想とは予期せぬ方向へ動き始めていた。その時点では上山も幽霊平林も、そして当の本人である佃教授も、まだそら恐ろしい事実には気づいていなかった。この段階まですべての研究は順調に推移していたから、敢(あ)えて上山が危惧(きぐ)する内容もなく、佃教授や三人の助手達も予想だにしていなかったのである。上山が佃教授の研究所へ電話をかけた時、すでにその予兆は始まっていた。いや、正確に云えば、幽霊平林がいつものように静止して空中に留まれなくなった状態から、その予兆は始まっていたと云うべきなのかも知れない。
「えっ? 今日は研究所におられないんですか?」
「はい…。俄(にわ)かのことでして、ご自宅の奥様からお電話が入ったんですよ。我々助手も、今まで教授が来られない日がなかったもんで、どうすればよいか迷っておるところで…」
上山が研究所の佃教授へ電話をかけた時、応対に出た助手は、佃教授が俄かの病(やまい)で寝込んでいるのだと語った。
「そうでしたか…。いや、先生のご都合をお訊(き)きして、またお邪魔しようと思っておりましたもので…」
「あのう…、お急ぎの用向きでしょうか?」
「いえ、そういう逼迫(ひっぱく)したことじゃないんですが…」
切り返され、上山は返答が鈍(にぶ)った。
幽霊パッション 水本爽涼
第百六回
『ということは、課長もゴーステンの何らかの影響を受けておられる可能性があると?』
「ああ…。今の段階では、何の異常も認められんがな」
『ゴーステンって、放射能のようなものでしょうか?』
「うん、ある種、見えない点ではな。ただ、それで死ぬってこっちゃないが…」
『僕の場合は、生きるってことじゃない、って訳ですね?』
「そうそう。君の場合は、死ぬんじゃなく生きるんだったな、ははは…」
上山は思わず笑いが込み上げ、困った。
「まあ、どちらにしても、生死を超越した次元の話だ」
『僕としては止まればいいんですよ、自分の意志で…』
「それって、人間の場合、熟睡できるってことだよな」
『ええ、まあそうなりますかね』
「止まれん、っていうのも困りものだよな。ブレーキが壊れた自動車のようなものだからな」
『はい、その通りです』
「どうすりゃいいか、私には分からんが、ゴーステンにヒントが隠されているような気がする。一度、佃(つくだ)教授のところへ行って話してみよう」
『なにぶん、よろしくお願いします』
「ああ…、折角こうして現れてくれたんだから、出来る限りのことはさせてもらうよ」
幽霊平林はプカリプカリと浮かびながら、いつもの陰気な姿勢でペコリと上山にお辞儀した。
『止まれないといっても疲れるってこっちゃないんですから、まあ、緊急を要さないんですが…』
「ああ、そうか…。それで安心したよ。急患のような騒ぎなら偉いことだからなあ」
『ははは…。ご安心下さい、そんなのじゃないですから。それに、止まれないといっても、一メートル内外ですから…』
「ふ~ん。なんか、実感がないから答えようもないが…」
その後、しばらく雑談を交わした後、幽霊平林は消え失せた。
幽霊パッション 水本爽涼
第百五回
『ええ、そうなんですが…。悪いとは云ってないんですよ、課長。調子が変なだけです』
「調子が変って…、どういうことかね?」
『安らいで止まれないんです。いつもなら、ピタリと住処(すみか)で停止出来るんですが…』
「そこんとこが私には分からないんだが、要は安定感がなくなったってこと?」
『そうなんです。佃(つくだ)教授の研究所と、何か関係あるんでしょうか?』
「考えられるとすれば、ゴーステンだが…」
『教授が霊動物質とか云ってられたやつですね』
「ああ、そうだ…。で、止まれないって他に、どこか異常は?」
『なんか若返ったっていいますか。…若返ったっていうのも妙ですが、なんとなく身体にエネルギーが漲(みなぎ)るんですよ』
「それって、いいじゃないか。悪いこっちゃなかろうが?」
『いえ、僕としては今まで通りがいいんですよ。まだ霊界では新入りなんですから』
「そうなんだ…」
『はい!』
二人の会話は世間づれした変な内容で、常人の理解の域を逸脱していた。