水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

残月剣 -秘抄- 《修行②》第二十三回

2009年09月30日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第二十三回
 というのも、左馬介が入門した頃、一馬が話した通り、幻妙斎が選んだ影番をしているのが、実はこの樋口静山なのであった。そのことに左馬介が入門以来、初めて気づかされたのは、留守居番を命ぜられた元日の夕刻近くであった。
 皆が道場を出ていなくなると、俄かに睡魔が左馬介を襲った。それもその筈で、昨夜は胸騒ぎがして、二時(ふたとき)も眠れなかったのである。大欠伸を一つ打った左馬介は、そのまま小部屋の畳上へ、
どったりと倒れ込んだ。そしてそのまま、ウトウトし始めた。
 どれくらい眠っていたのか…そこ迄、左馬介は憶えていない。不意
に襖が開き、無愛想な声がして目が覚めた。
「なんだ! 左馬介は、いたか。…ああ、そうだった。お前が新入りの頭(かしら)だったな。これからは、お頭と呼ぶことにしよう。腕も観せ
て貰ったが、なかなかのものだったぞ」
 誰だ? と、寝惚け眼(まなこ)を、うっすら開けると、左馬介の前には樋口が珍しく笑顔を見せて立っていた。勝手に語りかけておいて、樋口はもう背を向け、小部屋を出ようとしている。寝込みを襲われた
気がした左馬介は、
「樋口さんでしたか…。何か、ご用でも?」
 と、半身を起こして訊き返していた。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第二十二回

2009年09月29日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第二十二回
 葛西宿の千鳥屋は鼯鼠(むささび)の五郎蔵一家が始末されてからというもの息を吹き返し、客の入りも、二丁ばかり離れた同じ物集(もずめ)街道沿いの三洲屋と肩を並べる迄に回復していた。元々、葛西宿では一の旅籠だったのだから、それも当然なのだが、主人の喜平は、災難から店を守ってくれた堀川道場の面々には、一方(ひとかた)らぬ恩義を感じていた。それ故、堀川の面々が正月に道場を出てへ寄るようなことがあれば、出迎えて歓待したい…と、喜平は常々、思っていたのである。流石に、こちらから道場へ出向くことは憚(はばか)られるが、街に門弟達が入ったならば招こうと、喜平は先だって番頭に命じ、物集(もずめ)街道と堀江道場へ進む小道が合流する地点に立たつよう云い含めておいた。喜平から、「正月早々、すまないねぇ」と下手に出られ、二両も手渡されては、番頭も無碍には断れず、「いえ…、どうせ、大した用もございませんから」と、応諾する羽目になった。その辺りの駆け引きは、流石に葛西一と云われた旅籠の主人、喜平である。言葉で捌(さば)くなどは、お手のものだった。
 門弟中、地元の樋口は別として、三ヶ日の留守居番を命ぜられた左馬介を除く全員が、道場の門をガヤガヤと賑やかに繰り出したのは、既に昼近くであった。いつも別格に扱われている樋口は、単に偏屈者というのではなく、その行動の裏には一つの大きな訳があった


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第二十一回

2009年09月28日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第二十一回
 その問いに座りそびれ、「ん? …いや、それは分からん。…分からんが、いない、とも云えまい」
 と蟹谷は、つまらんことを訊く奴だ…という顔をして濁したが、否定はしなかった。
「誰か、入る予定でも?」
「いいや、それは先生以外には分からんが、師範代の儂(わし)に話がなかったんだから、ないんだろう…、今のところは、な」
「そうですか…」
「まあ、余り当てには、するな」
 と蟹谷は云うが早いか、一馬が問い返す前に、今度こそ座った。
 その頃、離れの庵(いおり)では、幻妙斎が漸く重い腰を上げ、退去しようとしていた。例年、大晦日の夜五ツ時より元旦の朝五ツ時迄の約半日は庵へ籠り、不動の姿勢で斎戒する幻妙斎であった。
 誰が運んだのか…、片隅に置かれた雑煮入りの小鍋は、いつの間にか食されて空となり、その横にあった箱膳ともども片付けられている。恐らく、蟹谷が師範代としての最後の仕事に庵前へ運んだに違いなった。
 襖障子を幻妙斎が開け放つと、敷居外で寝入っていた獅子童子がひと声、「ニャォ~~」と、低く鳴いた。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第二十回

2009年09月27日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第二十回
 門弟達は正月気分もあってか、いつもよりは態度が柔和である。昨夜の樽酒の残りを屠蘇(とそ)後に飲み、ほろ酔い気分になっていることもあるのだろう。騒がしさは、いつもに倍する。
「皆! 静まれぃ~!! さて、私儀乍(なが)ら、この蟹谷真八郎、本日をもって客人身分になることの御許しを先生より賜った。よって、師範代は、四日より井上孫司郎が次席より昇格して、相(あい)勤める。
分かったなぁ~!!」
 堂所内に、ふたたび拍手が湧き起こった。
「おい、井上。ひと言、挨拶しろ!」
 笑顔を浮かべ、蟹谷が井上を見た。少し照れながら立った井上は
皆を見回し、
「蟹谷さん同様、宜しく!」
 とだけ、はにかみながら猛々(たけだけ)しく云い捨て、直ぐに座った。未だ立ったままの蟹谷は、少
し呆(あき)れた顔で、
「なんだ、それ
だけか…」
 と、小声になったが、気を取り直して小笑い
した。
「ははは…まあ、そういうことだ。以上!」
 蟹谷が座ろうとした時、一馬が座ったまま、「新しく入る者はいないんですか?」と、端的に訊ねた。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第十九回

2009年09月26日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第十九回
 大鍋で一馬と左馬介が炊いた雑煮は、瞬く間になくなってしまった。二人は椀二杯に五、六個の小餅を食べるのが関の山だった。皆が先に箸を持ったことと、屠蘇を一杯ずつ皆に注いで回り、出遅れた所為(せい)もあったが、大食らいの神代伊織などは四杯は平らげたのだから、それも当然であった。
 一同が、雑煮をほぼ食い終えた頃、急に蟹谷が大声を張り上げた。
「お~い! 皆、聞いてくれぇ~」
 その声に反応して、門弟達の視線が一斉に立ち上がった蟹谷へ注がれた。
「恒例の順位を云うぞぉ~」
 そう聞けば、左馬介以外の門弟達には何のことか分かるのだろう。辺りから軽い、どよめきと拍手が湧き起こった。
「まず、天(てん)の三人は…、井上、樋口、それとこの儂(わし)じゃ。孰(いず)れも九戦七勝二分けで同位。続いて地(ち)の三人は、上より神代・五勝三敗二分け、山上・三勝四敗二分け、塚田・三勝六敗、そして、人(じん)の四人は、上より秋月・二勝四敗三分け、長沼・一勝四敗四分け、長谷川・一勝七敗一分け、間垣・八敗一分けであ~る!」
 語尾を微妙に伸ばし、蟹谷は声高に懐より出した紙を読み上げた。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第十八回

2009年09月25日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第十八回
一馬が意気消沈していれば、どう声を掛けていいものか…と、頭を悩ませていたからである。
 稽古始めの四日迄、誰もが三日間は解放される。また、この三ヶ日は、年を通して外出、外泊が許された唯一の期間であった。だから、年が明け、六年目に入った客人身分の蟹谷と通い者の樋口を除く他の門弟達は、この三日間のみが、世の極楽を堪能(たんのう)出来る日々なのである。
 蟹谷は昨夜、幻妙斎が籠る庵(いおり)へ試合の結果を書いた懐を、障子襖の隙間から挿し込んだ後、次席の井上の小部屋へと行き、師範代役の仮引き継ぎをした。だが、この仮引き継ぎは、飽く迄も形式に過ぎない。と云うのは、四日に幻妙斎が庵の外へ置く返し状にそのことの命運が記(しる)されているのだ。そして、この年の道場における全員の地位も示されている筈であった。この順位は毎年、変動するから、道場に二年在籍の者が四年在籍の者の上位に位置付けられる場合もあり、油断は出来ないのである。或る意味で下剋上とも云えた。ただ、門弟間に剣道以外での闘争心はなく、和んだ人関係が築かれていた点は、流石に堀江幻妙斎の門下・・と、云っよかった。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第十七回

2009年09月24日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第十七回
 二人は酒を嗜(たしな)まなかったから、他の者達の輪には入らなかった。と云うよりか、正月の雑煮の準備が脳裡を過ぎっていたのが実相であろう。二人にとって、こうした日々は年月を跨(また)いで続くのである。それは、新たに道場の門を潜る者が無い限り続く。だから、左馬介にも、最長ならば四年…という心積もりは出来ていた。風呂の片付けと残り湯での皆の稽古着を洗うという雑事を終えた時、二人が漏らした溜息にも似た吐息が、そうした裏事情を、如実に物語っていた。
 明けて元日の朝、一同が堂所で雑煮を食べている。蟹谷が結果を写していた懐紙は、昨夜のうちに幻妙斎が籠った庵(いおり)へと投じられていた。その紙に記された四十五番勝負の内訳は、蟹谷、井上、そして樋口が七勝二分けで並び、次いで五勝三敗一分けの神代、三勝四敗二分けの山上、三勝六敗の塚田と続き、左馬介は七位の二勝四敗三分けで塚田に次いだ。後の八位以下は、一勝四敗四分けの長沼、一勝七敗一分けの長谷川で、最下位は八敗一分けの一馬であった。だが、雑煮を食べながら語る全員の屈託がない笑顔には、その結果を引き摺る様子は全く見て取れない。八敗の一馬でさえ、昨夜のことは忘れたように笑っている。左馬介は、その様子を見て、少し心が安らいだ。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第十六回

2009年09月23日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第十六回
 左馬介を除いて全敗した一馬を如何に慰めるのか…、新入りの自分が慰めるというのも嫌味になる。ならば、どうしたものか…と、左馬介は地の冷えを背下に感じながら、瞼を閉じて巡るのだった。
 蟹谷は大板に墨字で記(しる)された勝負の結果を、手持ちの懐紙に書き写している。この紙は幻妙斎の庵(いおり)へ投げ込まれるものだった。立ち上がった左馬介は、その蟹谷の前を横切ると、小部
屋へ戻ろうとした。チラリと、その姿を見た蟹谷は、
「左馬介、お前は大した奴だぞ。一、二年もすりゃ、俺以上の腕にな
るに違いない…」
 と、後ろ姿の左馬介へ投げ掛けた。その声を背に受けて、「まぐれ、
ですよ…」と謙遜して返した左馬介は、足早にその場を去った。
「おっ! 雪か…」
 懐紙に落ちた雪に、蟹谷は空を見上げて、そう呟いた。暗黒の闇
から、細粒の粉雪がサラサラと降下し始めていた。
 歳末でもあり、また年初めの行事でもある恒例の総当り試合が済めば、皆、風呂へと急ぎ、無礼講となる。その後、大凡(おおよそ)の者は夜っぴて騒ぎ、正月の期間だけ特別に許された樽酒に酔い痴(し)れた。だが、一馬と左馬介は最後湯に浸かった後、風呂場の片付けをして、そのまま床に着いた。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第十五回

2009年09月22日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第十五回
 流石に、どっと疲れが出て、左馬介は少し、よろけながら片隅へと下がった。そこへ一馬が近づいて、
「いやあ、危うく負けるところでした…」
 と、笑顔をふり撒きながら、いつもの襤褸(ぼろ)布で首筋の汗を拭って云った。何故かバツが悪く、左馬介は、ははは…」と、笑って暈し
た。
 悠長に話に付き合っている場合ではない。六試合が未だ左馬介には残っているのだ。次の試合は、左馬介が下がった直後に始まった樋口対塚田の後だったから、余裕がないのも道理である。それに、樋口は道場の三本の指に入る凄腕の遣い手だったから、勝負が予
想よりも早く決着する可能性も高かった。
 四十五番、全ての立ち合いが終了した時、既に辺りに鳴り響いていた除夜の鐘音は消え失せ、新年が静寂(しじま)の中に訪れていた。篝火も薪を足されなくなって、火勢を弱めつつあった。最後近く集中していた試合を終えた左馬介は流石に疲れ果て、地に仰向になって微動だにしない。一馬と違い、結果が二勝四敗三分けと闘したのだから、初見参での偉業に門弟達も一目(もく)置いて讃たのだが、左馬介は、さ程、嬉しくもなかった。というのも、やはり馬に対しての遠慮が心の奥底に渦巻いていたからである。


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残月剣 -秘抄- 《修行②》第十四回

2009年09月21日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《修行②》第十四回
「始めぃ~!」
蟹谷の号令が掛かり、左馬介と一馬が作法通りの所作で相手に対し一礼し、神棚を向き直し、再び一礼を尽くした。こうして、二人の試合
は開始された。
 どの試合でもそうなのだが、間合いを詰めて双方が構えたとき、或る者は激しく木刀を動かし、また或る者は、ほとんど動かさない。だが、足送りは同じである。これは、人それぞれの個性も多分にあったのだ
が、各自が修練の結果として完成を見た腕遣いの違いでもあった。
 木刀と木刀が鎬(しのぎ)を削る音が幾度となくした。左馬介は、やはり懸命に戦っていた。一馬の方も力を抜く気配は微塵もない。双方とも、他の者に対する以上の力みようである。というのは、いつも組稽古している相手だから、気心が分かっている上に、太刀筋も充分に分かっているから、返って立ち合い辛く、力みも出ようというものだった。事実、一進一退の攻防が続き、左馬介にも一馬にも、これという有効打突は決まらなかった。長引く二人の戦いを観て、焦れた蟹
谷は遂に、
「待てぃ~! 勝負なし!!」
 と、預かり勝負にして、立ち合いを止めた。次の瞬間、左馬介は、何故か安堵している自分に気づくのだった。


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