経ヶ岬 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
経ヶ岬 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
経ヶ岬 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
経ヶ岬 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
経ヶ岬 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
「但し、これだけは云っておくけどね。効果は確実にあるだろうが、有効性は30%から100%と異なる。完治するかは責任がもてないよ」
「勿論ですとも…」と、語尾が言葉にならないほど有り難い圭介である。このとき彼は、見えざる救いの手があることを知ったのである。
蔦教授の助力は、O大の藤木教授にも及び、国に新たに認可されたそのテクノライシンのアンプルも届けられることとなった。
再入院から四週目、HFF20及びテクノライシン、両アンプルの筋注により、癌細胞は確実に自滅(アポトーシス)を繰り返していた。両剤によるウイルス療法は、関東医科大学付属病院でも注目に値する療法として、昌に限らず、他の患者にも用いられることになるのだが、それは先の話である。この時点では、まだ市販はされてはいなかった。
一ヵ月後、三島が圭介をカンファレンス室に、ふたたび呼んだ。
「転移性のものですし、私どもも八、九割方…いや、完璧に駄目なんじゃないか正直なところ思っておりました。しかし、現在の所見では、確実に病巣は縮小しております。既に四分の一の大きさまで後退しており、残余部分もこの状態で推移しますと時間の問題です。土肥さんが蔦教授を知っておられたという幸運もあるのでしょうが、これは、親を想うあなたの心が起こした奇跡と云うしかありません。私どもの病院では、今まで、この種の完治の症例がなかったのも事実でして、私もいい勉強をさせて貰ったと思っております。しかし、まだ油断は禁物ですが…」
すらすらと朗読文を読むような流暢(りゅうちょう)さで三島が告げる。
事実、昌は外観的にも快方に向かっていた。
「一寸(ちょっと)、体が軽く動くようになった気がする。それに、このところ、食欲が出てきてねぇ…」
「そうかい? それは、よかった。何か食べたいものがあったら買ってきてやる」
「それじゃ、散らし寿司を頼むかねぇ。あっ、今じゃなくていいよ、この次で…」
「ああ、いいとも! すぐ買ってきてやる」
圭介の声も知らず知らず快活になっている。内心は当然のことながら喜色ばんでいる。勿論、他にも理由はあった。珠江との婚約が二日前に調った・・・ということである。気分は厳冬期からうららかな陽春期へと変化している。ただ、姉の智代の小言がまた復活したのには辟易(へきえき)としている圭介であった。
「準備は進んでる?」と聞かれ、思わず、「何が?」と応じたのが、いけなかった。
「決まってるじゃない、結婚式のことよ」
「姉さん、僕ももう子供じゃねえんだから…」
と、圭介は少し噛みながら云い返した。
「そうお? なら、いいんだけど…」
二人は歩きながら、院内の売店へ向かっていた。通路を右折左折していると、「あらっ、こんなところに蜘蛛がいるわ。嫌ぁねぇ…」と、智代が立ち止まった。圭介が釣られて見ると、一匹の蜘蛛がふらふらと床を這っていた。智代はその蜘蛛をハイヒールで踏んづけようとした。
「駄目だ! 姉さん、待って!」
思わず圭介は屈(かが)んでいた。そして手の平にその蜘蛛をやんわりと乗せ、一枚のティッシュを背広のポケットから出す。そして、ふたたび蜘蛛をやんわりとティッシュの紙に包(くる)んだ。
「気持悪いわぁ・・。どうすんのよ? 可笑しい子ねぇ」と、不満を露(あらわ)にした智代が、少し声を大きくして佇む。
「こんなに小さい奴でも、命はあるんだよ、姉さん…」
「… …」
いつもなら必ず反発して返す姉だが、珍しく頷いて微笑んだ。そのとき、二人の周囲に閃光が輝いた。いや、圭介にはそう見えた。
「今、光らなかったか?」
「何が? やっぱり、可笑しい子ねぇ…」と、智代は怪訝な眼差しで圭介を見た。
「眼科で診て貰ったらどお? …まあ、そんなことはいいとして、ソレ、なんとかしなさいよ」
圭介の片手に持たれたティッシュの紙を指さして、智代が眉を寄せる。相も変らぬ勝ち気が、もう復活している。幾らか早足になり、通路の開閉窓に近づいた圭介は、その一匹の蜘蛛に感謝を込めて逃がしてやった。何に対しての感謝だったのか…彼にはそれが分からない。
窓をふたたび閉じようとして、外壁沿いに植えられた樹々が圭介の眼に映った。その紅葉は、夏から秋への季節の移ろいを知らせている。
「何してるの? 行くわよ!」
智代が放つ高音域の声が、通路に響く。
━ 人間なんて、弱いもんだなぁ… ━
対象がない何かに対して、圭介は、ぼそっと呟いた。
突破[ブレーク・スルー] 完
※ この小説(全43話)は、2015.05.12 に再掲しました。
まず、身体の全体に力が入らない…などと云った。これは、まだ予兆であった。次に身体の移動時に辛そうな表情を顔に出すようになる。我慢強い母がこのような表情を見せるのは余程のことだ…と、圭介は思った。それに付随して語り口調の覇気が失せた。
抗癌剤の薬物投与による進行阻止にも限界がある。三島はそのことを圭介に詳述したが、圭介自体は微かな望みを捨てている訳ではない。だが、肝臓近くのリンパ節に病巣を持つ癌細胞は急激な増殖を始めている。痩せ細った昌の手首、そこに射ち込まれる点滴の管…、圭介には見るに忍びないものがあった。昌が食事を拒むようになった。食べられない・・と云う。
「再手術? とても無理です。そうですね…、あと長くてもひと月、もっと早まるかも知れません」
三島は医師として、正確な余命期間の診断を下したのだろう。圭介には、その言葉に抗するひと言もなかった。
「出来るだけ母が苦しまないように御願い致します」と懇願するのが、今の圭介には関の山なのだ。「分かりました…」とだけ、静かな小声で吐いた三島の視線は、いつぞやの時と同じで、宙を泳いでいた。痛みの走らないモルヒネ投与、これは、“意識を落とす”とも云われる医療行為である。三島はそのことに言及して、
「主(おも)だった方々には今の内にお見舞いに来て戴いた方が…」と、薬剤を使用する前の注意を促した。母には叔父の耕二以外は兄弟がいない。そうなると、見遣るといっても圭介と姉の智代ぐらいである。
耕二も退職後はやることがないのか、時折り顔を見せてくれるし、智代に至っては、圭介よりも昌を看てくれる時間が長い。濃い身よりはこの二人だけなのだ。それでも一応、三島の心遣いに、「はい、先生。そのように致します…」とだけ感謝する言を圭介は返していた。そして徐(おもむろ)に腕を見る。六時二十分を少し回っている。
「先生、一寸(ちょっと)、急ぎの用がありますので…」
「いいですよ、当直の係の者に、そう云っておいて下さい」
珠江との約束は七時だった。充分に時間はある。九時に智代と交代するのだから、それまでには帰ってこれるだろう…。脳のプロテクト・リレー回路が圭介にOKを与えた。
エルモンテに着くと、既に珠江は来ていた。珠江の意を汲んでから適当にオーダーし、持ってこさせる。
「奢りだから遠慮なく食べろよ…。で、僕に何か用でも?」
単刀直入の直球(ストレート)勝負だ。言葉にした後で、 ━ 急ぎすぎたか…
━ とは思ったが、圭介は意に介せず、ボーイが出した前菜を食べ始める。
「さあ、食べながら…」と、一瞬、動きの止まった珠江をリラックスさせる。暫(しばら)く、二人の間に無言劇が続く。赤ワインにメイン・ディッシュの肉料理、至極ありふれた食事風景である。
「あのう…、私と際ってみません?」
唐突に、サーブの球が飛んでくる。「えっ?」圭介は耳を疑って聞き直した。