止山が始まる10月前、快晴に恵まれた昼過ぎの日曜である。間に合うか合わないかは別として、とにかくやってみよう! と五十半ばになる山松(やままつ)茸男(たけお)は思った。毎年は止山が明けてからの入山だったはずで、時期が早くまだ生えていない可能性もあった。それを探(さが)しまわれば、今からだと、恐らく夕餉(ゆうげ)の膳にマツタケは乗らず、OUT(アウト)かも知れない。だが、やるだけはやってみよう…と思ったのだ。明日、都会へUターンする帰省中の山松は、ごく僅(わず)かに残るSAFE(セーフ)の確率に賭(か)けたのだ。男の中の男である。
山に分け入るルートは子供時代に場数を踏んでいたから山松はよく知っていた。問題は入山する時期の早さだった。これだけは、さすがに山松にもどうしようもない。だから勝負なのだ。
山へ分け入って小一時間が過ぎたとき、山松は腕を見た。すでに昼の2時は回っていた。だが、マツタケは生えていない。この辺(あた)りがシロ[マツタケ菌糸とアカマツの根が一緒になった塊]だということは間違いがなかった。それが時期が早いせいか生えていないのだ。山松は焦(あせ)っていた。なにがなんでもOUTだけは避(さ)けねばならない。マツタケの吸い物のいい香りが頭に浮かんだ。山松は数時間、辺りをくまなく探し回った。それでも、とうとう見つからず、これ以上、山に留(とど)まれば危険と判断し、夕陽が傾いた頃、ショボく山を下り始めた。しばらくすると、山裾(やますそ)のミズナラ、コナラの広葉樹林へ出た。そのとき、ふと気落ちした気分で頭を下げた目の前にマツタケが見えた。ば、馬鹿な…と山松は自分の目を疑(うたぐ)った。マツタケはアカマツの山林に生えるはずなのだ。それが・・ここは山裾の広葉樹林である。近づいて手に取ると山松は嗅(か)いでみた。香りはマツタケそのものだった。いや、むしろそれ以上に強くいい香りがした。山松はマツタケを次々に収穫すると家路を急いだ。こんなはずがない、俺は狐狸(こり)かなんぞに化(ば)かされてるんだ。どうせ帰れば毒キノコだったぐらいのOUT話だろう…と山松は思った。
「はっはっはっ…茸男、これはバカマツタケだわい」
今年、七十五になる父の茸次郎(たけじろう)は大きな声で笑い飛ばして言った。この瞬間,夕餉には間にあったがOUTか…と山松は、ガックリと肩を落とした。
「これはのう、サマツの別名を持っていて珍重されるマツタケ以上のマツタケじゃ。どこで見つけた? よう、見つかったのう」
「そうなんですか?!」
OUTの判定は取り消され、SAFEになった。次の日の昼過ぎ、山松は美味(おい)しいマツタケご飯と焼きマツタケを吸いもので味わったあと、満足しながら都会へUターンした。
THE END
緑畑(みどりはた)耕治は久しぶりに歩くことにした。子供の頃、小学校の遠足でそのルートを歩いた記憶はあったが、断片的に思い出すだけで、ほとんど忘れていた。
上手(うま)い具合に晴れ渡った日の朝、緑畑はリュックに必需品を入れて出発した。登山が趣味の緑畑は、当然のことながら万が一の場合の対処法は心得ていた。
最初はよく知った景色だったからスムースに進めた。ところが、ほぼ3分の1ほどの道のリにさしかかったとき、道は歩いてきた太い道とやや細い道のふた手に分岐していた。緑畑はおやっ? と首を傾(かし)げ停止した。一本道だった記憶にある風景と違ったのである。細い道は最近、出来たんだろう…と思え、緑畑は歩いてきた太い道をふたたび歩き出した。よく考えれば、この前とはいえ子供の頃のことなのだ。当然、辺(あた)りの様子も変わっている…とも思え、緑畑は思わず苦笑した。磁石[コンパス]を見れば進んでいる方向に間違いはなく、地図上の道も正しいと思えた。
それからまた、しばらく歩き、昼食予定の祠(ほこら)を探したが、いっこうにその姿が見えない。道はふた手に分岐していた。このとき緑畑は、停止しておかしい…と初めて思った。腕を見ればすでに昼前である。取り敢(あ)えず分岐した片方を進んだのだが、なにも現れない。もう祠が現れてもよいはずだった。腹も空(す)いてきていた。まあ、いいか…と、緑畑は適当な草原に腰を下ろし、作ってきた昼食を食べることにした。
腹も満たされた緑畑は、どういう訳か眠たくなった。初めはなんとか我慢していたが、我慢しきれなくなった緑畑は、いつの間にかウトウトと眠りに落ちていた。
ふと気づけば、1時過ぎだった。慌(あわ)てて緑畑は立つと歩き出した。そのとき、緑畑はふたたび、おや? と思い、停止した。遠くではあるが眼前に自分の家が見えるではないか。そんな馬鹿なはずがない…と緑畑は目を指で擦(こす)った。だが、それは紛(まぎ)れもなく我が家だった。緑畑は停止結果、ルートを一周していたのである。停止せず、そのまま突き進めばよかったのだ。緑畑は停止するんじゃなかった…と後悔(こうかい)した。
THE END
林川(はやしかわ)房子(ふさこ)は五十半ばの中年女である。彼女の人生は、すべてがすべて体裁(ていさい)で塗り固められた体裁だらけの人生だった。そんな房子だったが、やはり人並みに本音を吐きたいと思うときもあった。房子はそんなとき、さりげなく遠くの町へ買物に出た。近くでは知り合いの人目もあり、何かにつけて体裁をとり繕(つくろ)わねばならなかったから、不便だったこともある。
「もっとさ、安いのないのぉ~~!!」
房子は、服飾品を手に取り、言いたかった本音を思う存分、愚痴(ぐち)った。
「お客様、そう言われましても、こちらのお値段が大よそ、どこのお店でも相場でございまして…」
「そうおっ!? お隣(となり)の家(うち)の奥さんなんか、この半値で買ったとか言ってたわよっ!」
「はあ、確かにそういう手合いもございますが…ほとんどが贋(にせ)のブランド商品でございまして」
「ふ~ん…。まっ、いいわっ! もう少し、安いの置いといてよねっ! また来るわ」
偉(えら)そうに店員へ本音をぶちまけ、房子は店を出た。
「ありがとうございました!」
店の店員は店の品位を保とうとしてか、態々(わざわざ)外まで出ると懇切丁寧(こんせつていねい)に房子を送り出した。房子の気分はよかった。元々の目的が体裁を捨て、本音を吐くことだったからだ。
房子は二軒ほど先にある同じ系統の服飾専門店へ入った。この店でも房子は日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように本音をぶちまけた。どうせ二度と来やしない・・という心がそう言わせた。しかも、ご近所や知り合いも、見たところいなかった。
「はあ…」
アレコレと出させた房子の言い分を一応、店員は我慢(がまん)して聞いていた。そこへ現れたのが、お隣(となり)の電力(でんりき)照子だった。
「あらっ? 川林の奥様じゃございませんこと」
「あら! 電力社長の奥様じゃありませんの。こんな遠くへ?」
「ええ、娘の嫁(とつ)ぎ先ざぁ~ますの。奥さまこそ」
「ほほほ…気晴らしのドライブのついで、ざぁ~ますのよ」
この町でも体裁か…と、房子の心は萎(な)えた。
「あら! そうでしたの。ほほほ…いやだぁ~!」
照子も房子に出会って心が萎えていた。体裁で蓄積した憂さを晴らそうと、この町へ来たからである。そこへ、別の客の対応を終えた店員が、ふたたび現れた。
「お待たせいたしました。もう少しお安いのをお探ししますね」
「あらっ? そんなことお口に出しましたざぁ~ます?」
房子は前言を取り消した。
「はっ? そう…でございましたか?」
店員は訝(いぶかし)げに房子を見た。
「ねぇ~!! もっとお高くござぁ~ませんと。ねぇ~~!!」
房子は照子に体裁をとり繕い、同意を求めるように振った。
「ええ、当然ざぁ~ますわぁ~!!」
照子も援護して体裁をとり繕った。結局、店を出たとき、二人の財布は空っぽだった。
THE END
白川(しらかわ)渡は、おやっ? と振り返って立ち止まった。すれ違ったとき、今、別れたばかりの課長、小峰(こみね)に出会ったのである。いや、いやいやいや、そんなはずはない…と白川は思った。よく考えれば、そっくりな男もいる訳だ。偶然、似ていただけだろう…と、白川は無理に思うことにした。その間(あいだ)にも、小峰そっくりの男は遠ざかっていく。悪くしたもので、その日の白川は急いでいなかった。というか、手持ち無沙汰でどう時間を潰(つぶ)そうか…と思っていた矢先だったのだ。小峰に急用だといって勇んで会社を出たまではよかったが、待ち合わせ相手のOL、由香(ゆか)から携帯メールが入り、ドタキャンされたのである。そのあと奇妙な偶然に出会った・・という訳だ。
遠ざかるにつれ次第に小さくなるその男は、前だけではなく、後ろ姿まで小峰によく似ていた。気づいたとき、白川はツカ、ツカ、ツカ、ツカツカツカツカ…と早足でその男を追っていた。すぐ、男に追いついた白川は男の前へ素早く回り込んだ。
「あの、もし…」
「はい、なにか…」
立ち止った男は、やはり課長の小峰と瓜(うり)二つだった。それに、声まで小峰と似通っているではないか。
「人違いでしたら、すみません。あなた…小峰さんですか?」
「いえ、私は大峰(おおみね)です」
白川は一瞬、ポカン…と木偶(でく)の坊(ぼう)になり、ややこしい…と思った。
THE END
温泉はいい…と思いながら、湯桶(ゆおけ)被(かぶる)は絶景の夕陽(ゆうひ)を前にして海沿いの露天風呂に浸(つ)かっていた。湯船の前には置場石があり、その上には盆に乗った徳利の一合酒とツマミの小皿、杯(さかずき)、それに割り箸が置かれている。湯桶は時折り、冷(さ)めかけた徳利の酒を湯で温めながら、チビリチビリと杯で飲み、そして小皿のツマミを食らう。湯桶の眼前には潮騒(しおさい)と沈みゆく夕陽の絶景がある。この絶妙に配合された景観は、湯桶にとって何とも言えない最高の気分を醸(かも)し出していた。
ほどよく酔いも回り、いい心地になった湯桶は、そろそろ上がるか…と思った。そのときである。
「どうなさいます?」
急に背後で老婆の声がした。湯桶は、えっ? と後ろを振り返った。自分一人が浸かる露天の湯で人の声などする訳がない。だが、湯桶は人の声を確かに聞いたぞ…と思った。まあそれでも、そんな妙なことがある訳がない。あれば怪談である。ははは…それはない、それはないと思いながら湯桶は上がり、脱衣場まで歩いた。その後は何事もなく時が移ろい、美味(うま)い魚と料理に舌鼓(したつづみ)をうった湯桶は、いい気分で横になることにした。
夜半である。すっかり、いい気分で寝入っていた湯桶は、ふと潮騒の音で目覚めた。そのときだった。
「どうなさいます?」
ふと、老婆の声がした。あの湯舟で聞いた声とまったく同じだった。湯桶は、ゾォ~~っと寒(さむ)けを覚(おぼ)え、布団を頭まで被(かぶ)ると震えながら目を瞑(つむ)っていた。どうも、しなくていいっ! と思えた。その後は何事もなく、怖さを感じながらも、いつしか湯桶は微睡(まどろ)んでいた。
次の朝である。朝食も終わり、ほどよいところでチェックアウトすることにした湯桶は帳場のカウンターへ行くと勘定を済ませた。
「あの…昨日(きのう)」
湯桶がそこまで言ったそのときである。それを遮(さえぎ)るように宿屋の主人が言い返した。
「ああ、お客さんも聞かれました? すみませんねぇ~、先代の女将(おかみ)をやっとりました今年、95になる母親です。ボケでしてね、昔を想い出しては…」
多くを語らず、宿屋の主人は口籠(くちごも)った。
「アレは、どういう意味なんですかね?」
「いやぁ~、ずっと食事前にお客さまの接待をしとりましたもんで…。たぶん、それが…」
「なるほど…そういうことでしたか」
湯桶が得心して、荷物を取りに戻(もど)ろうとしたそのときだった。背後で宿屋の主人の声がした。
「どうなさいます?」
「えっ? 何がですか?」
「お車は?」
「あっ! ああ…。呼んどいて下さい」
湯桶は、親子だなぁ…と思った。
THE END
道岡 田舎(いなか)は異次元を信じる風変わりな学者として、大学や世間で知られた男だった。道岡は大学から、いや正確には世間一般からも異端視されていた。というのも、彼の理論はどう考えても今の現在科学では説明できない理論だったのである。彼は持論を曲げなかった。そのためか、UFOの飛来を、さも現実的に語るマニアチックな人々と同列視された。
ここは、牧野家の茶の間である。
『ほら! 見えるでしょ! この斜め横にある異次元ポケットが…』
テレビ画面から流れる道岡の映像と音声を見ながら、小学1年の弘輝(ひろき)は、ははは…と笑った。
「パパ、この人、○ラえもんの作者?」
「いや、弘坊、そうじゃないんだ…」
父親の弘明(ひろあき)は説明に困った。この人は変な学者なんだ・・とも我が子に言いにくい。事実、よくこんな男が教授になれたもんだ・・との風評(ふうひょう)が流れていた。いつの間にか巷(ちまた)でポケット学者という道岡の別名が付けられていた。
「今日は天気がいいから、外へ出よう!」
説明に困った弘明はテレビを消した。
ここは、数分前のテレビスタジオである。道岡がゲストとして座っていた。カメラは左側に座るMCの男性アナウンサー1名と女性タレント1名、それに右側に座る道岡をワイドに映し出していた。
「では、この異次元ポケットの扉(とびら)を開けてみましょう…。ほう、牧野さんのお宅のようですね。あっ! 今、このテレビ画面が映ってます。近づいてみましょう。おお! お嬢ちゃんがテレビをご覧になってますねっ!」
道岡の異次元ポケットは惜しいが、少しズレていた。
THE END
うらぶれた街の片隅に丸金(まるがね)荘は立っていた。時折り、住人は変化していたが、住む者は誰もが一見、気味悪い連中だった。街の者は皆、丸金荘の人々を幽霊と蔭(かげ)で囁(ささや)くようになっていた。
そんなある日、丸金荘に松竹(まつたけ)立夫(たてお)というホームレスまがいの男がやってきて、一室を借りることになった。アパートの持ち主で管理人を兼(か)ねる八頭(やつがしら)は、快(こころよ)くその男を住まわせることにした。というのも、八頭でさえ丸金荘の建物は気味悪く、月収入がなければ一刻も早くどこかへ引っ越したい・・と思っていたからだ。丸金荘は、住む条件に部屋掃除の決まりはあったが、ただ同然の月¥100で暮らせる気味悪い連中の塒(ねぐら)になっていたのである。
暑い夏も峠を越え、ようやく涼風が肌を潤(うるお)す頃になると、丸金荘の住人は、すっかり疲れ果てていた。夏の盛りは彼等の書き入れ時(どき)で、その気味悪さからか、各地の幽霊大会、お化け関係の催しには引っぱりだこだったからだ。
「いやぁ~お久しぶりです。お元気で!」
「ええ、まあ…。おたくも」
「はい、まあ、なんとか…」
こんな会話が荘内の通路で聞かれることが、たまにあった。隣同士なのだが、住人達が顔を合わせることは滅多となかった。街の人々が幽霊と囁く所以(ゆえん)である。
そんな丸金荘の住人が忽然(こつぜん)と全員、消えたのは、翌年(よくとし)のお盆前だった。警察による懸命の捜査にもかかわらず、一件はいっこう解決を見なかった。事件性のものなのかすら分からず、ついに捜査本部は継続を断念、捜査員数人を残して解散した。その頃、人々は松竹を筆頭に、本物のあの世の幽霊に招(まね)かれていた。人々は至れり尽くせりの料理を前に、飲めや歌えのドンチャン騒ぎを日々、繰り返していた。
THE END
外気温が38℃を超えた夏の昼間である。ギラつく太陽は今日も厳(きび)しくジリジリと照っていた。正木省太は部屋の窓からそのギラつく太陽を怨(うら)めしげに見上げた。部屋のクーラーはここ数日、朝から晩まで、ほぼ24時間フル稼働している。
「いやぁ~参ったな。こう暑いと何もできん…」
ひとり呟(つぶや)いたそのあとに、『が、腹は減る…』と正木は付け加えて思った。すると妙なもので、美味(うま)そうな鰻重(うなじゅう)が心に浮かんだ。当然、鰻重の横では三つ葉を浮かべた肝吸(きもす)いの椀(わん)が笑っている。これはもう、鰻好きの正木にとって、耐えがたい欲望の誘爆を引き起こさずにはいられなかった。
「ああ~~~っ!! ウナギだっ!」
こうなれば、夏の暑さなど、どこ吹く風である。あれほど暑く感じ、外出など、とても無理無理…と思えていた心境が180°変化した。正木は半袖(はんそで)シャツを着るか着ないうちに家を飛び出していた。
正木の行きつけの鰻専門店、益屋は建物からして鰻の寝床(ねどこ)だった。間口が狭くて奥行きが長い店の造りなのだ。狭い店の戸を開けると、長さが7、8mもあろうかという通路状のカウンター席が長く見える。横幅は? といえば、カウンター椅子の背を人が一人、通れるか通れないかという幅で、実に狭い。要するに、縦に長く横に短い鰻の寝床(ねどこ)状の店なのである。だが、この店の秘伝のタレは実に美味で、江戸時代から継ぎ足し継ぎ足して今に至っているという主(あるじ)の自慢話を聞くにつけ、なるほど! と正木を唸(うな)らせていた。この鰻重を正木は無性に食べたく、いや食らいつきたくなったのである。
店前まで正木が来ると、[本日は勝手ながら、臨時休業させていただきます]という立て札が表戸に掛(か)けられていた。正木は、あんぐりした顔で、その立て札を怨めしげに見ながら、家へUターンした。
ギラつく太陽の中、汗にびっしょりと濡れながら家へ戻(もど)った正木に気力など、もう残っていなかった。正木は、取り敢(あ)えず身体を水で拭いて、下着を着替えると、クーラーを強にした部屋の陰湿な寝床で横になった。正木はまるで鰻だった。
THE END
茂木桜(もぎざくら)万太郎は、ほぼ老人に近くなった中年後期のしがない痩(や)せ男である。町役場を退職後、細々と年金で生計を維持していた。妻の里美も十分働かせた痩せ馬に敢(あ)えて鞭(むち)をいれることなく好きにさせているから、茂木桜は助かっていた。侘(わ)びしい暮らしながら、金に不自由するほどのこともなく、妻との年金である程度は満足感を得ていた。
茂木桜はこの日も朝から日課にしている盆栽の水やりを済ませ、さてと…と、まったりソファーに腰を下ろした。里美が温めてくれた暖かいミルクをフゥ~~フゥ~~と美味(うま)そうに啜(すす)っていると、キッチンから声が飛んできた。
「これ、錆(さび)ついちゃってるの! 研(と)いで下さらな
い?」
茂木桜が視線を声がした方に向けると、妻の里美が前の洗い場で包丁を翳(かざ)していた。手の空(あ)いた茂木桜は断る理由が見つからなかった。
「ああ…いいよ。そこに置いといてくれ」
このひと言(こと)が彼の人生を狂わせた・・ということはなかったが、かなり茂木桜を手古摺(てこず)らせる結果となった。
錆を取る・・この作業は簡単そうに見えてなかなか、ねちっこいコンニャク作業なのだ。コンニャクはスパッ! と切れそうで切れない柔らかさがあるが、それであった。今風に言えばファジー、文語風に表現すれば曖昧模糊(あいまいもこ)なのだ。
茂木桜が砥石で研ぎ始めて十数分したが、さっぱり錆はとれなかった。しばらく放置してあった包丁のようで、錆が深くなっていたのである。茂木桜は離婚して今は家にいる娘の沙代の顔が、ふと包丁にオーバーラップして浮かんだ。包丁は錆を修復できるうちに研がないと駄目にしてしまう。夫婦関係も修復可能なうちに蟠(わだかま)った感情の錆を取らないと駄目になってしまう。沙代の場合は研ぎ忘れて駄目になったのだ。俺達も危うい危うい…と、茂木桜は力を入れて真剣に包丁を研ぎ始めた。
THE END
外には夏の暑い日射しがあった。そんな中、蒲畑(かばはた)巧(たくみ)は、ついうっかりし、風邪をひいてしまった。力仕事をしたまではよかったのだが、厚着のまま最後までやり続け、汗びっしょりになった。まあそれでも、そこまでは、よくあることで、まだよかった。問題はそのあとの処理である。いつもなら着替えて身体を拭(ふ)くかシャワーを浴びるのだが、急用ができ、時間に追われたから、つい着がえを忘れてしまった。そのうち体熱で乾くだろう…と考えたのが甘かった。結果、蒲畑は風邪をひいてしまったのである。
次の朝、フラつく身体で病院へ行き、医者に点滴注射を受けた蒲畑は、診断を終えると処方された薬をもらいに薬局へ向かった。
「アレルギーとか、ありますか?」
「えっ? いや、別に…」
薬剤師に唐突(とうとつ)に訊(き)かれ、蒲畑は思わず、そう返していた。言ったとおり、蒲畑に薬アレルギーはなかった。ただ、薬アレルギーはない蒲畑には、ある種のアレルギーがあった。
薬をもらい、帰宅すると、その日は養生しておとなしくベッドで寝ることにした。とはいえ、暑い夏である。クーラ-をつけないと、とても眠れたものではない。実を言えば、蒲畑はクーラーアレルギーだったのである。クーラーのスイッチを入れて眠っていると、当然ながら身体中に蕁麻疹(じんましん)が噴き出てきた。これはいかん! と蒲畑はスイッチを切った。しばらくすると蕁麻疹は鳴りを潜(ひそ)めたが、今度は身体が熱くなり、汗が噴き出てきた。薬効で熱は下がってはいたが、汗びっしょりになった蒲畑は、ベッドを出ると身体を水で拭いた。気持はよかったが、悪くしたもので、また熱が出てきた。薬を飲み、蒲畑はまたベッドへ入った。当然、身体が熱く眠れず、団扇(うちわ)で煽(あお)いだ。このくり返しが何度か続き、眠れぬ夜になった。蒲畑は腹が空いていることに、ようやく気づいてゾッ! とした。
THE END