高1の蒲口(かばぐち)はよく失敗した。だが、教師の原塚は蒲口に他の生徒とはどこか違った一面を感じていた。というのは、蒲口は一度、失敗した失敗を二度と繰り返さなかったからだ。むろん、他の者の目には普通の失敗だったから当然、蒲口は出来の悪い生徒に見えていた。そんなことで、でもないが、いつの間にか蒲口の味方はクラスで担任の原塚一人になっていた。蒲口が別に苛(いじ)められた・・というのではない。失敗ばかりするから、蒲口の前から皆が遠退(とおの)いた・・ということだ。
「ははは…またかっ! しかし、他の者ならしないミスを、よくもまあお前は出来るな。先生も失敗してみたいよ」
「先生、からかわないで下さい。僕はもうダメなんです。ぅぅぅ…」
蒲口は急に号泣を始めた。
「馬鹿野郎! 泣くやつがあるかっ! 先生は、お前を高く買ってるんだ。お前は他の生徒にはない何かがあるっ! 失敗は決して人生の無駄ではない。いや、むしろいい勉強になるはずだ。だから、他の者には出来ない、いい経験をしてるんだ・・と思えばいいんだ。分かったなっ!」
「はいっ! 先生! ぅぅぅ…」
「ははは…それにしても、よく泣くやつだな。ははは…」
そう言う原塚の瞼(まぶた)も泪(なみだ)で溢(あふ)れていた。
それからひと月が経ったある日、蒲口は、また失敗をした。原塚の机に置かれていた答案用紙を誤って燃やしてしまったのだ。その日、蒲口は掃除当番だったのだが、どうしてそんなポカをやるのかっ! と、誰もが思う失態だった。
「ははは…まあいい! お前の失敗は、決して無駄じゃない。ははは…」
顔では笑っていたが、原塚は他の者と同じように思え、かなり怒れていた。
完
困ったことに、高3の歩代(ほしろ)は動き回る車社会に怯(おび)えていた。このままでは社会へ出られそうにない…と、日々の授業が身につかなかった。就職先も内定し、卒業まであと数ヶ月だったが、歩代の悩みは解決されそうになかった。
「先生、俺はもうダメですっ!」
「ははは…なに言ってる、歩代。お前、毎日、自転車で通学してるじゃないか」
「自転車はいいんです…」
「なんだ、その勝手な理屈はっ。なぜ、自転車はいいんだ?」
「ガソリンが、いらないからです」
「なるほど! 車だが、ガソリンがな。一理ある…。ということは、お前の場合、歩くか自転車ならいい・・ということになるな」
「はい!」
「だったら、それでいいじゃないかっ! お前は間違ってないと先生は思うぞっ」
「そうでしょうか? 車先生!」
「ああ、車の私が言うんだから間違いがないっ! 車社会に自信を持て、歩代」
「はいっ!}
二人は顔じゅう涙だらけにして抱き合った。
完
溜(た)めておくと、困ったことにどうも心が落ち着かない五月雨(さみだれ)は、小まめに洗いものをすることを忘れなかった。五月雨の潔癖(けっぺき)症は、なにも洗いものに限ったことではなかったが、毎日のこととなると、やはり洗いものに集約された。
日曜の朝、外は湿気が高く、まだ雨も降っていた。五月雨は困っていた。洗濯は出来るが、こんな日は、どうも今一つ乾きが遅(おそ)く、干場がないほどになるからだ。結果、日本の国債発行に伴う累積赤字が膨大(ぼうだい)な額になったのか…と、五月雨は全然、関係ない発想と関連づけた。そういや、この国も最近は汚れてきたな…と、道のポイ捨てゴミを思い出し、また関連づけた。なにも汚れているのはこの国だけじゃないぞ…とも思え、五月雨は地球規模で大きく考えた。地球の汚れは、絶えない紛争による小規模な戦いなどだが、そんな汚れた地球を洗うとなれば、これは相当大きな洗濯機が必要になるな…と五月雨は、また思いを大きくした。そこへバイクの音がし、郵便が到着した。見ると、税金の納付書だった。いくらだろう…と、封を切る五月雨の思いは洗いもの相場ではなくなり、急に小さくセコくなった。
完
世の中では困ったことが時として起こる。予想外の現実だが、この困ったことを困らなくする手立てがある。その手法を人は知らず、日々を怯(おび)えて生きているのだ。この過剰(かじょう)な反応が、時として事態をより悪化させる方向へと導く。
「大丈夫なんだろうねっ! 原発はっ!」
「はっ! そらもう。なんと申しましても保安院のお墨付(すみつ)きでございますから…」
「お墨付きか…墨は濃いんだろうなっ!」
「はぁ? …そらもう。なんと申しましても、あの店の烏賊墨(いかすみ)は美味(おい)しゅうございます」
「烏賊墨? ああ、確かにあそこのパスタは美味だが…。馬鹿!! そんなことを言ってるんじゃないっ!」
「はあ、そうは申されますが、あの店の烏賊墨は20年ばかり前から食してございますが、保安院というようなことは、当時ではございませんで…」
「20年ばかり前? …君は何を言っとるんだっ!」
「はい、濃い墨味かと…」
「濃い墨味? …確かに濃くて美味(うま)いがな…馬鹿! そんな話じゃないんだっ!」
「いえ、そんな話でございますよ。過剰に世間に迎合して騒がれるのも、いかがなものかと…。時として、落ち着かれてお考えになられた方が、時として国是(こくぜ)に適(かな)うかと…」
「マスコミに煽(あお)られ過ぎたか?」
「そのように…」
「時として、そうした方がいいのかも知れんのう。それにしても、あの店は実に美味い…」
「さように…」
「時として、行ってみるのもよいな」
「はい…」
二人はニヤリと笑った。
完
困ったことに、鮎川は最後の詰めでドジることが多く、結果、いつも損ばかりしていた。もちろん鮎川が上手(うま)く結果を出したい…と思っているのは当然だったが、どういう訳か最後で結果が覆(くつがえ)るのだった。出だしはよかったし、むろんその過程[プロセス]も問題はなかった。しかし、いざ、最終場面になると結果が反転するのだった。こうなることが当然のように起これば、誰しもアグレッシブさが消えるものである。鮎川も、その例外ではなかった。
「さあ、どうするか…。この辺(あた)りで担当チェンジが無難だな、荒塩(あらじお)君…」
営業統括部長の元火(もとび)は営業一課長の荒塩の耳元で囁(ささや)いた。
「ですね…。契約がポシャってからでは、水の泡(あわ)ですから…」
「鮎川君には悪いが、そうするとするか…」
「はい! そろそろ焼けたかと…いえ、いい潮どきかと…」
二人は顔を見合わせて頷(うなず)いた。
次の日の朝である。課長席に座る荒塩の前に、呼び出された鮎川の姿があった。
「まあ、そういうことだ。結果が大事だからね。先方の気が変わってからでは遅いから、枯枝(こえだ)君に担当を代わってもらうよ、いいね」
「はあ、そらもう…。私もそう思いますので」
鮎川にも結果が覆(くつがえ)ることは予想できたから、素直な気分で荒塩に従った。ところが、である。枯枝が担当を代わると、先方のお偉方、尾荷切(おにぎり)専務は旋毛(つむじ)を曲げ、電話をかけてきた。
『私だっ! 川原(かわら)商事の尾荷切だっ! 鮎川君は付いておらん…いや、どうしたのかねっ?!』
「はっ! 鮎川は急用で、担当を外(はず)れましたので…」
『私は鮎川君と契約をしたんだっ! もう、食べられるんだから、今更(いまさら)、枯れ枝はいらんよっ!』
「? はぁ?」
『いやなに…。鮎川君でいいから。いや、鮎川君で契約をお願いしたい』
「わ、分かりました。結果が変わることはないんですね?!」
『なに言っとるんだ君はっ! もう、担当が代わっとるじゃないかっ!』
「はっ! はい。そのように…」
結果は二転していい結果へと変化し、ついに鮎川にも、いい結果が舞い込んだ。
完
金に不自由し、困っていた粂川(くめかわ)は、起業しよう…と一念発起(いちねんほっき)した。だが、粂川の手元に起業する金があろうはずもなく、さて、どうしたものか…と風に戦(そよ)ぐ鯉幟(こいのぼり)を見ながら粽(ちまき)を齧(かじ)り、思いに耽(ふけ)った。そのとき、ふと、粂川の脳裏に一つのアイデアが浮かんだ。
数日後、粂川の姿は都会の人通りが激しい街頭にあった。粂川は街路の片隅に茣蓙(ござ)を敷き、その上に胡坐(あぐら)を掻(か)いて座っていた。両手は合掌(がっしょう)し、瞑想(めいそう)するかのような姿である。身に纏(まと)っているものといえば、どの宗教でも身に着(つ)けないような奇抜な衣装だった。粂川の前には段ボールを黒茶色にペンキで塗ったあと、赤ペンキで[浄財箱]と書かれた大箱が、浄財を中へっ! と言わんばかりにズシリ! と置かれ、その箱の横には救世(ぐぜ)宗・托鉢(たくはつ)・・と墨字で書かれた木製立てが置かれていた。街路を往来する人々の中には興味を持つ奇特(きとく)な人もいるものだ。日暮れまでには数十人の通行人が浄財箱の中へ硬貨やお札(さつ)を入れていった。中には粂川に両手を合わせて拝(おが)む者さえいた。腹は減ったが、これも起業のためだっ! と心に命じ、粂川は我慢した。
夜、粂川が托鉢を終えて家へ戻(もど)り、浄財箱を開けてみると、そこには数千円の札と多くの硬貨が入っていた。一ヶ月ばかり、日々、座り続けた粂川の手には、いつの間にか数万円もの大金が握られていた。粂川は、よしっ! とひと声、呟(つぶや)いた。その翌日、粂川は浄財で得た金を懐(ふところ)に忍ばせ、とある石材店に座っていた。粂川が描いた救世をイメージした彫刻のデザイン画を石材店の店主が見ていた。
「分かりました…。ひと月ばかりのご猶予を頂(いただ)ければ…」
半年後、手押し車で運ばれた彫刻像と茣蓙に座って瞑想する粂川の前には、黒山の人だかりが出来、浄財箱は入りきれないほどの浄財で溢(あふ)れていた。
「はい、はい! 押さないでっ!」
アルバイトの学生数人が、人だかりを規制したり、お守りを渡したりしていた。浄財をした人には、漏れなくお守りの小石が貰(もら)える・・というシステムだ。粂川は救世宗を起業し、成功した。この世の人々は救われたいのである。
完
流鏑馬(やぶさめ)は、なにげなく家を出た。ところが、困ったことにいつもは入っているはずのポケットに財布はなかった。ポカミスで、うっかり忘れたのである。停留所には他に待つ人もいる。大恥を掻くところだった。乗る前でよかった…と、流鏑馬は停留所から歩き始めた。目的の帽子の専門店までは、たかが歩いても十五分ばかりだ…と、流鏑馬は単純に思った。幸い、カード入れは持ってきた。あの店はカードが使えるから、買い物の支払いで困ることはない…と、直感で判断した流鏑馬は、勢いよく歩を早めた。ところが、世の中はそう甘くはない。帽子の専門店が遠くに見えたとき、おやっ? と流鏑馬は思った。いつもは見える人の姿がまったくないのだ。今日は木曜だったから、店は開いているはずだ…と流鏑馬は思った。だがやはり、人のいる気配は、まったくない。その訳は、店前に立ったとき、はっきりした。
━ 棚卸しのため、誠に勝手乍ら臨時休業とさせていただきます。当店の都合でございます。あくまでも当店の都合でございます。なにかと、ご不満もございましょうが、そこはそれ、曲げてご了承を賜りますよう、伏してお願い申し上げます。今後ともよろしくお願いを申し上げます 帽子の店 楠川 ━
流鏑馬は、その貼り紙を見て、そこまで頭を下げなくても…と、店主の性格の律儀(りちぎ)さを見てとった。そんなことより流鏑馬にとっては、さて、これからどうするか? だった。諦(あきら)めて別の日に買いに来れば、造作(ぞうさ)もない話だった。別の日なら、カードは無論のこと、財布も持っているから、お足がない・・などという馬鹿な悩みは当然、起こらない。ところが、流鏑馬は、歩いた無駄を、ふと思った。せっかく歩いてきた時間と努力が消えて無駄になる・・と瞬間、思えたのだ。そうなれば、近くで帽子が買える場所・・と、なる。幸い、さらに歩いて10分ばかり行ったところにはショッピング・モールがあり、帽子も簡単に手に入る…と、流鏑馬は欲張って考えた。
10分ばかり歩くと、間違いなくショッピング・モールはあった。だが、ここも人の気配は皆無だった。モールは、ぶっちぎりの休みの日だった。流鏑馬の確認する周到(しゅうとう)さも、そこまでは及んでいなかった。流鏑馬は家へ戻ることにした。困ったことに、身と心の疲労感だけが流鏑馬に残った。
完
困ったとき、思いもよらず必要な人や物、あるいは物事に出合い、コトが首尾よく運べそうになる場合・・人はそんな状況を ━ 渡りに舟 ━ という。
「羽衣(はごろも)さん! その後、どうですかな?」
「ははは…そう大したことはっ! たかだか、20億程度ですよ、天女(あまめ)さん」
「なにをおっしゃる。私のとこなど、数億が関の山です」
一流料亭、三保乃屋の松の間である。財界のお偉方、羽衣と天女が、出来上がったいい顔色で杯(さかずき)を傾けていた。徳利も空(から)になり、困った天女は手の平を叩(たた)いて追加しようとした。そのとき、渡りに舟と、二人の仲居を伴って入ってきたのは、三保乃屋の女将(おかみ)だった。
「いつも、ご贔屓(ひいき)になっております…」
女将が品(しな)を作り、挨拶をする。そのあと、二人の仲居は料理皿を出して羽衣と天女に酌(しゃく)をする。
「いやいやいや…こちらこそ、いつもお世話になっております」
美味(うま)い料理に舌鼓(したつづみ)を打ちながら一杯飲んでるだけなのに、お世話をかけているという言葉で羽衣は上品に肩すかす。
「いいえぇ~。まあ、おひとつ…」
女将が色っぽく二人に迫(せま)り、酌を仲居と変わる。するとそこへ、渡りに舟と綺麗どころが現れ、歌舞音曲(かぶおんぎょく)となる。そうこうして、ほどよく羽衣と天女が酩酊(めいてい)して困ったところで、渡りに舟のタクシーが、これもいつものようにやってくる。
「ああそう、来たの…」
二人は、タクシーの人となり、そのあと…は、読者のご想像にお任(まか)せしたい。^^
完
世の中は困ったことに富む人と貧しい人とに片寄りを見せ、分かたれる。植土(うえつち)も貧しい側へ吸引されそうな一人だったが、なんとか堪(こら)えて踏みとどまり、富もう! と日々、農業に汗していた。そんな植土をあざ笑うかのように、近所の豪邸に住む生楽(しょうらく)は鼻毛を抜きながら欠伸(あくび)をし、¥百万の札束を数えていた。
「梅雨の晴れ間に一度、虫干しせんと、カビが生えていかんな…」
しらこい[しらじらしい]顔で数十億はあろうか・・という札束の山を、生楽は腕組みしながら恨めしげに眺(なが)めた。
何年かが経(た)ったとき、世界に大恐慌が起きた。その結果、貨幣は紙くず同然となったが、植土は食べ物にはこと欠かなかったから穏やかに生活を続けることができた。一方、生楽は飢えた空腹の腹を抱えて食べ物を求め、さ迷っていた。両者の立場が逆転し、植土が富む人となり、生楽が貧しい人になったのである。誰も拾わないゴミとなったお札が木の葉のように道で舞っていた。
完
春になるといろいろな植物が勢いを増し、果実を実らせる。藪(やぶ)に生える竹の子もその一つだ。
「おおっ! 美味(うま)そうだっ!」
食い気(け)が先走る道脇(みちわき)はグゥ~~っと腹を鳴らしながら藪林の中を通る細い野道を愛犬とともに散歩していた。ふと、道脇の頭に昨日、行ったお医者の顔が浮かんだ。そういや、お医者にもいろいろといる。名医と呼ばれる優(すぐ)れ者から藪医者、いやそこまでもいかない竹の子医者まで、さまざま存在するのである。ヌメッ! と草むらから生えた野生感は竹の子だったが、そう不出来な竹の子医者とも思えなかった…と、道脇はまた思った。病状はその後、よくなって癒(い)えたのだから竹の子の部類でないことは確かだった。外観と内観は必ずしも一致しないのが人間だ…と道脇は、またまた偉そうに思いながら、腹の足しにしよう…と野道に出ている分だけを収穫し、帰路についた。
竹の子の煮付けで夕飯を食べる道脇の頭は食い気だけで、診(み)たお医者の顔は、すでになかった。
完