水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

短編小説集(13)解毒[2]  <再掲>

2024年08月21日 00時00分00秒 | #小説

「軽率だったな。だが、これで判明するぞ、現実離れした世界のすべてが…」
 篠口はトーンを下げて、前に座る係長の工藤に言った。
「はい…」
 工藤は机の書類に目を通しながらの姿勢で、そう返した。
「ただいま、秘書室の山崎から特別応接室の方へ藤堂専務をお通しした、とのことでございます」
 ふたたび、平林が課長席へ近づいて言った。山崎? …聞きおぼえがある名だ、と篠口は思った。
「秘書室長の山崎茉莉君か?」
「えっ? 山崎は今年の入社でございますが…」
 平林は訝(いぶか)しげに篠口を見た。秘書の山崎は存在するか・・ただ、秘書室長ではなく新入りの秘書として…。篠口は頭が混乱しそうだった。
「課長、お待たせしては…」
 考え込む篠口に工藤が忠言した。
「分かってる…」
 篠口は課長席を立つと特別応接室へと向かった。
 篠口が特別応接室のドアを開けると、応接セットのソファーに座る藤堂の後ろ姿が見えた。
「いや、どうも…。お待たせしました!」
 篠口は早足で藤堂の正面へ回った。その顔は、やはり秘書官の藤堂だった。一瞬、躊躇(ちゅうちょ)した篠口は、冷静になろうと自(みずか)らに言い聞かせながら藤堂の対面の椅子へ腰を下ろした。
「お初にお目にかかります。私、このたび着任いたしました開成銀行の藤堂です…」
 そう言いながら藤堂は、背広から名刺入れを取り出し、その一枚を篠口に手渡そうとした。篠口も背広から名刺入れを取り出し、二人は同時に名刺を交換した。おいおい、お前は首相秘書官じゃなかったのか? とは思ったが言えず、篠口は[開成銀行・専務取締役]と印字された名刺を見た。
「以前、どこかでお会いしませんでしたか?」
「はて? …どうでしたか。お出会いしたような、しなかったような…。ははは…世間は広いようで狭いですからな。どこかでお会いしたかも知れませんが…」
 藤堂は語尾を濁した。
「ははは…そうですな。もう、うちの上層部には?」
「はあ、さきほど顔つなぎだけはしました。なにせ、この会社は私の融資部が調査した結果、あなたの営業第一課が営業利益のすべてを担っていると見ましたからね」
「それで、態々(わざわざ)…」
「そういうことです。会社上層部や他の部署はどうでもいいのです。私の方針は、利益ある直接取引ですから」
 そう言って、藤堂はニンマリと笑った。少なくとも今は秘書官の藤堂じゃない…と篠口は思った。秘書室長だった山崎が現実の世界では今年入社の新人秘書だったことを思えば、将来の展開として藤堂が政界へうって出て首相秘書官になることも十分予想された。だから、少なくとも今は、なのである。二人がしばらく話していると、係長の工藤が特別応接室へ入ってきた。そのとき、藤堂は不思議なものをみるようにジッ! と工藤の顔を見た。
「あなたは、もしや工藤さん?」
「はい、部下の工藤謀(くどうはかる)と申します。以後、ご昵懇(じっこん)に…」
 工藤は内ポケットに入れた名刺を取り出し、藤堂に手渡した。
「どっかでお会いしたような…。不思議な感覚です」
 藤堂は工藤の名刺を受取って自分の名刺を返し、首を捻った。
「ははは…まあ、世間は広いようで狭いですから」
 篠口は取り繕うように話へ割って入った。その後は、何事もなく、しばらく話をすると藤堂は席を立った。
「今後ともよろしく! では、いずれまた…」
「いえ、こちらこそ…」
 篠口はドアを出る藤堂に軽く頭を下げ、工藤も従った。
 退社時間となり、篠口と工藤は時間差で会社を出た。工藤とは駅前のフリーズで落ち合う約束だった。
 一時間後、二人はフリーズにいた。
「課長、僕達は大丈夫なんでしょうか?」
「そんなこたぁ~、私が訊(き)きたいよ。今の流れで生きてくしかないじゃないか」
「それはそうなんですが、いつあの世界に戻らされるか、と考えると、僕は不安なんです」
「それは私だって同(おんな)じさ」
「いったい、なぜ僕達だけがこうなったんでしょうね?」
 工藤は空(から)になったコーヒーカップを啜(すす)りながら言った。
「分かりゃ苦労しないよ…。まあ、平凡に毎日を送るしかないか」
「…ですね。当たり障(さわ)りなく…」
「無事に元へ戻ったんだから、今のところ何もなかったときと同じだ」
「そうでしょうか? なんか、課員達が洗練されたように僕には映るんですが…」
「洗練された?」
「ええ、毒が抜けたというか…。仕事もノルマ制が消え、テキパキと熟(こな)しますしね。なんか、今までのダラつき感が全然、ないんですよ」
「毒が抜けたか、ははは…。いや、そういや、そうだなあ。俺達を苦しめた、あのノルマ制がない。いつ消えたんだ? そうか…別世界にいた間にか」
 篠口は思い当たる節(ふし)があった。だが結局、自分達が別世界へ紛(まぎ)れ込んだことと課員達が解毒され洗練されたこと、そして仕事のノルマ制が廃止されていたことの三つの謎(なぞ)は拭(ぬぐ)えなかった。コーヒー一杯で散々、語り合った挙句、結論が出ないまま二人は別れた。
 次の日は何事もなく、一日が終わった。そしてまた次の日が巡った。
「おはようございます、社長! お早いですね? お車は?」
 出勤した篠口がエントランスへ入ると課員の平林羊一が声をかけた。状況は数日前の朝とまったく同じだった。篠口は呆然(ぼうぜん)とし、心が真っ白になった。
「ははは…。今日は一人で出たい気分になってね、遠慮してもらったんだ。もう、車は着いてるだろ?」
 篠口は方便を使った。
「あっ! そうなんですか…、失礼しました!」
 平林はそれ以上返せず、立ち去った。篠口としては、やれやれである。しかし、この先の展開がたちまち気になった。またこの世界へ紛(まぎ)れ込んだ以上、一刻も早く工藤に会って今後の方策を探るしかないな…と篠口は昇るエレベーターの中で巡った。もちろん、向かう先は営業第一課ではなく社長室である。
「おはようございます…」
 篠口が社長室のドアを開けると、秘書室長に違いない山崎茉莉がすでに出勤していて、篠口を一礼して出迎えた。
「おはよう!」
 ここは訊(たず)ねず、素直にいこう…と篠口は瞬間、判断した。
「ああ君、専務を呼んでくれないか」
「かしこまりました。専務室へそのように、ご連絡いたします…」
 山崎が隣の秘書室へ退出した。篠口は我ながら社長の語り口調が板についてきたな・・と感じた。決して偉ぶっている訳ではなく、ただ、この状況に従って素直なだけだ、と自らに言い聞かせながら…。
 江藤から連絡が入ったのは、その直後だった。このとき江藤は出勤したところで、エントランスを歩いていた。そのときタイミングよくエントランスの受付に専務室から内線が入り、受付嬢に呼び止められたのである。もちろん、社長秘書で秘書室長の山崎から専務秘書に内線が入れられ、専務秘書からエントランスの受付へ、工藤が出勤したら呼び止めてくれと内線が入ったということである。そうした経緯があり、受付の工藤は慌てて社長室へ内線を入れたのだった。
「課長…じゃないですね。社長、工藤です。おおよその流れは飲み込めました。僕、専務なんですよね?」
「ああ、そういうこった。すぐ、社長室へ上がって来てくれ」
「分かりました…」
 受付嬢が傍(そば)にいる手前、工藤は多くを語らず受話器を置いた。
 社長室へ工藤が入ったのは、その五分後である。
「また、ですね…」
「工藤、えらく落ち着いてるな」
「いやあ、そうでもないんですが…。昨日(きのう)、寝ずに考えたんです。それで、やっと少し分かってきました」
「なにが?」
「僕が課長に言ったことがありましたよね」
「俺に何か言ったか?」
 篠口は思い当たらなかったのか、訊(たず)ねた。
「いつでしたか…もう、随分前になりますが、課長が俺達、死ぬまで今のままか? ってお訊(たず)ねになって、僕が、一度、社長の椅子(いす)へ座ってみたいと言ったことがあったじゃないですか」
「そんなこと、あったかなあ?」
「ありましたよ。この不思議な出来事が起こる以前でした。僕は、その回転椅子のクッションは心地よさそうだって言いました」
 工藤は篠口が座る社長席の椅子を指さした。
「ああ…そういや、そんなことを聞いたような。だが、それが原因だと?」
「いや、はっきりとはしないんですが。どうもそれくらいしか考えつくことがないんですよ」
「君が思ったことが、現実になったってことか? それじゃ、二度目の今朝は、どうなんだ?」
「いや、僕は思い当たらないんですが、課長は? いや、社長は?」
「課長でいいんだよ、課長で。だいたい、この世界がおかしい!」
 篠口は少し怒りぎみに断言した。
「はあ、すみません」
「いや、謝(あやま)る必要はないが…。ああ、そういや、俺もこの世界へ来る前、決裁を押しながら椅子でふんずり返っていたい、と思ったことがあったな」
 篠口にも思い当たる節(ふし)はあった。
「口にしたことが現実になる、っことですか? それって、僕と課長だけなんでしょうか?」
「それは分からんが、誰かに聞こえてんのか?」
「だとすれば怖い話ですよ。それに、どうすりゃ元に戻れるのかが分かりません」
 工藤は、次第に怖(おそ)ろしくなっていた。このとき、二人は自分達が未知の見えない力で解毒されていることを、まだ理解していなかった。未知の見えない力・・それは、地球に秘められた科学では解き明かせない宇宙神秘の解毒作用だった。なぜその現象が、篠口と工藤にだけ生じたのか…それが不思議だった。訳が分からないまま、二人は別の世界に存在していた。
「とにかく平静を装って、この世界で生きるしかない。今の君は係長じゃなく専務だからな」
「分かってます。こちらの方がポスト的には有難いんですけどね」
「それに、仕事も楽だしな」
 篠口がそう返したとき、秘書室長の山崎茉莉が社長室へ入ってきた。
「社長、鈴木会長がご都合をお訊(き)きでございますが。いかがいたしましょう?」
「えっ? 何の都合だい?」
「ご冗談を。もちろんゴルフの懇親会でございます。この前、体調が悪いとお断りになったじゃございませんか」
 茉莉は怪訝(けげん)な表情で篠口を窺(うかが)った。
「あっ! そういや、そうだったね。…腰痛で当分、無理だと言っておいてくれ」
「かしこまりました…」
 茉莉は社長室を出ていった。ゴルフをやったことがない篠口は危なかった…と、ほっと胸を撫で下ろした。
「いやぁ~、前言取り消しです。楽そうでもないですね。僕も気をつけないと…」
 工藤がポツリと言った。
「ああ、そうみたいだ。ゴルフか…、やっときゃよかったよ」
 その日は前回の馴れもあり、篠口も工藤も、少し楽に社長と専務を演じて終えた。
 次の日の朝七時、篠口は玄関チャイムで起こされた。ドアレンズを覗(のぞ)くと、屈強なSP(セキュリティポリス)風の男が2名と手提げの黒カバンを持った背広服の若者が一人、立っていた。
「総理、お迎えに参りました」
「あっ! ああ…、しばらく待ってくれたまえ」
 篠口の口からスムースに言葉が出た。これはあの日の朝と同じだ。だとすれば、俺は総理か? と、篠口はネクタイを締めながら巡った。そのとき、待てよ! このサイクルは繰り返されてるぞ、と篠口は気づいた。確かに、出来ごとはその時々で変化したが、一定のサイクルで課長→社長→総理→課長と循環していると気づかされたのである。迎えの男が総理秘書官の藤堂だとは、すでに分かっているから、篠口としては少し落ち着けた。
「待たせたね…」
 篠口は前回とは違う余裕の言葉も自然と言えた。マンション前に止められた高級車はその数分後、滑らかに総理公邸を目指し発進した。
 総理公邸へ着くと、篠口はすぐ工藤を呼んでくれるよう、さっそく藤堂に命じた。多少、厚かましさも増していた。篠口の心中では、工藤が官房長官であることはすでに確定できていたからだ。
「かしこまりました…」
 藤堂は携帯を手にすると、すぐに指示を出した。篠口には分からなかったが、他にも数人の秘書官がいるようで、その者達に連絡を入れて指示したようだった。
 しばらくして工藤が公邸へ到着した。
「君、すまないが二人だけにしてくれ」
 工藤が現れると、篠口は藤堂を遠ざけた。藤堂は軽く黙礼し、退席した。
「課長!」
「おい! 総理だぞ、今の俺は」
 篠口の顔に少し余裕の笑みが零(こぼ)れた。
「そうでした、つい、うっかり…。どうも、ややこしくていけませんね」
 工藤はボリボリと頭を掻いた。
「ははは…確かに。だが工藤、この現象には一定のサイクルがあるぞ」
「どういうことです」
「いや、詳しくは閣議のあと、話そう。秘書官がすぐ呼びにくるだろう」
 篠口の予想どおり、その数分後、藤堂秘書官がふたたび現れた。
「総理、お時間です。官邸へお送りいたします…」
 篠口は席を立った。工藤も篠口に続いた。いつの間にか工藤の後ろには秘書官らしき男が数名、付き従っていた。
 官邸へ到着後、エレベーターで昇った篠口は、閣議応接室へと入った。工藤は藤堂に促され、ひと足早く閣議応接室へ入っていた。閣僚全員で総理を迎え入れるという慣例があるようだった。テレビニュースでよく映る光景である。
 閣議の内容は藤堂から歩きながら事前に概要を聞かされていたから、当たり障(さわ)りなく適当に流した。終わったとき、これじゃ日本はだめだぞ…と、篠口は自責の念に駆られていた。ただ一つ、これは別世界の出来事だ…という救いはあった。
「少し歩こうか…」
 閣議終了後、しばらく時間をくれと藤堂に言い、工藤とともに孟宗竹が素晴らしい二階の中庭を歩いた。人払いを告げたから、篠口の傍には工藤しかいない。遠目に見られても、総理と官房長官が歩いているのだから、なんの違和感もなかった。
「さっきの話だが…」
 篠口は穏やかに切りだした。
「一定のサイクルがあるって言われましたが…」
「そうなんだよ。私は課長から社長、社長から総理、そして総理からまた元の課長と循環しているんだよ。工藤、君だって同じだ」
「…そういや、そうですね。僕の場合だと、係長から専務、専務から官房長官。で、官房長官からまた元の係長ですか…」
「そういうことだ。ただ、原因がわからん。未知の見えない力・・としか言いようがない。しかも、なぜそれが私と君だけに起きるのか、ということもな」
「もう、僕はどうでもいいです。どちらにしろ、自分の力じゃどうにもならないみたいですし…」
 工藤は半ば諦(あき)めたように言った。
「そういうな。この世界から抜け出せる手立てが何かあるはずだ」
「だといいんですが…」
 工藤は小さな声で返した。
「そろそろ時間だ。総理役も結構、肩が凝(こ)るな。北方領土とガスのパイプライン共同開発の両天秤でロシアと会談らしい。海洋資源や漁業権は国境なしという話にして欲しいそうだ」
「なるほど…。しかし課長がロシア相手に交渉とは? 」
「ははは…そう言うな。だいぶ慣れてきたからな。アメリカもシェールガスの採掘技術が完成したから、2017年にはロシアを抜いて生産で世界一位の資源大国になるらしい。その点では、我が国への輸入可能が、いつになるかが鍵だろう。要は東西冷戦時ではないから、上手く日本の国益を守りながらやるしかない。詳細は外務大臣がやってくれるそうだが…。しかし妙なもので、別世界の話だと思えば、総理も緊張しないな。君だって、そうだろ?」
「ええ、それはまあ…。どこかで現実じゃないっていう意識が働いてるんですかね」
「それはいえるな。ただ、いつ会社へ戻るか分からんのが怖いな」
「ですね。この前は突然、視界が歪み意識がなくなりました。気づけば会社の係長席でした」
 工藤がそこまで言ったとき、藤堂が近づいてきた。
「総理、そろそろご準備を…」
「ああ、分かった。今、行く」
 藤堂が去り、篠口と工藤は中庭で別れた。
 篠口は会談を軽く終え、あとの外交を外務大臣に任せたとき、急に立ちくらみがした。
「総理! いかがなされました?!」
 篠口の視界は歪み、外務大臣の声も次第に遠退いて意識が途絶えた。
 気づけば篠口は机に前屈みになり課長席で眠っていた。起こされたのは、いつやらと同じ女性事務員の安藤由香だった。篠口と工藤の肩を由香は交互に揺すって起こした。
「課長! …係長!」
 二人は眠たげに身体を起こした。
「工藤、戻(もど)ったようだな」
「そうみたいですね…」
 両腕を伸ばし身体を解(ほぐ)しながら、工藤は軽く言った。
「どういうことです?」
 由香は怪訝(けげん)な表情で二人を見た。
「いや、なんでもないさ、ははは…。有難う、席へ戻りなさい」
 由香は自席へ戻った。時間は始業開始前辺りらしかった。少しずつ課員達が出勤してきていた。
「工藤、この分だと、今日は平凡に過ぎ、明日は平林にエントランスで社長と言われるだろうな」
「はい! 僕は専務ですか?」
「ああ、私が言ったサイクルならな」
「ずっと、この繰り返しが続くんでしょうか?」
「それは分からんが…。まあ、運命と諦(あきら)めて気長にいこう」
「僕達二人だけが、なぜなんです?! よりにもよって!」
「興奮するな、工藤。私らにはどうにもならんことだ…。もう、いいじゃないか」
 篠口は工藤を宥(なだ)めた。
「そうですね。どうでもいいんですよね…」
 その思いに至った途端、篠口も工藤もスゥ~っと胸のつかえがとれたように楽になった。神秘な力によって二人は解毒されたのである。それ以降、篠口と工藤を襲った不思議な現象は鳴りを潜(ひそ)めた。

                  THE END


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短編小説集(13)解毒[1]  <再掲>

2024年08月20日 00時00分00秒 | #小説

 ようやくマンションに辿(たど)り着いた篠口彰夫(しのぐちあきお)は、ドアを閉じた瞬間、崩れるように残業で疲れた身体を玄関フロアーへ横たえた。瞬間、これが酒の酔いなら最高だろうな…と、瞼(まぶた)が潤んだ。そして、それもつかの間、篠口は眠気に俄かに襲われ、そのまま深い奈落の底へと沈んでいった。
 牛乳配達員が表の受け箱へ瓶を入れるガラス音が微かにし、篠口は目覚めた。窓からは薄明るい翌朝の光が差し込んでいた。ああ・・昨日は一睡もせず仕事に忙殺されていたんだった。のんびりと決裁印を押してふんずり返っていたいよ…と、篠口は、ぼんやりと思った。
 篠口は、いつの間にか会社に毒されていたのかも知れない。
「内示が出たよ、篠口君、来週から君は営業第一課長だ、おめでとう」
 部長の坂巻静一(さかまきせいいち)に言われたときは小躍りしたい気分の篠口だった。あれから二年か…と、篠口は思った。よくよく考えれば篠口は営業第一課課長という巧妙な餌で釣られた小魚だった。気分は日々、萎(な)え、まるで少しずつ毒を飲まされて弱る魚に思えた。
 そんな篠口にも工藤謀(くどうはかる)というただ一人の心を許せる係長の部下がいた。
 幸い、この日は創業記念日で篠口は会社を休めた。緩慢に立ち上がった篠口は、玄関へ脱ぎ散らかした靴を揃えると洗面所で顔を洗った。鏡の奥には、無精髭の窶(やつ)れた自分がいた。篠口にはその理由が分かっていた。ノルマ達成のために、ここ数日、無理を承知の日々が続いていたのだ。慰めといえば工藤と屋上で交わす三十分ばかりの会話だけだった。創業記念日で休めたこの日も、篠口にはまったく予定など立っていなかった。まずは疲れを取ろう…と、篠口は思っていた。次の日からは、またノルマを熟(こな)さねばならない。営業第一課長として、課員達を叱咤激励(しったげきれい)するのは正直なところ、もう嫌だった。だから、自ら残業で工藤と駆け回り、営業純益のノルマを達成しようとしていたのだ。実のところ、会社はそこまで強いてはいなかった。というのも、会社は営業第一課で支えられていたからである。二課、三課は名ばかりの存在だったのである。 
 篠口が冷蔵庫の水をコップ一杯飲んだとき、携帯がバイブした。着信は工藤からだった。
「篠口さん、今、どこですか?」
「俺か? …ああ、家だ。お前は?」
「私は駅前にいます。よかったら出てきて下さい。いつもの店で待ってます」
 篠口は腕を見た。すでに九時半ばになっていた。フリーズへは十分内外で行けた。
「よし! じゃあ十時でどうだ」
「いいですよ。先に入って待ってます」
 話はすぐに纏(まと)まった。
 背広を脱いだ姿での出会いはラフで疲れがとれるから、篠口はいつもそうしていた。工藤は決まりの背広姿で現れた。一張羅(いっちょうら)と見え、数年これ以外の姿を篠口は目にしたことがなかった。
「待たせたな」
「いや、私も今入ったばかりですから…」
 二人が話してるところへ若い女の店員が近づいて来た。
「そうか…。俺、腹減ったから、海鮮ピラフとミックスジュース。お前は?」
「私はアメリカン…」
「以上ですか?」
 常連だから深くは訊(き)かず、女店員は水コップを二つ置くとそのまま楚々と去った。
「昨日は、きつかったな」
「昨日は、じゃなくって、昨日も、ですよね」
「ああ、そうだな。…ここ最近、当たり前だ。どう思う?」
「どう思うって、やるしかないんじゃ」
「ノルマ制ができてから、半端なく疲れる」
「取らないと・・という気疲れもありますよね」
「そう…。お前とコンビだから、なんとかもってるが、一人なら、とっくに部外者だ」
 そのとき、女店員が注文の品を持ってきたので、二人の会話はしばらく途切れた。無言で二人は飲み食いした。篠口は特に空腹だったから、話す暇(いとま)がなかった。
 十数分後、食べ終えた篠口が、下流へ放出されるダムの水のように口火を切った。
「俺達って、死ぬまで今のままか? な! お前どう思う」
「死ぬまで、ってこっちゃないでしょ」
「ああ、まあな。やめるまでだが…」
 篠口は一瞬、押し黙った。
「一度、あの社長席へ座ってみたいもんです。あの回転椅子のクッションが心地よさそうです」
「ははは…お前は能天気でいいな。俺にはそんな発想、浮かびもしなかったぜ」
「まあ、専務席でも常務席でもいいんですが…。少し心地悪くなりますがね」
 そんなこたぁ有り得ないだろう…と思えた篠口だったが、下がったテンションは一気に回復し、大声で笑い転げた。幸いフリーズの店内に客の姿はなく、遠くで棒立ちする女店員だけが訝(いぶか)しげに大声で笑う篠口を見る程度で済んだ。二人はその後もしばらく語り合い、店を出ると別れた。その後ろ姿は傷ついた二匹の狼が互いの傷を舐めあう姿に似通っていた。
 次の朝、出勤した篠口は会社のエントランスへ入ろうとしていた。今日からまたホルマリン漬けか…と、恐らく定刻には退社できない想定を胸に秘めて、篠口はエレベーター前に立った。そのとき、おやっ? と首を傾げる事態に篠口は気づいた。昨日までとは明らかに違う篠口に対する社員達の態度だった。すべての者が停止し、一歩下がって篠口に一礼する。篠口は、おいおい! やめてくれよ・・と口が開きかけたが、思うに留めた。状況が錯綜し、篠口の頭を混乱させていた。何故、自分に頭を下げるんだ? という疑問がまず、芽生えた。とりあえず、課へ行こう・・と篠口は急いだ。篠口が昨日まで座っていた課長席はあった。篠口は安心感からか、ほっとした。
「おはようございます、社長! なにかご用でしたか?」
 声をかけたのは課員の平橋羊一だった。
「お前、なに言ってる!」
 小馬鹿にされたようで篠口は少し、むかついた。
「なにって言われましても…」
 平橋は、それ以上は恐れ多くて言えない・・という顔つきで自席へ戻った。篠口にしてみれば、なにがなんだか理解できない。おっつけ、工藤も出勤してくるだろうから、それで事情が判明するだろう…と思え、篠口は不満ながらも課長席へは座らずUターンして課を出た。
 篠口がドアを閉じたとき、通路の向こうから係長の工藤が近づいてきた。
「おお! 工藤か。お前に」
 篠口がそこまで言おうとしたとき、工藤が話を切った。
「いや! 私から訊(き)きたいくらいですよ、課長」
「だよな! 俺は課長だよ。そうだろ?!」
「そのはずなんですが…。私は受付で『専務、おはようございます』と女子社員2名に挨拶されまして…」
 工藤は不安げに小さく言った。
「俺は社長って、今し方、平林に言われたぞ」
「課長は社長ですか…」
「どうも状況が変わってないのは、私と君だけみたいだな」
「ええ…。さあ、どうします?」
「とりあえず、皆に合わすしかないだろう。すべては、それからだ」
「はい! じゃあ、課長は社長室へ行かれるんですね?」
「ああ。君は専務室へな」
「はい、分かりました!」
 二人はエレベーターへ向かった。専務室と社長室は数階上だった。
「待てよ…。おい! だとすれば、社長や専務はどこへ行くんだ、工藤?!」
 エレベーターが上昇するなか、急に篠口が口走った。
「そんなこと、私に訊(き)かれましても…」
 工藤は迷惑顔で返した。よく考えれば、確かに工藤が言うように、どう社内が変化しているかが先行き不透明なのである。分からないまま数秒、沈黙が続き、チ~ンと音がした。続いて静かにドアが開き、二人はエレベーターを降りた。
「とにかく、お前は専務室へな。俺は社長室だ!」
「はい!」
 緊張した声で工藤が返し、二人は別れた。まるで、ビルへ突入した特殊部隊だ・・と篠口は、しばらく前に見た映画を思いだしていた。
 篠口が社長室へ入ると、秘書室長の山崎茉莉(やまざきまり)がいた。
「おはようございます、社長」
 一、二度、出会った記憶はあったが、名前は知らなかった。篠口は名札をジッと見た。
「どうかされましたか?」
「い、いや…なんでもない。それより川辺社長…いや、川辺君は?」
「川辺? …でございますか? …あのう、社の者でございましょうか?」
「あっ! いや、間違えた。なんでもない。いいんだ、いいんだ…」
 篠口は慌てて取り消すと、社長席へドッカ! と座った。昨日までの課長席とは数段、心地よかった。社長って・・こうなんだな…と少なからずテンションが高まった。
「今日のご予定は、十時から取締役会、正午から帝都ホテルで鈴木グループの鈴木会長との会食、その後、懇親会が予定されております」
「…懇親会?」
「いつものゴルフ場でございますが…」
 茉莉は怪訝(けげん)な表情で篠口の顔を窺(うかが)った。篠口としては、それ以上、訊けなかった。社長なら当然、知っているからだったが、ゴルフはグランドゴルフを青年会で齧(かじ)った程度の篠口なのだ。
「今日は体調がすぐれん。懇親会は日延べさせてもらうよ。そう、連絡しておいてくれたまえ」
 咄嗟(とっさ)に出た自分の言葉ながら、上手い! と篠口は、ほっとした。
 その日は、どうにかこうにか社長としてのスケジュールを熟(こな)し、篠口が疲れた身体を引きずるようにマンションへ戻ったのは夜の七時過ぎだった。工藤へ携帯を入れる気持の余裕もなく、社長としての時間を費やして帰宅したのだった。正確には確かに一度、トイレでかけようとしたことはあった。だが、「社長! どうかされましたか?!」と、お付きに入口の外から声高(こわだか)に叫ばれればそれも、ままならない。その後も車付きでの移動で、ようやくマンションへ着き、解放されたのだった。
「工藤か? どうだった?」
 マンションのドアを閉じると、篠口は、いの一番に携帯を握っていた。
「どうって、恐らく課長と同じ展開だったと思います」
「ということは、専務の一日か?」
「はい…」
「そうか…。実は俺も社長の一日だったんだ」
 しばらく二人は話したあと、明朝七時半に会社前で落ち合うことにした。少し早めにしたのは、他の社員達が出勤する前がいいだろうと判断したからである。
 翌朝七時、篠口は玄関チャイムで起こされた。うつろな目でドアレンズを覗(のぞ)くと、屈強なSP(セキュリティポリス)風の男が2名と手提げの黒カバンを持った背広服の若者が一人、立っていた。
「総理、お迎えに参りました」
「えっ?! もう一度、お願いします。どちらさまでしょう?」
「嫌ですよ総理、ご冗談は。私ですよ、秘書官の藤堂です」
「藤堂?」
 篠口には、まったく心当たりがなかった。それより、総理と呼ばれたことに篠口は仰天していた。幸い、朝食も済ませて出勤する矢先だったから、すぐ出られることは出られた。
「はい! 今、出ますから…」
 よくよく考えれば、首相が公邸にいないのが妙だが…と、思えた。だがまあ、歴代首相の中には自宅通いされる人も結構いるからな…と、頷(うなず)いた。それはそれとして、篠口は革靴を履くと、慌ててドアを出た。
「お待たせしました…」
 篠口は歩き始めた。篠口の前方に1名、後方に1名のSP風男がいかめしくガードして歩く。篠口の右横には藤堂がいて、歩調を合わせる。
「もっといつものようにお威張り下さい。今日の総理は少し怪(おか)しいですよ?」
 藤堂はニンマリとした。俺が総理で、いつも威張っているだって…。篠口は現実から乖離(かいり)した展開に、思わず笑い転げた。前後の男はギクッ! と驚いて歩を止め、藤堂も停止して篠口を窺(うかが)った。 
「ど、どうかされましたか?! 総理!」
「いや、失敬。なんでもない。ちょっと想い出したことがあったんだ…」
 篠口は、なるに任せるしかないな…と半ば諦(あきら)めた。
 やがて、連れていかれた・・と表現していい状況で高級車の後部座席に乗せられた篠口は、車中の人となった。横に添乗する藤堂は終始、押し黙っている。そのとき篠口にまた、一つの疑念が甦(よみがえ)った。
「総理って、公邸住まいじゃなかったのかな、普通は…」
「えっ? ああ、そのことですか。幽霊は嫌だから引っ越さないって言ってられたじゃないですか。私と一緒に住もうってご冗談も…」
 俺、そんなこと言ったか?・・とは返さず、篠口は黙って頷(うなず)いた。
「ああ、そうだったね…」
 車は永田町界隈へ入り、速度を幾らか落とした。
「まもなく公邸です」
「私はどうしたらいいの?」
「いつものように公邸でしばらく、ゆったりして戴いて、首相官邸へお送りさせて戴きます。その後は、総理のご意向のままに。官房長官とご相談を…」
「ああ、そうだよね」
 秘書官の藤堂は一瞬、顔をそむけ、これが総理か? という不信の表情を露(あら)わにした。そのとき篠口は工藤のことを考えていた。恐らく、この流れで行けば、奴が官房長官じゃないか、と…。
 やがて車はスムースに公邸前へ横づけされた。
「官房長官は工藤だったな?」
「はい、そうですが…」
 藤堂はふたたび、不信な表情を露(あら)わにし、篠口を見た。
「ははは…最近、健忘症ぎみでな。ド忘れすることが多いんだよ。一度、医者に診てもらわんといかんな」
「それは剣呑ですね。お大事になさって下さい。日本にとって、大切なお身体なんですから」
「ああ、ありがとう」
 篠口はそう返すしかなかったが、当てずっぽうの予想は的中していた。やはり、工藤が長官か…。はて、これからどうする。なるに任せるしかないか…と、篠口はテンションを下げた。解決の糸口が見つからないのだから仕方がなかった。
 ここは首相官邸である。内閣総理大臣となった篠口はテレビカメラと取り巻き連中に囲まれ官邸内に入ったあと、四階の閣議室へと直行した。閣議が迫っていますと補佐官の二宮に促されたからである。篠口としては、その前に工藤に会っておきたかったのだが、二人きりになる場は公式の場では不可能に近かった。余りにも周囲に人の気配が多過ぎたのである。
 篠口が閣議室に入ると、すでに閣僚は取り囲むように着席していて、テレビのニュース画面で見た映像が再現された。フラッシュが光り、篠口は中央へ座った。閣僚メンバーは一面識もない連中ばかりだった。ただ一人、官房長官らしい工藤だけがニヤリとして軽く頭を下げた。篠口の頭は白紙で、何を語っていいのかもまったく見当がつかなかった。なると、ままよ! とドサッ! と椅子に座ると、篠口は日常、思っている自論をぶちあげた。各社マスコミが室内から撤収した直後である。
「君達、どう思ってるんだ! 日本はこのままでは破綻(はたん)するぞ! 今こそこの国を、解毒せねばならんのだっ!」
 篠口はすでに総理になりきっていた。演じている気持も失せ、普段の思いの丈を吐露していた。閣僚達は、ただポカ~ンとして聞くだけだった。
「オホン! 総理が言っておられることを要約いたしますと、サラ金地獄に陥った我が国を、なんとかしよう! という決意なのです」
 咳払いを一つすると、工藤は官房長官になりきって上手くその場をとり繕(つくろ)った。篠口も少し言い過ぎたか…と思った矢先だったから、ほっとした。しかし我ながら、よくもまあ、こんな大胆な発言が出来たものだと、篠口は首を捻った。この時点で、篠口と工藤の身に起こった事象の歪(ゆが)みは、少しずつ終息の方向に動き始めていた。そのとき、秘書官の藤堂が血相を変えて閣議室へ入ってきた。藤堂はドアを閉め、篠口に駆けよるや、絶叫した。
「総理、偉いことです! 石橋国連大使が国連事務総長に決定しました!」
 知らない人物だったが、石橋? とは訊(き)けず、篠口は総理として慌てるな! と自分に言い聞かせた。
「そうか…。藤堂君、そりゃ偉いことでもなんでもなかろう。すばらしいホットニュースじゃないか。ねえ、皆さん!」
 篠口は余裕の笑いで閣僚達を見回した。閣僚達から誰彼となく拍手が湧き出し、閣議室に谺(こだま)する。篠口も工藤も、いつのまにか合わせるように拍手していた。篠口は表面上は笑顔で手を叩きながらもその実、ますます訳が分からなくなってきたぞ…と不安感に駆られていた。その心境は工藤もまた同じだった。俺は篠口課長の部下の係長でいいんだ! 誰か元に戻してくれ!! と懇願しながら…。次の瞬間、工藤が見る閣僚達の姿が歪み始めた。工藤は思わず、目頭を手で押さえた。その現象は総理の篠口にも起きていた。須藤も歪んで揺れる閣僚達の姿に、思わず指で目頭を擦(こす)った。
 気づけば、二人は課長室にいて、互いの席でうつ伏せになりながら眠りこけていた。室内では一人、二人と出勤を始めた社員達が席に着きながら、ざわついていた。
「課長! おはようございます」
 女性事務員の安藤由香が篠口と工藤の肩を揺すった。
「係長も起きて下さい!」
 二人は徐(おもむろ)に身体を起こし、辺りを見回した。すべてがなかったことのように、以前の状態へ戻っていた。
「今日は何日かね、安藤君」
「嫌ですね、課長。きのう、明日は開成銀行の藤堂専務にお会いになるとおっしゃっておられたじゃないですか」
 藤堂専務・・ああ、そういや新任の…と篠口は思いだした。篠口は支店から抜擢人事で就任した藤堂専務とは一面識もなかった。まてよ、藤堂?! まさか、あの秘書官の藤堂? と一瞬、篠口は鳥肌が立った。
「秘書官の藤堂? ははは…そんな馬鹿な話はないよな、工藤?」
 安藤が席へ戻ると、篠口はすぐ前の工藤に訊(たず)ねた。今までの現実から乖離(かいり)した世界が工藤と共有されていれば、工藤は秘書官の藤堂を知っているはずだった。
「はい、まさか…」
「ということは、君もあの世界にいたのか?」
「ええ、いましたよ。課長もですか?」
「ああ…」
 二人は沈黙し、青ざめた。
 それから一時間後、篠口はちょうど、決裁を済ませたところだった。それを見計らったように、課員の平林が課長席へ近づいてきた。
「課長、ただいま連絡がありまして、開成銀行の藤堂専務が、まもなく到着されるとのことです」
「ああ、そうか…。ありがとう」
 篠口は、これであの藤堂かが判明するぞ・・と思った。
「我々はどうしたんだろうな、工藤? いや、こんなバカな現実がある訳がない。夢だ夢だ、ははは…夢だ。だろ? 工藤」
「ええ、そう思います。僕が官房長官な訳がありません」
 二人は顔を見合わせて、笑い転げた。多くの課員達が一斉に、課長席と係長席の二人を見遣(みや)った。二人はすぐ表情を素へ戻し、笑いを止めた。


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短編小説集(12)狐狗狸[コックリ]さん  <再掲>

2024年08月19日 00時00分00秒 | #小説

 中学1年のときでした。職員室へ呼ばれた須藤君と桜庭(さくらば)君は生活指導の教師、川沼先生に注意されました。
「まあ、今日のところは大目にみよう。次回からは、ご家族を呼んで厳しく指導するぞ! もう、帰ってよろしい」
 二人は、ぺコリと頭を下げると職員室を出ました。須藤君と桜庭君が怒られていたのは、放課後に教室で五目並べをしていたからです。担任の山村先生には、それほど好きなら部を作れよ、といわれていた二人でしたが、放課後に残る者が十人を超えたところで・・と密かに決めていたのです。それが、あと僅(わず)かのところで、生活指導の川沼先生の耳に入り、呼び出された・・という訳です。おそらく、クラスの誰かがチクったに違いない・・と二人は廊下を歩きながら語りあいました。
「いや、木瀬だよ、きっと…。あいつは怪(あや)しい」
「そうか? 僕は安岡だと思う」
 二人の推理は違っていました。校門を出ると、いつも二人が立ち寄る公園がありました。
「よし、コックリさんだ! コックリさんに訊(たず)ねてみよう」
「コックリさん? なんだ、それ?」
 須藤君は首を捻(ひね)りました。
「まあ、僕に任せろよ。十円硬貨、あるか?」
「あるけど…」
「よし! それなら訊(き)けるよ」
 桜庭君は、カバンから画用紙を出すと半切りにしました。続けてその上へ鉛筆で「はい」「いいえ」と書き込み、その間に鳥居を描きました。そして、その下へ五十音の平仮名と数字を書いたのです。
「それじゃ、始めるよ。僕のいうとおりにしてくれよ」
「うん…」
 分からない須藤君は桜庭君に従うことにしました。桜庭君は鳥居の上に十円硬貨を乗せると人差し指を硬貨の上へ置くよう指示しました。須藤君がそうすると、その上へ桜庭君も人差し指を重ねて置きました。
「コックリさん、コックリさん、どうぞおいで下さいませ。もし、おいで下さいましたら、{はい}へお進み下さいませ」
 桜庭君がそういうと、十円硬貨は不思議にも動きだし、「はい」と文字の位置へ移動して答えました。
「チクったのは誰ですか」
 桜庭君は続けました。すると、ふたたび十円硬貨は不思議にも動きだし、「か・わ・ぬ・ま」と動いて示したのです。二人はギクッ! としました。「か・わ・ぬ・ま」とは生活指導の教師、川沼先生をおいて他にはいないからです。二人は思わず、顔を見合わせました。辺りには夕闇が迫っていました。
「コックリさん、コックリさん、どうぞお帰り下さいませ」
 桜庭君は丁重(ていちょう)にそうお願いすると、指の下の十円硬貨が動きだして鳥居へと戻(もど)りました。
「ありがとうございました」「ありがとうございました」
 それを見届けた桜庭君は、そういいました。須藤君も桜庭君に合わせていいました。
「おい! 川沼先生だよ」
「ああ…。ということは、先生が僕達を見てたってことかな?」
 少し怖くなった二人は、急ぐように公園をあとにしました。
 二人がその後、それとなく川沼先生に訊(たず)ねますと、川沼先生は「よく分かったな? そのとおりだ!」と、いったそうです。
 …実は、この話には続きがあるんです。三日ばかり過ぎた頃、急に桜庭君が熱をだして学校を休んだのです。それだけではありません。時を同じくして、須藤君も足を捻挫(ねんざ)して学校を休みました。一人だけならそういうこともあるのでしょうが、二人同時でしたから怖い話です。
「僕、あの紙と十円硬貨、まだそのままにしていたよ…」
 翌週の月曜日、二人は登校し、校庭で話し合いました。桜庭君が調べてみると、紙は48分割に細かく破り捨て、10円玉は三日以内に使って下さい・・と、あったそうです。桜庭君は、ついうっかり、あと始末をしていなかったのでした。桜庭君と須藤君は、その紙を放課後の下校のとき公園で破ると屑かごに捨て、十円硬貨は缶ジュースに使ってしまったそうです。その後は、そういうことは起こっていません。これは、すべて僕が二人から聞いた話です。皆さんもコックリさんをやるときは注意しましょう。崇(たた)りは怖いですから…。

                THE END


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短編小説集(11)知らない花[ばな]  <再掲>

2024年08月18日 00時00分00秒 | #小説

 今日も暑い日になりそうです。今、ふと思い出したのですが、そう…あのことがあったのも、こんな暑い日だったと思います。それはもう、20年以上も前のことなのですが、かつて私が勤めていた会社での出来事でした。
 その日、私は残った仕事を終え、ようやく解放された気分で自分のデスクで背伸びをしておりました。ビルの窓ガラスの向こうは、すっかり暗闇です。残っている者といえば、私と係長の野坂(のさか)の二人でした。野坂は私から少し離れたところで明日のプレゼンテーション用の書類コピーをしておりました。やがてそれも終わったようで、野坂は私の席へ近づいてきました。
「課長、そろそろ帰りましょうか?」
「そうだな…」
 私は野坂から書類を受け取り、疎(まば)らに確認しながら頷(うなず)きました。そして、なにげなく隅(すみ)の卓袱台(ちゃぶだい)上に置かれた花瓶に視線を移しました。その花瓶には、女事務員の三崎(みさき)が生けた花が飾ってありました。三崎は感心な子で、常々(つねづね)、自費で花を買って飾っておりました。そこまでするのは、なぜだろう? と疑問に思えたものですから何気(なにげ)なく訊(たずね)ますと、私の趣味です・・と、可愛く申します。即答されてはそれ以上、言葉を返すこともできず、以後はそのままにしておりました。しかし、私と野坂が見たその日の花は、今までに見たことがない私の知識外の花でした。毎度のことですから、課員の誰もが見過ごし、私も見過ごしていたようです。
「珍しい花だな。…君、この花の名、知ってる?」
「えっ?! いえ…。明日(あす)、訊(き)いておきましょうか?」
 野坂は振り向きながら、卓袱台に置かれた花瓶の花を見ていいました。花は電光に照らされ、不思議な輝きを放っておりました。
「いや、いいよ…」
 私は慌(あわ)てて打ち消しながら、席を立ちました。
 次の日、出勤しますと、先に来ていた野坂が血相変えて、私の課長席に迫ってきました。他の課員達もその異常さに驚いて、私達に視線を走らせました。
「課長! その花、名前がありません…」
「なんだって?! そんな馬鹿な! 調べりゃ分かるだろうが」
「いえ、本当なんです。気になったので寝ずに調べたんですが…」
 私と野坂は三崎のデスクを見ました。彼女は出社しておりませんでした。それ以降、次の日もまた次の日も、三崎は出社しませんでした。一人暮らしの彼女と音信もとれぬまま、ひと月が経ちました。不思議なことに花瓶のその花は枯れずにそのままの姿を保っておりました。科学的には誰が考えても有り得ない事実でした。話は農水省、学術機関、植物新品種保護国際同盟[UPOV]まで及びましたが、とうとう花の名は分からずじまいでした。課員の誰もが、少しずつ怖(おそ)れるようになったのもこの頃からです。私はこれ以上、放置すれば仕事にも影響し、課内の統制を乱す恐れがあると判断し、その花瓶と花を破棄するよう野坂に命じました。野坂は最初、身に危険が及ぶのを怖れたのか嫌がりましたが、仕方なく私の指示に従いました。
 次の日の朝、私が出勤しますと、デスクの上に1通の手紙が置かれていました。会社の私あてに届いた三崎の実家の親からのものでした。封を切りますと、今朝、三崎が息を引きとった・・とありました。私はその文面に、ギクッ! といたしました。といいますのも、それなら会社へ来ていたのは誰…ということになります。その話を課員達にしますと、課内は凍りつきました。以後、課員から異動の希望届が頻繁に出るようになったのは当然といえば当然でした。私も困りますから慰留に忙殺される日々が続いたのでございます。そうした働き辛(づら)い日々が続きましたが、さすがに数年もしますと、課員の怖さも薄らいだようで、私はやれやれ気分になっていきました。課ではその後、誰彼となく話が出るごとに、その花を知らない花(ばな)と呼ぶようになっておりました。そんな不思議な出来事が20年以上も前にありましたよ。未(いま)だに、その花の名の学術名は判明しておりません。

             THE END


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短編小説集(10)お気の毒  <再掲>

2024年08月17日 00時00分00秒 | #小説

 無宗教のお別れの会が、しめやかにとり行われていた。ちょうど、某有名人のお別れの辞が読み終えられたところだった。ここは、とある私営葬祭場のホールである。会場は故人の遺徳を偲(しの)ぶかのように、多くの弔問者でごった返していた。その数、ざっと数百名。映画やテレビでよく知られた有名人も多く列席していた。祭壇に飾られた遺影の壇田(だんだ)は、彼らを見ながら、こんな俺のために態々(わざわざ)、来なくてもいいのにな…と、ぶつくさいいながら、餅を齧(かじ)っていた。
━ ご遺族さまに続きまして、順次、ご献花をお願いいたします ━
 馴れた名調子で、葬儀社の進行係がマイクへ声を流す。遺影の向こうにいる死んだ壇田には、葬祭場の模様がテレビ画面で見るかのように克明(こくめい)に映し出されていた。むろん、献花する者達から見れば、ただの遺影でしかなかったのだが…。
「ほんとに、お気の毒なことでした…」
 後方に立つ稲首(いなくび)が、白菊の花を手にして、隣に立つ顔見知りの陸稲(おかぼ)にそういった。
「残念なことです…」
 陸稲もポツンと返した。
『ふん! なにいってやがる、あいつら! 俺が死んで清々(せいせい)したって思ってるに違(ちげ)えねえんだ! どうしてくれようか。よし! アレだな!』
 憤懣(ふんまん)やるかたない壇田は、そういうとガブリ! と餅を齧ってニンマリした。
 列は進んで次第に稲首と陸稲の献花する順が近づいてきた。そのとき異変が起きた。有り得ない異変だった。稲首と陸稲が最前列に来た瞬間、二人が手にした白菊の花がポロッ! と花の部分が折れ、床へ落ちたのである。それも二人同時だった。一瞬、多くの者の目が二人に浴びせられ、ホールは凍りついた。二人は慌てて床に落ちた花を拾い、手にする茎に添えて献花した。格好悪い無様(ぶざま)さだった。稲首と陸稲はソソクサと後方へ下がった。
『ははは…ざまぁみろってんだ!』
 そういうと、壇田はまた、ひと口、餅をガブリ! と齧った。
「ほんとうに…。いい方でございましたのにね」
「ええ…、お気の毒でございますわ~」
 銀座の高級クラブのママ、百合(ゆり)と菖蒲(あやめ)が呟(つぶや)いた。
『なにが、お気の毒だ! 今度は、あの金盗り虫のクソ婆(ばばあ)どもか!』
 壇田はニヤリとして残った餅を頬張ると、手にしたあの世の水をグイ飲みした。そのとき、光が射して厳かな声が壇田に届いた。
『そのとおりなのですが、それは私にお任せなさい。あなたが、そういうことをしちゃいけません! お気の毒な方だ…』
 壇田はいい返せなかった。最前列まで来ていた百合と菖蒲は、その瞬間、合掌したまま同時に、くしゃみをした。

                 THE END


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短編小説集(9)鞄[かばん]  <再掲>

2024年08月16日 00時00分00秒 | #小説

「あのう…もし。これ、忘れ物ですよ」
 鳥山住夫は電車を降りようとして隣の座席の男に呼び止められた。男が手にしていたのは鞄(かばん)だった。住夫が男との境に置いた鞄をうっかり忘れていたのには、それなりの理由があった。結果、住夫は呆然(ぼうぜん)として、鞄を持って乗ったことすら忘れていたのだった。住夫はギクッ! と驚いたように振り返った。
「あっ! どうも…」
 軽い会釈で鞄を受け取ると、住夫は乗降扉の方へ歩いた。こんなヘマやっちまって、なにやってんだ、俺は…と、自分自身が腹立たしかった。
 小一時間前、ちょっとした手違いで課長の丸岡から、こっぴどく叱責(しっせき)され、住夫はすっかりテンションを下げていた。
「駄目じゃないか! 鳥山君! 我々は公僕なんだぞ。間違えました・・では済まないんだ! 幸い、先方さんが気づいてくれたからよかったものの、そのままだったら訓告以上だぞ! …まあ私がいるから、そこまではいかないだろうがな」
 丸岡は自分を少し高く見積もり、偉ぶった。住夫が意気消沈して席に戻ったとき、定刻のチャイムが鳴り、気落ちしながら役所を出た。駅へと歩く道すがら、失敗の原因を辿(たど)ったが、どうしても分からないまま電車へ飛び乗っていた。そして、なお想いに耽(ふけ)って鞄を忘れた…ということだ。
 駅の前に小さなラーメン屋台があった。住夫は常連で、いつも決まりのニンニク入り葱(ねぎ)ラーメンを注文し、冬なら熱燗をコップ一杯、以外は小瓶のビール一本と決めていた。屋台の親父も馴れたもんで、住夫を見ると、注文を聞かずに準備を始めて、出した。
「今日は元気がありませんね、鳥山さん」
 住夫が座った途端、慰めるような眼差(まなざ)しで優(やさ)しく親父が声をかけた。
「ああ…つまらんことで、怒られちまったんだ。ははは…、今日はどうかしてるよ、俺」
 住夫は笑って返した。そのとき、小さな声がした。
『明日(あした)から、逆のいいこと、ありますよ、住夫さん』
 住夫は辺りを見回した。客は自分一人で、親父以外、誰もいない。
「親父さん、今、なにかいったか?」
「へえっ? いや、ぺつに…」
 親父は鉢の麺に具を添えながら、顔を上げていった。
「そうか…。気のせいか」
『気のせいなんかじゃありませんよ、住夫さん』
 ふたたび、住夫の耳に、はっきりと声が聞こえた。
「誰だ!」
 住夫は思わず立って叫んでいた。
「鳥山さん、大丈夫ですか?」
 心配そうな顔で親父が住夫を見た。
「ははは…、どうも。俺、疲れてんだな、きっと」
 バツわるく、住夫は座りながら声を小さくした。その後はなにもなく、残ったコップのビールを飲み干すと住夫は屋台を出た。
「また、どうぞ…」
 置かれたお愛想を手にして、親父は決まり文句をひとつ吐いた。住夫は心地よく歩いて家路を急いだ。今日のことは忘れよう・・と思った。そのとき、また声がした。
『場所がらも考えず、先ほどは失礼しました。いったことは本当です。明日になれば分かりますよ』
「誰だ!!」
 住夫は立ちどまり、辺(あた)りを見回した。だが、だれもいない。漫(そぞ)ろ歩く通行人が驚いて、振り返った。
「いや! 別に、なにもありません」
 住夫は笑って誤魔化し、また歩き始めた。
『私は、あなたが持つ鞄です。この前は修理して下さって有難うございました。では…』
 住夫は、また立ち止って、手に持つ鞄を見た。捨てようとしたが思いとどまり、昨日、修理した鞄だった。
 次の日、辞令が出た。住夫は課長補佐に昇格していた。
「ははは…、おめでとう。昨日のことは忘れてくれたまえ鳥山君。君も管理職だ、よろしく頼むよ」
 うって変わった態度で、丸岡がいった。

                 THE END


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短編小説集(8)夜闇提灯[よいやみぢょうちん]  <再掲>

2024年08月15日 00時00分00秒 | #小説

 いや~、こう暑いと堪(たま)りませんな。ははは…私なんか、めっぽう暑さには弱いもんで、どこか涼しげな外国で暮らしたいのですが…。能書(のうが)きはこの辺にして、話を進めて参ります。
 私の実家はとある片田舎なんですがね。夏ともなれば蝉が我が世とばかりに集(すだ)く、今考えれば、いい風情の村でございました。私も今では大都会で暮らしておりますが、社会人になるまでは、この片田舎で暮らしておったというようなことでして…。
 話は私の子供時代へと遡(さかのぼ)ります。村は戸数が二十軒ばかりの山奥の小さな集落でしたが、ここには古い風習がありましてね。村の社(やしろ)の祠(ほこら)に年番で一年間、夜中参りをする・・という変な風習なんですが、そういうのがありました。私の家も来年、その年番が回って来るというので、父は、そろそろ精進潔斎しないとな・・なんていっておったもんです。と申しますのは、年番に当たった当家は翌年、他家へ引き継ぐまでの一年間、精進潔斎をして身を清め、神や仏に仕(つか)えるということなんでございます。神や仏といいますのは、古い神仏混交の思想からきておるようでした。
 そんなある日、私の家へ駆け込んだ一人の男がおりました。この年の年番の村人でございました。私は九才ばかりの子供でございましたが、父とその男の会話は、今でも手にとるように、はっきりと憶えております。話の内容は来年、引き継ぎを受ける家の者が、俄(にわ)かの病(やまい)で亡(な)くなったから私の家で引き継いでもらいたい・・という内容でございました。父はまだ一年あると思っておりましたから、心の準備ができておらず、最初は少し躊躇(ちゅうちょ)しておりましたが、仕方なく引き受けたようでございます。亡くなった村人の送りも済み、その後は、こともなく翌年の正月となりました。当然、父は話を聞いた翌日から精進潔斎で身を清め、正式な引き継ぎに臨んでいたのでございます。
 夜中参りは仏滅の日の子(ね)の下刻に提灯(ちょうちん)に灯りを灯(とも)し、山中の祠(ほこら)まで参って帰るという、ただそれだけの行事なのでした。で、引き継いだ父もそのように始めた訳でございます。昔からの風習でございますから、やめればなにか、よからぬことが起こるのではないかと、村の誰もが思うところは同じだったようでございます。
 仏滅が巡ったある夜のこと、父はいつものように提灯を灯して山道を歩いていたのでございます。すると、ふと夜闇(よいやみ)の彼方(かなた)に、父と同じような提灯の灯(あか)りが見えたそうにございます。深夜のことですから、そのようなことがあるはずもありません。父もそう思ったものですから、その灯りの方へ近づいていった訳でございます。すると、提灯を持って歩く確かに死んだはずの村人が灯りに照らしだされ、一瞬、見えたそうにございます。父は余りの恐ろしさでその場に蹲(うずくま)り、顔を覆(おお)いました。そして、恐る恐るもう一度、その灯りを見ますと、死んだ村人の姿は、すでに失(う)せ、灯りも次第に遠退(とおの)いてスウ~っと消えたそうでございます。父は、しばらく呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしたと申しておりました。ふと、我に返った父は、いつものように祠へのお参りを、なんとか済ませ、家へ帰ったそうにございます。その後のお参りは、そのようなこともなく、父は無事に翌年の引き継ぎを終えた訳でございました。父があとから聞いた話によりますと、その村人は信心深かったそうでして、かなり精進潔斎をしていたという話でございます。どうも、その男の執念が霊の姿で参ったらしいのでございます。そんな怖い話を九才の頃、聞かされた記憶が残っております。

                   THE END


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短編小説集(7)価値[value]  <再掲>

2024年08月14日 00時00分00秒 | #小説

 派手な衣装と高価なネックレスで身を纏(まと)い、厚化粧を塗りたくった老齢の貴婦人と、頭髪に似つかわしくないティアラを飾(かざ)った老齢の貴婦人二人が、高級宝飾店の店内でガラスケースを覗(のぞ)き込んでいた。
「ホホホ…これなんか、安くて手頃ざ~ますわ、奥さま」
 ティアラ貴婦人が厚化粧貴婦人にアドバイスした。
「あら! そうざま~すわね。高々、1億2千万…」
「それに、なさ~ましな」
「ええ、じゃあ…。あの~う! これね」
 厚化粧貴夫人はガラスケースを指さし、まるで召使いのように後ろに従って直立する若い女性店員に指示した。
「かしこまりました…」
「お支払いは、いつものようにね」
「はいっ! あの…お付けになられますか?」
「えっ? 今日はその気分じゃないの。包んでちょうだい」
「分かりました…」
 何度も通う常連と見え、話は滑(なめ)らかに進んで、なんの違和感もなく10分後には二人は店の外を歩いていた。ティアラ貴婦人は買い求めた小袋を提(さ)げ、自慢げだった。皆さん、見てちょうだい、とばかりにわざと振るその袋も、ただの紙袋ではなく、純金+ダイヤモンド装飾の袋である。これだけでも軽く数百万はすると思われた。老貴婦人二人が歩く前方には二名、後方にも二名の黒サングラスをした頑強なガードマン達が黒背広で貴婦人達を守っていた。まばらに通り過ぎる人々は、まるで有名人を見るかのように立ち止まり、二人に視線を向けた。
「お食事にしましょうか? いつものお店で・・」
 買物でテンション高めの厚化粧貴夫人がティアラ貴夫人に提案した。 
「ホホホ…左様でござ~ますわね」
 二人はしばらく歩き、馴染(なじ)みの、とある高級料理店へと入った。店頭には会員制の看板がかけられていた。一般客は入れない店だった。決められたかのように四人のガードマンは店前で立ち止まり、一歩も動かずガードした。
 約1時間後、超A級の食事を終えた二人は満足げに店を出た。氷のように店前で立ち尽くしていたガードマン達は、まるで機械が再起動するかのように前後二名づつに分かれ、貴婦人達をとり囲んで歩きだした。やがて二人の老貴婦人達は、待たせた高級車に乗り込むと、街をあとにした。
 時は流れ、三年が経過したとき、世界の情勢は一変していた。人類は食糧不足の飢餓状態へと突入していたのである。すべてが文明という名のもと、食糧生産を軽(かろ)んじ、飽食を続けた末の代償(だいしょう)ともいえた。
 街は荒(すさ)み、人々は飢えに苦しんでいた。食べ物の物々交換が当たり前の世界に変化していた。街路には浮浪者の姿が溢(あふ)れていた。その中に、かつてのティアラ貴婦人、厚化粧貴婦人の姿もあった。だが、ボロ着を身につけた窶(やつ)れた姿には、以前の輝きを見いだすことはできなかった。ただの老婆の姿がそこにはあった。当然、過去にいた4人の頑強なガードマン達の姿も消えていた。二人の老婆は露天でパンを買い求めていた。
「商売の邪魔だ! 食い物もってねえなら、さっさと立ち去りな、ばあさん!」
「まあ! なんざま~す!! ばあさん、ですって? 失礼な!!」
「だって、あんたら、ばあさんだろうが! ばあさんにばあさんっていって、なにがいけねえんだ!」
 荒(すさ)んだ露天商の男に二人は言い返せず、沈黙する他はなかった。
「あの~、お願いですから、そこのロールバンを一袋、いえ、二個だけこの宝石と換えて下さ~まし。これ、1億2千万いたしますことよ」
「1億2千万だと!? 馬鹿いっちゃいけねえ! こんな宝石100個、200個積んだって、このパン1個の価値もありゃしねえよ。ほら、そこに落ちてる石ころと同(おんな)じさ」
 二人は意気消沈し、トボトボと、その場を去ろうとした。
「待ちな。ほれ、これひとつ、くれてやるよ。俺も助けられたことがあるからな。さあ、早く行きな!」
 二人はパンを受け取ると涙を流しながら立ち去った。男の足元の石ころの横に、一つの宝石が転がっていた。 

                    THE END


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短編小説集(6)ストップウオッチ  <再掲>

2024年08月13日 00時00分00秒 | #小説

 陸上部コーチの末松教諭はグラウンドを周回して戻った生徒の高輪進に声をかけた。
「よし! 1分50秒02だ。コンマ04早くなったぞ。フゥ~、暑くなってきたな。今日は、これまでだ! 隣の北洋商業みたいに熱中症で倒れられたら、ことだからな」
「…はい! …」
 進は荒い息を鎮めながら、そういった。湧き立つ積乱雲が俄(にわ)かにその勢いを増しながら全天を占拠し始めた。同時に遠雷が鳴った。二人はグラウンドを歩きながら空を見上げた。
「進よ、こりゃ、ひと雨来そうだな」
「そうですね…」
 ようやく乱れた息が静まり、進はタオルで顔を拭(ぬぐ)いながら返した。校舎へ入ると末松は職員用更衣室へ、進は部室へと別れた。
「お疲れさま!」
 部室に残留していたマネージャーの藤崎有里香が元気よく、ペットボトルのスポーツドリンクをさしだした。
「おう! 有里香か。気がきくな!」
 進は冷えたボトルを手から受け取りながら笑っていった。
「どうだった?」
「んっ…まあな。04早くなった」
「よかったじゃない」
「ああ…。だが、県体優勝は800の場合、48秒ペースじゃないとな」
「まだまだって訳ね」
 進は黙って頷(うなづ)きながら、シャワー室へと消えていった。
 次の朝は強化合宿で進だけの特訓だった。200mのグラウンドを4周しスタートラインへ戻ってきたとき、末松が口を開いた。
「妙だな…」
「先生、どうかしました?」
「いや、気のせいだろう。…また、38秒30か。新しいの買った方がいいな。壊れちまったらしい」
 末松はストップウオッチを振ったり弄(いじ)ったりしながら愚痴った。
「38秒30! 1分38秒30ですか!?」
「ああ、1分38秒30だ…」
「はは…そんな、馬鹿な!!」
 進は誰にいうでなくニヤついた。進がいったとおり国内高校男子の記録では1分48秒台が最高だった。進はそれより10秒ほど早く走った計算だ。いや、そればかりか、陸上男子800mで1分40秒の壁を破る世界記録は未(いま)だかつて出ていなかった。
「進、今日はやめだ、明日(あす)にしよう。備品で買ってもらわんとな」
「それしか、ないんですか?」
「ああ、この学校はケチだから部費落としで買えるのは一ヶ月待ちだ。そんなにせんから、これから自腹で買ってくる。大会前だ、のんびりと待っとられんからな、ははは…」
 そういうと末松は進の肩をポン! と軽く叩き、笑い飛ばした。
 翌日の朝になった。準備運動を済ませた進がグラウンドで待っていると末松が現れた。手には真新しいストップウオッチを持っていた。
「準備は、いいな?」
「はい! OKです」
 進は軽く身体を動かしながらいった。
「よし、それじゃ始めるぞ!」
 進は位置に着き、末松の合図で走り始めた。そして4周し終え、息を切らせながら口を開いた。
「先生、どうですか?」
 末松の顔から血の気が失せていた。
「おかしい…」
 末松は呻(うめ)くような小声で呟いた。真新しいデジタル式ストップウオッチは、またも01:38:30を刻(きざ)んでいた。進は末松が手にするストップウオッチを覗(のぞ)き込んで絶句した。
「進…これが本当なら、お前は世界のトップランナーだぞ!」
「まさか…」
「ああ、俺も、まさかとは思うが…」
 二人は凍りついたまましばらく、その場に立ち尽くした。そこへ有里香が校舎から出てきた。
「先生~、差し入れです~」
 二人は唖然(あぜん)として、走って近づく有里香を見た。有里香の手には鮮やかなオレンジ色の布に包まれた手料理が持たれていた。二人にはそれが手料理だと分かった。昨日とまったく同じ朝が繰り返されていた。
 二人の目の前に有里香が来たとき、二人はふたたび唖然として、言葉を失った。鮮やかなオレンジ色の布には01:38:30の黒文字が描かれていた。

                 THE END


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短編小説集(5)底なし沼  <再掲>

2024年08月12日 00時00分00秒 | #小説

 皆さんは底なし沼というのをご存知でしょうか。実は、これからお話しするのは、その底なし沼に纏(まつ)わる不思議な出来事なんですがね。まあ、信じる信じないは、あなたの勝手、私は語るだけ語って退散しようと…思ってるようなことでね。なにせ、これだけ暑けりゃ、早く退散したくもなるってもんで…。
 かつて私が住んでおりました田舎は山村でして、今では廃村になっております。近年、この手の過疎化はどこでも見られる訳で、別に珍しい話でもなんでもないんですが…。しかし、私の村が廃村になった訳というのには、実は別の理由があったんですよ。と、申しますのは、もう随分と前、そう…私が赤ん坊の頃のお話なんです。過疎化とかが問題になるような時代では決してございませんでした。かく申します理由といいますのは、そう! 最初に申しました沼に起因するんでございます。
 私の村には昔から語り伝えられる話がございました。それは、いつの日か必ず田畑が窪(くぼ)み、そこが底なし沼となって村人を誘うから、そうなったときは村を棄(す)てて逃げよ! という俄(にわ)かには信じられないような言い伝えなんですよ。私がまだ乳飲み子の頃、地が揺れ、ぽっかりと田畑が陥没したらしいんですよ。これもね、今なら地震の陥没だろ? と冷静に訊(き)かれると思うんですが、それがそうとも思えなかったんです。といいますのは、わずか十日ほどで水が溜(た)まって小さな池に、そして半月ほどで水が引くと、言い伝えの沼が出来たんです。まあ、村の者達も、すぐには言い伝えの沼とは誰もが思わなかったんですがね。
 そんなことがありまして、あるとき、一人の村の若い者(もん)が、怖いもの見たさで近づいた訳です。すると、どう見ても底なし沼には見えない。なにせ、水が引いてますから、表面はまだ湿ってますが普通の地面に見えた訳です。で、向こう見ずだったんでしょうね。裸足(はだし)になると、どんなもんだとばかりに、ひと足ふた足と入ってみた。別になんともない。これは大丈夫だと思ったんでしょうね。さらに足を進めた途端、…もうお分かりと思うんですがね。そうなんですよ。その男、ズブズブ…っと跡形もなく沼に飲み込まれたんですよ。いや、私はそう聞かされただけで、見た訳じゃないんですが…。えっ? なぜ分かっていたってですか? それは、その男が自慢たらたら他の若い者に吹聴(ふいちょう)していたからなんですよ。で、男を助けに数人の男が沼に近づいた。村では帰りを待ったんですがね。その男達も帰ってこなかったんです。そうなると、村人も気味悪くなり、他の村へ出ていく者が出始めました。私の家もその一軒でしてね。なんでも、二十軒ばかりあった村は、その後しばらくして村人がいなくなり、廃村になったようなことらしいんです。いえ、これは諄(くど)いようですが私が親から聞いた話でしてね。乳飲み子の私が断言できる訳がございません。作り話か、どうなのか…。真偽のほどを明確にすべく、私は、いつやらその田舎へ行ってみました。…沼らしきものは確かにありました。私は怖くなり、すぐさま駅へ、とって返しました。


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