神 隠 し 水本爽涼
(5)
そして次の日は巡った。男が家を出たのは早暁である。女が目覚めたとき、男の布団に温(ぬく)みはもうなかった。あの人は何を楽しみに、この今を生きているのだろう…と常々、想う女であったが、この日の朝は尋常の心境ではいられなかった。女は昨夜、夫が帰ったとき、老人のお告げ…いや、神のお告げを話さなかったことを悔いた。おさな子は未だ眠っていた。だが、今となってはもう遅い。老人が残したお告げが真(まこと)ならば、この不自由な身を押して、出た夫を探し出し、そして仔細(しさい)を伝えることなど、まず出来ない。それどころか、おさな子を連れ、自らの身と逃げれるのかどうか…と、女は茫然と巡った。事実ならば時の余裕はない。だが、女には老人のお告げが、やはり訝(いぶか)しく思えるのだった。それ故、女は家に留まっていた。
地が揺れ、そして少し遅れて山が火柱を上げたのは、女がそう巡った直後であった。
異変が起き、急いて男が戻ると、家は跡形もなく崩れ落ちていた。しかし、男が懸命に探しても、奇妙なことに二人の姿を見出せなかった。山頂の噴火は次第にその勢いを弱めつつあった。男には我が身の危うさなど、どうでもよかった。女と我が子さえ無事であれば、他の事などどうでもいい…と、心から思えた。
あれからもう、三年ばかりも歳月は過ぎ去っている。今では地の人も、男を他所(よそ)者とは呼ばず付き合ってくれる。粗末ながら、こうして家まで無償で建ててくれた。そして、女と子が消えたことを、地の人は“神隠し”だ、と信じて疑わない。男にすれば、その不可解な事実を、最初、そうだとは認めたくなかった。しかし、二年が経過したある頃から、男の心境は次第に変化しだした。女の車椅子だけが傷つくことなく瓦礫(がれき)の下から見つかったことを考えれば、やはり、神隠しなのだろうか…と、思えたのである。
もういいではないか…と、男は去った過去を忘れようとした。深く考えれば自らが辛くなる。現実は疎(うと)ましいものとなったけれど、今はこうして安堵できるだけ、薄幸の人々より恵まれている。男には、そう思えていた。何故か寂しさはなかった。男はふたたび両眼を擦りながら窓硝子を見上げた。やはり陽は高く、燦々(さんさん)と輝く光を男に与えていた。
完
神 隠 し 水本爽涼
(4)
不審には思えたが、叩く音は止(や)まない。仕方なく女は木戸へ近づいた。そして、「はい、…どちら様でしょう?」と小声をかけた。
「夜遅う、すまねえだばって…、急ぐの用だずら、開けて貰えねか?」
「はい…今、お開けしますから…」と、女は戸口の閂(かんぬき)を外(はず)した。そして戸口を空けると、白衣を纏った見知らぬ白髪の老人が立っていた。
「旦那ば、まだお帰りでねよのだんずな?」
軽く会釈して女は肯定したが、不気味なその老人の用向きが何なのかは分からなかった。
「取りあえず、おめだけにも伝えておこと来たんだども・・・。明日、向かいの山さ、異変が起きんずや。その前(めえ)に、地が揺れるだべ。わは、高取川の主(ぬし)だども、おめ方ば、ずっと今まで守ってきたんずや。その訳は話せねども、ただ一つ云えるこたぁ、おめと旦那の縁(えにし)ば司(つかさど)った、とだけ…。だばってら、出来るだけ早ぐぅ逃げんずや」
老人は地の方言でそこまで告げると、スッっと、疾風のように消え失せた。女は幻を見たのかと唖然として、戸口に立ち尽くした。この今は現実なのか…そのこと自体、女には訝(いぶか)しかった。それよりも、お告げの話を馬鹿正直に打ち明けていいものかどうか…と、女は迷うのだった。
男は悪天候で遅れに遅れた突貫工事を済ませると、深夜には戻った。家族三人が慎ましく暮らすためとはいえ、男にとってすれば、慣れぬ地での飯場は過酷であった。
おさな子を寝かしつけた女は、じっと男の帰りを待ち侘(わ)びたが、いつしか微睡(まどろ)んでいた。それを察してか、男は物音を立てず女の傍(かたわ)らへ寄り、そっと毛布をかけてやった。その時、女はふと目覚めた。そして薄目を少し開けた。
「あっ、帰ってらしたんですか…」と、女は起き上がろうとする。おさな子は安息して眠っている。男は、「そのまま…」と投げ掛けて女を労(いた)わると、いつもの手際よさで遅い食事を済ませた。女はついに謎の老人のお告げを話せなかった。
つづく
神 隠 し 水本爽涼
(3)
男は、急ぎの用を忘れていた。
「あのう…、お足がご不自由のようで大変ですね。宜しければ、そこら辺りまで押しましょう」
「いいえ、ご迷惑になりますから…」と、ひと言、女は断りを入れた。「まあ、そうおっしゃらずに…、足元も凍て始めましたから」
男はそう答えると、もう車を押していた。
今から想えば、男にとってはこれが初恋であり、ひと目で惚れる感情の初めでもあった。
女は橋向こうの長屋に住まいしていた。その近くまで送られたとき、女は、「ここで結構です。もう近くですから…」と呟き、頭を下げた。
「そうですか…では」と男も軽く会釈をして去ろうとした。「有り難うございました」とだけ、去り行く男の後ろ姿に女は返していた。
この最初の出逢いが、連れ添う縁(えにし)の始まりであったことを、やはりこのとき二人は知る由もなかった。
その次に二人が偶然にも出逢ったとき、互いの心に恋の予感めいた、ときめきが起きた。そしてそれが男女の会話へと少しずつ変化を齎(もたら)せていった。男も、そして女も、自らの境遇や生い立ちを話すまでになった頃、男は女が自分に少なからず好意を抱いていることを感じ、そして女もまた、そう感じるようになっていた。やがて、運命の糸に操られるかのように、二人は恋の奈落へ落ちていった。二人は倖せであった。
式さえ挙げず二人は暮らし始め、そして七年の歳月が走馬燈のように流れて去った。女は不自由な足で懸命に家事を熟(こな)した。そして男もまた精一杯、働いた。二人の間には子供が生まれていた。この頃も二人は倖せであった。
運命が二人を翻弄(ほんろう)したのは、三年ばかり前である。その時、男は仕事に出ていた。漸く這い始めた乳飲み子に寄り添い、女は部屋隅でその子を懸命にあやしていた。極寒の凍てつく冷気は、未だ春を拒んで寄せ付けないようであった。窓から射す冴えた蒼い月が、女と子を淡く照らしていた。
外で木戸を叩く音がした。女が訝(いぶか)った訳は、男なら『帰った…』と、声をかける筈だったからである。
つづく
神 隠 し 水本爽涼
(2)
男には過去に女がいた。半身不随のその女に男が出逢ったのは…、そう…今からもう、十年ばかり前に遡(さかのぼ)る。
高取(たかとり)橋の橋の袂(たもと)を女が過(よぎ)ったとき、男は偶然にも、その場を通り掛かった。今ではもう情緒そのものが失せ、暗渠(あんきょ)へと変貌してしまったが、当時は古びているとはいえ温(ぬく)もりが残るその橋の上で、二人は擦れ違った。一方は橋を渡り終えようとし、もう一方はこれから橋を進もうとしていた。冬の到来を告げる白い綿にも似た雪が舞っていた。女は急(せ)いてはいなかったが、男の方は気掛かりな用向きでもあったのか、少し急いでいた。女は勾配を含む橋の袂で、いつもよりか力を込めて車椅子を押した。両腕に掛かる重圧は、僅かな負担ではあったが、それでも女にとってすれば、もう慣れというか、宿命(さだめ)のような諦念めいた免疫が心に備わっていたから、ぐっと踏ん張って耐えた。二人が交差した刹那、女の胸元から琥珀のプローチが零れ落ちた。そしてそれは橋板で、微かな音を奏でた。これが宿命というものなのか…。だが、疾(と)うの本人達には、それが分かる由もない。男は、その掠(かす)れた微音に、ふと急ぐ足を止め、そして振り返った。女は角巻(かくまき)を纏っていたから、男にはその全貌が見えなかった。しかし、そう齢(よわい)を重ねてはいない娘だな…とは、凡(おおよ)その察しはついた。そして淡く光る橋板の上のブローチを、腰を屈(かが)めて拾っていた。「もし…、これ、落ちましたよ」 男はひと言、女の後ろ姿にそう投げ掛けた。
突然、呼び止められ、女は一瞬、ギクッとしたが、振り返って、「有り難うございます」と、そのブローチを躊躇(ためら)いつつ受け取った。その刹那、二人の視線は合った。細粒に変化(へんげ)した雪が、相も変わらず二人に纏わりついていた。どちらからともなく相手を意識した訳は、二人が方言で話さなかったためである。互いに、━この地の人ではない━という共通した想いが巡り、その瞬きの感情の迸(ほとばし)りが、二人に親近感を齎(もたら)したのだった。
つづく
神 隠 し 水本爽涼
(1)
風の笛が睡眠を脅(おびや)かそうとする。すると、梢の一群も撓(しな)り、騒がしくなる。どちらが先で、またどちらが後なのかという決め事などはなく、その現象は微睡(まどろ)みと同時に起こることだってある。更に加えるならば、それは闇の中で絶え間なく続けられていく。過去は忘れて眠るのだ…と、この疲れきった男が懸命になればなるほど、樹々達のそうさせまいとする嘆きは、ゴゴーッ、いや、ザザーッ…でもなく、恰(あたか)も、行李(こうり)の中へ豆粒の多くを入れ、それを傾げたときに発する擬音の波を変じた音・・を奏でるのだ。正確に表現するならば、その音を低くデフォルメしたかのような低音域の群舞を発するのだが、一方、風の方はというと、狭(せば)めた口唇から吐息を吹き出すときに生じる高音域の奏楽を奏でようとする。この男にとって、それらの音を聞き続けることに嫌悪感などは決してないのだが、安眠を得られず切ないから、心地よいという音色とも思えず、妙に疎(うと)ましい。足早に去っていった過去の鬱屈(うっくつ)した時の標(しるべ)が、この男の床(とこ)を離れようとする決断を鈍らせるだけであった。だが、床の中にいても眠れないのだから辛い。実のところ、今の彼には現実を直視することが、おぞましい行為に思えていた。
もういいではないか…過去のことは、と男は巡った。深く思考すれば、自らが辛くなる。結果は疎(うと)ましいものとはなったが、充実した人生を味わえただけ、そして安らげただけ薄幸の人々よりも恵まれている。男には、そう思えていた。何故か、寂しくはなかった。
目覚めれば、雀(スズメ)が囀(さえず)るのみである。昨夜、あれだけ眠りを妨げた風や樹々の嘶(いなな)きは、疾(と)うに消え失せていた。やはり、眠ってしまったようである。人間など弱いものだ…と、思えた。
乾涸(ひから)びた布団を抜けると、窓の射光が眩(まばゆ)かった。男は両眼を擦りながら窓辺へと近づいた。すでに陽は高いように思えた。茫然と外景を眺めれば、過去の全てを夢だと思いたくなった。
つづく
経ヶ岬 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
流れ唄 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
健気に生きてる 幼(おさな)星・・・
汚れ騙され 死ねずに生きる
酒場で出逢った 恋の星・・・
経ヶ岬 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
※ 麻生新さんのホームページ 麻生新・・・歌が好きだから
流れ唄 水本爽涼 作詞 麻生新 作編曲
健気に生きてる 幼(おさな)星・・・
汚れ騙され 死ねずに生きる
酒場で出逢った 恋の星・・・
サチコ[田中収 作詞作曲 歌 ニック・ニューサー] かえうた
○○○
揺れる波間(なみま)に 仄(ほの)かに浮かぶ
あの日 出逢った 真っ赤な 夕陽
○○○ ○○○ お前を俺は 死ぬほど好きだと 心に刻(きざ)む
呼んだぜ 呼んだぜ 港の月に
遠い波間に 白ぶく灯台
あの日 歩いた 二人の 階段
○○○ ○○○ お前を俺は 昨日(きのう)も今夜も 心に想(おも)う
祈るぜ 祈るぜ 港の星に
○○○ ○○○ お前は俺を 待っているのか もういないのか
泣けるぜ 泣けるぜ 港の風に
※ ○○○の女性名はお好きな方をどうぞ。^^