水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

ユ-モア短編集 [第34話] 記憶

2015年12月31日 00時00分00秒 | #小説

 人の記憶ほど曖昧(あいまい)なものはない。
「いや、いやいやいや…確かに、もう一切れあった!」
 横川家では、朝から残っていた一切れの銀ムツの味噌焼きを巡り、口喧嘩(くちげんか)が勃発(ぼっぱつ)していた。横川渡×妻、江美による壮絶な口バトルである。
「何、言ってるのよっ! 昨日の夕飯に食べたでしょっ!」
「馬鹿なっ! それは先週の話だろうがっ!」
「またまたっ! 昨日よ?! もう、忘れたのっ!」
「そうだ、昨日だっ! 忘れるかっ!」
 猫のタマは、偉いことになったぞ…と二人の声に驚き、フロアから飛び起きると、スタスタ、奥の間へトンズラを決め込んだ。
「あなたの記憶違いよっ!」
「そんなことあるかっ! 俺の記憶は確かだっ!」
 ついに争点は記憶の信憑性(しんぴょうせい)が問題となってきた。
「じゃあ、言わせてもらうけど、昨日のオカズは何だった?」
 江美は完全な不信感を露(あら)わにした。
「オカズ?! オカズは、海老フライ・・笹かまぼこの板わさ・・それに…じゃないかっ!」
「ほら! それに、なに? 味噌焼きがあるじゃないっ!?」
「んっ? …いや、いやいやいや、味噌焼きはなかったっ! なかった! …なかったはずだ」
「あったわよぉ~!」
「そうだったか? …」
 横川の声は次第に小さくなった。このとき、横川は江美の言葉でおやっ? と自問自答していた。そうだ、食べたかっ? 食べたな…と。だが、一家の主(あるじ)としては、急に退却するのも不甲斐(ふがい)ない。加えて、男のメンツもあった。横川は記憶違いを内心で実感したあと、何かいい手立てはないか…と探った。
「あっ! いけない、いけないっ! 平田に電話しないとっ!」
 横川はタマと同じく、自室へトンズラを決め込んだ。

                   THE END


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ユ-モア短編集 [第33話] イン・ドア派

2015年12月30日 00時00分00秒 | #小説

 下永(しもなが)等は根暗(ねくら)になっていた。なにも好き好んでこうなったんじゃない! と、下永は思って生きていた。世間並みの大学を出て、就職したのは一流商社だった。そして数年は順風満帆(じゅんぷうまんばん)の人生だった。彼の未来は誰の目にもバラ色に思えた。だが、世の中はそう甘くなかった。数年が経(た)ったある日、下永の商社は外資系会社に吸収され、彼はリストラで左遷同様に子会社へ出向となった。ここまでは、まだよかった。さらに輪をかけて、その子会社は整理され消滅し、下永は失業したのである。意気健康で明るかった下永は、この日を境に根暗に変身した。下永は社会が嫌になり、外へ出なくなったのである。あちこちと出歩いていたアウト・ドア派の下永が、イン・ドア派になってしまったのだ。
 ここは下永がかつていた商社の課である。
「下永君、今、どうしてるんだ?」
 ふと、下永のかつて座っていたデスクを見ながら、課長席に座る仙波(せんば)が部下の係長、胡麻(ごま)に訊(たず)ねた。仙波は下永と同期入社だったが、数年間、泣かず飛ばずで、危うく首になりかけた男だった。それが皮肉にも下永とは真逆に、吸収合併後は飛ぶ鳥を落とす勢いで出世コースを上(のぼ)りつめたのだった。根暗でイン・ドア派だった仙波は、出世とともにアウト・ドア派へ変身した。
「聞いた風の噂(うわさ)では、なんか飛んでないみたいですよ」
 胡麻は小声で他の課員に聞こえないよう、ボソッと言った。
「飛んでないか…。まだまだ飛べる奴なんだが…」
 そう仙波が言ったときだった。下永がツカツカと課へイン・ドアしてきた。
「久しぶりだな、仙波!」
「おお、下永か…。よく入れたな」
 仙波は驚いた掠(かす)れ声で下永に言った。胡麻は予期せぬ下永を見て言葉を失い、茫然(ぼうぜん)と課長席の前で立ち尽くした。
「ああ…。玄関受付の倉島君が訳を言ったら入れてくれたよ」
「倉島? …ああ、ここにいた倉島加奈か」
「今は総務課です…」
 ようやく落ち着きを取り戻した胡麻が、小さな声で言った。
「今日は君に頭を下げにきた。なんでもやる! 俺に仕事をくれ!」
 下永は人目も憚(はばか)らず頭を下げ、大声で言った。イン・ドア派の下永はアウト・ドアしたくなったのだ。

                   THE END


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ユ-モア短編集 [第32話] 欠陥商品

2015年12月29日 00時00分00秒 | #小説

 日曜の朝、坂山努は楽しみにしていた電気街への買い出しに出かけた。つまらない物や不必要な小物も含み、いろいろ珍しい商品を買って帰るのがなによりの坂山だった。
 この日は快晴で暑くなく、湿度も低いという具合で、ブラつくには最適の気候だった。坂山は、いつものようにウロウロと見て歩き、ふと一軒の店に入った。少し奥に珍しい電気製品が置かれていたからである。
「あの…これ?」
 坂山は店主と思われる男に声をかけた。
「はい…ああ、コレですかな。コレは売りものじゃないんでございますよ、はい! 欠陥商品なんでございますがね、実は。なんかデザインが気に入りましてな、ははは…私の身勝手で置いているだけなんでございますよ」
 店主は坂山に物腰低く説明した。だが、坂山はなぜか、その小物商品が気に入ってしまった。
「お支払いしますから、私が買わせていただく訳には?」
「えっ! コレを、でございますか? コレは…」
 店主はニヤけて困り顔をした。
「ぜひ、お願いします!」
「…と、言われましてもねぇ~。値段のつけようがねぇ~…欠陥商品ですからねぇ~」
 店主は[ねぇ~攻勢]で坂山の意思を削(そ)ごうとした。買い取りを阻(はば)む、いわばサッカーでやるところのプレス風である。だが、坂山もこの街の一見(いちげん)客ではない。いわば時代劇で演じられるところのウロつき流・免許皆伝の遣(つか)い手だから、そう簡単には引き下がらなかった。
「いや、いやいやいや…だからご主人のいい値で結構ですから」
 大相撲で言うところの下手投げ風である。
「さよ、ですか? …しかし、こんなもの、何にお使いになるんです?」
「いや、まあ…。いろいろと」
 坂山は適当に濁(にご)した。いわば国会で見られるところの政府答弁風である。
「いいでょ! 私も、この道30年の電気屋だっ! ただで結構ざんす! 持ってって下さい!」
 主人は、いわば卸市場で値づけられるところの落札風に、きっぷよく言った。坂山はその欠陥商品の入った小袋を肩にかけ、店を出た。いわば大黒様の♪大きな袋を肩にかけ~♪と歌われるところの唱歌風だった。

                  THE END


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ユ-モア短編集 [第31話] 転んだあとの杖(つえ)

2015年12月28日 00時00分00秒 | #小説

 満山(みつやま)商店は、ついに閉店した。店主、満山はよく頑張った。必死に数十年、養蜂業を営み、数百群の蜜蜂を育て、そして彼らにも頑張ってもらい、せっせと蜜を集め、それで店を切り盛りしてきたのだ。
「残念ですが、今年は…」
 悲しい電話が飛び込んできたのは、つい先だってである。次に養蜂先として予定していたとある地方の土地が売却され、工事が始まったという知らせだった。その土地は菜種の黄色い花が咲き乱れ、辺(あた)り一面が菜の花畑だったのである。当然、多くの蜜蜂が飛び回っていた。工事が始まると、土地は埋め立てられ、農業も終わりとなる。それは、土地での養蜂の終わりも意味した。僅かに数人の店ながら、満山はそれなりに切り盛りしてきたのだった。満山は養蜂の才はあったが、経営はズブの素人だった。養蜂業の継続を断念させたのは、なにもこの土地問題だけではなかった。数ヶ所で蜂場を巡る人間関係のトラブルが出たのである。それも連続してだったから、これには流石(さすが)の満山も堪(こた)えた。結果は言うまでもなく、閉店である。この辺が潮時か…と満山は思うようになった。先読みして、転ばぬ先の杖(つえ)で別の土地を当たっておけばよかったのかも知れない。だが、転んでしまったものは仕方がない。閉店したあと、満山は蜂をすべて売却し、僅(わず)かな蓄えともに従業員の第二の人生の足しにと分け与えた。独り者の満山に数万円以外、何も残らなかった。満山はそれで杖を買った。最近、めっきり足腰が脆(もろ)くなっている自分に気づいてはいたのだ。転んだあとの杖である。満山は今、年金暮らしで細々と生計を立て、過去の豊かだった自然を振り返っている。

                  THE END


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ユ-モア短編集 [第30話] 易者(えきしゃ)

2015年12月27日 00時00分00秒 | #小説

 川久保純一は悪夢の束縛(そくばく)から逃れたいと足掻(あが)いていた。誰に強制されたものでもなかったから、余計、始末が悪かった。過去にこんな気分に陥(おちい)ったことはなかったから、何かにとり憑(つ)かれたんじゃないか? と川久保は思った。このまま、というのも気分が悪い。川久保は占ってもらうことにした。
 夕方、街へ出て路地裏を探していると、易と書かれた古風で四角い行燈(あんどん)を机に置き、易者風の老人が座っているのが見えた。頭に頭巾(ずきん)を被(かぶ)り着物姿の出(い)で立ちの老人は、見るからに易者(えきしゃ)という風貌(ふうぼう)だった。
「占ってもらえますか?」
 川久保は近づくと、易者にポツリと訊(たず)ねた。
「どうぞ…」
 易者は快(こころよ)く了解した。川久保は椅子へゆっくりと腰を下ろした。
「手を…」
 易者に言われるまま川久保が手を差し出した途端、手を取った易者の表情が俄(にわ)かに険(けわ)しくなった。
「これは、いけません! いけませんぞぉ~。いけません、いけません…」
 川久保には、何がいけないのか分からない。
「あの…なにが?」
 川久保は恐る恐る易者に訊(き)いていた。
「えっ? ああ…すみません、こちらのことで。お恥ずかしい話しながら、少し催(もよお)しましてな、ははは…。この辺(あた)りには、ご不浄がない。困ったものです…」
 易者は低い小声で言った。それにしては落ちついている…と川久保には思えた。
「大丈夫ですか?」
「いやなに、峠は越しました。もう、大丈夫、ははは…」
 何が大丈夫だっ! と川久保は少し怒れたが、思うに留(とど)めた。易者は、もう一度、川久保の手を取り直し、もう片方の手に持った天眼鏡を近づけ、シゲシゲと見た。
「ほう! ほうほう! ほう!!」
 何が? と、川久保には、また思えた。
「どうされました?」
「ご安心めされよ。悪夢を、もう見られることはないでしょうぞ」
 ひと言も言ってない川久保の悩みが見事に当たっていた。川久保は易者が空恐ろしくなった。
「これをお持ちなされ」
 易者は川久保に一枚の小さな紙を渡した。川久保は、その紙を背広の内ポケットに入れ、見料を支払うと椅子を立った。
 それ以降、川久保は嘘(うそ)のように悪夢を見なくなった。これで終われば話はオカルトなのだが、話には続きがあった。
「先生! 有難うございましたっ!」
「いやなに。これも人助けですからな、ははは…。それにしても不思議ですなぁ~。あの紙、効きましたか?」
 易者は川久保の母から頼まれたのだった。川久保は母にうっかり愚痴っていた。

                  THE END


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ユ-モア短編集 [第29話] 満員電車

2015年12月26日 00時00分00秒 | #小説

 鴨田葱夫は今朝も通勤電車に揺られていた。かれこれ20年は、しっかりと揺られ続けている。彼ほどになれば、立って寝ることなど朝飯前だった。最近、ふと車内で目覚めたときなど、人は立って眠れるものか…と、自分の能力に驚いたほどだった。そんな鴨田だったが、今朝は、のっぴきから前の客が降り、久しぶりに座ることが出来るという運のよさを得た。立ったまま小1時間、揺られるのと、座って揺られているのとでは、疲れに雲泥(うんでい)の差が出る。そんな座席に座った鴨田だったが、今朝も立ったときと同様、いつしかウトウトしていた。フッ! と目覚め、気づけば3駅ほど先まで乗り越しているではないか。鴨田は慌(あわ)てて唐突(とうとつ)に立ち上がった。
「す、すみません! お、降りますので…」
 鴨田は前で立つ乗客にそう言って席を譲ると、人を掻き分けながら乗降ドアへ急いだ。
 ようやく会社へ着いたとき、鴨田は、すでに遅刻していた。
「あれっ? 課長じゃないですかっ! 珍しいな…遅刻ですか? 休まれるのかと思ってましたよ…」
 係長の鍋山が怪訝(けげん)な面持ちで鴨田の顔を窺(うかが)った。まさか電車の一件を部下には言えない。
「ははは…ついね。俺も焼きが回った!」
 快活に笑いながら暈(ぼか)し、鴨田は方便を使った。閻魔さまにコンニャク詣(もう)でするほど嘘(うそ)が嫌いで裏表がない鴨田だったが、ここは致し方なし! と内心で結論した。
 一日が終わり、鴨田は帰りの電車に乗っていた。帰りも混んでいて満員だった。よくよく考えれば、鴨田が乗るのはいつも満員電車で、その中で立っていたのである。
 鴨田は疲れからか、いつしかウトウトと微睡(まどろ)んでいた。だが、微睡んでいても立っている安心感が鴨田にはあった。事実、ハッ! と目覚めたとき、降りる駅ホームが目の前に流れていた。
「白滝(しらたき)~~」
 鴨田は寸分の狂いもなく、電車を降りた。改札口へ歩きながら、俺は座れん座れん…と、鴨田は何かにとり憑(つ)かれたように、心で叫んでいた。
 鴨田が駅を出たとき、いつも見る小料理屋、味良(あじよし)の美味(うま)そうな鴨鍋の看板(かんばん)が目に入った。 危(あぶ)ない危ない…と、鴨田は危うく鴨葱になるところだった自分を戒(いまし)め、ニヤリとした。

                 THE END


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ユ-モア短編集 [第28話] 奇妙な忍者

2015年12月25日 00時00分00秒 | #小説

 戸沢は、伝説上、戦国時代の忍者の師として有名な戸沢白雲斎の子孫である。子孫だからとはいえ、現代社会で忍者は調法される存在ではない。今はしがない役所勤めに明け暮れていた。そんな戸沢だったが、一応の忍び術は修得していた。それは先祖代々、家伝として親から子、子から孫へと引き継がれたものだった。戸沢も例に漏れず、幼い頃から父にしごかれ、最低限のことは伝授された。だが今の時代、一部のアトラクションとしての忍者の活躍は知られているが、一般には活躍する場がないのが相場である。戸沢も忍者修行を、とても一生の仕事には出来ない…と、塾の習い事のように軽く考えていた。そんな戸沢も、やがて成人し、役所への就職が決まった。仕事は、人事考課が低かったせいか、誰でも出来そうな生活環境部のとある課のとある係だった。誰でも出来そうな・・といえば誤解を与えるが、たまに欠伸(あくび)も出る退屈な仕事だった。戸沢は欠伸をしながら考えた。忍者技を何かに生かせないだろうか…と。その機会は、ふとしたことで訪れた。
「あっ! 戸沢君。悪いがね、昼までに至急、頼む」
 課長の投動からの急ぎの依頼は蜂の駆除だった。誰もが嫌がる手合いの仕事だった。だが戸沢は逆で、ついに出番が来たか…と、内心でニヤけた。それが、つい言葉と顔に出た。
「はい! 行ってきます!」
 課の全員が怪訝(けげん)な面持ちで戸沢を見た。そして、庁舎を出るや、戸沢は疾駆し、目的の家へと着いた。ここからが忍者の腕の見せ所である。秘術を使い、蜂を巣ごと凍らせ退治したのである。退治とはいえ、これも秘術により人気(ひとけ)のない山肌の木影に置くと、少し離れて印を結んだ。すると、あら不思議、凍結していた巣や蜂達は、何事もなかったかのように飛び回ったのである。もちろん、そのときに戸沢の姿は山肌から失せていた。その間、およそ10分にも満たなかった。普通人間には出来ない離れ技だった。そしてまた疾駆して庁舎へ戻った戸沢は、息も切らせず、投動に報告した。全員の視線が戸沢に釘づけになった。
「ええっ! もう? 嘘だろ?」
 信じられないのか、投動は時計を見て言い、依頼者へ電話した。
『ええ! お蔭さまで、こんなに早く…。ええ! お世話になりましたっ!』
 受話器から聞こえる依頼者の快活な声に、投動はゾォ~~っとして戸沢を見ようとした。だがそのとき、戸沢の姿は、すでに課になかった。
「おい! 戸沢君はどうした?」
「ああ…食堂で昼にするって、上がりましたけど…」
 このことがあってから戸沢は、奇妙な職員として、皆から一目(いちもく)置かれることになった。戸沢が忙(いそが)しくなったのは当然である。だが彼は、ちっとも苦にしていなかった。それどころか水を得た魚のように、今日も奇妙な忍者として役所の蔭(かげ)で暗躍(あんやく)している。

                  THE END


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ユ-モア短編集 [第27話] チキンレース

2015年12月24日 00時00分00秒 | #小説

 地球の命運をかけたチキンレースが両者の間で繰り広げられていた。その両者は、現実には存在しない二つの壮大な意識だった。両者の競い合いは、有史以前から始まり、恐らくは未来も続くだろうと思えた。両者とは、人間が対立を意識して対峙させる黒と白というのではなく、天と地という意識でもなかった。人智の及ばない壮大なチキンレースの一つは今朝も、咲川家でさっそく始まっていた。
「ここに置いたジュース、知らないか?」
「なに言ってるのよ。昨日(きのう)、飲んじゃったじゃない!」
「…そうだったか? おかしいな?」
 咲川は妻の美奈にそう言って、首を傾(かし)げた。普通に考えれば、物忘れによる単純な勘違い・・である。だがその裏には、壮大な地球規模の意識と意識がぶつかり合うチキンレースが秘められていたのである。
 意識αは意識βの目論見(もくろみ)を阻止させるべく、咲川に物忘れをさせる・・という新手(あらて)に打って出た。意識βもお馬鹿ではない。そんな思惑はすでに読み切っていて、しまった! 先を越されたか…と、悔(くや)しがった。そして次の返し技のチャンスを必死に探(さぐ)った。
 その両者のレースを厳粛(げんしゅく)に見定める目に見えない力がもうひとつ存在した。意識を超越した崇高(すうこう)な真理∞である。その真理∞により宇宙は動かされている・・といっても過言ではなかった。それは、壮大とかの尺度(しゃくど)を超越する絶対的な無限の力だった。真理∞は、冷めた目で意識αと意識βのチキンレースを眺(なが)めておられた。真理∞は、咲川の物忘れを哀れにお思いになり、ここはひとつ、なんとかしてやろうか…とお考えになった。よくよく考えれば、チキンレースに値(あたい)しない馬鹿馬鹿しいレースである…とも思われた。
 咲川家の居間に一陣の風が吹き抜けた。
「ああ、そうだそうだ! そうだったな!」
 急に思い出したのか、咲川が叫ぶように言った。
「そうでしょ!」
 美奈がすぐに‎返した。
『…』『…』
 意識αと意識βによる咲川家でのチキンレースは、この瞬間、頓挫(とんざ)した。両者は、なんだ、やめようか…と咲川家からソソクサと撤収(てっしゅう)した。

                   THE END


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ユ-モア短編集 [第26話] 居酢屋(いずや)

2015年12月23日 00時00分00秒 | #小説

 田坂源吾は仕事を終え、よく寄る場末の居酒屋・魚飛(うおとび)の入り戸を開けた。
 馴染(なじ)み客と見え、魚飛の主人、竿田(さおた)は、田坂が戸を閉めた瞬間、手馴れた仕草でキープしてある田坂の一升瓶を手にした。
「いつものですね…」
 竿田の言葉に田坂は軽く無言で頷(うなず)いた。それを見て、竿田は瓶の栓(せん)を抜くと長コップに液体を注ぎ入れた。そして、これも手馴れた要領で氷の幾つかを放り込んだあと、少しの冷水で割った。一連の所作は実に優雅で早く、田坂が腰を下ろしたカウンター席の前へゆっくりと差し出して置いた。長コップの中味は薄黒い液体の黒酢だった。黒酢の水割りである。田坂は意識せず、さも当たり前風に手にすると、三分の一ほどをグビグビ…っと一気(いっき)に飲み干した。そして、フゥ~~! とひと息、吐(は)きながら満足げな顔をした。これが、いつも繰り広げられる田坂の魚飛での幕開けだった。そうこうするうちに、竿田により小奇麗(こぎれい)に盛り付けられた美味(うま)そうな小皿の突き出しを竿田が出す。箸は竿田が拘(こだわ)って入手した割り箸(ばし)である。間伐材を利用して知人が作った野趣あふれる割り箸だ。使用後の割り箸は、山で木灰としてリサイクルされ、樹木の肥料となる。唯一(ゆいいつ)、田坂が口にする酒的なものは、このアルコール消毒された割り箸くらいで、田坂は一滴(いってき)も酒を口にしたことはなかった。もっぱら、黒酢の水割りやお湯割りに田坂は満足感を覚えた。二杯が限度だったが、酔いもなく、完全な薬膳だった。何を隠そう、居酒屋・魚飛は、酢通(すつう)が満足感を味わう異色の居酢屋(いずや)・魚飛だったのである。
 
                  THE END


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ユ-モア短編集 [第25話] 苔(こけ)が蔓延(はびこ)る男

2015年12月22日 00時00分00秒 | #小説

 谷山寺男は敏感な男である。彼の身体には気分的な心地よさの温度、湿度が設定されていて、それ以下でもそれ以上でも体質に合わず、気分が損(そこ)なわれた。むろん、絶対に定まった℃や%でなければ駄目だという異常体質ではなく、℃~℃、%~%という幅はあった。谷山に適した℃~℃、%~%とは、湿っぽい陰湿な温度だった。いつしか彼の肌には苔が蔓延(はびこ)った。普通の人間がそんな彼を見れば、気味悪いやつだ…と思えたから、谷山は出来るだけ人目や人の出入りする場所に存在することを避けた。仕方なく人けの多い繁華街を出歩くときなどは、完全に姿を隠して歩かねばならなかった。それは、芸能人が姿を隠すソレではなく、完全に肌の露出を避ける・・といった具合の隠しようなのである。そんな奇妙な恰好(かっこう)で繁華街をうろつけば、これはもう警官に不審尋問されても仕方がない。で、事実、谷山は呼び止められた。
「もし! どちらへ行かれるんですか?」
「どこ、ということもないんですが…それが、なにか?」
「い、いえ…。ただ、そ、その格好で?」
 交番の警官は、ジロジロと谷山を見た。苔が蔓延(はびこ)る谷山の姿に異様さを感じた警官は、怯(ひる)みながら訊(たず)ねた。
「ええ…駄目ですか?」
「い、いや、別に駄目というんじゃないんですがね」
 警官は、しばらく谷山を見回したあと、訝(いぶか)しげに敬礼して去った。谷山が歩いた痕跡には、次の日から苔が生え始めた。法律に抵触しない民事事件に警察は手古摺(てこず)った。
「捜査といっても、実害がないからなぁ~~」
 署長は大欠伸(おおあくび)を一つ打って、却下した。
 
                  THE END


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