靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十七回
もちろん、文字は暈(ぼ)けて滲(にじ)んでいるところもあるから、キッチリと鮮明に書かれたものではなかったが…。
直助の手が小刻みに震えている。ゾ~~っとする寒けを伴う感覚が直助の身の中を引いては寄せ、寄せては引く。そんな彼の現状など、まったく知らぬげに、呑気な勢一つぁんはまだ高鼾(いびき)をあげ、眠りこけていた。勢一つぁんを起こそうと思っていた直助だったが、もうすっかり気持が動転し、そんなことは忘れてしまっていた。疾うに七時を回っている。そうなのだ、六時に起きた直助だったが、小一時間も茫然と時を過ごしてしまっていたのである。なんのことはない、こんな不思議にも馬鹿げたことなどあろう筈がない…と自らに言い聞かせ、一時間を無為に過ごしてしまったのだ。
勢一つぁんがモゾッと動いて起きだしたのは、丁度その時だった。
「あああ…、よう寝たわ。あっ! もうこんな時間かいな。直さん、おはようさん」
寝惚け目を擦りながら大欠伸をひとつ打ち、起き上がると直助の方へ寄る。直助はすっかり自失状態だから、勢一つぁんに返事もしない。
「どないぞ、したんか?」
怪訝な表情を浮かべて、勢一つぁんは棒立ちする直助を窺った。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十六回
直助は、勢一つぁんが持ち込んだ一升瓶の酒を茶碗で飲みながら、残りもののハンペンを肴に世間話をして早めに寝た。世間話といても、やはり早智子の一件なのだが…。
目覚めて枕元をまさぐると、目覚ましが六時近くを指していた。随分と飲んだせいか、勢一つぁんはぐっすり隣で熟睡している。彼の高鼾(いびき)を気にならず眠れたのは酒のお蔭だろう。目覚めた以上、もう熟睡できない…と思え、直助は起きることにした。布団からのっそり出て、視線を何げなく目覚ましに向けると、寝惚け眼(まなこ)の向うに薄っすらと白い便箋が見えた。咄嗟(とっさ)に閃いたのは、勢一つぁん、まだ何か言いたいことがあったんかいな…ぐらいの気持で、その場は捨て置いて着替えた。洗顔を終えて、勢一つぁんを起こそうと思った序(ついで)に、その白い便箋を手にした。みるみる間に直助の顔面は蒼く強(こわ)張っていった。そこに書かれていたものは…早智子からのメッセージであった。か細い走り書きのようなその文字は、恰(あたか)も雨に濡れたかのように滲(にじ)み、弱々しかった。文面の末尾に溝上早智子と書かれていたから、これはもう紛れもなく早智子だと直助は確信出来た。
憶えておいででしょうか。私、溝上と申します。いつぞや取り寄せの全集を買った者です。一度、お会いできればと思います。また、お近いうちにご連絡をさせて頂きます。今日はこの辺りで…。
溝上早智子
という文面である。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十五回
つらつら思うに、なぜ自分がこんなことに悩まねばならないのか…それが直助には腹立たしかった。とんだ恋をした…と思えた。
「直さん、飯はもう食べたんかいな?」
「んっ? ああ…残りもんで、軽う…」
「ひとり暮らしやと、台所(だいどこ)のほうが大変やろなあ」
「しゃあないがな…。縁遠いんやさかいな、ははは…」
直助は痛いところを突かれ、苦笑するしかなかった。
「直さんほどの男を、よう女も放っといたなあ。見てくれは今一やけど、ええ男やのに」
「褒めてんのかいな?」
またまた苦笑するしかない直助である。それより、早智子に似た幽霊が、ふたたび今夜、登場するかである。他人が隣にいては出辛いと思えるし、その可能性も低いように考えられる。だいいち、直助が見た、と思っている幽霊は、彼自身の幻覚、幻想から生まれた夢のようなものかも知れないのだ。そうだとすれば、散々に吹聴した挙句が…と、笑い話にもならない。皆に申し訳がなくなる。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十四回
「それは言えるな。あんたが会社へ行ったばかりになあ」
「そやねん。いらんことを言いに行ったさかいなあ…。ほんま、気の毒や」
「直さん、そやけどなあ、これはきちんと調べといた方がよいと思うで~。なにか深い訳があるような気がしよる」
「なにか、と言(ゆ)うと?」
「その溝上とか言う女のこっちゃけどな、きっとなんかあるわ」
「そ、そやから、なんかて、なんやねん?」
「そ、そらワイにもよう分からんけど…。例えたら、もう死んでこの世の者やないとか…。ははは…飽くまで例え、例えやがな」
「脅かさんといてや、悪い冗談やで…」
二人は顔を見合せて高らかに笑ったが、次の瞬間、二人とも顔の表情がこわばった。もう日は、とっぷりと暮れている。昨夜は八百勢に泊めてもらったからよかったが、一昨日(おととい)の晩は驚愕の一夜だったのだ。直助にはその恐怖がまだ色濃く残っていた。まあ今夜は隣に勢一つぁんがいてくれることだし、幽霊も出ないとは思えるが、今日一日で済む問題でもなく、思い切って店を畳んで引っ越そうか…などとの想念が浮かんでは消える直助だった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十三回
秋も深まっているせいか夕闇が思ったより早く迫っていた。一端は店へ帰っていった勢一つぁんが、ふたたび直助の文照堂に顔を出したのは七時頃だった。和田倉商事から帰って店を開けた直助だったが、客は予想どおりなかった。いつも現われ、エロ本を隠れるようにコッソリと、しかも素早く買って帰る高校生も、たぶん来たに違いないのだが、店が閉まっていて、ガックリと肩を落として帰っていったことだろう…と想像がつく。ある種、小気味よく思えたが、その半面、気の毒にも思えた。そんなことより、気掛かりなのは山本の顔色の蒼さだった。今朝まで余り眠れなかったのだろうが…とは思うが、別れる前、最後の情報を伝えた口調が凍りついていたのが思い返された。━ 以前の住所は…と思って調べてみましたら、それが分からないんですよ。といいますのは、住所録の溝上早智子さんのところだけが消えてましてね。それも削除された痕跡もなく、最初から空白だったような状態で空きスペースになっておりまして… ━ そう言った山本の顔が蒼かったのだ。
「かなり日が短くなったみたいやなあ。さて、どこに寝よ?」
「布団はあるで、そないな心配はええがな。どこでも寝て。それより、情報が分からんのでは、調べようもないし困ったこっちゃ」
「そやな…。山本さんも気の毒なことや」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十二回
勢一つぁんの斬り込みに、山本も、しどろもどろである。
「科学万能時代の今でも、そんなことがありまんのかいなあ…」
山本が頷き、直助も首を縦に振らざるを得なかった。
「直さん、埒があかんみたいやし、そっちの気(け)はないんやけど、一緒に寝させてもらうわ。あんたも怖いやろさかいな…」
「ああ、そうしてもらうと助かるわ、頼んまっさ」
ひとまず直助は安心した。
その後、二人は社員食堂へ案内され、軽食を取りコーヒーを飲むと山本と別れた。別れ際(ぎわ)に山本が呟いた言葉が帰り道で直助の脳裡に甦った。
━ 最先端の精密機器を商う我が社で、こんなことが起こるとは… ━
直助には山本の呟きの意味が十分、分かった。文明の最先端技術を商う和田倉商事で、こんな不可解極まりない非科学的な出来事が起ころうとは…という当然の感情なのだ。しかし直助には、そんなことはどうでもよかった。早智子の現在の状況さえ判明すれば、すべてが解決するように思えた。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十一回
「そりゃそうでしょ、ここで溝上さんが働いているなら…」
「いえ、ところが彼女は存在しない。自動振込を停止しているのに給料が引き落とされ、砂に吸い込まれる水のように消えている。それなのに、経理上の間違いがないんです。なんと不可解なことか…。私は今、仕事どころじゃない気分なんです」
「…お気の毒と慰めていいのかどうか分かりませんが…」
「ややこしい話ですなあ」
それまで傍観していた勢一つぁんが、ひと声かけ、割って入った。それまでは気にも留めなかった辺りの静穏が、直助には不気味に思えてきた。
「で、今も経理のほうでは過去に遡って洗い出しをしておるんですが…」
「とにかく、そのほうはお願いします。それで、溝上早智子さんの情報とかは?」
「それも現在、追跡調査をさせております」
「今のところは、お手上げでっか?」
「えっ? ああ、まあ…」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第九十回
「…倉田です」と、小声で細々と遠慮ぎみな勢一つぁんである。
「山本と申します…。ところで坪倉さん、昨日の電話の後、私なりに調べてみたんです。…そこまではお話ししましたよね? …で、ますます不可解なことが分かってきまして、私ね、今も実は怖ろしい気分なんですよ」
「…と、いいますと?」
「彼女に給料が振り込まれているという異常な事態なんです。存在していない社員に給料が振り込まれる。…これはもう、怖ろしいという以上に経理上、社内の大きな問題でもありますしね…」
「そんな馬鹿な!!」
直助はやや声を強めて言い、二人は思わず笑った。
「いや、笑いごとじゃないんです、ほんとに…」
山本の顔色には出鱈目ではない真剣さが漂っている。二人は真顔に戻った。
「今朝、さっそく経理の者と調べ直したんですがね…」
固唾(かたず)を飲む二人は、山本に食い入るような眼差しを向けた。
「毎月支払われてるんですよ…。それに、なにより妙なことには、計算額がきっちりと合っている」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十九回
辺りは長閑(のどか)な晩秋だが、直助の精神構造は、かなり危うい状況へと追い込まれていた。
二人が連れだって出たのは昼過ぎだった。もちろん、直助の閃きどおり、昼飯は確保できたし、いつもより鱈腹食ったお蔭で、どちらかといえばウツラウツラしたい心地なのだ。満腹感は最近、味わったことがない直助だが、敏江さんの太っ腹には頭が下がる思いだった。
和田倉商事へ入り、受付で山本を呼んでもらうと、二人はロビーで待った。隣の勢一つぁんは、馴れない堅苦しさからかソワソワと落ちつきがない。咎(とが)めることも出来ず、じっと下を見ておし黙ったところへ山本が急ぎ足で現れた。社内食堂から下りてきたと言う。直助だけだと思っていたのが、もう一人いるので少し驚きぎみに、「あっ、昨日はどうも…」とだけ言って、山本はソファーの対面へドッカと座った。長机を挟んで二脚の椅子とソファーが一脚の応接四点セットがロビーの一隅を占めているのだが、八田にはどうも不釣り合いの場所に思え、馴染めなかった。
「あのう…こちらは?」
「えっ? ああ…隣りの倉田さんです」
倉田などと苗字で言ったことなど直助の憶えているかぎり記憶になかった。言われた勢一つぁんも社内の雰囲気に押され、まったく要領を得ない。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十八回
それでもこの繰り返しが日々、行われているのだ。ある種、凄まじい商いに対する執念だと直助には思えた。
「どないやった?」
開口一番、戻った勢一つぁんの口から漏れ出たのは、やはり先ほどの幽霊の一件である。勢一つぁんも電話の結果が気にかかっていたらしい。
「昼から寄ってくれ、言(ゆ)うてたわ…」
ふ~ん、と頷いた勢一つぁんは、採れた野菜類を水洗い場へと運ぶ。それらをジャブジャブ洗いながら、「わいも、ついていくでな」と振り向いて言う。「それは、ええけど…」と了解した直助だが、本心は頼みたい気分なのだ。一人だと、どうも心許(こころもと)なかった。上手くしたもんだ。これで昼も空腹に苛(さいな)まれることはなさそうだ…と、直助の打算的な想いが俊敏に感応した。すでに十一時近くになっていた。もう敏江さんは昼飯の準備をしている。勢一つぁんは洗った野菜を丁寧に拭いて店頭へ並べている。直助ただ一人、することもなく朴訥に居間で座っていた。客が気にかかるほど文照堂は客が来ないし、そちらの心配は皆無だ。それに、店のシャッターは閉ざしてある。日銭は当てに出来ないが、開けて客を待っていたところで、せいぜい数人だろう。幽霊に惑わされて寝られない方が身に応えた。一刻も早くこの問題を解決しないと身の置きどころがなくなる事態が危惧された。