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日本幻景 #7 — 洞爺丸遭難

2021-10-11 15:55:45 | Bibliomania
◆本当にあった怖い昔話・洞爺丸台風【1】 - 偶然が生死分けた沈没事故
1954年9月26日夜、北海道と本州を結ぶ青函連絡船・洞爺丸が台風15号に遭い、函館港付近で沈没して、約1150人が死亡した。氷山に衝突したタイタニック号での死者は1500人だから、海難史上まれにみる大惨事だ。

洞爺丸は、津軽海峡の真ん中ではなく、函館港から少し離れた場所、岸辺から700メートルのところで沈んだ。乗客は救命胴衣をつけていた。それでも多くが岸にたどりつけず死亡、助かったのは150人ほどだった。

当時、北海道と本州の往来に飛行機を使うのは一般的ではなく、議員も重役も芸能人も連絡船に乗っていた。

密閉された一等船室に乗っていた数人の国会議員や国鉄幹部が犠牲になった。一方で、船がなかなか出港しないのにしびれを切らして下船し、難を逃れた人が数十人いる。温泉での宴会が長引いて乗り遅れたという馬の調教師もいた。

不運なのは、洞爺丸より先に出港した連絡船に乗っていたのに、その船が引き返したため、新鋭船だった洞爺丸に乗り換えて遭難した人たちだ。その中には60人の米国軍人と家族もいた。北海道での任務を終え、羽田空港から帰国する途中だった。

船が沈没し、嵐の海に投げ出されてからも、運・不運が分かれた。街の明かりを目指して泳ぎ始めた人もいたが、それは遠い函館の街の明かりだった。近くの陸地は七重浜という小さな集落だ。泳ぐのをあきらめて漂っているうちに、浜に打ち上げられて助かった人もいた。

サイコロを転がすように、偶然のままに生死が分かれた。 –(東京新聞2013年9月28日)


↑洞爺丸などが沈んだ翌日、多数の船が出て水難者の捜索が行われた。

◆本当にあった怖い昔話・洞爺丸台風【2】 - 「謎の減速」出航判断 誤らす
青函連絡船・洞爺丸を函館湾に沈めた1954年の台風15号の動きは特異だった。9月25日には台湾付近にあったのに、26日には九州から中国地方を通って日本海に出た。強い偏西風の蛇行に流され、北上する時速は100キロを超える猛スピードだ。

この時代、気象庁は気象衛星を持っているわけでもなく、気圧と風速・風向などを頼りに、台風の位置を推定していた。情報は連絡船にも伝えられた。

洞爺丸の近藤平市船長は「天気図」というニックネームを奉られるほど気象に詳しいベテランの船乗りだ。高速台風は、夕方には函館湾を過ぎていくだろうと判断した。函館出港の定刻は午後2時40分だが、遅らせることにした。午後5時、風雨が弱まり、青空も見えてきた。船長は事前の読み通り、これを台風の目とみて、午後6時30分の出航を決めた。

実際には、台風は「謎の減速」と後にいわれるほど急に速度を落とし、出港のころ、ようやく函館の西の海上に達しようとしていた。風雨の弱まりは台風の目ではなく、閉塞前線がつかの間の晴れ間をつくったと考えられている。さらに意外なことに、台風は日本海北部で勢力を強めた。中心気圧は956ヘクトパスカルまで下がった。函館湾は南に開いており、南から来る高波と風をまともに受けることになった。

船長は、微妙な気圧の低下など、納得いかないデータはあったものの、出港決定を覆すほどではないと判断した。岸壁を離れてまもなく、猛烈な風が吹き始め、乗客満載の船に襲いかかった。最大瞬間風速は57メートルを記録した。 –(東京新聞2013年10月5日)


↑転覆した洞爺丸の遺体引き揚げのため、海中に入る潜水作業員=1954年9月撮影

◆本当にあった怖い昔話・洞爺丸台風【3】 - 転覆…双眼鏡握り船長逝く
台風は通り過ぎたとみた洞爺丸の近藤平市船長は、1954年9月26日午後6時39分、函館港の岸壁を離岸させた。しかし強い南風が吹きやまない。出港22分後には、函館湾内にいかりを投じ、嵐をやり過ごそうとした。船は激しく揺れ、大波が押し寄せて甲板を洗う。

連絡船の特徴に、鉄道車両を運ぶため、船尾に大きな開口部がある。そこから海水が入り、機関室に押し寄せた。石炭をたくことができなくなり、発電機も止まった。

午後10時すぎ、非常用発電機以外の動力が失われ、船は漂流を始めた。北に遠浅の七重浜が近づいている。近藤船長は船を座礁させることを決めた。砂浜に乗り上げる形になれば乗客の命を助けることができる。突然ドーンと船体が震え、動きが止まった。浜への座礁ではなく、沖合700メートルのところで浅瀬の上に乗り上げてしまった。傾いた船は、座礁から17分後には横転し、煙突を下に向けて沈没した。

照明がすべて消え、海水が浸入する中で、乗客は何とか脱出しようと窓を開け嵐の海にさらわれた。若い米国人宣教師ディーン・リーパーは、揺れている船で得意の手品を見せて、子どもたちを楽しませていた。救命胴衣が配られると、泣き叫ぶ周囲の人たちに着せてやり、自らは最後まで船に残り、死亡した。

生きて漂着した人もいたが、救護は遅れ、生還した人は少なかった。洞爺丸の他にも、函館港付近では貨物船など4隻が沈没し、多くの国鉄職員が殉職した。洞爺丸の近藤船長は遭難から7日後、双眼鏡を握り、救命胴衣をつけないままの遺体で見つかった。 –(東京新聞2013年10月12日)


↑船内の最初の遺体は28日午後2時に引き揚げられた35歳前後の婦人であった。ムラサキの上っ張り、素足、カスリのモンペをはき右の額に傷を受けていた。「三等船室の廊下で足が見えたので引っぱったら、すがりつくようにスーッと目の前にきた」と潜水夫の談。


↑今にも笑いかけそうな半眼の優しい子供の遺骸はひとしおあわれで合掌せずにはいられなかった。また最愛の夫を失い、乳のみ児を背に駆けつけた若い母親の姿など、目をそむけずにはいられない凄惨さだった(慰霊堂安置所) –(以上2つの画像はアサヒグラフ1954年10月13日号)



1954(昭和29)年に起こった洞爺丸遭難と岩内大火という2つの惨事を戦後間もない昭和22年に置き換え、戦後の貧困を必死に生きる者たちを重厚に描いた水上勉の傑作推理小説『飢餓海峡』(昭和38年)の内田吐夢による映画化ポスター(昭和40年)

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