goo blog サービス終了のお知らせ 

マガジンひとり

https://www.tumblr.com/magazine-hitori に移転しました。

1972 ─ ミュンヘン五輪

2012-07-27 23:17:01 | メディア・芸能
400mハードルで優勝したウガンダのジョン・アキブア。優勝候補とされたマン(米)とヘメリー(英)を世界新記録となる47秒8で破ったとのことだが、実はいよいよ始まる今年のロンドン五輪を控えた同種目の今期ランキング上位もほとんど同じ水準で、日本選手権で48秒41を出した岸本鷹幸選手も、記録だけなら決勝進出可能な位置にある。

400mハードルはオリンピックで日本勢が決勝進出したことのない種目だが、世界選手権やユニバーシアードでは結果を残してきた「お家芸」に近い種目であり、他にも三段跳やハンマー投げ、近年では競歩など、陸上の中ではわりと選手層の薄い、熱心に取り組む国が少ない種目でコツコツ努力してきたってことでしょうな、日本人は。これは競技の単位でも言えることである。

今回のトライアスロンに出るナントカいう女子の選手は、1日に6000キロカロリーの食事をとるのだそうな。激しい練習をこなすため。すなわち、学校の部活で採用して全国大会を開くとか、卒業しても企業チームのリーグ戦などがあって、興行だけで成立するプロとまでいかなくても、選手や指導者を養っていける市場というかシステムがなければお話にならない。

ということで「社会主義」の出番。かつての体操やバレーボールで日本のライバルになった国、あるいはテレビ映えのしないマイナー競技でメダルをごっそり持っていく国というのは、ソ連や東ドイツ、ハンガリー、だいたいが旧東側の国であった。この1972年のミュンヘン大会でも、金メダルの獲得数ではソ連、アメリカ、東ドイツの順となっている。

たびたび触れてきたように、高度成長期の日本というのは、社会保障もできる限り企業に委ねる「会社中心の社会主義」のようなところがあったわけで、殖産興業のための人材確保・育成という見地からオリンピックの実状をかんがみるに、社会主義・共産主義とは自由主義・資本主義と完全に対立的で相容れないものではないと考えざるをえません。


文句なしで大会の顔となった水泳7冠のマーク・スピッツ(米)。22歳の歯科大生で、ユダヤ系。


男子の100mはアメリカの選手が予選に遅刻して失格したのも手伝い、ソ連のワレリー・ボルゾフが完勝。200mでも優勝した。


メイン・スタジアムの観衆を釘づけにする長丁場の戦いは、シーグレン(米)が5m45を3回目もクリアできず、棒高跳でオリンピック16連勝してきたアメリカがついに王座を陥落。


東京で銅、メキシコで銀の日本男子バレーが決勝で東ドイツを破り念願の金。私は小2でしたが夕方に『ミュンヘンへの道』とか放映されて、ほとんどの選手の名を覚えてましたな。


女子バレーはソ連に敗れ2位。髪型が時代をしのばせる。


前回メキシコでは行われなかった柔道が復活。しかし今回も重量級・無差別級はヘーシンクの後継者、ウィレム・ルスカ(オランダ)が日本勢を阻んだ。


体操日本は団体総合など4つの金メダルを獲得し、個人総合、鉄棒、平行棒では1~3位を独占。画像は個人総合を2連覇した加藤沢男の跳馬。


ソ連の女子体操選手オルガ・コルブトは年齢こそ17歳ながら妖精のようなかわいらしさで実力者のツリシチェワ以上の人気を呼び、次回以降コマネチ(ルーマニア)らローティーンの選手が席巻する呼び水となった。モントリオールやモスクワ当時の女子体操を扱う写真集は、現在古書市場では別の目的で高値となっている。


カヌーのスラローム競技はミュンヘンで初めてオリンピックに採用され、15億円かけた西ドイツご自慢の人工渓流で行われたものの、東ドイツが4種目の金メダルを独占。


「金日成首相の励ましどおり標的を敵だと思って撃った」と語り、物議をかもしたリ・ホジュン選手。北朝鮮に初めての金メダルをもたらした。


8月26日には初参加のイスラエル選手団も入場行進したメイン・スタジアムは一転、9月6日にはベートーヴェンの葬送行進曲で始まる、パレスチナ・ゲリラによるテロ事件の犠牲者を追悼する場となった。

日程も順調に消化され、成功裏に終盤に入ったかに見えた9月5日、不幸な事件がミュンヘンを襲った。「黒い9月の手」と名乗るパレスチナ・ゲリラの襲撃により、イスラエル選手団28人中11人が殺害されるというこの事件は、大会の競技を34時間ストップさせ、オリンピック史上にぬぐいがたい血痕を残したというだけでなく、国際関係に新たな緊張を生み、複雑な尾を引いて各国を巻き込むことになった。ことに、ナチの宣伝に終始したベルリン五輪を払拭しようと「平和なドイツとオリンピック」を掲げ、並々ならぬ努力を重ねてきたホスト国・西ドイツ政府と国民の衝撃・苦悩は計り知れない。

事件の経過は、5日未明、ゲリラ8人が選手村のイスラエル宿舎に侵入、格闘の末2人を殺し、逃げ遅れた9人を人質に立てこもった。ゲリラ側は人質の命と交換にイスラエルが捕えている230人の政治犯の釈放を要求。西ドイツ当局はゲリラ側との交渉を延ばしたが不成功に終わり、ゲリラと人質を国外に運び出す約束をする。午後10時過ぎ、3機のヘリコプターでゲリラと人質は空港へ。待機していた警備陣は一気にゲリラ側の戦力をそごうと発砲、しかし闇も手伝ってうまくいかず、銃撃戦となり、人質のヘリはゲリラの手榴弾で炎上、全員死亡した。ゲリラ側も全員、死亡するか捕えられた。衝撃の1日はしかし、あまりに大きな傷を残した。 ─(画像は毎日グラフ臨時増刊1972・9・27 栄光と衝撃の17日間・ミュンヘンオリンピック、より)





東京ウシジマ新聞 #34 - 克美しげる

2012-06-12 22:02:56 | メディア・芸能
1976年5月8日、羽田空港の駐車場に停車していた車のトランクから女性の死体が発見された。犯人は「さすらい」の大ヒットで知られる人気歌手。なぜ彼は人をあやめたのか。いまだ明かされぬ愛憎劇に迫る─。 ─(↓事件直後から終息まで毎週のように動向を追った当時の『週刊女性』)



●昭和芸能事件簿・第10回─克美しげる
かつての大スターが「苦悩」と「小心」の末に…再ブレイク寸前の「愛人ホステス殺人」
「6日の早朝、彼女を殺したあと、急いで午後1時の北海道行きの飛行機に乗るため、羽田へ向かいました。はい、車のトランクに彼女の死体をのせて…」

1976年(昭和51年)5月8日、殺人容疑で逮捕された歌手・克美茂は旭川署でそう供述した。

事件が発覚したのは、その日の朝。羽田空港の警備員が、駐車場に置かれた車のトランクからポタポタと血が流れているのを発見。駆けつけた警察官が調べてみると、その中から2枚の毛布にくるまれた、下着だけの女性の死体が見つかった。
車のナンバーから、それは道内で新曲キャンペーン中の克美が借りていたもので、本人の供述により、殺された女性は、半同棲中の愛人だったことが判明。その衝撃を、芸能レポーター・石川敏男氏は、こう振り返る。
「事件の日の朝、克美が所属していたレコード会社の人から電話が来たんですよ。『克美が警察に捕まる』って。それでビックリしてすぐ取材に向かったのを覚えています」

それもそのはず、彼は“克美しげる”の名で1964年、65年の『紅白』に2年連続出場した大物。郷里の宮崎から家出同然で上京して、洋楽のカバーやアニメ『エイトマン』の主題歌で注目され、64年に「さすらい」を大ヒットさせた。また、時代劇で故・渥美清さんとコンビを組み、三枚目ぶりで人気を博したことも。

ただし、事件の数年前から低迷していて、
仕事がほとんどなかったから、スポンサーといわれていた建設会社会長と友人とで昼から夕方まで麻雀をして、夜は銀座のクラブに行く毎日。会長から小遣いをもらっていたんだろう。けれどもその後、オイルショックの影響もあって、会長の会社が傾いてしまい、金を出してもらえなくなっちゃったんだ」(当時、事件を取材した女性週刊誌記者)

そんな克美を救ったのが、そのころに知り合った愛人のOさんだった。バツ2で銀座のホステスだった彼女は、2人が半同棲するにあたり、今でいうソープランドに転職して、大金を貢いだという。
事件後に、Oさんのベッドで発見されたメモには、
《しばらく寝顔を見ていた。今日は30万円作れたので、やっと安心して寝てるんだろうなあと思いながら─みていると、起こす気になれない。早く安心出来るようにしてあげたい》
といった女心が。一方、克美のメモには、
《これは明日には必ずもって帰りますがカンの中から3万円持っていきます》
などという言葉が目立ち、ヒモのような立場だったことがうかがえる。

当時、克美には2度目の妻と娘がいて、いわば二重生活。しかも、Oさんには離婚したと嘘をつき、75年には偽りの結婚式まで挙げていた。
「Oさんはうれしくて、周りに結婚式の写真を見せてまわっていたそう。でも、奥さんが美人なのに対し、Oさんは中肉中背の普通の女性。克美は金づるとしか思ってなかったようだ」(前出・週刊誌記者)

しかし、そんな生活を考え直さなくてはならないときがやってきた。レコード会社が克美の再ブレイク作戦を、大々的に敢行。スキャンダルの心配はないか、と釘を刺されたのだ。
「ちゃんと会社の人間にでも自分の生活の話をすればなんとかなったのに、再ブレイクの話が立ち消えになるのが怖かったんだろうね、言わなかった。気が弱いヤツだったから」(前出・石川氏)

これに対し、Oさんは「気性の強い、感情の起伏の激しい派手な性格」(裁判での克美の弁護人発言より)だった。
克美はとりあえずOさんに風俗の仕事をやめさせ、銀座のホステスに再転職させたものの…。相手が自分を疎ましく感じ始めたことを察知したOさんは不安になり仕事先についてくるようになる。北海道でのキャンペーンにも同行を希望。さらに事件が起こる2日前には克美の戸籍を調べて離婚が嘘だと知った。
その裏で同じ日、克美のほうは殺すためのロープと死体を埋めるためのスコップを購入していた─。そして翌日の5月5日夜、口論に…。

以下は、裁判の上申書に克美が綴った言葉だ。
《北海道にはひとりで行かせてくれと、最後の最後まで頼んだのですが、あの夜、Oさんが『これから五反田(妻子のいる自宅)へ行って決着をつける』と言ったとき、もうこれまでだと思いOさんの首に手をかけ『許してくれ』といいながら首を絞めました》

彼いわく「スキャンダルで仕事がダメになってしまうのが怖かったのです」と。
新曲の「おもいやり」は事件直後、にわかに注目されたが、すぐに回収された。その内容はくしくも、愛人との生活を清算しようとする男の心情を描いたものだった。
また、克美の妻は当時、本誌に対し「主人もあの人を精いっぱい愛していたんでしょうし、それに対してあの人も尽くしたと思います」としたうえで、「わたしに『迷惑をかけて申し訳ない』と主人は謝っていました。わたしも『待っているから罪を償ってほしい』といいました。(略)こんな事件を起こしたからといって、見捨てるなんてことは、わたしにはできません」
と語っていたが、その年の12月、あっけなく離婚。

Oさんの両親は娘へのせめてもの償いにと、克美に損害賠償を求める訴訟を起こすことに。克美は結婚式を挙げるのに際し、Oさんに彼女自身の金で17万円の指輪を買わせ、犯行後に抜き取り、2万円で質入れするという非道なことまでしていた。それに対し、裁判所は「残虐な方法で娘を殺された両親の心痛は察するにあまりある」として、500万円の支払いを命じた。
とはいえ、懲役15年の求刑は、判決では10年に。犯行後の素直な自供に加え、芸能人有志が全国のファンに向け行った“克美茂減刑嘆願”の署名が功を奏したとされる。

実際、克美の評判は決して悪くはなく「折り目正しいまじめな歌手」「腰が低く、如才ない苦労人」といった声が。それでも殺人という大罪を犯してしまったのは、上申書で本人が何度も繰り返したように「弱い人間」だったからだろうか─。
「克美の手口は最初、自分が貢ぐ。そうするとだんだん無理がたたるんだけど、女が見かねて『私がどうにかするから。あなたが売れたときに返してくれればいい』という気持ちになり、貢がせるんだよ」(前出・週刊誌記者)
いわゆる“ダメ男”好きの女をその気にさせる何かがあったのかもしれない。

1983年に模範囚として仮出所すると、2ヵ月後にはOさんの墓参りをし、刑期が満了した86年には、カラオケのインストラクターとして再出発。だが、89年に覚醒剤取締法違反で逮捕され、懲役8ヵ月の実刑判決を受けたことで、数少ない味方も去っていった。
その後、32歳下の女性と結婚をし、その実家で暮らすようになった克美は、知人の経営するスナックで歌ったりしていたのだが、
「そういえば、3年くらい前、何かのパーティーで見かけたんだけど、芸能人としてのオーラはすっかりなくなっていたね」(前出・石川氏)
現役歌手による殺人事件、それは彼自身の歌手生命を絶つものでもあった。



1976年5月8日、北海道から戻り、羽田空港から護送される克美。やじ馬が見つめていた。



偽装結婚する際に撮影した白無垢姿のOさん。この横には袴姿の克美が…



1983年10月に仮出所。12月21日にはOさんの墓参りをしたあとに公開謝罪会見を(右から2人目が克美) ─(週刊女性6月19日号)

洋楽から盗むということ

2012-03-25 21:30:22 | メディア・芸能
盗作 #11 = ナイアガラ・トライアングル 「A面で恋をして」。原曲はバディ・ホリー "Everyday" 3-23-2012


この一連のツイートでは、“パクリ”という域にとどまらない、完全に盗作と名指せる例を挙げてきたんですが。
「A面で恋をして」の場合、Aメロがほぼ同じということに加え、「♪エヘェ、エヘェ─」というしゃくり上げるようなバディ・ホリーの唱法まで盗んでいる、しかも歌詞の語尾と音が違うのに、無理に付加してるってのが罪が大きい。
サビがまた、木に竹を接いだような、いきなりド演歌。
原曲は確かに天才の仕業でしょうが、このサビの部分は目端のきいた子なら小中学生でも書けるでしょう。
「大滝詠一や筒美京平のパクリにはポリシーがあり、完成度が高い。場合によっては原曲よりイイ」っていう説には、まったく賛同できませんな。
今週のロンハーの「ザキヤマ被害者の会」を見ていて、いくらお笑いが心から好きで本家より面白くできるといっても、活動がステージ中心の芸人さんたちのギャグを、TVでの露出が多いザキヤマがパクるのはいかがなものかとも思ったんだけど、少なくともこうした機会が設けられるような同じ業界に生きて、盗んでるところを見られてもかまわないと、謝罪の言葉までパクリを貫くザキヤマは、ある意味正々堂々としてる。
それに対し筒美、大滝、渋谷系、ほかのさまざまな例でも、この盗み方はかっこいいでしょ?って本家の国々の音楽家やリスナーに申し開きできるような例は絶無。目の届かないところで、訴えられないようにキョロキョロしながらチマチマやってるだけのことだ。われわれが中国の知的財産権侵害のことを持ち出すのは目くそ鼻くそにも例えられよう。




盗作 #10 = レベッカ 「ラブ・イズ・Cash」。原曲はマドンナ "Material Girl" 3-07-2012


3月21日の東京新聞に、震災後、岩手県内で最大の100万トンものがれきを抱える陸前高田市が、国(環境省)と県が責任をなすり付けあうので、処理が遅々として進まないことに苦慮しているという記事が。
その中に、市長が米軍から大型破砕機を借り受ける計画を県に持ちかけたところ、「前例がない」として断られたという記述があり、歌謡曲・J-Popの盗作問題が脳裏をよぎった。
「愛は現金よ」なんてことを最初に歌うのは、リスクを取らない日本人には考えられないことだが、すでにマドンナが「あたしは物質的な女」と歌って、米市場で大ヒットさせた“前例”がある。
万一スベッた場合でも、私がオリジナルで考えたことじゃないから─と原曲に責任転嫁するため、歌詞の発想だけでなく曲調やアレンジ・唱法も真似たとすれば、救いようがない。いずれ再び大きな原発事故が起こり、ドロボーの国は世界地図から姿を消すことでしょう。



お刺身食べたいなァ…

2012-01-02 23:07:05 | メディア・芸能
婆さん 「もう水道代も払えなくって…」
高田 「あっそ。今日、年金の振り込み日だよね」
婆さん 「お刺身食べたいンだけど…」
高田 「あっそ。パチンコやめたら食えるよ」
婆さん 「パチンコやめたら退屈で死んじゃうよォ」
高田 「あっそ。そんじゃまた」

高田 「昼メシうなぎでも食おっか」
マサル 「…」
高田 「どうした?マサル」
マサル 「いや…なんつーか、ヒドイっスね…ハハハ」
高田 「すぐ慣れるさ」
マサル 「…。ハイ!」



『闇金ウシジマくん』の2~3巻「ヤンキーくん」より。
私個人としては、後のエンコーまいたんによる「甘いパン甘いパン」に軍配を上げたいのですが、この「お刺身食べたい」も、作中の名台詞として人気が高いようです。



きのうの記事で、「人の夢や希望は決して滅びない」と述べたものの、「夢や欲望」としたほうが現実に即しているとも思います。─で、夢と欲望って、どう違うのかという問題。
あれこれ考えた結果、夢ってのは、人には左右されないんじゃないかと。誰が何と言おうと、これが私の夢だという確固たる思い。
それに対し欲望ってのは、人に大いに左右される、相対的な位置関係によって燃料を注がれるものなんじゃないかと。平たく言えば、勝った負けたの。自由主義と新自由主義の関係にも似た。
ウシジマくんの作者の真鍋昌平さんが、プリキュアの映画の暴力性について語っておられたが、ウルトラマンや宇宙戦艦ヤマト、あるいは時代劇なども同じ系統と考えられる、「絶対的な悪」が登場して、そして必ず最後に「正義が勝つ」設定。



12月27日にNHKでOAされた『追跡!真相ファイル パチンコにハマる女たち』を見て、ことさら女性のギャンブル依存について取り上げる意味を考えた場合、これまでのウシジマくんや、他のさまざまなマンガで目にしてきた記憶が、一つに焦点を結ぶような。
↑画像は、誰もが知る『ちびまる子ちゃん』が2007年7月に新聞4コマとして連載開始された際のもので、女性が描くマンガとして、やはり男性を際立たせて理想化して描きたい思いもあるのかも分からないけれども、作中で、父ヒロシ、祖父友蔵に比べ、めっきり母や姉の名前が現れることが少ない。祖母の「こたけ」に至っては、このコマ以外で名前を呼ばれるのを目にした記憶がない。老人会とかで、ありましたっけ?
どうも女性というものは、ことにわが国では「母」として陰になって家庭を支える役割面ばかりが求められ、一人の人間としての人格・自由意思といったものがないがしろにされがちなのではないか─という。



番組では、軽い気持ちで始めた女性が、ビギナーズ・ラックで大勝ちした強烈な体験に縛られ、「パチンコ台だけが私を分かってくれる友だち」のようにしてのめり込んでゆく様子が紹介されたが、さらに見逃せない点として、パチンコは景品交換所を介すことにより「法律上は遊戯」と見なされ、遊技場としての警察の取り締まりはあるけれども、病的なギャンブル依存に対しては国も業界もほとんど無策で放置されていることがある。







首相直属ですべてのギャンブル産業を監督する組織を設け、依存症についても国と業界で半分ずつ費用を負担して無料で治療が受けられる施設を設けるなど対策が進んでいる韓国の例に対し、日本では別個にタテ割りで扱われ、国も業界も最終的な責任を免れて、利権だけはもたれ合って分け合う─という、まるで原子力発電所を54基ものさばらせた体制にも酷似。
この場合、いいか悪いかは別として、やはり韓国では賭博や芸能界なども、賤業として蔑みながらも一種の治外法権として認める─というような明確に峻別する態度があると思うのだ。
そこが日本ではあいまいで、すべてが不透明。いざというとき、責任の所在がどこにあるのか分からない。



つげ義春さんは私の亡き両親と同じ世代なので、その中年時代の旅行記マンガに登場する、このお婆さんは、とうの昔に亡くなっていることだろう。たまのお客さんではしゃいでいるが、普段はウイスキー飲んでラジオ聞きながら寝てしまう。
きょうのテーマを考えながら、真っ先に思い出した場面だ。
マンガはパッと見の視覚だから、記憶に焼きつきますよね。逆に、それだけにマンガやアニメやゲームや芸能人・スポーツ選手といった存在が、タテ社会同士で相互に庇い合いながら連携して、われわれから奪うとしたら、脅威である。
その点を、誰もが責任を回避しながら節度がなし崩しに後退し、こうしたお婆さんからも奪い取るようになったのが、冒頭の「お刺身食べたい」いまの時代というわけではないでしょうか。

芸能界を去った2代目ケンちゃん・岡浩也

2011-11-03 21:57:43 | メディア・芸能
けさ、といっても世間では昼ですが、PCを立ち上げてツイッターに連動して画像アップできるTwitpicをチェックしてみると、アップしておいたはずの画像のうち、市販の写真集や雑誌グラビアを無断引用した某タレントのセミヌード画像が消え失せている。複数の注意・報告が寄せられる、あるいは巡回ロボに引っかかるなどして削除されたのでしょうが、まあそうだろうなという気もします。







きのうのツイッターまとめにも含まれてたんですけど、本来その回のまとめでは、この「2代目ケンちゃん」こと往年の子役俳優・岡浩也くん(おかひろや・1967年生)の映像をVHSビデオからDVDにダビングして永久保存した件が目玉になるはずだったわけ。それが何やら検索の急上昇ワードに某タレントの名が出てるもんでつい安直なやり方をしてしまって。

映像をサルベージできた岡浩也くんはもはや忘れられ、あの人はいま状態なので注目度も低くTwitpicにアップした画像も無傷。こういうのこそ当ブログの存在意義としてお目にかけたい。かわいいでしょ。美少年でしょ。1960~70年代に絶大な人気を誇ったホームドラマのケンちゃんシリーズで、初代ケンちゃん・宮脇康之の成長につれ彼のこまっしゃくれた弟・ケンジ役として74年に初登場。以降8年間同シリーズに出演し、この『なかよしケンちゃん』を最後に卒業。

作中では中1で妹・弟もできており、実年齢は15歳・中3だったそうで、ホモホモ当時のオラにとって芸能界・テレビ界では断然この子がストライク・ゾーンでしたね。BLの先駆者である作家の森茉莉も当時の連載エッセイ『ドッキリチャンネル』にて美少年と言及。近年稀な素材として現れてきた西島隆弘くんともちょっと顔立ちかぶるところあるね。こういう顔に憧れるんだねェ~~

ただし西島くんは巧みな女装をこなすいっぽうダンス&ボーカルグループのリーダー格として女子からキャーキャーいわれる正統イケメンとしてもつぶしがきくのに対し、↑の海パン姿などご覧いただいても岡くんは貧弱でしょう。オラはこういうのが好きなんだけど、子役から脱皮して大人の俳優、あるいはほかの道でも芸能界でやってくのは難しそうな。顔はかわいくて利発そうだが、なで肩で痩せてて、スポーツとかぜんぜん苦手そう。

ところが!! ドラマの中ではかっこいいお兄ちゃんとして、サッカーやマラソンが得意という無理のある設定。弟たちが見守る前で逆立ちや懸垂をやってみせたりするのだが↑画像をご覧のように逆立ちでも懸垂でも下半身は決して映らない。ホントはできないんでしょうね。どんな気持ちで表情作ってたのかな。


ことし始めに「圧縮された人生」と題し、ケンちゃんといえばこの人をおいてない宮脇康之さんのことを取り上げた際に使った画像↑。父母役の牟田悌三・岸久美子さんの笑顔がぎこちないことにお気づきの方もあろう。

子役が中心のドラマ制作の現場で、スタッフのあつかいやロケで泊まる部屋なども最高級の特別待遇を受けた宮脇さん。おそらく制作側としても、子どもに仕えて稼ぐのが内心不満で、あえてチヤホヤして甘やかし、彼をテレビ・芸能界以外では生きていけなくさせてしまおうとの底意も流れてたんじゃないか。実際彼は売れなくなってからもテレビから呼ばれれば「夢よもう一度」となる人生を送らざるをえなかった。

2代目としてそうしたことも目にしたろう岡くんは、シリーズ卒業後数年で賢明にも芸能界を去り、北里大の医学部で勉強して精神科の開業医として現在も活躍中とのことです。

1952 - ヘルシンキ五輪

2011-10-03 23:34:17 | メディア・芸能
第15回オリンピック大会は7月19日から8月3日までフィンランドの首都ヘルシンキで行われた。参加国はギリシャ、蘭領西インド、アルゼンチン、オーストラリア、バハマ、ベルギー、バーミュダ、ブラジル、英領ギアナ、ブルガリア、ビルマ、セイロン、チリー、エジプト、スペイン、南阿連邦、フィリピン、グァテマラ、オランダ、ホンコン、インドネシア、インド、イラン、エール、アイスランド、イギリス、イスラエル、イタリア、オーストリア、ジャマイカ、日本、ユーゴ、カナダ、韓国、黄金海岸、キューバ、レバノン、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、メキシコ、モナコ、ソ連、ニゼリア、ノルウェー、パキスタン、プエルトリコ、ポルトガル、ポーランド、フランス、ルーマニア、スウェーデン、ザール、西ドイツ、シンガポール、スイス、シリア、デンマーク、タイ、トリニダット、チェコ、トルコ、ハンガリー、ウルグァイ、ニュージーランド、ヴェネズェラ、ヴェトナム、アメリカ、フィンランド(開会式行進順)に遅ればせに参加した中共を加えて計69ヵ国、選手数も5900余人を数えオリンピック史上空前の記録であった。
日本もベルリン大会以来16年ぶりに参加、72名(陸上19、水上27、自転車4、体操5、ボクシング2、レスリング5、ボート5、射撃1、馬術1、フェンシング1、重量挙1、ヨット1)の選手が12種目に出場した。
日本の16年ぶりの参加もさることながらヘルシンキ大会最大のニュースはソ連の参加で、ソ連は帝政ロシア時代1度選手を送ったことがあるが革命後は初めてのことであり、スポーツに関する限りは鉄のカーテンが取りのぞかれた感があった。また国府、中共が共に参加を許されながら国府は中共とは同席できないと強硬な態度を持し遂に参加を取止めた事実をフィンランドの地元紙は“国府は初の敗北者なり”と評していた。 ─(アサヒスポーツ臨時増刊・オリンピック画報より、画像も)



壮観な開会式。聖火リレーの最終点火者は、フィンランドの英雄パーヴォ・ヌルミ



宿舎前でのソ連選手団



陸上・男子100mの接戦。左2人目から3着ベイリー(英)、4着スミス(米)、優勝者レミギノ(米)、2着マッケンレー(ジャマイカ)



三段跳に16m22の世界新記録で優勝したアデマール・ダ・シルバ(ブラジル)。陸上では24もの世界新記録(最高記録含む)が生まれ、オリンピック記録にいたっては33種目中27種目で更新された



“跳躍日本”の面目を保ち、沢田文吉が棒高跳で4m20を跳んで6位。現地に行ってから竹のポールをスチール・ポールに代えたとされる



5000mで優勝したエミール・ザトペック(先頭、チェコスロヴァキア)。10000mとのトラック2種目に加え、自身初となるマラソンでも優勝、空前絶後の快挙を達成した



世界記録を上回るペースでマラソン・ゲートを入るザトペック。一介の靴製造の職工からチェコの国宝的存在となり、軍隊でも陸軍少佐に昇進



金メダルが望まれた水泳が不振で、古橋広之進が400m自由形で8位に終わったあと、最後の期待を担って1500m自由形決勝に臨んだ橋爪四郎も終盤逆転され2位



表彰台でうなだれる橋爪。優勝したフォード・コンノは日系アメリカ人で400m自由形でも勝った



レスリングのフリースタイル・バンタム級決勝リーグでソ連のマメデコフを攻める石井庄八。この大会で日本唯一の金メダルとなった(いちばん上の画像も)



重量挙ヘヴィ級に世界新記録で優勝したアメリカのデーヴィス



愛馬ユーリス号を駆って練習する喜多井利明。馬術はこの大会から軍人以外の男女の参加が認められた



サッカーの3位決定戦、スウェーデンの猛攻を西ドイツのゴールキーパーがパンチで防ぐ。優勝はハンガリー


先週の記事「枯葉剤をめぐる因果」で、原子爆弾を落とされたわが国で原子力予算を初めて通した中曽根康弘に対して、「現在の視点から正義だ悪だと単純に割り切れない」と、やや矛先が鈍ったのは、この本を入手して見ていたところだったので。
いや競技そのものは、今より牧歌的かもしれないが、選手を取り巻く国際情勢は段違いに殺伐として。ついこないだまで食うか食われるかと戦っていて、この時点でも中国はもちろんソ連とも国交を結んでいない。その中国で、アテネ五輪の110mハードルの優勝者・劉翔が、上海市の共産党青年団幹部に任命されたというニュースが、朝刊に載っていた。市民からは「汚職まみれの公務員の悪習に染まってしまう」との懸念の声が出ていると聞くが、少なくとも中国共産党の指導層の念頭からは、いまだ分断国家という現実が去っていないのでしょう。

1983 - ヘルシンキ世界陸上

2011-09-14 23:13:10 | メディア・芸能
先ごろ韓国・テグで行われた陸上競技の世界選手権大会は、数えて13回目。第1回大会が行われたのは1983年のフィンランド・ヘルシンキで、当時のオリンピックでは国の都合でボイコットを余儀なくされる選手が相次いだので、そうしたことに左右されず「真の世界一は誰なのか」を決める大会として注目を集めた。
そして、その中でスターの座に就いたのは、男子100m、4×100mリレー、走幅跳と、出場した3種目すべてで優勝したカール・ルイス(アメリカ、↑写真)であった。
ちょうど、1982年から84年にかけ、マイケル・ジャクソンが『スリラー』のアルバムから7枚ものシングル盤を次々と大ヒットさせて、キング・オブ・ポップの称号を得たことと時期的に重なり、印象深い。
それは、黒人でも優秀なら大ヒット商品になりうる─という新時代のアメリカ消費文明を最大限アピールするもので、この大会で最も多く金メダルを獲得したのは東ドイツではあったが、やがてソ連・東欧の共産圏の体制がくつがえされる序章ともなったのではないだろうか。
日本でテレビ放映権を獲得したのはテレビ朝日で、次大会からは日本テレビ、現在ではご存知・織田裕二くんのTBSが中継している。プロ野球、大相撲、ボクシング、プロレスといった年中やっているプロ・スポーツしかなかった時代、この大会では残念ながら日本代表選手の影は薄く盛り上がりに欠けたものの、国際陸連やスポンサー企業やテレビ局に、アマチュア・スポーツの世界大会も広告的に価値づけてコンテンツ化してゆくことができると確信させる、またとない試金石だったろう。 ─(写真はすべて陸上競技マガジン1983年10月号より)



女子800mはヤルミラ・クラトフビロバ(チェコスロバキア)が他をまったく寄せつけず優勝。400mでも初めて48秒の壁を破る世界新記録で2冠。彼女は現在も800mの世界記録保持者で、100・200mのジョイナー(米)、400mのコッホ(東独)とともに冷戦下でドーピングが蔓延したころの“灰色の記録”が今も破られていない



翌年にロス五輪を控えたアメリカのホープ、メアリー・デッカーは、3000mに圧勝したあと、1500mも積極果敢なレースを展開、ザイツェーワ(ソ連、右)との激しいスパート合戦を制して中距離2冠



90年代まで長く活躍したハイケ・ドレクスラー(東独→独)は、18歳のこの大会が世界デビュー。旧姓のダウテとして走幅跳に優勝



2011年大会で金メダルの室伏広治の父、室伏重信がハンマー投げに出場したが予選落ち



女子やり投げで6投目に70m82を投げて逆転優勝したティーナ・リラク(フィンランド)。開催国に金メダルをもたらし観衆も熱狂



先駆者として競技の水準を引き上げたグレテ・ワイツ(ノルウェー)が女子マラソンの初代女王に。男子も第一人者のロバート・ド・キャステラ(豪)が勝つ順当な結果



日本代表選手はほとんどが自己記録におよばず、入賞ゼロという不甲斐ない成績。当時世界のトップ級だった数少ない種目、男子マラソンでも西村義弘35位、喜多秀喜42位(↑写真)、川口孝志郎途中棄権と惨敗。これがビッグゲームでの実力で、よくいわれる「モスクワ五輪(80年)に瀬古が出ていれば金メダル」というのも、私見では難しかったろう

Child Star─宮脇康之の圧縮された人生

2011-01-07 22:57:45 | メディア・芸能
『ケンちゃんの101回信じてよかった』宮脇康之(講談社、2004年1月刊)
1961年、東京生まれの著者は、3歳から児童劇団に所属し、TBS系のホームドラマ『チャコねえちゃん』の弟役に抜擢され、台詞回しなどリアルな子どもらしいかわいさで人気を呼ぶ。彼を主役とする『ケンちゃん』シリーズも、1969年から、1977年にケンちゃん役を2代目に引き継ぐまで8年間続いた。しかし、ケンちゃんというモンスターは、彼中心の暮らしを余儀なくされた宮脇家を崩壊に導き、子役時代にチヤホヤされ過ぎた彼自身の人生をも狂わすのだ。
1980年前後には学園ドラマなどで聞かれたその名前も、日活ロマンポルノに出演したことなどがきっかけで、聞かれなくなってゆき、以降彼は漫才師の付き人、ディスコの黒服、墓石の販売、居酒屋の皿洗い、ガスの検針など40近くの仕事を転々とする。沖縄にいた頃は1億円もの借金を背負ったが、完済。結婚して子どももでき、本書の出版当時には還元水生成器などのマルチ商法で成功を収めていたが、芸能界への夢は捨てきれず、芸名を「宮脇健」と改めている。



↑初の単独主演となった『ジャンケン・ケンちゃん』(1969~70年)のころの彼



↑妹のトコちゃん役に佐久間まゆみを迎えた『ケンちゃんトコちゃん』(1970~71年)のレコード。ずっと後に銀座のホステスになっていた佐久間さんと再会することに



↑『ケーキ屋ケンちゃん』(1972~73年)の1シーン。今は見られない、太ももむき出しの半ズボンがケンちゃんのトレードマークで、真冬の撮影はつらかったとか



↑彼がケンちゃんシリーズに出演していた末期のころ、父母役の牟田悌三さん、岸久美子さんと。子どもながら人気番組を支える宮脇氏への待遇は破格なもので、ロケ先のホテルで彼の部屋に招かれた牟田氏の顔がサッと曇ったという話も

きょうは引用しないが、毎度毎度画像を引用させてもらっている『闇金ウシジマくん』の「スーパータクシーくん」編でも、若いホストを乗せた主人公・諸星信也が、ホスト生活に捧げた20代を振り返って、「がんばってください…。ホストは、辞めてからの人生のほうが長いンですよ…」とつぶやく。
まして5歳や6歳のころから茶の間の人気をさらった名子役にとって、その後の人生がどのようなものに感じられるかは、われわれの想像を絶する。
「ケンちゃん」のイメージに縛られ、子役からの脱皮ができず、人気を失ってゆく彼に、手のひらを返したような態度をとるスタッフたち。ケンちゃんシリーズから去ってしばらくは、堀越高校に通い、『ナッキーはつむじ風』『翔んだカップル』などに出演していたようだが、ジャニー喜多川社長から誘われてジャニーズの合宿所にいたこともあるとか。
が、「あることが原因で、大事にしていた自分のドラムセットも洋服も全部そのままにして、合宿所を飛び出た」んだそうな。
ははァ~ん。察しはつきますよね。
でも、まあ、それを彼が我慢したところで、ジャニーズ系の歌って踊る人気者になることは難しかったろう。
子どもとしては、あいくるしい。しかし、大人の男としては、どうにもとりえのない…。
彼より3学年下のオラにとって、TVのケンちゃんシリーズは同年代の誰もが見ている、もちろんオラにも見逃せないものだったが、特に忘れられないシーンがある。
1974年の『ケンにいちゃん』から、弟のケンジ役に岡浩也を迎え、宮脇氏のケンイチと2人でTV局に見学に行く─というようなシーンだったと記憶する。そこにあったモニターに、数年前の『ケンちゃんトコちゃん』あたりの映像が映し出されて、不思議そうに覗き込むケンジを、「行こう!!」と促すケンイチ─。
これは現実!?過去!?未来!?
やがて1977年には宮脇氏がケンちゃんシリーズを去り、ケンジからケンイチとなった岡くんも1982年には去る。その半年後には、視聴率が下降していたシリーズ自体も終わってしまう。
最初の15年ほどで、すべてを生ききってしまい、それほどの栄光は2度とめぐって来ない、圧縮された人生。
過酷なことだが、あの時代に、たった一人が選ばれて、その人生を生きたのだった。



↑2010年夏、上石神井の居酒屋で、49歳の宮脇氏。マルチ商法のその後は定かでないが、しぶとく生きているようだ

※前身となったチャコちゃんシリーズを含む全ケンちゃんシリーズの放送データを集めたサイト
※同じく放送データを集めたブログ記事で、ことにレコードの画像が貴重
「芸能界を去った2代目ケンちゃん・岡浩也」(2011年11月3日の弊ブログ記事)

1968 - メキシコ五輪

2010-07-03 23:49:14 | メディア・芸能
いわゆる「天下り」などは公務員に限った話ではない。むしろ民間において大企業が子会社や系列企業を配下として、賄賂・談合・天下りなどをはびこらせる風習のほうに根深いものがあるのではないだろうか。
オラも経験あるだ。労働組合の役員をやったので、30才のとき系列の印刷会社へ出向してみると=当時の高卒社員としてはまずまずのコース、その後一変するんだけど=いるわいるわ、親会社を管理職で定年して天下ってきたのがごろごろ、社長から課長クラスまでほとんどがその類いで、その会社からの直接採用組は「プロパー」と呼ばれて差別される。
すべて親会社を頂点とする構造で、オラの仕事も出身の親会社や系列会社をルート・セールスで回る営業だ。そうやって回る営業先の中に、同じ冠のリース会社があってね、親しくなった担当者もまた出向組で、年もオラと同期。
旧友のM原くんのように、その人もキンクス、ザ・フー、XTC、スクイーズといった英国純正の音楽を好む。会社へ入ってから、そうした話題に通じた人がぜんぜんいなくて、砂漠をさまよう思いだったオラの前に現れたオアシス。
でも、1995~97年という3年ほどの付き合いで、やがてその人は新しい音楽をあんまり聞かなくなって、主に欧州のサッカーのリーグ戦へと趣味の軸足を移していった。
そりゃそうだ。サラリーマンには時間がない。その人は結婚もしていたので、音楽とサッカーの両方をガッツリ楽しむのは無理だったろう。音楽よりサッカーを選んだわけで、日本人が活躍してるわけでもなかったから、当時のオラにはちょっぴり不可解だったが、きのうW杯の準々決勝を見ていて納得いったね。
おもしろいわ。時間が濃い。音楽にも劣らない人類普遍の価値だ。野球ならば個々のプレーの独立性が高く、連関が少ないが、サッカーは前後関係がすべてつながっており、目が離せない。一瞬で守備と攻撃が入れ替わる。そして同じPK戦負けでも、日本はまだあきらめがつくが、ガーナのあの負け方は悔しそうだ。
それぞれの国情などにも興味が湧くし、代表選手個々の名前やどこのチームでプレーしてきたかとか情報が入っていれば、さらに楽しめるに違いない。W杯の試合中だけでなく、出場選手だけでなく、背景となって関連するすべてがそこに凝縮されている、歴史の中を生き、新たな歴史が刻まれるのを見届けるという感覚。
そこへ思い当たると、読売新聞・日本テレビが手を引いたので東京ヴェルディが経営難だとかの話は、結局のところ読売は野球の巨人みたいな、ファンの信仰を集める権威となって自分たちのマスコミ権力維持に役立つ存在でなければ、自分たちの思い通りにならないのであれば切り捨てるという考えでしょ。野球もサッカーも道具でしかない。
いや、ほかの国でも、プロの球団なんてのは、ある程度はそうした企業の帝国主義的発想のもと成り立ってるのかもしんないけど、日本国内の市場さえ制圧できれば、どんなに卑怯な手段でもみっともない音楽でもかまわないJ-POPとも共通する、民主主義の不在、歴史への責任感の欠如というわれわれの病理が、ことに読売には強く匂う気がします。



1968年10月12日、第19回夏季オリンピック・メキシコ大会が開幕。大観衆の拍手の中、オリンピック旗は美濃部東京都知事からブランデージIOC会長を通してロサル・メキシコ市長に引き継がれた。



陸上男子200mで優勝したアメリカの黒人選手トミー・スミスと3位のジョン・カーロスは表彰式で黒手袋のこぶしを突き上げて人種差別に抗議。2人は米チームの一員としての資格を停止され、五輪村を追放されることとなった。



米チームの宿舎に掲げられた「打倒ブランデージ」の幕。当時IOC会長だったアベリー・ブランデージ氏(アメリカ)には親ナチスや反ユダヤの過去があり、彼が掲げた厳格なアマチュアリズムも、共産圏の「ステート・アマ」や米国の大学が黒人選手を奨学金で釣ってかき集める動きの中にあっては現実離れした貴族趣味となりつつあった。



メキシコ市は海抜2230mという高地のため、中長距離では欧米の有力選手が酸素不足で不振な結果となり、ケニアやエチオピアの高地勢が台頭。マラソンではローマ、東京と世界記録で連覇していたアベベ(エチオピア)が途中棄権し、代わって同僚のマモ・ウォルデが30km過ぎから独走して優勝した。



3分ほど遅れ、2番目でもがくように競技場へ入ってきたのは日本の君原健二。前回東京で8位、次回ミュンヘンでも5位と長く活躍した名ランナー。



中長距離の選手を苦しめた高地の気圧は、短距離や跳躍では快記録の誕生を助けた。男子走幅跳のボブ・ビーモン(アメリカ)は従来の世界記録を55cmも上回る8m90という大記録で優勝。この記録は1991年(東京世界陸上で米国のパウエル)まで破られなかった。



あおむけにバーを越える「背面跳び」で男子走高跳を制し、満場の注目を集めたディック・フォスベリー(アメリカ)。以降、この跳び方が定着してゆくこととなった。



男子円盤投げを64m78で制し、オリンピック4連覇となったアル・オーター(アメリカ)。個人種目の4連覇は後のカール・ルイス(アメリカ、走幅跳)と史上わずか2名。



女子バレーボールでソ連とチェコ(白いシャツ)が対戦。チェコスロバキアで起こった民主化の動きに対しソ連軍が侵攻した「プラハの春」の直後だったため、どの会場でも目立った声援を受け、第1セットを取るも、1対3で敗れた。日本は男女とも銀メダルとなった。



体操女子個人総合で3位となったクチンスカヤ(ソ連)の平均台の演技。前回に続いてベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)が個人総合など3種目を制し、大会後、メキシコ市内の教会で陸上選手と結婚式を挙げて引退を表明した。



体操日本のエース、中山彰規の床運動の演技。個人総合では加藤沢男、ボローニン(ソ連)に次ぐ3位にとどまったが、種目別で鉄棒など3個の金メダルを獲得。



レスリングのグレコローマン・ライト級で優勝した宗村宗二が、予選3回戦でフランスのマルシャンを攻める様子。70~63kgの中量級で優勝したのは当時高く評価された。ちなみに柔道はこの大会では行われていない。



ボートのかじつきフォア決勝では、ニュージーランドが2位東ドイツを一艇身以上引き離し、6分45秒62で優勝した。



日本はアメリカ、ソ連に次いで多い11個の金メダルを獲得したが、ほとんどは体操、重量挙げ、レスリングなど集中的に強化してきた競技によるもので、むしろこの大会の記憶を今にとどめている=オラ3才でしたので直接にはまったく覚えてない=のはサッカーで健闘して3位になったことだといえよう。予選リーグを1勝2分けで突破した日本は、決勝トーナメントでフランスに3対1で勝ち(いちばん上の画像、フランスのディフェンスをかわしながらドリブルする杉山)4強入り、準決勝では東京大会優勝のハンガリーに0対5で敗れたが、3位決定戦で地元メキシコを2対0でくだして史上唯一の銅メダルを獲得。↑前半1対0とリードした日本は、左コーナーへ快走した杉山(左から2人目)が釜本(左端)へパス、釜本は鋭く走ってきてキーパーをかわし、2点目となるシュートを決めた。後半は防戦一方となったが、メキシコの猛攻をしのぎ、逃げ切った。 ─(写真は『アサヒグラフ』1968年11月の増刊号より)

銀行と映画館2─旧作探訪であつかった100本の映画

2010-07-01 22:32:49 | メディア・芸能
映画の正規料金が1600円、前売り券は1300円、それを公開の残りが1日しかないので、金券屋で200円で売られていたことに、なんらか再起できるかもしれない匂いを嗅ぎつけた肉欲棒太郎。実際見てみると↑、こんな映画に1600円も払わされた客は悲惨やで─。
額面と、実勢価格の差には、彼のようなシタタカ者の付け入る隙は十分。それから10年以上経過した今も、外国映画はだいぶつぶれてしまったが、日本映画では、どうしてこんな映画に出資する会社があるのか不思議な例がちらほら。
映画興行に限った話ではなく、そうした話はあちこちに聞かれるし、たとえば昨今では「公的資金を注入されているのにもかかわらず、経営陣が巨額の報酬を受けているような銀行に預金して、雀の涙みたいな利息しかもらえないお客は悲惨やで─」。



前にも述べたが、果たす役割において似たところのある、銀行と映画館。昭和期の地図など見ると、わりと小さな駅の周辺にも、銀行と映画館を示す記号が集まっている。このことは、大蔵省から護送船団としてあつかわれる銀行も、市場原理に基づく人気商売の映画館も、不特定多数の人びとを相手にする以上、共通する基盤の上に存立していたことを示す。
↑は1972(昭和47)年の中野区沼袋付近なのだが、なぜ沼袋かというとオラの母方の実家=わりと歌舞音曲の好きな職人の家=があるからなのだが、隣の新井薬師前駅のそばに、「薬師東映」なる映画館が。そして注目いただきたいのが、沼袋駅から中野駅方面に向かう途中に、大きな刑務所があることだ。そばには刑務所職員寮も。
東映の映画館でかかる映画の中では、明日をも知れぬヤクザ者が活躍していたかもしれない。現実には、そうした者のうち少なからずの確率でお縄に付く者が出てくるかもしれない。映画館も刑務所も都市の一部としてあることは、そうした者どもが市民社会の中でなるべく避けたいが完全に消し去ることは不可避な者として、共存というか認知されていたことが感じられる。
逆に現在では、そうした者どもがオモテ向きはまったく意識されていない無菌社会となり、大相撲の賭博問題などで意識せざるをえなくなるとあわてて騒ぎ立てる。そしてむしろ、映画館のような特別な場所でなくても、サッカーを中継するTVスタジオになぜかEXILEのみなさんがいたりとか、人身売買みたいなAKB48のみなさんが人気だったりとかで、ヤクザ的なウラ社会の悪徳がより深く根を下ろしている気配だ。
あんなナリでも、EXILE銀行と呼びたいような、石橋をたたいても渡らない安全策の音楽。AKB48なんかでは、もっと直接的に犯罪行為を奨励しているかのよう。「山本耳かき店」のストーカー殺人事件を想起してしまうわん。メンバーがひどい目にあうとしても、お客さんがひどい目にあうとしても、どちらに転んでも秋元康らは儲かる仕組みだ。蟻地獄物産の「両建て」↓。
かつては、犯罪者が追い込まれて困った状況などで用いられた「ヤバイ」という言葉を、昨今の若者がうれしい・おいしいなど良い意味で用いるようになったのは、生まれた時からジャニーズ事務所や秋元康が狡猾なやり方で体制側にそびえ立っているので、無意識のうちに自分も犯罪ギリギリの線を狙わなければ上昇はおろか生き延びることさえ困難だというような時代的思潮が培われているのかもわからない。



★しんぼる
★★★ワンダフルライフ
★★★マーラー
★★★★★トゥモロー・ワールド
★★★レッツ・ゲット・ロスト
★★★★日本沈没
★★十八歳、海へ
★★★★男性・女性
★★★ゴダールのマリア
★★★永遠と一日
★★★★★生きる
★ファッションが教えてくれること
★★★★★七人の侍
★★カラヴァッジオ
★★★★★クローズ・アップ
★★★★ノスタルジア
★★ルナ・パパ
★★★★12モンキーズ
★★★★2001年宇宙の旅
★★いちばん美しい年令(とし)
★★ミミック
★★★★ユリシーズの瞳
★★ZOO
★★★永遠のモータウン
★★★★アメリカン・ヒストリーX
★★★★エル・マリアッチ



★★★菊豆(チュイトウ)
★★★太陽の帝国
★★★ダウン・バイ・ロー
★★★★★ブレードランナー
★★★苺とチョコレート
★★★暗殺・リトビネンコ事件
★★★スペース カウボーイ
★★★シド・アンド・ナンシー
★★★クラム
★★★★メフィスト
★★★エム・バタフライ
★★★この素晴らしき世界
★★★★狼たちの午後
★パラサイト・ドールズ
★★★裸のランチ
★★バッファロー’66
★★★★リアリティ・バイツ
★★★★★暴力脱獄
★★★ハリーとトント
★★★ペーパー・ムーン
★★★★メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬
★★★オリバー!
★★★クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲
★★★世界最速のインディアン
★★★★シベールの日曜日
★★★エル・スール
★★★花と蛇2 パリ/静子
★★★★★カッコーの巣の上で
★★★イル・ポスティーノ
★★★★うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
★★★バスキア
★★★★★デッドゾーン
★★★悦楽共犯者
★★★★エレファント・マン
★★★精霊の島



★★★★ロジャー・ラビット
★★★トーク・トゥ・ハー
★★人喰いアメーバの恐怖
★★★★ブギーナイツ
★ディア・ピョンヤン
★★輝ける女たち
★★★完全なる飼育 赤い殺意
★★★ライフ・オブ・デビッド・ゲイル
★★ルート225
★★つげ義春ワールド・ゲンセンカン主人
★★★ファーゴ
★★★カストラート
★★★AIKI
★★★サンキュー・スモーキング
★★★ゴッド・アンド・モンスター
★★★ダーウィンの悪夢
★★★★渚のシンドバッド
★★★キンキーブーツ
★★シルヴィア
★★★★Mr.BOO! インベーダー作戦
★★★東京ゴッドファーザーズ
★★★ヴェロニカ・ゲリン
★★双生児
★★★★★アラバマ物語
★★★★刑事ジョン・ブック 目撃者



★★★ベイビー・イッツ・ユー
★★死ぬまでにしたい10のこと
★★★★グッバイガール
★★★クイズ・ショウ
★★★★モーターサイクル・ダイアリーズ
★★★★マイライフ・アズ・ア・ドッグ
★★★★★蜘蛛女のキス
★★★★恋はデジャ・ブ
★バックダンサーズ!
★★★★コーリャ 愛のプラハ
★★ジャケット
★★★ノー・マンズ・ランド
★★★★シャイン
★★★ドニー・ダーコ