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旧作探訪できようもないニジンスキー

2010-05-07 23:28:14 | メディア・芸能
『ニジンスキー』Nijinsky(ハーバート・ロス監督、1980年アメリカ)
19世紀末から20世紀へという変革の時代に生き、魂と肉体を通してバレエの真髄を極め、そして狂気の中に神を見い出した不世出のバレエ・ダンサー=ヴァーツラフ・ニジンスキー。以降も男性の優れたダンサーが現われるたび「ニジンスキーの再来」と称されるなど、その業績は見事な踊り・振り付けとともに語り継がれているが、この映画はニジンスキーの1912年3月から1913年11月までの20ヵ月の足跡をほぼ忠実に追ったものである。
1912年2月、ブダペスト。ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフ(アラン・ベイツ)が、病床に伏しているニジンスキー(ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ)の許にパリから帰ってきた。芸術を愛し、美しい少年を愛するディアギレフの庇護のもとニジンスキーの名声は今まさにヨーロッパに広がろうとしていた。5月のパリ公演をひかえ舞台稽古をするニジンスキーに熱い視線を注ぐ若い娘がいた。ロモラ・ド・プルスキー(レスリー・ブラウン)である。
5月、パリのシャトレ座。ニジンスキー振り付けの「牧神の午後」が初演され、その革新的な踊りに観客は酔ったのだが、牧神との魂の合体に陶酔したニジンスキーがニンフのヴェールをおかずに自慰行為めいた振りをするのは、あまりにやり過ぎであった。
彼は常に新しいものに挑戦していった。当時、ストラヴィンスキーが作曲したばかりの『春の祭典』を振り付けたこともその顕れである。1年後、パリのシャンゼリゼ劇場で初演したが、観客にはまったく受け入れられなかった。そしてこの間にロモラの入団が決定した。この出来事がニジンスキーの運命を狂わせてしまうのだ。天性の才能や両性的かつ未成熟な魅力を熱愛して彼を育て、と同時に愛人としたディアギレフ、そしてロモラとの凄絶なる三角関係のすえ、ついに破綻をきたすのである。
バレエ団は南米公演をすることになったが、航海を好まないディアギレフは同行せず、ニジンスキーは団員とともに南米へ向けて出発した。長旅の船内はロモラにとってはニジンスキーに近づく絶好のチャンス。─そしてディアギレフが他のダンサーを探し始めたと聞いて錯乱した彼は、ロモラに異性への欲望を感じた。南米で二人が結婚したことを知ったディアギレフは怒って、ニジンスキーに「バレエ団に残るか、ロモラを取るか」との最後通牒を送り、彼の精神錯乱は強まっていく─。



映画グッズをあつかう店で、旧作探訪のためにチラシを探して、目的の映画と同じクリアファイルに収められていたことから芋ヅル式に手を伸ばすことがある。『ニジンスキー』のチラシも、そんな1枚。家に帰って、さて、オークションにレンタル落ちのビデオが出品されているかどうかチェックしておくか─。
ない。DVD化はもちろん、どうやらVHSビデオですら売られたことがないらしい。公開前から、少女マンガがらみのムック本まで作られたといい、バレエ、オペラ、オーケストラなどの映画は女性層に手堅い需要が見込まれることから、まさか見ることのできない映画になっていようとは予想外。



きのうの本『ゲイ文化の主役たち』にもディアギレフとニジンスキーはペアで46位に登場。↑の写真などでもいかにも人相の悪い、ホモのブタ野郎がセルゲイ・ディアギレフ。音楽の道を志したものの自分には作曲も演奏も才能がないと知り、社交能力を活かして芸術家たちをオーガナイズする側に回ろうと。ロシアの芸術と、パリの音楽・美術・社交界を取り結ぶ存在として、主宰するバレエ団には現在でも著名な顔ぶれが音楽・衣裳やセットの美術・ダンサーとして集った。
中でも傑出した存在がニジンスキーで、それまで女性ダンサーをリフトする影の役回りに過ぎなかった男性ダンサーを初めて光の当たるものとし、官能的な振り付けと驚異的な跳躍力=映画公開当時には「空中で止まっているように見える」という伝説もあった=で観客を魅惑。もちろんその実現はディアギレフの組織力・集金力なくしては考えられず、ホモ野郎のディアギレフが彼の肉体をむさぼったことは言うまでもない。
独占欲・嫉妬心の強いディアギレフは、なんでも言いなりになるニジンスキーを自分の持ちもののごとくあつかったが、それだけに自分の不在時に彼が突然結婚してしまったことが許せなかったのだろう。バレエ団を逐われた彼は、自前で奔走してバレエ公演を打たざるをえなくなるが、次第に統合失調症が悪化し、後半生は病院を転々として終えた。
1960~70年代に「ニジンスキーの再来」と騒がれたスター・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフもまた同性愛で、ソ連からの亡命や、AIDS合併症による死去などこちらも映画の題材にうってつけ。ニジンスキーが首や太ももが非常に太くて、わりと野暮ったい印象なのに対し、ヌレエフは中性的・耽美的で、わが国のダンサーなどでも演じられそうな。
そういや西島隆弘きゅんも、女もすなる新体操というものを男もしてみむとて連ドラ出演中なのよね─。脇役で出番が少ないので2回目以降見てないや。もったいないよね。吹き替えなしとのことなので、身体能力も磨かれてることでしょうに。
もし彼がエロい衣裳で「牧神の午後」を踊ってくれるとしたら、最前列で見るために10万円くらい出すよん─とオラの中のホモホモ心が言っている─。



↑「牧神の午後」のニジンスキー/衣裳・舞台美術を担当したレオン・バクストの画



↑『アルミードの館』のニジンスキー

  

↑ストラヴィンスキー(左)と『ペトルーシュカ』のニジンスキー/ジャン・コクトーが描いた『カルナヴァル』のニジンスキーとストラヴィンスキー
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マーク・レスターくんのなんでそうなるの

2009-08-13 22:04:09 | メディア・芸能
また時事ネタかよ。というより、じじいネタ。じじいとばばあしかわかんねえ。ブログの管理者は、時間帯による訪問者数、どのページが見られてるか、どんな検索ワードで訪れたか、などといったリポートをわりと細かく把握することができるが、ぜんぜん見当がつかないのが性別、年齢、どこで見てるか、あるいは外国から?といった訪問者ちゃまの属性。
まあ、だいたい上は40代前半~下は20代後半あたりの日本人で、男女比は9:1くらいかと思うんですけどね。当てずっぽで。世代が違うと、関心の範囲はおろか、根本的な日本語の話法までぜんぜん違ってくるからさ。以前にイトコの姉ぇーちゃんの娘さんは、マツダセイコって誰?と。小さな恋のメロディ?なにそれ。11才の男の子と女の子が子どもたちだけの結婚式を挙げて、二人でトロッコを漕いで去ってゆく??マジウケル~~





母国イギリスでもアメリカでも世評は芳しくなかった。1971年の映画『小さな恋のメロディ』。アカデミー賞を受けたミュージカル映画『オリバー!』の子役マーク・レスター(Mark Lester・1958~)とジャック・ワイルドが再び共演。マークの演じるダニエルが、トレイシー・ハイド演じるメロディに恋する。↑のチラシ画像は1976年のリバイバル公開時のもので、当初の公開では『小さな恋のメロディ』なんていう少女趣味な邦題であるものの原題もMelodyなのでトレイシー・ハイドの方にスポットが当てられている。マーク・レスターで売り出そうとは考えていなかった様子。ところが当時の日本人少女たちは食いついた。子どもだましなストーリーをも納得させてしまう、マーク・レスターのかわいらしさに。日本のみで大ヒット。ビー・ジーズの歌う主題曲も、オリコン3位で45万枚も売れた。そして…。



↑6月29日、英チェルテンハムの自宅で、マイケル・ジャクソンさんとの思い出を語るマーク・レスターさん=AP

どーーん!!!!
あなたはやってはいけないことをやってしまいましたね…。ここ喪黒福造の声で頼むよ。1981年、すでに俳優としては注目されなくなっていたころ、『Off the Wall』当時のマイケル・ジャクソンから呼び出されて対面。同じ1958年生まれで子ども時代から芸能活動をしていた二人は意気投合し、親密な友人関係が始まったという。
マイケルは結婚後に子どもができず、マーク・レスターが何気なく「ぼくの精子を試したら」と話したところ、マイケルは大いに乗り気で1996年3月にロンドンの医療施設でマークの精子を採取したという。
その後マイケルの妻デボラ・ロウさんは三児を出産。いずれの子どももマークが名付け親となり、逆にマーク・レスターの4人の子どもについてはマイケルが名付け親となった。両家は定期的に交流していたが、マイケルの死後、その母キャサリン・ジャクソンさんに遺児の養育権が認められてからマークの電話やメールが無視されるようになり、憤りを覚えたマークがこのほど英紙に「マイケルの長女パリスさんは私の娘だ」と爆弾告白。
キャサリンさん側はDNA鑑定には応じない模様で、さらにマーク・レスターには「子どもたちはどんな気持ちになるのか考えているのか」「本当にマイケルの友だちなら、こんなことはしない」「恥を知れ」など世間から多くの反発が浴びせられている。
まあねえ。パンチの利いた酒井法子の話題の直後としては、あまりにも脱力。「落差」っていう意味では共通してますけど。たぶん少年愛のマイケル・ジャクソンとしては、『小さな恋のメロディ』当時のマーク・レスターみたいな男の子がど真ん中のストライクなんでしょ。それにしても、自分の子どもをそうしたいと思うのかナ かわいらしいったって一時的なもので、マークもそこから脱皮できず、俳優業はあきらめざるをえなかったのに。↓16才の『楡の木陰の愛』と19才の『王子と乞食』。それを最後に日本でも話題を呼ぶことはなくなった。
子役から脱皮するってたいへんよね。日本でもケンちゃんシリーズの宮脇康之さんなんかが絵に描いたような浮き沈みの人生になってるみたいですけど。そう考えると、杉田かおる姉さんが「格付け女」で最年長者として、ずっと下の世代の人たちと同じリングに上ってるって偉大なこと。『小さな恋のメロディ』がTV放映されたとき、トレイシー・ハイドの声を杉田姉さんが吹き替えたんだとか。

  
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銀行と映画館

2009-08-09 18:15:48 | メディア・芸能
弊ブログのことを知らぬ知人と会話するときオラしばしば「ベスト・オブ・マガジンひとり」をやる。文章の形で整理してあるので、会話があちこちへ飛んでも、その都度それに応じた題材を引っぱってこれる。先日もそうするうち織田裕二くんの話題へ。

オラ─山本高広の物真似を禁じてしまうなんて不粋ですよね。あれによってツッコミが入って、芸として完成するのに。
相手─織田裕二は自分のことをおもしろいとは思ってないんじゃないですか?

そういえばそうかも。織田は自身を正統派の俳優と思っていて、山本が彼の真似で笑いをとることが心外なんでしょか。ゲイゆえ、よけいに笑われることに過敏で、忌避したいというのもあるかもしれない。
美輪明宏というゲイの老人も、部外者から見ればちゃんちゃらおかしい狂ったクジャクのような扮装で、言動もそうだが歌いぶりの仰々しく尊大なこと。ナチ政権下なら収容所に送られかねない同性愛者なのに、どちらかといえばヒトラーの側に立ってふるまう。
そうした傾向をもっとも象徴する人物に北野武=ビートたけしがおり、たとえば彼が昔むかしツービートの漫才で、寝る前にちゃんと締めよう親の首!あるいはブスは殺しても罪にならない!などと発言する場合、彼は決して殺される親やブスの側から言ってはいない。ゆえにこそ子どもも狂喜したのだ。
当時の彼は今のように地位と組織を築いた姿ではない。もっと徒手空拳でしゃべっていた。映画に進出するより前は音楽で売れることに執着しており、スタジオアルタのミニライブで彼の姿を目にしたが、その肌の汚くてブサイクなこと。彼にはずいぶん楽しませてもらったのであんまし悪口ばかり書き連ねるのもどうかと思うが、肌の汚さは空気感に属することで、テレビや映画では伝わらないので特筆しておきたい。別の機会にはロッド・スチュワートに自己投影して「Hot Legs」をガニマタで歌う。
きのう夜のTBSの報道ワイド番組では酒井法子が出頭したことを受けて、ゲストなのかコメンテーターなのか北野武は「わたしがやったらこの番組はたいへんですね!」などと。おまえはかつてやっただろ。犯罪者。漫才でもタブーを破って弱者攻撃して世間の喝采を受けたように、当時の風潮では写真週刊誌のパパラッツィよりも、それらに私生活を追いかけ回される有名人たちに同情する空気があったのも冷徹に計算して芸能界追放にまではならない、と踏んだかもしれない。
ビートくんの気持ちもわかる=後藤田官房長官。それはそのとおり。
ことは一介のお笑い芸人にとどまらない。日本人というのは、なにかものを考えるとき、《権力の側から考える・権力の側に立って発想する》性向が強い。権力から被害をこうむる側に近寄ることを避ける。それゆえに、体制から差別され続けてきたユダヤ人の音楽と、体制にすり寄ろう、あわよくば自分が体制になろうと考える日本人の音楽ではぜんぜん違ったものになるんでしょか。関白宣言。
もし音楽やお笑いの芸能人たちが、そうした発想に基づく芸で人気者となって、人びとをそちらの方向へ誘導してくれるとするなら、それは体制側にとってたいへん好都合。てな考えが湧いてきたのも、↑の五反田駅周辺の地図を見ていて。
オラの住む現在ではない。生まれてない1963(昭和38)年。この時期の駅周辺で、まず目立つのが銀行と映画館。黒い三角印で表示される映画館が5館も。今は一つもない。地図に表記されるということは、銀行と映画館が「公的な場所」として共通する役割を担っていることをも示しているのでわ。銀行は人びとから広く預金を集めて、さまざまな企業や商売に出資する。シロートには違いがよくわからないが、かつては相互銀行とか信託銀行とか信用金庫とか、横並びの護送船団方式で箸の上げ下げまで国の意向に沿う。
映画館は人びとの夢を集める。かつてはもっと夢があったかも。やがて広告主導のテレビがすべての世帯に普及し、映画館の数も減って相対的な地位は低下したかもしれないが、やはり今でも映画は芸能界でももっとも華やぎのある頂点として影響力を振りまいてるのではないだろうか。
北野武には音楽は無理でも映画が残っていた。そこで彼はもっとも独自な才能を発揮することができた。映画監督は権力者。「押尾学も映画のオーディションを受けたいって言ってきたらしいんだけど、俺のところに来る前に書類で落とされた」。北野映画はそれほどそうなっていないが、権力側に立って発想されることはだいたい似てくる。ゲームやパチンコ・パチスロのプレーヤーというのも、実際に権力があるかどうかはさておき、そのゲームやパチンコの中では自分が主人公となって全権を握る。パチンコ機種みたいな映画が増殖するゆえん。もしわれわれが、そうした映画やゲームの世界にのめり込んで、外界のこと、選挙とか社会的なことに興味を失って引きこもるとするなら、権力者たちにとってそれは《われわれが権力の側に立ってものを考える》こと以上にますます都合よろしい。しかし未来はない。



↑Hollywoooo──d!!



↑警視庁渋谷署に移送される酒井法子容疑者=8月8日夜、東京都渋谷区で(東京新聞・北村彰撮影)
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1972 - 札幌冬季五輪

2009-04-30 22:49:54 | メディア・芸能
この前に紹介した1976モントリオール五輪には、現・歪面宰相も射撃の選手として出てるらしい。経費のことなど気にせず潤沢に試射できる、金持ちのぼんぼんのお遊び。そんなのもオリンピック競技。というか冬季オリンピックともなるとすべての競技がそんな感じ。だいたい中南米やアフリカでは競技そのものをやりようがない。バイアスロンなんて寒い国の軍人以外にとって何の意味があるのか。また最近では、アスリートとして一人前になる前から広告塔として使い倒されてしまう石川遼のような珍妙な例も出ているが、この時期のオリンピックの建前としてあった厳格なアマチュアリズム。IOCの会長であったブランデージ氏は「アマチュア原理主義」とまで称され、オーストリアのアルペンスキーのエースで札幌大会でも有力視されたカール・シュランツは、軽微な広告規定の違反で大会から締め出されてしまい「悲運の選手」と呼ばれた。その後はどんどん商業化の流れが進み、TV映えのする競技を中心に、種目も増えるいっぽう。冬季大会も商品価値を増すためか、1992年まで夏季大会の同年に行われていたのを、1994年以降は中間年に行うよう改めているが、前みたいにせいぜい夏季大会の前座でいいでしょ。札幌以外の冬季大会を弊ブログであつかう予定は今のところないっす。



開催国の日本はそれまで冬季オリンピックの優勝は誰もいなかったが、今大会のノルディックスキー70m級ジャンプで笠谷幸生、金野昭次、青地清二が1位・2位・3位を独占して面目を保った。

   

フィギュアスケート女子で3位のジャネット・リン(アメリカ)。規定4位でスタート、フリーでは尻もちをつきながらも1位。失敗しても笑顔を絶やさず演技を続けたことで大会のアイドルに。規定で1位、華やかなフリーでは7位にとどまったベアトリクス・シューバ選手(オーストリア)が優勝。規定の比率を低めて(後に廃止)ショート・プログラムを導入することにつながったとも言われている。



ミュンヘン五輪やメキシコ五輪を特集した日本のグラフ雑誌も入手したんだけど、判型が大きいうえページにまたがった写真が多くてスキャナーにかけられない。そんなところへ札幌五輪をあつかった米LIFE誌も届いたが、こちらは判型が大きいのは一緒でも写真の美しさ、レイアウトのかっこよさが断然光る。上の、垂直に近いようなところを滑ってるリュージュの女子選手とか。
オリンピックも国威発揚の場であったが、この当時は大型のグラフ雑誌も国の豊かさをアピールする場だったみたいね。下の広告のフォード車なんていかにもアメ車。ガソリン食いそう。東側のソ連や北朝鮮も日本語版のグラフ雑誌を作ってて、労働組合の事務室で見た記憶があるが、日本のアサヒグラフとか毎日グラフのレイアウトは新聞報道の延長みたいな感じでLIFEよりは共産圏の雑誌に近い。官僚的というか。「グラフィックデザイン年代記」などでは各国の新聞・雑誌のレイアウトにも時代に沿った新しい提案が見られる。先日、萩尾望都さんの少女マンガのページを丸ごと載せたが、まるで護送船団方式みたいに横並び没個性な新聞・雑誌に比べると、激しい自由競争にさらされてお客さんの心をつかむ新しい試みがたくさん見られるマンガの世界では、市場原理主義が必ずしも合理主義・効率至上にのみつながっていくわけでないこともうかがえる。

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1976 - モントリオール五輪

2009-04-08 22:25:24 | メディア・芸能
兵庫県知事が「関東で地震が起きてくれれば(関西の経済にとって)チャンス」などと失言したのに対し、東京都知事の石原慎太郎は「役人の浅知恵でバカ正直」と評したのだとか。しかし、その石原が「北朝鮮のミサイルは近くに落ちてくれたほうが国民の危機感が高まってよろしい」とかなんとかほざいたそうじゃないですか。おまえも同じレベルだよ。ほんとうに知事というのは、いや知事に限らず政治家というのは最低最悪の人間のためのお仕事なのねん。
銀行事業の失敗、ナチ親衛隊みたいな教育委員会、小児病院の閉鎖など福祉切り捨て等々、彼の失政を数え上げればきりがないが、オラにとってみても唯一評価できるのが東京マラソンを男女共催・エリートと市民ランナーも同時に走らせて賞金も出すちゃんとしたマラソン大会として改めたことでしょかね。
オリンピックは来ても来んでもどっちでもかまわないが、2016年は南米初となるリオデジャネイロにやってもらって、20年でも24年でも28年でも続けて立候補すれば??それでは石原の寿命が尽きるので困る??それよりお金がない??
ほんとうにオリンピックは金食い虫。1976年の、このモントリオール五輪など、何十年も払い続けなければならない負債を市民に残したんだとか。この次回は共産ソビエトの威信をかけたモスクワ、さらに次回は商業化・肥大化の進んだロサンジェルスなので、モントリオールが最後の古きよきオリンピック大会だったのかも。ただし前回のミュンヘンでイスラエル選手団に対し悲惨なテロ事件が起こった流れを引き継いだ政治の影~さらに後まで引き継がれるボイコット問題がこのときもオリンピックをゆさぶり、ニュージーランドのラグビーチームが人種隔離政策をとる南アフリカへ遠征したことをめぐりアフリカ諸国の多くが参加しなかったのだとか。
そんなことオラぜんぜん覚えてないけど、コマネチ!!そう、当時生きてたほとんどの人は、この大会をコマネチの大会として記憶してるはず。ほっそりして手足の長い少女体型で、妖精のように舞うルーマニアの体操選手ナディア・コマネチが10点満点を連発!!女子個人総合など3つの金メダルに輝いて大会の話題をさらった。
彼女は次回1980年のモスクワでも活躍。そのころツービートの漫才でたけしがコマネチ!!のギャグを放ったのである。たけしがギャグに用いた体操選手はコマネチだけではなかった。ネリーキム!アンドリアノフ!ディチャーチン!ケンモチ!!男子の選手ではアクションが異なる。ご記憶でしょか。あのころのビートたけしはお笑い芸人としてキレがあったね。今はまあ政治家の同類というか。
さて1976年のオラは小学6年生、一学期の終わる直前に横浜から東京へ引っ越して小学校も転校しており、夏休みの初めのほうで行われた泊りがけの課外授業にも参加、新しいクラスへ溶け込むのに必死でオリンピックどころではなかった。なるほどコマネチは話題を呼んではいたが、小6のオラにとっていくらか年上のお姉さんなので、「少女らしいかわいらしさ」と言われてもピンと来なかったものでした。けれども今になって写真で振り返ってみて、ようやく新鮮な感動を覚える気がします。



長いストライドでぐんぐん飛ばす、キューバのアルベルト・ファントレナが陸上男子400mと800mで優勝。五輪でこの両種目を制したのは他に例がない。



男子10000mでは、8年後ロス五輪でマラソンを制するカルロス・ロペス(ポルトガル)が先頭を引っぱるものの、終盤にフィンランドのラッセ・ヴィレン(後方の青いユニフォーム)にかわされ2位。ヴィレンはミュンヘン大会に続き5000と10000mを制したほかマラソンにも出て5位。



男子体操・団体総合での加藤沢男の平行棒。大会直前に笠松茂を盲腸炎で欠いた日本は、団体の規定を終えてソビエトにリードされ、しかも団体自由に入ると藤本俊が足を痛めて残る5人が1人も失敗の許されない状況となったが、土壇場で踏ん張り逆転優勝した。しかし個人総合では加藤の3連覇はならずニコライ・アンドリアノフ(ソ連)が王座に就いた。



女子体操、幅10センチの平均台でもまるで平面で演技しているように宙返りを連発、着地もピタリと決めて10点満点のナディア・コマネチ(ルーマニア)。個人総合のほか種目別の平均台と段違い平行棒を制した。



個人総合の表彰式を終えて退場する3選手。前方から3位ミュンヘンの覇者リュドミラ・ツリシチェワ(ソ連)、1位コマネチ、2位ネリー・キム(ソ連)。女子体操は全般に少女体型でローティーンの選手が目立つようになってきた大会であった。



日本期待のローティーン選手、岡崎聡子。団体総合の段違い平行棒では9.80を出すなどがんばったが個人総合30位にとどまった。それにしてもこの体型の差…。その後の彼女の転落人生もまた悲しみを誘う。



ボクシング・ミドル級の準々決勝、優勝したマイケル・スピンクスの右の強打が対戦相手のアゴを直撃。兄のレオン・スピンクスもライトヘビー級で優勝。ともにプロに転向してからも華やかな戦績。シュガー・レイ・レナードもこの大会で優勝している。



予選リーグも、準決勝の韓国戦も、決勝のソ連戦も1セットも落とすことなく圧倒的な強さで優勝した日本の女子バレーボール。エース白井貴子の強烈なスパイクが祖国?韓国のブロックを突き破る。このときから2008年・北京の女子ソフトボールまで球技の優勝は遠ざかる。菅山かおるとか見てると、選手のルックスにも隔世の感が…。─(写真はすべてアサヒグラフのモントリオール五輪を特集した増刊号より)
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デビッド・ボウイの287曲と小室哲哉の806曲

2008-11-30 18:47:23 | メディア・芸能
11月4日、著作権譲渡をめぐる詐欺の容疑で、人気プロデューサー・小室哲哉容疑者と広告会社経営・木村隆容疑者、イベント企画会社社長・平根昭彦容疑者が大阪市内で逮捕された。
小室容疑者ら3人は、約2年前に大阪の投資家に対し「小室の著作権806曲分を10億円で譲渡する」と話を持ちかけ契約。その半金5億円を先に払い込ませ、だまし取った疑い。
音楽界の大物が起こした前代未聞のこの一件は、間違いなく日本の芸能史・音楽史に残る大事件だ。
朝からワイドショーで生中継された映像を見た読者も多いだろうが、小室容疑者が逮捕された場所は新大阪のホテル・ラフォーレ新大阪。小室容疑者は、最上階のスイートルームを偽名で予約していたという。広さ90㎡の部屋は1泊9万円。人気絶頂期は、高級ホテルのスイートルームをフロアごと貸し切るなどという贅沢を満喫していた小室容疑者にとって、最後の贅沢だったのだろうか。しかし、逮捕時に彼が着ていたTシャツは、ユニクロのガンダム絵柄の990円のものだった。一世を風靡した大物プロデューサーのあまりにも悲しすぎるシーンだった。(BUBKA1月号)

というかそもそも現在の小室に5億円もポンと支払った「大阪の投資家」という存在に疑問を…。現金で払ったのか。小切手?手形?お金の流れはどんなふうに…。
てなわけで、やっとのことで手に取ることができたBUBKA誌。なにしろ芸能界のダークな部分を腰が引けずに書ける数少ない雑誌である。しかしそれを読んでももうひとつ判然としない。大ヒットを連発して長者番付の上位に顔を出すほど成功、金銭感覚の狂ってしまった彼に近づくさまざまな妖怪たち。さらに香港での事業の失敗や離婚などから急速に逆回転を始めた彼の資金繰りの、最後にダメを押したのは怪しい仕手筋から借りた高利の金だとかなんとか。
そして今も、彼にまつわる利権をめぐって、エイベックスやエイベックスの台頭を面白く思わない旧勢力の暗闘が続いている…。
なにやらかわいそうにも。今月のBUBKAも小室以上にPerfumeとAKB48を大フィーチャー。10年後には(というか今でもオラにとっては)完全に無価値な音楽たちでも、少なくとも小室哲哉は自分の考えでもって作曲してた。中田ヤスタカや秋元康は小室以上にあくどい詐欺師であるが、これから先も逮捕されることはあるまい。諸行無常である。
さて、小室哲哉が悪用しようとしたとされる、著作権のもたらす印税収入にかかわる複雑な仕組み。なにか思い出しませんでしょか。
そ~なんです。あのデビッド・ボウイ氏が1997年に、自身の旧作アルバム25枚・287曲のもたらす利益を債券化してBowie Bonds(ボウイ債)として売り出すことに。当初は金融格付け会社が高く格付けてどこかの保険会社が一括して買い取り、その後に音楽業界に同種のビジネスが流行する先駆けともなったとか。しかしボウイが過去の存在になるにつれ債券の価値は下がり、一時はジャンク債あつかいもされるように。どのみち今も一般投資家が買えるような仕組みにはなってないので、彼の音楽を愛好するオラにとってもどうでもいい話ではある。
ところでボウイ債のことを調べるのに英語版ウィキペディアをあたってみて、ついでに小室哲哉の項目を見てみると、かなり詳細にわたって記述されてるのね。英語ですと部分的にしか意味がわからないので、なんとなくおどろおどろしたB級SF映画っぽい味も。《In the Oricon singles chart of April 15, 1996, he monopolized all the Top 5 positions as the songwriter and producer, a world record.》ですと。
そういやモノポリーって「独占」って意味でしたか。さらに記述の最終章の見出しが「Fraud」となっていて知らない英単語である。「詐欺」を意味するんですって。ほかにも「Alimony=離婚の慰謝料」ですとか、小室さんのおかげで勉強しちゃいました。

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リレー

2008-08-24 17:46:31 | メディア・芸能

1984年ロスアンジェルス五輪
4×400mリレー準決勝8位・日本(大森重宜、吉田良一、不破弘樹、高野進)3分10秒73
参加基準がゆるく、日本は単独種目では100m2次予選落ちの不破まで走らせ、400mハードルの大森・吉田と400m準決勝落ちの高野とで急ごしらえのチームを作って参加。予選は5位で突破したが準決勝で最下位となった。

1988年ソウル五輪
4×100mリレー準決勝5位・日本(青戸慎司、山内健次、栗原浩司、高野進)38秒90=アジア新
4×400mリレー準決勝6位・日本(小池弘文、山内健次、川角博美、高野進)3分3秒80
マイルリレーの準決勝では単独種目400mの準決勝で44秒90の日本新を出した高野がアンカーで追い上げたがおよばなかった。4継の予選で39秒70と不振だった日本はメンバーを2人入れ替え、前日のマイルの準決を走った山内と高野を2走・4走に起用するという思い切った策をとった。これが当たって、決勝進出には惜しくも0秒15およばなかったが日本新記録を樹立した。~中画像の左が青戸、右が山内。

1992年バルセロナ五輪
4×100mリレー決勝6位・日本(青戸慎司、鈴木久嗣、井上悟、杉本龍勇)38秒77=日本新
4×400mリレー予選3位・日本(簡優好、高野進、斉藤嘉彦、渡辺高博)3分1秒35
マイルは出場が24ヶ国となって3組の予選で2着+2が決勝へ。単独種目の400mで決勝進出した高野を擁したが、+2の3番目の記録で前年の東京世界陸上に続き決勝進出を逃した。しかし4継では準決勝・決勝と立て続けに日本記録を更新し、60年ぶりの入賞を成し遂げた。~下画像の左が井上、右が杉本。

1996年アトランタ五輪
4×100mリレー準決勝失格・日本(土江寛裕、伊東浩司、井上悟、朝原宣治)
4×400mリレー決勝5位・日本(苅部俊二、伊東浩司、小坂田淳、大森盛一)3分0秒76=アジア新
朝原が100mの、伊東が200mの準決勝へ進出し4継への期待はふくらんだが3走・井上から4走・朝原へのバトンパスがオーバーゾーンとなり失格してしまった。逆にマイルでは高野進が去ったメンバーながら各自好走して決勝へ進み、64年ぶりの入賞を果たした。

2000年シドニー五輪
4×100mリレー決勝6位・日本(小島茂之、伊東浩司、末續慎吾、朝原宣治)38秒66
4×400mリレー準決勝8位・日本(苅部俊二、小坂田淳、田端健児、山村貴彦)3分13秒63
マイルの日本は2走の小坂田がセネガルの選手と接触してバトンを落としてしまい、拾って力走したが最下位。しかし準決勝で38秒31の日本タイ記録を出した4継が奮起。準決勝の1走を務めた川畑伸吾が故障して小島に交代したが無事6位入賞した。~上画像はバックストレートを力走する伊東浩司。

2004年アテネ五輪
4×100mリレー決勝4位・日本(土江寛裕、末續慎吾、高平慎士、朝原宣治)38秒49
4×400mリレー決勝4位・日本(山口有希、小坂田淳、伊藤友広、佐藤光浩)3分0秒99
単独種目の400mでは出場3人とも予選落ちしているマイルリレーが健闘。3位まで0秒09差の4位で4継とともに史上最高順位となった。五輪はこれが最後と口にしていたベテランの朝原と小坂田にも良いはなむけとなる結果。いよいよメダル獲得の機は熟した。



男子マラソンが必ず最終日に行われるようになったのって、いつ頃のオリンピックからなのかナ 今朝のマラソンでは日本選手が完走したなかで最下位という不名誉。ところが2年前のアジア大会で圧勝したカタールのシャミ選手は完走さえできなかった。
ケニアからカタールに国籍を移した選手であるけれども、アジア大会開催国に金メダルをもたらす大役を果たして経済的にも満足してしまうと、走る動機を失ってしまうのか。というか石油マネーで選手を買ってくるという陰口をたたかれがちなんですから、継続して強化していただきたい。
80年代のカタールは短距離でもマンスールという黒人選手が強くて、アジア大会で不破弘樹を寄せつけなかったもんだったっけか。不破のあたりからですよ。このほど、継続は力なり、を証明する初めての銅メダルを獲得してくれた短距離・リレー陣の物語を語りだすとしたら。
72年と76年のオリンピックでは、体操やバレーボールが金メダルを獲得するいっぽう、陸上のリレーは出場さえしていない。
不破選手のあたりから、世界ジュニア選手権とかユニバーシアードとか世界との差の少ない若い世代からリレー・チームを送って継続的に強化していこうとする陸連の意志が見えてきた。このたびのレース直後の興奮冷めやらぬインタビュー、表彰式を終えてのやや落ち着いたインタビューでも、そうしたずっと続けてきたことが成果になったことへの感謝の込められた喜びの声がさわやかでした。
有力チームにも失敗の続出するバトンパスで、日本チームが下から渡すアンダーハンドパスを取り入れたことについての末續選手の解説もわかりやすかった。
バトンを落とす確率が減る、という消極的理由よりも彼が強調してたのは、渡される体勢が加速しやすい体勢であること、スピードを減じるのが少なくて済む、(オーバーハンドより選手同士が接近してるが)詰まってるように見えて実は詰まってない、という積極的理由。
いにしえの“暁の超特急”吉岡選手みたいなスタートダッシュが得意でも、リレーは1走以外は3人とも加速する状態でバトンを受けねばならない。そういう意味ではソウル五輪で準決勝のとき、当初の100mの選手に代えて加速走に向いた200m・400mの選手を起用したのもひとつのきっかけでしょうか。
まあ陸上部に居たこともないシロートの感想ですけど…なっっおだゆーじくん!!
ソウル五輪の38秒90から大阪世界陸上の38秒03まで、19年間かけて距離にして8メートルあまり前進したんでんなあ。感無量。ところでおだゆーじくんといえば、オラ26歳くらいまで現実の女に興味が薄くて、たまにホモ雑誌を買ったり、新宿二丁目に出没することさえあったよん。精神科入院歴にも劣らぬ秘話。
一般的なホモの価値観ですと、下画像の左側に写ってる井上悟選手というのがとても人気あって話題になってたみたいね。背が低くて筋肉質&濃ゆい~顔。いえそういう意味でこの写真を選んだんじゃありません。ホモを笑いの方向へばかり持っていくのは不本意。
井上選手のリレーでのコーナー走には定評あった。背が高くないことも理由のひとつであろう。リロイ・バレルにも負けてなかった。今回の高平選手も、でっかいウサイン・ボルトより2つ外側のレーンでよくがんばってたね。めでたい!!

コメント

舞台『小沢昭一歌のステージ・唄って語って僕のハーモニカ昭和史』

2008-04-23 21:51:59 | メディア・芸能

@新宿・紀伊國屋ホール
平成の東京のど真ん中にひとり立ちすくむ男は、ご存知、小沢昭一。
昭和4年生まれ、戦争を乗り越え、昭和を目いっぱい生きた男が自らの昭和史をつぶやき、往時の歌をうたう。「昭和の流行歌、童謡、唱歌に、ぼくは心を洗われ、元気をもらっています」
さて、流れくるピアノの調べ。小沢昭一、ハーモニカを手にのっそりと登場。



歯が痛い場合は目に針を刺します。目の痛みで歯の痛みを忘れます。
社会保険庁が年金をずさんにあつかう場合は、年金から後期高齢者医療保険の掛け金を天引きします。その痛みで年金問題を忘れます。
まろ味のある歌声による戦前・戦中の歌の数々。戦前といってもまだ消費文明がけっこう盛んで、芸者がレコードを吹き込んで人気歌手になる例が多く見られたという。中でも“美ち奴”は「あゝそれなのに」などで爆発的な人気を呼んだが(♪怒るのは怒るのはあったりまえでしょう~~ての。オラの親も歌ってた)日中戦争の戦局の拡大~泥沼化~太平洋戦争という時勢のさなか、彼女も色っぽい歌は禁じられ「軍国の母」などという悲壮な戦時歌謡を吹き込むようになる。
一部の軍部が独走したのではなく、国民が熱狂したからこそ軍国主義一色に染まってしまった。そうなると文化の発達度合いの高さや地域社会の密度の濃さも悪い方向へはたらく。新聞・ラジオが戦意を煽り、となり組などがそれを補完。欲しがりません勝つまでは。蒲田で育ち、釣りやメンコ遊び、芝居ごっこやハーモニカに熱中した小沢少年もその例にもれず、軍国少年として旧制中学から長崎県の海軍兵学校予科へ。
入隊のとき荷物検査でハーモニカが見つかり、上官に殴られ没収されてしまったが、その年のうちに敗戦。学校の物資を海苔巻きのように毛布でくるんだ大きな荷物を抱えて彼はすし詰めの汽車で東京へ向かう。
途中、広島駅付近の引込み線で、花火のような火がいくつも打ち上げられているのを目撃、異臭も漂う。それは原爆による死体を焼却しているのだった。
名古屋駅では、海軍将校が「上陸してくる米軍に切り込もう」と仲間を集めるのに加わらせられそうになるものの「便所に行ってきます」と言って中央本線に乗り込み間一髪セーフ。彼らはほんとうに突撃して機銃掃射で全員殺されてしまった。若き小沢さんの運命の分かれ目であったが、そのときに分身のようなハーモニカを入れた米袋をなくしてしまった。
命からがら戻ってきた東京は焼け野原。母親は崩れ落ちた家の下敷きになってもたくましく生き延びたものの、病気がちだった父親はムシロの上で息絶えた。
さまざまな代償と引き替えに手にした平和。小沢さんは♪ハーモニカが欲しかったんだよう~~と自作した「ハーモニカブルース」を歌う……
今年75歳になる伯父(オラの幡ヶ谷の実家を“カプセル”と評した)と見ました。メシも食って戦中戦後の興味深い実話もいろいろと伺いましたが、ここで受け売りみたいにして書くのははばかられる。
自分が生まれてないですから、体験してないことはなかなか書きづらい。といって小沢さんのステージの模様は書いてしまったんだけど。体験したことを書くのにおいて、先人の教訓として消化したうえで間接に反映させていくことができたら、と考えている。
コメント

有名

2007-05-07 22:42:11 | メディア・芸能

「金も学歴も力もねェ弱者が、優位な“何者”かになるのは大変だ。ほとんどの奴が不本意な単純作業が日常。だが、チャンスはある。人脈を利用して上へ昇るチャンスが…」
『闇金ウシジマくん』の「ギャル汚くん」編で、渋谷センター街を舞台にイベサーを組織して成り上がろうとするジュンって男の台詞やけど…闇金を警察に告発して示談金を得ようとしたり、幹部のメンバーの強姦が元でヤクザに恐喝されたり、さまざまな無理が一挙にほころんで、大きなイベントで喝采を浴びた直後、完全な破滅を迎えてしまう。
殺されてしまうのだ。
そんなに無理を重ねてまで“何者”かになりたいだろうか。
そして、そうした欲望を世界一肥大させた国アメリカで、さらに極端な結末を迎えた元プレイメイトで女優のアンナ・ニコル・スミス。故郷のテキサスで17歳のときフライドチキン店の同僚と結婚して1児をもうける。
離婚して子供を母親に預け、ヒューストンに出てトップレスバーのダンサーとして勤めはじめ、豊胸手術を受け、プレイボーイ誌に写真を送る。26歳のときに89歳の石油王ハワード・マーシャルII世と結婚、夫の死後は遺産をめぐって夫の親族と泥沼の法廷闘争、その渦中で本人が39歳で謎めいた急死。
残されたアンナの生まれたばかりの愛娘の父親には、3人の男性が名乗りを上げたという。DNA鑑定の結果、自分が父親とわかった男は、報道陣の前でガッツポーズ!

…オラ最近、日本では知名度の低いミュージシャンやイラストレーターの情報を得るため、ウィキペディアやアンサーズといったネット辞書の英語版で調べることが多いんだけど、ためしにAnna Nicole Smithで引いてみたら、そうしたマイナーなアーティストの何十倍もの文章量で微に入り細をうがって記述されているのね、いや英語読めないけど。
彼女は確かに“何者”かになった…しかしもう生きてない。
下画像は最初の夫とのポートレート、こんただぽっちゃりした田舎娘が「マリリン・モンローになりたい」と思ってしまった、その夢はちょっと違った形で実現した、悪意と中傷にまみれたグロテスクなマリリン・モンロー。
そういえば、パティ・スミスって女性パンク歌手、デビュー曲その名も「しょんべん工場」で「♪あたしは“何者”かになってみせる!ニューヨークへ行ってビッグになる!ここへは戻らない!」なんて歌ってた…ってか詩を朗読してた…
そのパティ・スミスも今や60歳で、今度の新作はカバー曲集だという…あれほどまでに「あたしは他の誰とも似ていない!誰とも違う!」と主張していたパティ・スミスがカバー曲集ですよ…
これが「年をとって円くなる」ってことなんでしょうか。


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