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昭和疾風怒濤 #4 - さらばサムライ野球

2016-10-23 19:24:31 | メディア・芸能
翌日は群馬でプレーした。宿舎からバスで3時間のところだ。雨には降られなかったが、初めて酔っぱらいのアンパイアに出くわした。

一塁ベースで、明らかにセーフなのにアウトとコールされた俺は、頭にきてアンパイアに詰め寄った。顔と顔が近づいた途端に、アルコールの臭いがプーンときた。外は30度を越えているから、試合前に冷たいビールでも一杯ひっかけたのだろう。いや、3杯か4杯、あるいはもっと飲んだのかもしれない。

相当酔っているらしく、まぶたがトローンと半分落ちかけている。俺は奴の目を指さした。評論家やレポーターは、俺が「こいつは目がおかしいんだ」と言っていると勘違いしたらしい。俺は違うことを言いたかったのだが。

王(監督)は一応、抗議にやってきたが、あまり熱心ではなく、すぐに引き揚げた。ま、6-0で勝っているし、2位に4ゲーム差をつけて首位を独走しているのだから、こんな場面でムキになる必要はない。だいいち、暑くて口論する気にもならなかったのだろう。

その晩、気づいたことがある。王という人は金を払ったことがないのではないか。一緒にメシを食いにいっても、レストランの主人は彼に請求書を渡そうとしない。いつもそうだ。なんだってタダなのだ。球場にもいろいろな人間が、ミカンや酒やタバコを山のように差し入れにくる。どこへ行っても、みんなに知られているのだ。ガソリン代だって払うのを見たことがない。 —(W・クロマティ/R・ホワイティング共著 『さらばサムライ野球』 1991年・講談社、より)





純血主義でV9を達成した後、デーブ・ジョンソン(1975~76年)を皮切りに外国人助っ人を招くようになった読売ジャイアンツ。一年目は期待外れで「ジョン損」よばわり。鶴光師匠のギャグ「どうせあたしはクルーガーよ」(79年)、赤瀬川原平が無意味な構造物にたとえた「トマソン」(81~82年)など、飛び抜けた人気球団ゆえ失敗例は散々言われる一方、84~90年に在籍した外野手ウォーレン・クロマティこそ長く親しまれた筆頭と申せましょう。86年に.363でセ・リーグ打率2位(三冠・歴代最高打率のバースに次ぐ)、89年には長く4割を保ち、最終的に.378で首位打者と、中距離バッターとして活躍。ホームランを打って一塁を回ったところでの派手なガッツポーズ(↑画像)、外野スタンドに向かっての万歳三唱などがお馴染みとなりファンを沸かせた。頭部に死球を受け担架で運ばれた翌日の試合で代打満塁ホームラン、敬遠球を打ってサヨナラ安打など印象的な場面はあまた。

喜怒哀楽が豊かで、サービス精神旺盛。モントリオール・エクスポスからやって来て、日本の野球に驚き、戸惑いながらも見事に適応した彼は、現役時代から日本での経験を本に書こうと準備しており、引退後ただちに、『菊とバット』『和をもって日本となす』など野球を通じて日本文化を分析してきたロバート・ホワイティング氏の助力を得て出版。オーナー(正力亨)より威張っていて、優勝後、選手を前に40分もスピーチをぶつ、その中で全選手を称えるがクロマティには触れない務台(読売新聞)名誉会長、長時間の練習は無意味だという批判、監督・コーチや選手の言動や人望、王監督時代、中畑が王を陰で「ワン公」と呼んでいたなど、赤裸々な内容で出版当時バクロ本として受け取られたが、その後、野茂やイチローがメジャーで成功する一方、巨人軍をめぐるさまざまな悪弊が噴出、日本プロ野球が大いなる地殻変動を経たいまなお、この本が投げかける問いは新鮮で、再発見に満ちている。




↑80年代前半、巨人の主力選手。左上から時計回りで江川投手、中畑内野手、原内野手、篠塚内野手


先日、おぎやはぎのラジオを聞いていると、(ベッキーなどの)不倫についていつまでも言ってる奴はモテないから。俺も不倫が悪いことくらい分かってる。関係ない第三者がいつまでも言うなってこと、などと小木が語っており、正論ではあるが、割り切れないものを感じ、有吉に続いておぎやはぎのラジオも聞かなくなりそうな按配。

私の父は晩年、入浴時にラジオをビニール袋で密封して持ち込み、巨人のナイター中継を聞いていた。大洋ホエールズが三原マジックで日本一になったことは彼にとって若き日のレジェンドであり、98年10月、横浜ベイスターズがそれ以来の日本一になったのを見届けるように翌月首吊りで果てた。

私も亡父の影響で小5から巨人を応援し、クロマティの本に記述のある試合はほとんどテレビで見たが、近年スポーツ全般関心が薄れ、巨人のことは嫌い。憎む。死ねナベツネ。が前回の『虫たちの墓』が本棚の講談社文庫コーナーに収まり、ハミ出た『さらばサムライ野球』を処分ついでに読み始めたら止まらなくなった。めっぽう面白い。クロマティの感受性とホワイティング氏のジャーナリズムが噛み合い、どの人物も生き生きと描き出される。江川・原・中畑・山倉、愉快な面々。王監督の苦闘、西本や桑田投手など巨人の中で疎まれがちだった様子や、他チームの外国人選手の動向など興味深い記述が次々。

一人一人は光も影もある彼らは、「巨人軍は紳士たれ」という言葉で影を見せることを厳しく禁じられた。巨人の控え選手の方がパ・リーグの主力選手より知名度があったような、クライマックスシリーズでDeNAの方に声援が偏る今からは信じられない格差があった。そんな時代背景のもと、巨人の闇は封印され続け、積年の無理が祟って、近年の凋落・スキャンダル続出を招いたといえよう。ベッキーが、過度に明るく、ポジティブなキャラとして振る舞ってきた分、不倫騒動が長引いているのと似ている。芸能人は悪口を言われるのも芸のうち、知名度の証しである。各チームの人気が平準化し、テレビより球場という本来の姿にかえりつつある、今のプロ野球を愛し、贔屓チームを持つ方々をうらやましく思います—



さらばサムライ野球 (講談社文庫)
Warren Cromartie,Robert Whiting,松井 みどり
講談社
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昭和疾風怒濤 #2 - 美空ひばり

2016-06-05 19:51:25 | メディア・芸能
竹中労はひばりと、ひばりの歌とを愛している。ゆえに、献身と奉仕をもっぱらにして然るべきなのである。それが、喜美枝さん(ひばりの母)の唯一絶対の論理であった。抵抗できぬのだ。逃げ出すほかにすべはないのだ! 「美空ひばりは神様である」と私はそのころ書いたことだが、「山口百恵は菩薩である」(平岡正明)とはニュアンスを異にする。神様とは敬して遠ざかる存在であって、日常ふだんにつきあっていたのでは、こちらがひばり教の神主、司祭となり果ててしまう、まあそれでみいりのよい連中もいた。私のようなヤンチャに幇間は勤まらない、会うは別れのはじめであった。

鮎を馳走するという、七匹も八匹も九匹も十匹も塩焼きをウントコショと運ばせて、どんどん食べちまう! 秋ともなれば松茸であるが、これが鍋に満ち溢れている。グラグラ煮えておる。

「過分というものじゃないですか」と心中つぶやいとるけど、口に出しては失礼というものだ。箸をつけぬ前に腹はふくれて、何やら哀しくなってしまう。ああ、何という趣味・嗜好の落差であることよ!

…誤解のないように断っておくが、ヤユしているのではない。おのれが実に度し難いインテリ、"教養"に毒された俗物であるということを、ひばり母子に私は教えられたのである。あのキンキラキン、豪華けんらんの舞台衣装を悪趣味と嗤う人は、美空ひばりを理解できぬのだ。庶民の願望・ユートピアの化身として、ひばりは威風堂々と存在する。たとえば天安門のごとく朱と金に、極楽鳥のごとく七彩に、釈尊のごとく日月をしたがえ輝きわたり炎え立ち、しかもその眸には涙を湛えていなくてはならぬのである。

かくも豪奢にそしてかくも哀切に、ひばり街の子と共にいませばなり。鮎・松茸なんざ驚愕に値しないのだ。勿体ない一匹ぐらいは宵越しの刺身でと、いじましいことを考えるほうが心根卑しいのである。美味しいものはたらふく食え、悲しい時には誰はばからずに哭け、しんじつ憎い奴は叩っ斬れ! それが庶民の心意気…、"浪曲原理"なのである。 ―(竹中労 『完本・美空ひばり』 ちくま文庫・2005年、原著1965年)





引用した部分、美空ひばりとその母の贅沢三昧は、逆に小林旭との結婚生活においては、旭が人前でベタベタしたり、豪華な新居を建てたことを幸せに感じられず、芸能界では格下の旭が暴君のように振る舞うことにも耐えかね、じきに別居~離婚、元の一卵性母子のサヤに戻ってしまう、といったように描かれる。

常にひばりを庶民の子、正義であり偶像であるとせんがため、情に流され支離滅裂におちいっている部分も少なくないが、独特の美文調で、素材の持つ熱量の高さは生々しく伝わる。全く独特な評伝の傑作といえよう。

ひばりは1937(昭和12)年生まれ。終戦時は8才であり、彼女の歌は戦後のわが国のたくましい復興ぶりを象徴するものであった。父の増吉氏は復員兵で、焼け野原の横浜市にあって、娯楽を自らの手で作り出そうと素人楽団を編成、この頃から天才的な歌いぶりを示したひばりをボーカルに立て、喝采を博す。

が、豆歌手として世に出るも、NHKラジオの『のど自慢』では、失格の鐘一つすら鳴らない。「子どもが大人の歌を歌っても審査の対象にはなりえない。ゲテモノは困りますな」と拒絶される。ひばりの芸の下地を培った増吉氏も、歌はあくまで道楽と考え、プロ歌手を目指すことに反対だったが、ひばりは早くも10才にして母の喜美枝さんと二人三脚、歌手の道を歩む決意を固める。

小学校へもろくに通えない地方巡業の日々。天才歌手の評判は全国に広がり、映画出演に続き11才でレコード・デビュー。「悲しき口笛」「東京キッド」とヒットを連発。1952年の「リンゴ追分」は当時異例の70万枚を売る大ヒット。ボードビリアンの川田晴久や山口組組長の田岡一雄はひばりの才能を認め、支援を惜しまなかったが、文化人などからのゲテモノよばわりは続き、彼女の栄光を快く思わない者は少なくなかった。

これを象徴する事件が1957年、浅草国際劇場で起こる。正月公演のフィナーレ、ひばりが舞台に出ようとしたその時、一人の少女が駆け寄って、液体をひばりに浴びせた。液体は塩酸で、ひばりは焼け付くような痛みで失神、救急搬送されることに。犯人は東北の田舎から上京してお手伝いさんをしていた少女で、ひばりの熱烈なファンだったが、「みじめな自分にひきくらべ、みなにチヤホヤされているひばりちゃんが憎くてたまらなくなり、焼けただれてみにくい顔になれば舞台にも映画にも出られなくなるだろう」と犯行に及んだのだった。




↑お互いにとって不幸だった、小林旭との短い結婚生活(1962-64)。田岡組長がとり持ち、喜美枝さんが別れさせたとも伝えられる


ジャマイカの音楽スカのドン・ドラモンドが「リンゴ追分」をカバーしている。軽快なスカのインスト曲だ。「リンゴ追分」が名曲であることに疑問の余地はない。が、私は美空ひばりの曲として最上だとは思わない。

方言交じりのセリフを語る部分が、いかにも演じている感をぬぐえないからだ。虚構を演じて、お客を喜ばせる。そも歌謡曲はそうした音楽だが、私が思うに(ひばりのような)オペラ的な歌の上手さと、ロック的な歌の上手さは価値観が対極にある。黒人音楽をルーツとするロックの尊厳は、他人からどう思われようと、自分を貫くことから生ずる。

この見地から、ひばりの最もひばりらしい曲は「越後獅子の唄」か「お祭りマンボ」だと思う。歌唱も絶品だ。初期の美空ひばりは良い曲が多い。私は彼女のベスト盤を探して、とんでもない盤をレンタルしてしまったことがある。「悲しい酒」「柔」など、私の嫌う60年代の、もったいぶった尊大な歌い方で、初期の曲を録り直した盤。

彼女はプロ野球の金田正一投手と対談する企画で、金田氏の自信と誇りを目の当りにし、以降「歌の女王」「日本一の歌い手」の称号を自ら進んで担おうと決意したのだという。その重みに耐え、うち勝とうと。




↑晩年の美空ひばりがステージで用いた衣装


少女歌手として味わった「歌える喜び」と、後年、歌の女王としての重責。この落差を埋めるための酒や母親への依存、孤独、強がりといったものが、彼女に堂々たる音楽の王道を歩ませなかった。弟が山口組系の暴力団幹部となったため、NHKをはじめマスコミを敵に回すことも避けられなかった。

大腿骨骨頭壊死の大病から、1988年4月の東京ドーム「不死鳥」コンサートで39曲を歌い切り、奇跡の復活を遂げるも、再び病状悪化。翌1989年6月、昭和から平成へ移り変わるのを見届けるように、不帰の人となる。52才の若さであった。そして2年後には、同じ肝臓を病みながら活動していた竹中労氏も後を追ったのである―



完本 美空ひばり (ちくま文庫)
竹中 労
筑摩書房
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Sumo Decade - 北の湖逝去

2015-11-23 20:01:47 | メディア・芸能
北の湖敏満、北海道壮瞥町出身の横綱、のち日本相撲協会理事長で本名・小畑敏満(おばたとしみつ)。
この「敏満」という名が、図らずも彼の相撲を一言で表している。巨体ながら俊敏で、組んでよし、離れてよし、左四つに組んで右上手を取れば無類の強さを発揮するが、突っ張り合いでそのまま押し出してしまうことも。差し手の巻き替えが巧みで素早い。1974年の名古屋場所後、21歳2ヵ月の若さで横綱昇進。輪島、若乃花(二代目)らと好勝負を繰り広げ、連続出場・勝ち越し・二桁勝ち星を続け、「憎らしいほど強い」と称されるほど君臨したが、81年の夏巡業で膝を傷めてからは別人のように脆く、休場がちとなり、第一人者の座を千代の富士に譲り、両国に新国技館が落成して迎えた85年初場所を最後に引退。

優勝24回、歴代最多の横綱在位63場所、年間最多勝7回など、功績を称えて現役のシコ名のまま親方となれる一代年寄が贈られ、後年は相撲協会理事長として、協会の公益法人化や、八百長問題・暴行死事件などで低迷した大相撲の人気を回復させることに尽力した。在任中、九州場所中の11月20日に体調が急変し死去。62歳。




74年名古屋場所。琴桜と北の富士が相次いで引退し、一人横綱となった輪島は2敗、前場所優勝して勢いに乗る大関北の湖は1敗で迎えた千秋楽。結びの一番で左四つから得意の下手投げで輪島が勝ち(左ページ)、共に13勝での優勝決定戦も、北の湖が右外掛けに来たところを輪島が下手投げで破り逆転優勝(右ページの下側)。面目を果たすと共に、優勝を逃した北の湖も場所後横綱に推挙された。
北の湖理事長死去後、談話を求められた輪島は、思い出の対戦としてこの逆転優勝を挙げている




一門の総帥で、当時の理事長だった春日野親方(元横綱栃錦)の指導で、雲竜型の土俵入りを稽古




昭和28年生まれの関取衆は有望株揃いで「花のニッパチ」と称された。後列左より麒麟児、若三杉(のち二代目若乃花)、金城、前列左より大錦、北の湖




77年5月、二子岳の引退相撲で披露された輪湖三段構え。76年と77年、12場所のうち千秋楽に輪島と北の湖ともに優勝圏内で対決したのが7度、うち4度は相星決戦、優勝決定戦1度。76年は北の湖優勝3回で輪島2回、最多勝は輪島77勝。77年は輪島3回・北の湖2回、最多勝は80勝の北の湖と、この2年間は稀に見る実力伯仲




78年、輪島がやや衰えを見せ始めたが、大関若三杉が充実。夏場所14日目、全勝の北の湖に上手投げで土をつけた。千秋楽、1敗同士の決定戦では北の湖が雪辱したものの、場所後に横綱となり、若乃花を襲名。
北の湖理事長死去後の談話によると、14日目の若三杉は、北の湖に上手を許しては負けると考え、廻しを堅く締めたがゆえ、上手投げを打った際に肋骨を骨折していたという




81年初場所、1敗同士の優勝決定戦は、右四つからの上手投げで千代の富士が北の湖を下す。千代の富士は関脇で初優勝だったが、急速に台頭、新しい時代へ




新国技館の土俵を踏むまではと頑張った北の湖だが、初日、2日目と連敗、遂に白星を挙げることなく土俵を去った。引退相撲・断髪式で最後にハサミを入れるのは、北の湖と同期で、土俵入りの太刀持ちや優勝パレードの旗手を務めることが多く、自らも最後は大関に上がった増位山(二代目)の三保ヶ関親方。この引退相撲の直後に先代の三保ヶ関親方が北の湖の実父と1日違いで亡くなり、葬儀が重なったが、北の湖は「師匠は親以上の恩人」として、親戚中に手紙を出して父の葬儀を欠席し、師匠の葬儀へ出席した



画像はすべてベースボール・マガジン社の相撲・各年の総集号と、激動の昭和スポーツ史・相撲より。今では信じられない思いがするが、この頃の私は巨人ファンで北の湖ファンだったんですね。テレビでスポーツ観戦する時間が長かった。

相撲も79年くらいまでは欠かさず見ていたと思う。輪島との、あるいは若乃花との千秋楽、優勝を賭けた一番など、どれほどドキドキしたことか。
76~77年の輪湖は本当に実力伯仲していたし、均衡状態ということでは、79年と80年も、北の湖が3回優勝、輪島と若乃花と三重ノ海が1回ずつ優勝。ことし、白鳳が3回優勝して、照ノ富士と鶴竜と日馬富士が1回ずつ優勝したことを思い起こさずにはいられない。

あるいは初期の北の湖が優勝決定戦で4回続けて負けたのも併せ、若く、実力者の彼が、相撲界全体の繁栄を考え、敵役を買って出て、ガツガツと優勝をむさぼろうとせず、真剣勝負ではあるが、長い目で他の力士にも花を持たせた、広義の八百長に近い含みもあったろう。

彼は非常に記憶力に優れ、現役中の全取組と決まり手を記憶していたという。昔の自民党の政治家、例えば田中角栄のような清濁併せ呑む懐の深い人物だったのではないか。だからこそ、力が衰え、引き際を疑問視されてからも、84年夏場所で全勝優勝し、どうにか新国技館落成まで土俵に上がることを、相撲界の総意として許されたのだろうし、後年には異例の理事長再登板となったのも、その人望の表れといえよう。

白鳳は、もし帰化して一代年寄の資格を得たら、との問いに対し「北の湖理事長から受けたかった」と答えた。いま彼は前人未到の優勝回数に達し、奇手・猫だましを試みるなど、衰えてからの北の湖には許されなかった、余力をもって相撲の奥義を究めようとしているかのよう。これからの大相撲がどうなるかは分からないが、そのますますの繁栄を、北の湖の冥福と併せ祈りたい―
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1987 - ローマ世界陸上

2015-08-26 20:17:49 | メディア・芸能
陸上競技の世界選手権は、1991年の第3回東京大会まで4年に1度の開催だった。オリンピックが1976年のモントリオール大会から84年のロサンジェルス大会までボイコットに揺れたため、真の世界一を決める大会として注目を集め、また選手たちもそれに恥じない活躍をして、世界陸上は新興ながらグレードの高い大会として定着したのである。

しかしこの当時、わが国の陸上は、マラソン・駅伝のみ異常なほどの人気を集め、高視聴率を獲得するテレビの有力コンテンツであり、一般種目とは扱いに雲泥の差があった。
また男子マラソンは、1987年の記録・実力ランキングとも1位・中山竹通(たけゆき)、2位・谷口浩美と日本人が世界トップを占め、他にも瀬古利彦、新宅雅也、児玉泰介など強豪が揃ったため、翌年に控えたオリンピックの代表選考をにらみ、強豪選手や選手を抱える実業団チームは世界陸上など眼中にないありさまであった。次回第3回は日本開催が決まっていたこともあり、国際陸連から日本陸連に、マラソンの一線級を派遣するよう要請があったものの、陸連から打診を受けた瀬古利彦はもちろんこれを断った。

そして、ローマ大会の最終日9月6日、男子マラソンを制したのは、ケニア出身で、ヱスビー食品に所属し、瀬古や新宅の同僚でもある、ダグラス・ワキウリであった。
ワキウリは過去2回の日本国内のマラソンでは平凡な結果しか残せなかったが、世界陸上の代表に選ばれたことで一挙に世界の実力者となり、翌年のオリンピックでも2位、ロンドン・マラソンや英連邦大会も制した。




↑なぜか他のケニア代表選手と異なるユニフォーム。優勝後のインタビューで、アフリカ勢と日本の橋渡し役を務める小林という人物が「やったなァ、お前!」と語りかけ、事情を知らない視聴者をギョッとさせた


現在、東京新聞の夕刊に、有森裕子・高橋尚子の両選手を指導したことで知られる小出義雄氏が自叙伝エッセイを連載中で、しばしば往年の名選手や指導者の事績が言及される。
ちょうど、北京での第15回世界陸上を控え、特に印象的だったのは、小出氏が順天堂大に入る以前、短期間の実業団選手時代、青東駅伝の指導者として彼の前に現れた、後に瀬古やワキウリを指導することになる中村清氏(1913~1985)の存在だ。

眼光鋭く、選手の一人一人を見据え、練習後の訓話では、親鸞の言葉や旧約・新約聖書の引用など長時間に及んだのだとか。他のエピソードでは、自分の顔を殴ってみせたり、土を食べてみせるなども。
馬鹿げている。
英国の女子マラソンのマーラ・ヤマウチ選手は、日本人の夫を持つ、れっきとした外交官だが、果たして彼女の教養は、走力の向上に寄与するだろうか。
中村清の訓話は、無意味な精神論で、科学的な根拠はゼロ。効力がありそうなのは、「中距離のスピードを持つ選手にマラソンを走らせれば世界で戦える」という一点張りで、なるほど、そうした選手を大学や実業団が青田買いして、生活を安定させれば、他の国にはマラソン・駅伝で飯を食えるようなシステムがなかったので、さまざまなマラソン・レースでは「相対的に」浮上するだろう。

ケニアにはワキウリくらいの素質の選手はごろごろいると思うが、彼は来日して実業団に所属し、そのシステムを利用できたので、やや記録が停滞した80年代後半~90年代前半のマラソン界で世界の舞台に躍り出ることになった。しかし各地の賞金マラソンや欧米の代理人を通じ、ケニアやエチオピアをはじめ各国の若い選手が資金を稼げる仕組みが整うと、そうした日本のシステムの優位性が崩れた。女子ではいくらか後まで優位性が残り、オリンピックで2度優勝するに至ったが、もはや失われつつある

国内に旺盛な市場があり、人材供給されると、かえって世界から取り残される結果を招きがち―





冒頭の、特集号の表紙画像が示すように、このローマ大会は9秒83の世界新記録で男子100mを制した「ベン・ジョンソンの大会」となり、そして翌年のソウル五輪で彼のドーピング違反が発覚し、メダル剥奪、さかのぼって記録を抹消されることが決まると、一転、世界陸上の黒歴史となった(右端がベン・ジョンソン)




カール・ルイスが4冠獲得したロス五輪でベン・ジョンソンは100m3位。ジャマイカ生まれでカナダへ渡り、1986年急速に記録を伸ばして、ルイスをおびやかす存在となり、遂にビッグ・ゲームでルイスを超えたが―




さかのぼって、2位ルイスの9秒93が、この当時の世界タイ記録として認められることに。ローマ大会もう一つの世界記録は女子走高跳びのコスタディノヴァ(ブルガリア)の2m09。現在まで破られていない




22歳のフリスト・マルコフ(ブルガリア)が世界記録にあと5cmと迫る17m92で男子三段跳びを制す。日本の山下訓史は決勝進出したものの記録なし




44秒台で実力伯仲する男子400mは、前年の欧州選手権覇者のトーマス・シェーンレーベ(東ドイツ・右から2人目)が44秒33で制す。のち東西ドイツ統一後、93年のシュツットガルト大会1600mリレーのアンカーとして銅メダルをもぎ取った姿が感動的だった




13秒21で男子110mHを制した米国のグレッグ・フォスター。世界陸上を3連覇したがオリンピックでは不運だった




地元イタリアのフランチェスコ・パネッタが世界歴代4位の8分08秒57で3000m障害を快勝




2m42の世界記録を打ち立てたばかりのパトリック・ショーベリ(スウェーデン)が2m38までを全て1回でクリアする安定した跳躍で男子走高跳びを制す




世界陸上、日本人初の入賞者は、2日目の男子やり投げ1投目に80m24を記録し6位となった溝口和洋。89年に現在まで残る日本記録87m60を樹立。さあ、今夜の新井涼平選手に期待― (写真はすべて陸上競技マガジン1987年10月号より)
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おミズの花道

2015-08-09 18:34:03 | メディア・芸能
小3の頃の黒歴史。
親からスイミングクラブへ通わされたが、サボってばかりで泳げるようにならないまま、5ヵ月ほどで止めてしまった。その後、中2の夏休み、学校のプールで行われた講習に通うまで、私は泳げなかった。

最初のスイミングクラブは再開発前の横浜駅東口にあって、私の六ッ川小学校からも少なからずの子がバスで通っていたのだが、今にして驚くのは、実は民間のスイミングクラブが開設されたのは、東京五輪(1964年)で大学勢を中心とする日本チームが惨敗したのを機に、草の根の強化が必要とのことで始まったといい、それから10年もしないうちに子どものお稽古事の一つとして一般的な存在になっているという、昭和のスピード感である―




1959(昭和34)年、デビュー曲の「黒い花びら」が大ヒットしてその年に始まったレコード大賞を獲得、低迷期や賭博による事実上の芸能界追放を経て67年に復帰シングル「君こそわが命」が大ヒット、凄みのある歌唱力で地位を築くも、私生活の放蕩はあらたまらず「西の(藤山)寛美、東のおミズ」と称されるほど莫大な借金を背負い、再び低迷して各地のキャバレーやクラブで歌うドサ回りの稼ぎは高利貸しへの返済と酒に消え、みるみる病気がちとなって42歳の若さで世を去った歌手・水原弘(1935-78、彼の愛称がおミズ)もまた、そんな昭和のスピードを感じさせる存在といえよう。

村松友視による評伝『黒い花びら』(河出書房新社、2001年)は、豊富な証言や、当時の雑誌記事をもとに、水原弘の人生の光と影を、哀惜を込めて浮き彫りにしてゆく。
焼酎を浴びるように飲んで声をしゃがれさせ、ラジオ局ののど自慢荒らしや、ハワイアン・バンドのボーカルとしてジャズ喫茶に出演して評判を呼ぶも、そこまでは単なる歌の上手い一人の男に過ぎなかった彼に栄光をもたらしたのは、作詞:永六輔、作曲:中村八大という新鋭コンビによる「黒い花びら」のヒットであった。

しかしそれは同時に、素人レベルの演技で多数の映画に出演、そこで知り合った勝新太郎の影響で、借金してでも人に奢り、「スター歌手の虚像」に呪縛され自分を見失う、泥沼の始まりでもあった―




↑左から水原弘、勝新太郎、浜口庫之助、川内康範


「黒い花びら」の頃、東芝レコードは新興で、有力歌手・作家は既にテイチクやコロムビアなど老舗に囲い込まれてしまっていたことから、新人・水原弘と契約し、目立った実績のない永六輔と中村八大の斬新な曲を歌わせることが可能になった。

三連符のロッカバラードで、新人ばなれした歌いぶりが旋風を巻き起こす。永と中村も一躍売れっ子となり、『夢であいましょう』という音楽バラエティー番組を成功させる。が、水原弘がそのレギュラーとなることはなく、起用されたのは坂本九だった。
永六輔は雑誌上で「眉をひそめて見られるチンピラ歌手になるな。若い世代の指導者になれ」と水原に提言したが、無意味な映画出演、度を越えた夜遊び、作家へのおべんちゃらなど、スターの座を得て芸能界の悪弊にどっぷり染まり始めた水原弘には無理な相談。

ヒットは途絶え、夜の世界を仕切る暴力団筋からの借金も膨れ上がり、彼らとの賭博も発覚して干され、万事休した水原に手を差し伸べたのが敏腕プロモーターとして鳴らす長良じゅん氏で、その奔走により借金問題は一応のカタがつき(実際はついていなかったとみられる)、大物作家の川内康範が、被爆者の女性を主人公とする小説『君こそわが命』の主人公を水原に置き換えて作詞、猪俣公章の作曲により、カムバックを狙うこととなる。

これが大成功。不動の大歌手の地位を得たかに見えた水原弘であったが―




♪シミシミココバッ シミシミバッ (Shimmy Shimmy Ko-Ko-Bop、リトル・アンソニー、1959)
♪ウパウパティンティン ウパウパティン (へんな女、水原弘、1970)



私のiTunes内に、他に「黒い~」というタイトルの曲はない。英語で「Black~」ならたくさんあるが。
日本語の歌詞は、歌える内容にいかに制約が多いか痛感。
闇の世界を生きるよう、自らを呪縛してしまった水原弘にとって、束の間の光をもたらし、タブーをかいくぐって昼間の一般社会との間を取り持ってくれるのが、川内康範、浜口庫之助といった作詞作曲の先生方であったろう。

しかし彼は闇に染まり過ぎた。
先日、有吉弘行の日曜のラジオの初期放送分を漁っていると、彼がどこかの社長に連れられ、キャバクラや高級クラブではない「キャバレー」に行った話をしていた。
年金をもらってるような60~70代のじじいたちが、40代のホステスのおっぱい触ろうと必死になってる、あるいは演歌歌手も呼ばれてチップもらったりするけど、万札を開いた胸元に挟んでもらう、「地獄絵図」と有吉は評した。
じじいたちが若かった70年代、営業権をも暴力団系金融に売り渡し、返済のため各地のキャバレー/クラブで病身を押して歌っていた晩年の水原弘は、地獄の責め苦を自ら引き受け、もがいていたようなものか。

昭和のスピードは速かった。平成に入り停滞しがちな日本でも、時の摂理で昭和の残滓は拭い去られようとしている。が、毎度同じような不祥事を繰り返し、タブーが多く、ブラック企業並に人権が軽んじられるTV・芸能・日本の音楽界は、まるで時間が止まっているかのよう―



へんな女
水原 弘
EMI MUSIC JAPAN INC.


黒い花びら (河出文庫)
村松 友視
河出書房新社
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ソーシャル・メディアと人間のデフレ

2014-01-03 21:15:01 | メディア・芸能
同人誌を作って、お買い上げいただく立場で言うと、500という数字はたいへん重い。新参サークルにとって、実売で500部を超えることは高いハードルであると同時に、実現を思い描くことも可能な一つの夢でもある。
が、TVなどのマスメディアをフルに使って「第2の倖田來未」として売り出された光上(こうじょう)せあらのCDが500枚しか売れないとなると、話は違ってくる。

音楽のスタッフは彼女を見放してしまい、多人数のアイドル・ユニットに属し、SM女王様に扮してイベントで男性ファンの局部をタッチ、あるいは大食いや小倉優子のモノマネなど、自らのタレント性を総動員して生き残りを図る。
昨年5月にOAされたロンハー「有吉先生の進路相談」での彼女は、前述のようなキャラの迷走ぶりと合わせ、「同じエイベックスの丸高愛美がロンハーの企画でチャンスをつかんだ時、嫉妬から精神状態が崩壊していた」というような、妬みや欲求不満を表に出してしまう様子が生々しくて面白かったですな。




ここ(浅田彰の『構造と力』)では、文化的記号論が、近代社会全般に一般化される「差異の体系」や「象徴秩序」などというものへと、究極的に抽象化されている。まるで「文化」が、世界のすべてを覆ったかのような形で議論が進行していく。

『構造と力』において、「象徴秩序」を支える、社会的・経済的文脈が一顧だにされていないことは、現在から考えれば驚くべきことである。この本で多用される「差異」というものはほぼすべて、社会・経済的な文脈が何もない、まるで真空管の中で閉鎖的に培養されたような「趣味的差異」という領域でしかない。

それは、もともとの浅田の意図とはやや離れた形で、「資本主義の内部で遊ぶ」というモティーフとして日本社会に広く独り歩きしていった。

事後的に見れば、これらの議論はおしなべて、「趣味を下支えする社会・経済的インフラはブラックボックスに入れておいて構わない」という、多幸感に満ちた「総中間層化の夢」の産物であった、と評する他はないと私は思う。

浅田の「資本主義の内部で遊ぶ」というモティーフは、80年代のマーケティング論に流用されていった。日本的なポストモダニズムにおける「文化」は、楽観的な「趣味的差異」に接合されていき、大企業が率先して行う「消費者教育」へと結晶化していった。

その際、たとえば「人並み」志向のような、他人と同じモノがほしいという段階が終わり、他の人と自分を「差異化」したいという欲望が発生した、とされるのが通例であった。この「差異化」から利潤を生みだすような産業の必要性が要請されていくことになる。それが、第1章で触れた「高付加価値産業化」というものであった。

「差異化」がクローズアップされる過程は、言葉の表面的な意味と違い、人々の「均質化」を意味していた。人口のほとんどが、いろいろある趣味的な差異の中から、任意のどれかを選び取ることのできる社会が前提とされたからである。 –(高原基彰 『不安型ナショナリズムの時代』 洋泉社新書y、2006年)




あらためまして、新年おめでとうございます。可能な限り更新に努めますので、今年もお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
で、のっけから、やや旧聞に属する話題で恐縮なのですが、この『不安型ナショナリズムの時代』という本を先月の「日韓の歴史認識が平行線をうんぬん」との記事で参考にするため読み返したところ、古くなっていないというか、むしろSNSだの下世話な芸能・痴情ネタとも響き合い、随所に先見性が。

特に↑に引用したような、「趣味的な小さな差異を任意に選べることを可能にするような、社会・経済的インフラはブラックボックスに入れる」ことで一億総中流の文化的生活が成り立ってきたとの視点は、その後の脱工業化や、インターネット・携帯電話の普及を経て、「60年代の対抗文化が伝統的な価値観を破壊し、社会のヒエラルキーがどうあるべきかについて混乱が続いた70~80年代を経た後で、いよいよゲームのルールが単一のものに収束していっていることを示している。それは、対抗文化をも含み込む形の資本主義であり、そういう形で、批判的な知識人がずっと相互矛盾するものと考えてきた、効率性と個人の創造性の両方を、共に利用しようとする経済である」と評されるような、メディアを経由することで責任を回避しながら、人間が相互的に人間を消費する経済の誕生と拡大=ひらたく言えばどんな場所でもスマホ等でツイッターやLINEにのめり込む人びとが現れることを予見する。

野呂佳代はロンハーで↑画像のような失敗を繰り返しながらも、他人の言動に対してムクレたり大笑いする表情を抜かれることも多く、昨年1年のみですっかりキャラが定着、なくてはならぬ存在に。
光上さんもロンハーでは見かけないが、おそらく他のバラエティー番組ではいくらか仕事も増えたろう。
しかし、見ない日はないくらいTVに出ているハリセンボン箕輪さんとたんぽぽ川村さんのトークイベントでさえ、お金を払って入場したのは30~40人というありさま。TVを離れては、彼女らの価値はないのだ。

グーグル社は創業当初、世界一便利な検索エンジンを作ることを目標に掲げたが、それでどうやって儲けるのかは考えていなかった。
目標を実現し、日々膨大な集客が見込めるようになって、「結局は広告」で儲けることに。
よく分からないがLINEもツイッターも似たようなものだろう。彼らはボロ儲けしてるのだろうが、ユーザーが費やす総時間からすれば、その儲けは大したものではないとも言えるだろう。
まして犯罪自慢して炎上したり、(嫉妬してる時の光上せあらのように)精神が消耗してしまっても、彼らから何ら還元されるわけではない。ブラックボックスに入れるとは、そういうことである。
しかしそれでもなおわれわれの目立とう精神は不滅であり、これからも表面上は経済の成長が続いてゆくことでしょう、人間そのものを燃料にしながら–
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善き(疑似)家族

2013-11-24 20:48:07 | メディア・芸能
10月31日にOAされたアメトークの「ボーイスカウト芸人」
たくましさ・自主性・協調性・社会性といった、私が今まで普通の幸福と縁遠い人生を送ることになってしまった原因ともいえる、私に欠けている要素の数々を、子どものうちに叩き込んでくれるのがボーイスカウトとのことで、方位磁石や歩いた歩数を基に正確な地図を作ったり、キャンプで薪を集めて自炊したり道具を作ったり、生活力ある頼もしげな面々が集う。

中に、芸人とはいえない者が一人。
V6なる、ジャニーズの中でも見劣りする者を寄せ集めた(と私が思っていた)グループの一人とのことだが、話術など芸人に負けておらず、年相応の常識人らしいさわやかな風貌も、今回のテーマにぴったりな感じ。
ジャニーズ事務所っていうのも、一種のボーイスカウト的な人材養成システムの一面があるのかなと–




ボーイスカウトには企業や軍隊のような階級・昇格制度もあるといい、ジャニタレに例えたら近藤真彦が(全体の)隊長で、少年隊やSMAPが上級班長にあたるとの話も出て。

近藤っていうのは田原俊彦と同じ連ドラに出ており、1980年、半年ほど遅れて歌手デビューしたのである。
しばらく前にもツイートしたのだが、当時、田原と近藤は同じように歌が下手だったけれど、比較するとすれば、例えば持ち歌を交換して歌ってみたらと想像するに、近藤の方が下手だったろうと。
トシちゃんの曲の方がマッチより難易度が高かったように思うのだ。「ハッとして!Good」とか「悲しみ2ヤング」とか。

しかし、先にデビューした田原は、ものすごいバッシングを受けなければならなかった。女で下手クソなアイドル歌手は既にたくさんいたけど、男では初めての存在ということもあり。
ザ・ベストテンに招かれたタモリさんの、「上手」って書かれた小道具の上の文字がパタリと裏返って「下手」になってしまう件をはじめとして。
いわばトシちゃんが長男として、損な役回りを引き受け、泥をかぶってくれたおかげで、次男のマッチはすんなり一直線に成功できたともいえるのでは–




そう、女性アイドルなら「疑似恋愛」として、男性ファンに錯覚させなければならないところを、田原・近藤以降のジャニーズ事務所は恋愛よりもまず「よき家族・よき隣人・社会人」としての親しみを前面に出すことで、後のSMAPのようにより幅広く長続きする成功を手にできたのではないか。

(シブがき隊の)薬丸裕英が石川秀美と結婚して子だくさんになることは、彼のタレントしての商品価値を高めこそすれ、弱めることはない。世の女性が彼に求めるのが「恋愛でなく家族」だとすれば。
先週の女性セブンに、岡江久美子が老母の介護のため『はなまるマーケット』降板を申し出て、番組ごと終わることになったので、直前まで知らされてなかった薬丸が激怒し、すわ二人の間に確執発生か!? あるいは薬丸の5億円自宅のローン返済や全員私立の子だくさん教育費は大丈夫なのか!? とか載ってたけど、家族といってもしょせん「疑似」だから、下世話なゴシップも女たちの娯楽になるのだろう。

しかし彼らはよき家族・社会人であるかもしれないが、突き抜けたカリスマたりえない。
SMAPやAKBの濁った歌声や拙い演技が示すように、わが国の芸能人の位置付けは、家族的な・国内向けの、そもそも国際基準など論外の、完全にドメスティックな商品に変わってしまったのだ。
田原俊彦が、それをよしとせず、理想のショービジネスを胸に秘めてジャニーズを離れたのかは分からない。が、私はジャニーズに残って「隊長」に上り詰めたマッチより、トシちゃんの方が好きである
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日本幻景 #5 - 相撲美

2013-06-23 19:41:08 | メディア・芸能
『相撲 大谷孝吉写真集』 昭和39(1964)年、河出書房
大谷重工業とホテルニューオータニ社長であった大谷米太郎氏の次男で、自らも工学博士の肩書を持つ実業家にして無類の相撲通。
東京場所は皆勤して正面検査長の左隣という好位置からニコンFで撮影し、一場所あたり7000枚にのぼるというそれらの写真やコレクションの錦絵などを各種の展覧会で公開した。




●幕内力士の土俵入り




●佐田の山×明武谷




●栃光




●高見山




●呼出し・安次郎



しばらく前アメトークのプロレス好き芸人の回を見て「キツイ、汚い、危険の三拍子そろってますな」などとツイートしたプロレス嫌いの私なのだが、これら相撲にまつわる写真は文句なく美しいと思う。

しかし、撮影した大谷氏が「激突の瞬間の激しい様相を写真に捉えてみると、力士の道が如何に激しいか、八百長などはとても考えられない、(中略)土俵上の緊張した風格は、勝負一筋に何等の邪念もない」と述べるのは、それは富裕層の相撲界インサイダーとして「贔屓の引き倒し」に陥ってるのだろうなと。

栃錦・初代若乃花から大鵬・柏戸へと移り変わった、戦後の昭和期でも土俵がひときわ盛り上がりを見せた頃でしょう。
均整のとれた美しい力士が、多彩な技の応酬を繰り広げた。

昭和40年生まれの私にとって高見山を除き現役時代を知らない力士たちだが、実際テレビで観戦してみると彼らが親方として育てた弟子たちの取組の中に、その雄姿をかいま見ていたようにも思う。

巨体ながらスピーディーな動きを見せる北の湖、さらには闘志と集中力のかたまりのような千代の富士が君臨した時代、ハングリーな戦後は背景に去って、大型力士による格闘技の側面が色濃く表れたものの、一方で無気力相撲、星の貸し借りの疑いもまぎれなくあった。

今、朝青龍の追放、時津風部屋での暴行死事件、八百長疑惑の表面化、野球賭博による大量解雇という苦難の時期を過ぎ、落ち着きを取り戻しつつある相撲界ではあるが、すべての膿を出し尽くしたわけではないだろう。
世界でも稀な完成度の高い興行システムとして、ときに綻びを見せながらも清濁併せ呑み、これからも力士という美しい花を咲き誇らせてくれるのではないだろうか–
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バブルとゲイ - 内藤ルネ自伝におもう

2013-06-06 21:05:43 | メディア・芸能
先週のロンハーの見た目ビューティーカップで、男芸人チームの優勝を決めた最後の一人=カンニング竹山の、この自信。
「俺は美しいから絶対選ばれるんだ」っていう。

彼に敗れたハリセンボン近藤さんがいみじくも「自分で言うのも何なんですけど、どこが違うんですかね」と語ったが、彼女らは男芸人(やオネエ)たちと異なり、自信があってグイグイ前に出たがるタイプではないから、逆に芸能・テレビ界では新鮮な存在として売れっ子になったとも考えられよう。

常に覇気満々で競ってきた男芸人に「ビューティーカップ」では譲る形となったものの、真の意味で女性らしく、美しいのはやはり女芸人チームの5人ではないだろうか。




『内藤ルネ自伝 すべてを失くして』(小学館、2005年)
往年の少女たちを中心に人気を集めたイラストやファンシーな小物類。
その認知度は高かったものの、作者の内藤ルネにスポットが当てられることはなかったが、2002年の回顧展と、05年のこの自伝により衝撃的な人生が明らかに。
レトロ・ブームを巻き起こしたが07年に心不全のため74歳で亡くなる。




昭和7年に愛知県岡崎市の青果店に生まれた彼は、子どもの頃から自分が人と違うことに気づいていた。
戦争が終わり、映画をはじめとする欧米の文化や風俗が流入すると、その嗜好はますます燃え盛り、やがて彼は絵を志して、愛らしい少女画で知られた中原淳一に憧れ数十通に及ぶ手紙を送る。

まったく返事を寄越さなかった中原氏から、突然「お元気ですか」との年賀状が届き、間もなく「布団を送って、すぐ来てください」との続信も届いて、ルネは上京して中原氏が立ち上げた出版社・ひまわり社で絵を描くことに。 ─(↑左:新人時代のイラスト、右:ジュニアそれいゆ1960年6月号の表紙)




ひまわり社の仕事で、絵のほかに小物や人形の制作に才能を示した彼は、りぼん、なかよし、学年誌などの付録の仕事が続々舞い込む。
売れっ子として20代で家も買い、ひまわり社の先輩でのちに広告デザインや『薔薇族』の編集に携わる本間真夫氏と同居を始める。

同性カップルとはいえ、お互いに別の恋人がいる時期も長かったようで、浮き沈みのある業界で支え合う関係として終生その信頼は続いた。

やがて鎌倉や伊豆にも土地を買い、高価なビスクドールや日本人形のコレクションも持ったルネに昭和末期から平成にかけ危機が訪れる。
人形などの美術館を作る話が持ち上がり、その建設計画や資産運用を委ねた「経営コンサルタント」がとんだ詐欺師で、彼は複数の土地などほとんどの財産を失ってしまうのだ。

ちょうどバブル経済の崩壊にもぶつかり、ルネのグッズを扱う会社も倒産や事業縮小のため、彼は収入源を絶たれることになる。
救いの手を差し伸べたのは薔薇族の伊藤文学編集長だった。
長く続けた表紙イラストのほか、伊藤氏が保証人になって当面の住居を確保でき、人形たちも避難させることができた。
そして2001年、かろうじて残った伊豆・修善寺の土地に、当初の計画よりは小さいが人形美術館が完成、ルネは本間氏とその養子と共に修善寺へ居を移す。 ─(↑ドブ川から診察室用戸棚を拾って家具として使っていたのが一般にも流行。右に写ってるのが03年の内藤ルネ氏)




冒頭の話へ戻ると、この道を進むと決めたお笑い芸人というのは、自己中心的で成功しか眼中にない自信家という意味で、ギャンブラーや起業家の「アニマル・スピリット」とも重なるような気がするし、ロンハーだけでなく先日の『ガキの使い』でもココリコ遠藤が後輩芸人を愛撫して「好き」と言わせる企画をやっていて、ボスの意向や場の空気が支配する村社会であり半端でない男性原理社会だとも感じた。

実際問題、身をもって差別を受ける同性愛者として人生を貫いた内藤ルネ氏の名誉を汚すつもりは毛頭ございませんが、正直その描くところの男性像(↑)がホリエモンに似て見えてきたりもいたします–
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東京ウシジマ新聞 #39 - 牧伸二さん

2013-05-22 22:52:45 | メディア・芸能
〈協会資金〉650万円に手をつけた二重生活
【火宅のウクレレ】 「牧伸二」の愛人と隠し子
ウクレレ漫談家・牧伸二(享年78)の自殺を受けて噴き出たのは、東京演芸協会の資金に手をつけていたのではないか、という疑惑。その背景事情を探ると、愛人と隠し子の存在に行き当たる。演芸会の大スターは、長らく火宅の人として二重生活を続けていたのだ。


死の約12時間前─。
牧の姿は、東京・台東区の「上野広小路亭」にあった。牧が会長を務める「東京演芸協会」に所属する芸人、ミスター梅介が楽屋に入ったのは4月28日正午すぎである。すでに楽屋入りしていた牧に挨拶した後、湯島出身のミスター梅介はこんな軽口を叩いた。
「子どもの頃、ここらへんでよく万引きしましたよ」

それを聞いた牧は嬉しそうな表情で、
「いやぁ、俺も万引き、よくやったもんだよ」
と頷き、自宅で孫にお金を盗まれたことなどを話題にしたというが、ミスター梅介を真に驚かせたのは、牧が発した次の言葉だった。
「盗み、しちゃうよな。お金なんてあれば使っちゃうし、盗んじゃうよなぁ」

ミスター梅介が言う。
「普段はこういったことを絶対に言わない方なので本当に驚きました。"いいじゃない! 使っちゃっても!"と言いたかったような感じでした。会長はその日の夜に予定されていた演芸協会の理事会で、協会の金の問題について説明するため通帳を持ってくることになっていた。理事会は会長にとってものすごい負担になっていたと思います」

普段は絶対にしないような"盗み"に関する会話。そこに自殺の予兆が現れていたのではないか、とミスター梅介は見るが、一方で牧の周囲からは"全く異変に気付かなかった"との声も多々あがる。

葛飾区・青砥にあるスナック『T-Space』のママもその1人だ。牧は数年来、協会所属の芸人らと共にこの店で月1回のお笑いライブを催しており、それは4月26日にも行われた。
「あの日、牧さんは午後8時半頃いらして、生ビールを1杯飲み、カウンターでライブを見ていました」

そう振り返るママによれば、いつも通りに、牧はライブのトリを務め、最初に「やんなっちゃった節」、その後オリジナルの曲をウクレレで歌ったという。
「それ以外に、最近牧さんが出した『ひとめ惚れ』というデュエット曲を歌ってくれました。形だけ私が隣に立って。それがお客さんにウケて、牧さんがニコニコしていたのが印象に残っています。店からタクシーでお帰りになったのは23時頃。来てから帰るまで、牧さんには特に変わった様子はありませんでした」

だが、件のライブに出演した芸人の1人は全く別の見方をする。牧の様子は明らかに変だった、と─。
「いつもならライブの後、牧さんは出演者に"ご苦労さん"と声をかけるのですが、あの日はそれをしないで、虚ろな目で一点をボーッと見つめていた。私は帰りのタクシーでも一緒だったのですが、全く話をしないし、変な雰囲気でした」

そして迎えた28日、「上野広小路亭」での出番を終えた牧は、午後4時10分から浅草「東洋館」の舞台に立つ予定だった。


【自殺理由を巡る謎】
「上野での出番が終わった後、牧会長に"この後、時間潰すのが大変ですね"と声をかけたら、"浅草に行って、楽屋にずっといる"と言っていました。"それでいいんだ、俺は"と言う会長はどこか寂しげでした」(ミスター梅介)

しかし、牧が"楽屋にずっといる"ことはなかった。午後2時頃に東洋館に一旦移動したものの、近所の喫茶店を出た後に行方をくらませ、出演時間になっても姿を見せなかったのだ。夜の協会理事会も無断欠席した牧が次に目撃されるのは、29日午前0時15分頃、場所は大田区の牧の自宅から約2キロ離れた、多摩川にかかる丸子橋である。

通行人が、丸子橋の欄干を乗り越えて十数メートル下の川に飛び込む牧の姿を目撃し、近所の交番に通報。駆けつけた田園調布署の署員が川に浮かんだ牧を発見したが、搬送先の病院で死亡が確認された。

丸子橋に残されていたのは、2002年に脳出血で倒れて以来愛用していた杖のみ。遺書はなかった。

自殺の背景事情を巡ってスポーツ紙などが一斉に書きたてたのは、牧が会長を務める東京演芸協会の「資金流用疑惑」である。報道によれば、コトの概要はこうだ。同会には、歴代会長から引き継がれ、会長が保管する資金がある。その額は約650万円とされ、いつごろからか、それを牧が私的に流用している、との噂が会員の間で囁かれるようになった。牧は総会などで度々会員から突き上げられ、4月28日夜の理事会で、資金が入っている通帳を開示する予定だった─。

確かに、協会所属の芸人、ミスター梅介が先に話した通り、この理事会への出席が牧にとって"負担"になっていたことは間違いないだろう。会員から繰り返し責め立てられ、会長としてのプライドはズタズタになっていたかもしれない。それでも、650万円さえ用意できれば、会員たちをある程度納得させられたはずだ。しかし彼は金を用意することなく、死を選んだ。自分で資金を捻出する力がなかったのなら、誰かに頼ることはできなかったのか。例えば、妻の良子さんに…。その謎を解き明かすには、牧の来歴と私生活における知られざる"裏の顔"に触れなければならない。


【隠し子の名前は…】
〈娘はディスコで 朝帰り 息子は酔っ払って 朝帰り 女房は浮気で 朝帰り 亭主はあきれて 里帰り あーあ、やんなっちゃった あーああ、驚いた〉

ウクレレ漫談「やんなっちゃった節」で一世を風靡した牧は1934年に東京・目黒で生まれている。小学5年の時に疎開先で終戦を迎えたのち、東京中学を経て東京高校の定時制に進んだ。高校入学後に職工として勤めたのが大田区にある温度計製造会社「東亜計器製作所」で、後に伴侶となる良子さんは同社の社長令嬢であった。そして、牧のその後の人生を決定付ける"出会い"があったのも高校在学時。牧野周一(故人)の漫談を聞いてファンになり、素人の寄席番組などに出演するようになった彼が牧野に弟子入りしたのは57年。デビューからそれほど時をおかずして、師匠のアドバイスで始めたウクレレ漫談で一躍大スターに。63年から司会を務めた「大正テレビ寄席」(テレビ朝日系)は以後15年続く長寿番組となり、その後もテレビにCMにと活躍を続けた牧の芸能人生は、まさに順風満帆だったと言えそうだ。私生活では62年に良子さんと結婚、翌年には長女が生まれている。また、99年には東京演芸協会の会長に就任、後進の育成に当たってきた。

これが、「戦後演芸界の救世主」とまで言われた男の"表の経歴"であり、"表の顔"である。そんな牧の"裏の顔"、それは「火宅の人」としての顔だ。

牧には、40年来の付き合いの愛人がいた。そして、彼女との間に、今は30代になっている娘までもうけていたのである。
「愛人は元芸者だという話で、現在、70歳くらいになっていると聞いています。娘の下の名前は、彼の芸名と同じ"マキ"らしい。そして、いつまで続けていたのかは分かりませんが、少なくとも数年前までは毎月、生活費を渡していたはずだと小耳に挟んだことがあります」(事情通)

彼と親しかった後輩芸人は、彼が楽屋に愛人を連れてきているのを何度か見かけたことがあると言う。
「もう40年近く前でしょうか。身長は160センチあるかどうか。着物を着ていて、非常に綺麗な女性でした」

さる演芸関係者も、
「牧さんに長い付き合いの愛人がいることは知っていました。一時期は家も2つあり、完全な二重生活を送っていましたよ」

30年ほど前、愛人との家は中野にあった。
「当時、中野には牧さんの実姉が経営する小料理屋があって、そこに愛人と娘さんがよく来ていたそうです。お姉さんや店のお客さんは娘さんのことを可愛がり、"マキちゃん、マキちゃん"と言って抱っこしたりしていたとか。牧さん本人が話さなくても、彼がその子に"マキ"と名づけたことが分かり、客がお店で大笑いしたこともあったそうです」(先の事情通)

十数年前には、牧が周囲にこう漏らすのを複数の関係者が聞いている。
「(愛人の存在が奥さんに)バレた。参ったなぁ」

しかし悲壮感は全くなく、次のように続けて関係者を笑わせたという。
「本妻と愛人が1週間、それぞれ家にこもって出てこない。しかも外出するわけでもないのに着物を着て化粧をして待っている。何をしている、と2人に聞くと、不倫の事実を嗅ぎ付けた週刊誌の取材がいつ来てもいいように準備しているのよ、と言うんだ。ただ、結局、誰も取材に来なかった」

自らの火宅ぶりをも笑いに転化させてしまうあたり、さすがは一時代を築いた芸人といったところだが、
「愛人の娘さんが小さい頃には、牧さんが学芸会に顔を出すこともあったし、地方公演の旅の帰りにはお土産もよく買っていたという話です。基本的には奥さんと別居することなく暮らしていたようですが、旅に出るなんて言っては、愛人の所に通っていたのでしょう」

と、関係者は語る。
「牧さん本人はこんなことも言っていたそうです。彼が40代か50代の頃、"愛人のところでやって(セックスを)帰ると、疲れているのでバレてしまう。だから家に帰るとすぐジョギングに出る。それで疲れているのを誤魔化すわけだ"と。本当に茶目っ気のある人でしたね」


【知らん顔しています】
笑いを取るために話が誇張されているフシがあるのはさて置いて、この40年来の愛人の存在について、牧の妻・良子さんに問うと、
「そう(事実)だと思います。元々、熱海で暮らしていたと思います。だから芸者ってことになるんじゃないですか」
─子どももいる?
「知っていますけど、会ったことはございません」
─その娘さんに"マキ"と名付けたと聞いたが?
「…知らないです」
─愛人と娘の存在は誰から聞いたのか?
「誰ってこともないけど。(夫から)聞いたような気もするけど、もう私は知らん顔しています」

牧と付き合いのあった女優の浅香光代が言う。
「牧さんに芸者の愛人がいることは知っていたよ。あんまり大きな声では言えないから、知っている人は芸者をひっくり返して"シャゲの女"なんていう言い方をしていた。でもさ、芸人なんだから女が1人や2人いてもいいじゃない」

確かにそういう考え方もある。が、果たして妻の良子さんに同様の受け止め方ができたか否か。良子さんは協会資金650万円の問題を「知らなかった」と言うから、生前、牧はその件について妻に相談しなかったのだろう。いや、相談できなかった、というべきか。
「やはり普通に考えれば、牧さんは協会の650万円に手をつけ、女に注ぎ込んだということになるのでしょう。しかし、その相手は元芸者の愛人1人とは限らない。会長の女好きは有名で、最近までバイアグラを愛用していたほどですから。協会内部でも女関係の噂は絶えず、実際、巨乳の女芸人を口説いているのを見たことがあります」

と、協会所属芸人の1人。別の演芸関係者も、
「酒も好きで、02年に脳出血で倒れるまではよく朝方まで飲んでいた。カラオケの十八番は"津軽海峡 冬景色"の替え歌で"だんべ海峡 冬景色"。だんべ、とは津軽弁で女性器の意味です。地方で飲みに行ったスナックで、おもむろにポケットから帯付きの100万円の束を取り出し、女の子たちに1万円ずつ配っていたこともありました」

だがそれは、牧の健康状態が良く、仕事も順調だった"古き良き時代"の話。
「牧さんがおかしくなってきたのは、99年に協会の会長に就任してから数年が経った頃。当時から、今回問題になっている会長資金の件は取り沙汰されていたのですが、それ以外にも、文化庁から毎年協会が受け取る数百万円の助成金や、グッズ売上げなどに関する会計に不明朗な点があるのではないか、との声が会員から上がり始めたのです」

と、協会関係者は話す。
「07年には、数名の協会所属芸人が牧さんに対して資金の現状説明を求める要請書を提出。すると、協会側は彼らを除名処分にした。その後、処分された芸人は協会員としての地位確認の裁判を起こし、最高裁まで争って勝訴しています」

数年前からは、年に1回行われる総会で公然と"会長資金は今どうなっているのか"と追及する声が上がるようになったという。
「協会の運営は年々厳しくなり、芸人へのギャラが減額されたことで皆不満を募らせていたのです。追及の声は大きくなり、昨年にはとうとう"実際に通帳がどうなっているのか見たい"との提案が出た。しかし牧会長は通帳を持ってこず、のらりくらりとかわし続けていたのです」(同)

牧の自殺前、最後に協会理事会が行われたのは3月下旬のことである。
「そこでも会長は"預金通帳はない。金は自宅の金庫にある"と要領を得ない言い訳をした。理事たちから"お金のことをいつはっきりさせるのか、明確にして欲しい"と詰め寄られると、会長は"(5月の)総会の前までにはきちっとやります"と答えた。今思うと、この言葉が会長にとっては命とりになったのかもしれません。命を絶つという形をもって"きちっと"したのですから」(協会幹部)

牧は生前、雑誌のインタビューにこう答えている。
〈僕の頭の中には、4行詩専用の原稿用紙がある〉

詩の4行目に"オチ"をつければ、それがそのまま「やんなっちゃった節」になるわけである。死の直前、橋の欄干を乗り越えようとする牧の頭には、起伏に満ちた来し方を振り返って、どのような「4行詩」が浮かんだのだろうか。 ─(週刊新潮2013年5月16日号)





泉ピン子(65)、死してなお師匠牧伸二さん(享年78)を「許さない!」
【消えぬ47年憎悪=弟子時代の屈辱の日々。師匠の元を一方的に去り、脳梗塞で倒れたときも見舞いにも行かず…】
多摩川に身を投げ、自ら命を絶った牧伸二さん。その彼を師匠とし、付き人をしていたのが泉ピン子だ。しかし、ピン子にとってはその8年間は「消し去りたい過去」となっている。訃報に際しても拭えないほどの憎悪を生んだその師弟の関係とは─




芸歴56年─そんな大御所の突然すぎる訃報だった。

4月29日の深夜0時、東京・大田区の丸子橋から多摩川に身を投げて亡くなった牧伸二さん(享年78)。自殺とみられており、通夜と告別式は家族葬の形で、親族約20人のみが参列するひっそりとしたものだった。

牧さんが会長を務める「東京演芸協会」で約650万円の運営資金が行方不明になっており、会員から牧さんの責任を追及する声が高まっていた。この一件が自殺の原因ではないか、という報道もある。

牧さんが漫談の世界に飛び込んだのは1957年、彼が23才の時のこと。2年後、牧さんはウクレレ漫談という独自スタイルを生み出し、「あ~あ、やんなっちゃった」のフレーズで社会を風刺する「やんなっちゃった節」で一世を風靡する。その後は、司会業にドラマ出演など、幅広い分野で活躍した。02年に脳梗塞で倒れたが、翌年には舞台に復帰し、同年には文化庁長官賞を受賞している。

そんな彼の突然の死に、藤村俊二(78才)やミッキー・カーチス(74才)ら、生前親交のあった著名人が次々と追悼コメントを出す中、ひとりだけ沈黙を守る女性がいた。かつて牧さんの愛弟子だった泉ピン子(65才)である。

訃報の翌日に開かれた『渡る世間は鬼ばかり 2時間スペシャル』(TBS系)の取材会でも、ピン子は師匠の牧さんについて、一切触れることはなかった。彼女にとって、牧さんと過ごした日々は、"消し去りたい過去"のようなのだ。

芸能界に憧れて高校を中退し、「三門(みかど)マリ子」の芸名で劇場の前座歌手として歌っていたピン子が、漫談歌手の道に入ったのは66年、18才の時だった。牧さんが所属する事務所の社長に声をかけられたのがきっかけで、この時「泉ピン子」の芸名を与えられ、牧さんの付き人になった。

しかし、それはピン子にとって、過酷すぎる日々の始まりだった。
「当時、牧さんはいわば神様のような存在で、誰も彼には逆らえませんでした。ピン子さんは雨のときでも傘をさすことすら許されず、牧さんの荷物持ちをさせられていました。地方キャバレーのドサ回りの際も、彼女には宿も用意されませんでした。寝泊りはキャバレーの楽屋なんです。当時、ピン子さんはまだ20代。夜な夜なキャバレーの経営者が夜這いに来るので、ビール瓶を片手に、震えながら寝ていたそうです」(芸能関係者)

地方キャバレーでは、ピン子もステージに立った。ところが、漫談を披露しても、客からは「ブス、引っこめ!」と野次が飛び、テーブル上の料理を投げつけられることも日常茶飯事だった。

当時のピン子の給料は月8000円。住んでいた四畳半のアパートの家賃が8000円だったため、家賃を払うと一銭も残らない。付き人をする一方で、深夜に飲食店の皿洗いのアルバイトをしてなんとかしのいでいた。しかし、手元に残るお金はほとんどない。空腹のために眠れない夜も少なくなかったという。

しかし牧さんは「そんなことは当たり前」といって、彼女を突き放した。
「牧さんは"芸人をつくるのには10年かかる"が口癖で、ピン子さんには苦労を味わってほしいという親心から、あえて彼女を助けなかったそうです。でも、そんな思いもピン子さんには伝わらなかったのか、"師匠は何もしてくれない"といつも嘆いていました」(前出・芸能関係者)




【師匠の名前を口にすることも嫌がった】
こんな生活が8年も続いた頃、ピン子に大きな転機が訪れる。75年、情報番組『テレビ三面記事ウィークエンダー』(日本テレビ系)のリポーターに抜擢されたのだ。一躍、人気者となり、ようやく牧さんの付き人から解放された。

そのすぐ後の雑誌のインタビューで、ピン子はその際、牧さんにこう言われたことを告白している。
《実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな、というように、売れても礼儀を忘れるんじゃない》
しかし…。

83年、女優としてNHKの連続テレビ小説『おしん』に出演し、大ブレーク。同作の脚本家・橋田壽賀子さん(87才)に認められ、"橋田ファミリー"の一員として、ピン子はその後、橋田作品に数多く出演するようになる。が、一気に売れたことで、この頃のピン子は金銭感覚がマヒしていた。
「ブランドにはまってしまい、"全身シャネル"といわれるほどシャネルのバッグや靴を買いあさるようになって…。当時、ブランド品を買うために事務所に借金するのは当たり前で、貸すのを渋ると、"誰のおかげで事務所が食えてるんだ!"と怒りだしたそうです」(前出・芸能関係者)

そんなピン子のことを、牧さんは「あいつは大丈夫か」といつも心配していたという。

だが、牧さんの付き人時代のつらい反動からか、ピン子のブランド品購入はやまず、99年には事務所からの借金総額が3億5000万円を超えたとまで報じられた。
「堪忍袋の緒が切れた事務所側は、それ以上お金を貸すことを拒否し、肩代わりしていた自宅の公共料金の支払いもストップした。これに激怒したピン子さんは、師匠である牧さんにも黙ったまま、事務所を飛び出す形で独立したんです」(前出・芸能関係者)

しかもピン子は00年4月、女性誌のインタビューでこの独立劇をこう告白した。
《ひとり立ちしなくちゃ…ということはずっと思っていました。(中略)自分の仕事のあり方を誰かに託すんじゃなく、切符を買うところから一人で始めてみたい》

金銭トラブルには一切触れず、一方的な言い分で独立を正当化したのだった。

この一件が、ピン子と牧さんの関係を修復不可能にするきっかけとなった。牧さんの知人が話す。
「事務所の許可もなく、勝手に独立を発表したピン子さんに、事務所社長も牧さんもとにかく怒り心頭だったんです」

インタビューには、牧さんを怒らせる別の要因もあった。
「ピン子さんはインタビューの中で"自分にとって恩師は杉村春子先生"と言い、牧さんの名前どころか、漫談歌手時代の話が何ひとつ出なかった。これに牧さんは大きな失望を覚えたようで、"あまりにも恩知らずだ"と、彼女を破門にしてしまったんです」(前出・牧さんの知人)

以来、ふたりは没交渉となり、02年に牧さんが脳梗塞で倒れたときも、ピン子は見舞いにさえ訪れなかったという。
「独立からの13年間、ふたりは完全に絶縁状態で、ピン子さんはあの下積み時代の日々を消し去るかのように、牧さんの名前を口に出すことすら嫌がっていました。あの人のことは絶対許さないっていう思いがずっと心の奥深くに残っていたんでしょう」(前出・芸能関係者)

牧さんの死から数日後の5月上旬、熱海のあるレストランに橋田さんとピン子の姿があった。ふたりは思い出話に花を咲かせていたが、牧さんの話題が出ることはなかったという。

ピン子が牧さんの弟子になった日から47年。

死してなお牧さんは、ピン子にとって、許せぬ"鬼"でしかないのだろうか。




ピン子が"橋田ファミリー"入りのきっかけになった『おしん』。 ─(女性セブン2013年5月23日号)
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