湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

徳川家康接待係罷免の真相・・・歴史の考察

2016-06-17 18:36:03 | Weblog
明智光秀がいつ頃から織田信長に謀反を考えたか
それは、分かりません

天正10年3月に武田が亡びています
じつは、その前に、明智光秀から武田側に
盟約の打診があったことが、甲陽軍艦に書かれてあります
武田側は、これを謀略であるとして、退けたのです
甲陽軍艦は、武田氏の軍関係の歴史を書いた書物です

すでに命運の尽きている武田氏に
秘密裏に盟約の誘いをするほど
明智光秀は、追い詰められていました
何が光秀をそこまで追い詰めたのかは分かりませんが
他の織田家臣団のことを思えば、想像はできます
彼もまた、リストラの対象となることを察知していたのです

光秀は、武田に話を持ち込むくらいですから
当然ながら、徳川にも話を持ち込んだことでしょう
明智光秀と徳川家康は、少なくとも、本能寺の変の半年前には
秘密の盟約を結んでいたのです
連絡係は、斉藤利三であったのかもしれません・・・

織田信長が徳川家康を安土城に招いた時
明智光秀は、突然、家康接待係を解任されてしまいました
この事件は、従来、本能寺の変との関連で、様々に論じられてきました
一体、何があったのでしょう?

ここで信長は、光秀に家康暗殺を命じたのです
光秀は、その命令を拒否しました
信長は怒り、光秀を足蹴にしたのです
この光景を、たった一人、見ていた人物がいました
黒人の小姓、弥助です


コメント (4)
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