湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

明智光秀を動かした”甘いささやき”・・・歴史の考察

2016-06-24 17:43:17 | Weblog
吉田兼見は、公家であり、朝廷の武家伝奏であり
そして「吉田神道」の宗主でもありました
「暦」は、自身の権威にもかかわる深刻な問題です
もはや信長を消すしか、解決策は無さそうです

そこで兼見は
明智光秀を利用することを考えます
織田信長との将来に不安を抱く明智光秀の前に
光秀が飛びつく獲物をぶら下げたのです

信長を討ってほしい
そうすれば、ただちに
朝廷が「征夷大将軍」の宣下をする
日本全国に号令し、天下の静謐を取り戻して欲しい
貴殿にしか、それはできない・・・

吉田兼見の甘いささやきに、光秀の心は動きます
自分を、いずれ切り捨てる気でいる信長に
まして自分を足蹴にするような男に、これ以上ついて行く気は無い
必ず倒すつもりでチャンスを狙っていた
しかし、信長を倒しても、その後の展開が読めなかった・・・

それがついに、なんと!
自分が天下人になるチャンスが巡ってきたのだ
光秀の心は、浮き立ちます

もともと
織田信長の本拠地でる尾張一帯は土岐一族の所領でした
土岐一族の血脈である明智光秀には
信長を倒し尾張の支配者になることに特別な意味がありました
さらに、征夷大将軍にもなれるのです
天皇から将軍宣下を受けるのです!

細川藤孝の足軽であった明智光秀は
藤孝が信長の支持を得て足利義昭を将軍に擁立した時
藤孝が義昭に提供した家臣でした
そこから、光秀は、信長の知遇を得たのですが
やがて信長と義昭の関係が悪くなると
義昭を捨て、信長に仕え、立身出世の道を突き進んだのです

明智光秀は”近畿管領”とも呼ぶべき実力者となりました
織田信長の威光によるものとはいえ
かつての主君・細川藤孝をはじめ、近畿一帯の大名達は
与力や組下となって、光秀の指揮下に入ったのです
今となっては、足利義昭などより自分の方が
はるかに、将軍職が似合っていると考えたことでしょう


コメント (3)
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