湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

「長篠戦い」後の織田信長・・・歴史の考察

2016-06-16 18:50:21 | Weblog
「長篠の戦い」以後
織田信長には、大きな心境の変化がありました

長年の懸案であった武田の脅威が消滅したのです
武田氏は、まだ亡びていませんが
もう、三河まで攻め込む力は残っていません
それどころか、信長がその気になれば
すぐにでも滅ぼせる状況になったのです

武田の脅威を前提に成立していた徳川家康との同盟も
織田信長にとっては、重要度が低くなりました
なんと言っても、信濃(長野県)はおろか上野(群馬県)まで
織田信長の権力が及ぶことになったのですから

信長にとって、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀といった
自分が取り立てた実力派家臣団も、重要度が薄れてきました
まして、古くからの織田家の家臣で、能力の低い連中は
もはや不要とばかり、信長は、さっさと追放してしまいました

織田家は、大リストラ時代に入ったのです
織田信長は、天下を取った後のことを考え始めたのです
信長には,何人もの優秀な男子がありました
彼らを自分の後継者とし、不滅の織田政権を作るためには

「今、何をすべきか?」

それが、この頃から、信長の頭から離れないテーマとなったのです

自分の子供達は、いくら優秀であると言っても
戦国の世を勝ち抜いてきた、歴戦の強者
徳川家康、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀らを、抑えられまい
ならば、自分が健在なうちに、手を打っておこう
織田信長は、そう考えたのです

滝川一益は、関東管領とし
遠く北関東の地で、越後の上杉や小田原の北条と対峙させ
羽柴秀吉は、柴田勝家の先陣として、上杉と闘わせて消耗させようとしました
それが秀吉の反抗でうまくいかなくなるとと
秀吉単独での毛利攻めを命じました
徳川家康には、妻と長男にあらぬ嫌疑をかけ、殺させました
これは、織田信長による徳川家康への挑発でした
家康は、この挑発に、ひとまず耐えるしかありませんでした・・・

当然ながら、信長の心境の変化を、皆、敏感に感じ取っていました
羽柴秀吉も、徳川家康も、行動に変化が生じます
表面的には無傷に見える明智光秀も同様であり
けして、安閑としていたわけではなかったのです




コメント (3)
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