湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

「神君伊賀越え」と穴山梅雪の死・・・歴史の考察

2016-06-14 17:18:05 | Weblog
京都本能寺に向かう途中で「本能寺の変」を知った徳川家康は
伊賀ルートで岡崎まで帰ります
これが、のちに

「神君伊賀越え」

と呼ばれる、苦難の逃避行なのです

しかし、私はこの話を信じません
家康は200人近い伊賀者に守られて、安全に逃げたのです
その中に、服部半蔵の親族もいました
服部半蔵は、織田信長の伊賀攻めの後
岡崎に逃げ、家康に助けられた伊賀者の一人だったのです
家康は、信長に知られているのを承知で、伊賀者を助けていたのです

この逃避行の途中で
穴山梅雪は殺害されています
表向きは、百姓一揆に殺されたことになっています
実際は家康が殺したのです

穴山梅雪は、甲斐の武田氏の一族です
武田氏滅亡の後、武田氏存続のため、信長に許されて生きていました
家康が信長からの招かれると、同行していたのです
一緒に招かれていたのかもしれません

家康は、岡崎に帰着するやいなや、ただちに甲斐へ侵攻しています
信長が死ねば、信長の所領である甲斐を狙うのは
家康にとって、当然すべきことだったからです

もともと、甲斐の武田の脅威が
織田信長と徳川家康を結びつけていました
甲斐の武田が亡びると
織田信長にとっては、徳川家康との同盟の意味が薄れてきました

一方のの徳川家康にとっては
甲斐の支配者が武田から織田に代わっても
織田信長との同盟関係が弱まれば、脅威であり続けるのです
この脅威を取り除くためには
自分が甲斐の支配者になるしかないのでした

甲斐の支配者になるにあたり
武田氏の生き残りである穴山梅雪は
徳川家康にとって邪魔者以外の何者でもありません
だからこそ、甲斐侵攻の前に、速やかに始末したのです








コメント (4)
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