無意識日記
宇多田光 word:i_
 



インターネットの内外を問わずフラット化への対処が人気商売の課題だが、結論からいえばこの状況はヒカルに有利にはたらく。実力勝負になるからである。

スターとかアイドルとか、昔はお飾りでもよかったかもしれない…というと険があるかな、演技や虚飾でも構わなかった…即ち、演技力さえあれば誰でもなれたのだが、今は本当にスターとしての振る舞い、アイドルとしての生き方が求められる。SNSによるフラット化で、どこに目があるかわからないからだ。

この状況は良し悪しである。「誰でもなれる」のであれば、その地位・役柄に入り込んでしまえば安泰なのだから、人を蹴落としてでもと政治的な頑張りをするものだった。陰湿ないじめやら何やら。実力勝負になってしまえば、他者を妨害している暇なんかない。己を磨く以外道はない。業界から陰湿さが薄れ透明感が増していく。その代わり実力がなかったら目もあてられない。厳しいといえば厳しい。

ヒカルに虚飾はない。寧ろ過度の謙遜に苛立つ位だ。主に容姿の面だが。作品に関しては毎回自信たっぷりに推している。聴いてみればその自信も納得である。

もっと言えば実力のある人間は周囲から自然に押し出されるのだから、ヒカルは何をしていてもスポットライトを浴びる世界に戻ってこざるを得なくなる。このままいくと、世界中で「あのUtada Hikaru」になってしまうだろうし。

フェスティバルには出ないだろうけども、出たら客を根こそぎもっていくだろう(そもそもヘッドライナーだろうし)。ストリーミングを始めれば、再生回数が赤裸々に人気を物語る。曲ごとに判断されるヒカルは如実にそれを享受するだろう。

新しい時代となるとどうしても不安になるが、今のところ動く方向は大概ヒカルに有利にはたらくものだ。勿論これからはわからないが、妙な不安を駆り立てられるような業界内の変化みたいなものは殆ど目の前に現れないのではなかろうか。

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昔からの音楽の楽しみ方といえば、お小遣いを貯めてお気に入りのアーティストのアルバムを買い擦り切れる程聴き込んでコンサートに赴く、なんて感じだったが、21世紀に入って定額配信で浴びるように音楽を聴きフェスティバルに赴いてさてどれとどれを観て回ろうかなと悩む──そんなスタイルに変化しつつある。

砂漠の中のオアシスを見つけてそこにこだわるような楽しみ方だったのが見渡す限り水の超デッカいプールでプカプカ浮いているような。ちと違うか。でもそんな感じ。限られた娯楽から、そもそも出発点が飽和状態でどれかを選ばなければ何も始まらない状態にいきなり飛び込む。飛び込まされる。そういう価値転換が娯楽の世界に起こりつつあるのだ。湯水のように、という言葉があるが、音や絵や字といった"情報"もまた価値が飽和しつつある。

本来ならそれを"インターネットのせい"と言っておけばよかったが、ロックフェスティバルってインターネット関係ないんだよね別に。ウッドストックって1969年だからね、49年前ですよ。それが日本ではフジロックの成功を機にこの20年。すっかり定着してしまった。幾つもあるステージ、幾らでもいるミュージシャンやバンドから、気に入ったものを観る、或いは、偶然鉢合わせたものを楽しむ。昔「ライブコンサート」と呼んでいたものとは根本的に楽しみ方の質が違うのだ。

いや勿論昔ながらの楽しみ方がなくなった訳でもないし、衰えているとか言うつもりもない。しかし、定額配信のみならずコンサートまで「溢れる選択肢の中から、対価を払わずに選ぶ」方式が定着していくと、音楽の楽しみ方の意識の変化から、次に生まれてくる音楽の方向性に何か新しい局面が現れてくるのではないかという予感がしている。

選択に対価があると選び易くなる。こちらのあまおうが500円、こちらのとちむすめ(ですよねー(笑))が600円、という値段がついていれば選択の助けがひとつ増える。味が互角なら安い方を選ぼう、とか、逆に値段が高い方が美味しいに違いない、とか。

定額制は、一定額を支払った後はあらゆる価値の対価が0になる。したがって、何の寄りどころもなく自分の満足する音楽を選んでいかなければならない。すべてがフラットなのだ。

ランキングが廃れているのもこれに拍車をかける。昔はランキング上位にくる曲をチェックしていれば楽しい、という人も多かったが、その権威を秋元康が無効化した為、音楽を聴くのに自分の趣味嗜好を自問しなくてはならなくなった。なお、「ランキングに基づいて音楽を聴く」のが趣味だった人のうちで「音楽かどうかにかかわらずランキングウォッチ自体が楽しい」というタイプの人たちは軒並み秋元康が取り込んだ。なんちゃら総選挙はテレビ中継までされてるそうな。いやはや。

という訳で、今ミュージシャンは皆がフラットになっている地平で目立たなくてはならなくなったのだ。この様なご時世にどんな戦略を立てればいいのか…?という話からまた次回、なのだがヒカルはいつ出てくんの?

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ヒカルがツイートするペースは相変わらず読めない。特に忙しさとは関係ないようだし。単純に、意識が外に向いてるかどうか、誰かの反応が欲しいかどうか、といったファクターで呟いているのかな。

ここ数日のツイートの中でも断トツに謎なのが『寒い』の一言だ。一言だけ、だ。折しも、かどうかは知らんが少なくともあの日関東は非常に暖かく、寒いなんてのは違和感があった。

こういうのをどう解釈するか。典型的なのは「ああ、今日本以外の土地に居るんだな」という推測。ヒカルは昔から、少し露出が減るだけでげいのう界の皆様から勝手にニューヨークに飛ばされてきたのだが(「最近宇多田ヒカル見ないね」「ニューヨークにでも行ってんじゃないの?」、それを踏まえた上でこう呟いたのだろうか。だとしたら深い…いや別に深かねーか。

もうひとつは、「ギャグが滑った」である。全国規模で「ギャグが滑った事、或いはその後に出来た雰囲気」を指して「寒い/さぶい」を定着させたのは自分だ、と松本人志が言っていた気がするが、ヒカルもそれを指して『寒い』て呟いたのだろうか。前後がわからないので何とも言えないが、だったら「…寒い。」とか「さ、寒かった」とか色々と表記に一工夫あるんじゃないか、それがないんだから…いやまぁ、自分が言った事で寒くなったのか誰か他の人の言った事で寒くなったのかで違ってくるけどな。

ここは素直に、寒い場所に居たという事でよさそうだ。暑さ寒さに敏感だとすると、それはこどものせいもあるかもしれない。こどもを連れてお出掛けともなると着せる服に気を遣う。年齢からすると立って歩いてる可能性もあるので、お手々繋いで引き連れてお出掛け、なんてあるかもしれない。何それ微笑ましー。

という訳でこちらの勝手な解釈で『寒い』の一言呟きは「こどもの服装を気遣って」が理由だと決定致しました。人は現実に真実より見たいものを見たがるのです。

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もう一度確認しておくと。椎名林檎嬢によるオリジナルの「丸の内サディスティック」は全編大体日本語、「丸の内サディスティック(Expo Ver.)」は「英語〜日本語〜英語〜日本語」という構成、そしてヒカルとなりくんによる「カバー2017・オブ・丸の内サディスティック(Expo Ver.)」はおおよそ「日本語〜日本語〜英語〜日本語」という構成だ。

となると今回のヒカルとなりくんによる「丸ノ内サディスティック」は全編英語の可能性が出てくる。オリジナルの更にルーツとなる英語版の「Marunouchi Sadistic」になるのかな。ようわからんけど。

で気になるのは演奏形態だ。どんな編成でどんなサウンドなのかによって、似合う歌詞が決まってきたりする。歌詞の取り方が比較的自由なのだから、サウンドのニュアンスによって歌詞の構成、日本語と英語のバランスが変化しても不思議ではない。

この点についてヒカルはこう述べている。『小袋成彬とミュージシャンたちとセッション形式で録りました』と。なんとまぁ、あの『Parody』をレコーディングした時のような感じなのか?

とすると。とすると、である、ヒカルはもしかしてもうライブのリハーサルを始めてたりするのだろうか? たった一曲の、それもカバーの為にミュージシャンたちを一ヶ所に集めるだろうか?

いや勿論、アルバムのレコーディングのついで、というのが正しい答だ。それ以外にないだろう。しかし、なぜそれでセッション形式を? どういう意図だったのだろうか。なのでついつい、レコーディングに呼んだミュージシャンたちは、ツアーのメンバーでもあり、少しずつ慣らし運転を始めてるんじゃないかと勘ぐりたくなってくるのだ。逆もあるな。このセッションを通じてツアーメンバーが決まっていく、なんて事もありえる。妄想に際限などないのだ。

少し先走り過ぎた。まずは5月の発売を待とう。他人シンガーをプロデュース、トリビュートアルバムへの参加、を経ていよいよ本丸のオリジナルアルバムの発売とツアーという順番だ。一つ々々、ですよ。

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自分でも結構どうでもいいと思っている疑問なんだが、「まるのうちさでぃすてぃっく」の「まるのうち」の正式な漢字表記って「丸の内」なの「丸ノ内」なのどっちなの。

ググッたら「の」の方が多いんだけど今回のトリビュート盤の表記はオフィシャルでも「ノ」で、@utadahikaru も @hikki_staff も「ノ」でツイートしている。取り敢えず今回は「ノ」で行けばいいようだ。が、
私は今そういうの大体予測変換に任せているので多分混在すると思われる。どっちでもよさそうだしこだわる事でもなさそうだし。

Wikipediaによると「まるのうち」という地名は1970年の町名変更以前は「丸ノ内」、以後は「丸の内」になっているらしい。「ノ」→「の」という推移なんだな。で、地下鉄の「丸ノ内線」はその1970年の町名変更以後もそれ以前の表記のまま、即ち今でも「ノ」の「丸ノ内」なんだそうな。ふむ。

という事は、何かこだわりがあるとすれば、敢えて「丸ノ内」と「ノ」で表記する場合、1970年以前の当地に思いを馳せているとか、或いは地下鉄丸ノ内線の話である事を強調したいとか、そういった所になる。

だとすると今度は「どんな歌詞が歌われているか」という視点に移るのだが、この「丸之内サディスティック」の歌詞は少々ややこしい経緯を辿っているようだ。Wikipediaによると元々この歌は英語詞で書かれていたものを日本語に書き換えて1999年のアルバム「無罪モラトリアム」に収録、その10年後に歌詞の半分を英語にして2009年の「三文ゴシップ」に「丸乃内サディスティック(Expo Ver.)」として改めて収録された、とのこと。

既に何だかややこしいが、更にややこしいことに、昨年の3月にヒカルとなりくんが椎名林檎御姐様直々の正真正銘本物の「丸埜内サディスティック(Expo Ver.)」のカラオケトラックをバックに収録した歌の歌詞は、出だしが日本語で、1999年のオリジナルトラックの方に準じた内容になっている。即ち、日本語で歌われているのだ基本。半分以上何言ってんだかわかんないけど。ベンジーって誰だよまったく。(※ 私はイカ天初登場の会生放送で観てました)

という訳なので、実は1年前のヒカルとなりくんのカラオケバージョンはまるきりExpo Ver.のカバーという訳でもないのだ。貰ったバックトラックがそうなだけで。ならば、今回の収録カバーもどんなバージョンなのかクレジットでは判断できないんでしょうな。

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一方で、少しがっかりしている面もある。せっかく椎名林檎御姐様のトリビュート・アルバムに参加するのに、これでは勿体無いなぁ、と。ある意味で。

林檎嬢は『宇多田ヒカルのうた』アルバムに参加して『Letters』を歌った。こちらは体裁上トリビュートアルバムという呼び名は使わないが、相手の歌を唄うという面では同じである。『Letters』は元々、一部で「この歌詞にある『年上の人』って椎名林檎の事じゃないの?」と言われていた歌である。その歌を椎名林檎が直接歌った。更に『ひとりでも大丈夫だと言う』の箇所を「ひとりでも大丈夫と言う」と"だ"を抜かす事で伝聞風味を減じて歌ったものだから私らは更に色めき立った。やはりこの歌と椎名林檎には最初から何か言われがあるのではないかと。答は未だにわからないが、こういうのは色めき立てるだけで充分に御褒美なのだ。

ならば、今度逆に宇多田ヒカルが椎名林檎の歌をカバーする機会が訪れたならば、そこにも何か2人の間のエピソードがあって欲しかった、なんて言うのは贅沢と我が儘が過ぎるだろうか。過ぎるだろうね。いやわかってるんだけど、年上の女性が年下の女性に対して早く帰ってきてよと切ない恋慕の恋文を認ため送ったのにもかかわらず、その年下の女性の方は、その年上の女性の部屋に合い鍵を使って上がり込み更に年下の男の子を連れ込んで宜しくらんでぶっているのが、今回の「丸の内サディスティック」を取り巻く状況なのである。余りに非対称過ぎやしませんか。

最初に私が「ある意味で勿体無い」と言ったのは即ち、「百合的な意味で勿体無」かったのだ。『二時間だけのバカンス』のミュージックビデオでなよっとしたヒカルが逞しく頼もしそうな椎名林檎嬢に物理的にはしなだれかかっている一方、内面を覗いてみれば、林檎嬢が精神的にヒカルちんに頼りきっているのでしたという対照的な構図が百合的な意味で非常に美しく尊かった。しかしそこになりくんが入ってきて百合的な展開が潰された。これを「勿体無い」と形容して何が悪い。全く以て憤懣遣る方無い。

…こほん。要は今後発表される「丸の内サディスティック」の出来がよければ結果オーライなのだ。今回実現しなかっただけで、今後もまだまだゆみちんヒカルちんの百合話は花を咲かせ続けるのに相違なく、一度流れた位で取り乱していては百合男子の沽券に関わる。今回は大目に見てやるとしよう。えっへん。

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他にも、やはり、今回は「EXPO Ver.」のクレジットがないのも気にかかる。ラジオで披露したのと同じではつまらない、という事なのか何なのか。確かに、新録音するならある程度の差異は必要だろう。

差異を作るといえば。例えばその今回の"主役"である椎名林檎御姐様とヒカルのコンビによるEMI GIRLSが昔カバーしたのはカーペンターズの"I won't last a day without you"だった。当初は「一夜限りの結成」という事でコンベンションのみの披露だったのだが、後に林檎御姐様のアルバムにおいてスタジオ録音版が実現。この時にはコンベンションの時とは二人のパートの歌い分けが異なっていた。同じ事が今回の「丸の内サディスティック」でもあるかもわからない。ラジオのEXPO Ver.で披露したのとは2人のパートを入れ替えてくるかもわからない。有り得る話だ。

そもそも一年前のラジオでは林檎御姐様御本人からカラオケ音源を提供してうただくという所から始まっている。その経緯から、元々あわよくば以上にスタジオ録音版を制作する狙いはあったように思われる。トリビュート盤への提供という所まで考えていたかというと…考えていたとすれば結構な長期計画だな…。

ラインナップ的にみても(いや、みるまでもなく参加者が誰であろうと)、ヒカルとなりくんのトラックがエース曲にはなりそうだ。『宇多田ヒカルのうた』アルバムでもその異才ぶりを発揮した井上陽水の存在も心強いが。そこで下手なものは出してクマい。いやどこでだってヒカルは下手なもん出して来ないけどな。謎なメイクや謎な衣装で登場する事はあっても。

『宇多田ヒカルのうた』では、参加者は皆売上的にはヒカルより下だった。当たり前だけど。しかし、今回の林檎御姐様のトリビュート盤は、林檎御姐様より通算では売れている人たちが参加しているのだ。つまり、宇多田ヒカル、井上陽水、草野マサムネ(スピッツ)など。何が言いたいかというと、椎名林檎の名前以上に、参加メンバーのラインナップがアピール上より重要であるという事。ヒカルにかかる期待は、大きい。

もっとも本人は、そんな期待はどこ吹く風、ベストな曲を提供してるんだろうけどね。

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「新鮮さ」。早い話が、こういうのは何度も練り込んで歌い方を精微にしていったものよりは、特別なフィーリングを捉えたパフォーマンスを録音する事に腐心すべきだ、と。

ヒカルのカバーの中でいえば、例えば尾崎豊の「I Love You」がある。2004年に尾崎のトリビュートアルバムが出る(青と緑だっけか)という事でヒカルも「I Love You」を歌うべくスタジオに入ったが、結局アルバムに収録されたのは『Bohemian Summer 2000』で歌ったライブバージョンだった。(正確には、ライブでの歌唱のトラックと伴奏のトラックを重ね合わせたもの、だったですが)

この時、21歳のヒカルがスタジオで歌ったものより17歳のヒカルがライブで歌ったものの方が評価が高かった訳だ。必ずしも恵まれた環境や、より鍛えられた歌唱力などがよいテイクに必要だとは限らない。ライブ・パフォーマンス一般に言える事ではあるのだが、特にシンガーソングライターが他人の書いた歌を歌う時というのはこの観点が余計に顕著になるのだ。したがって、「丸の内サディスティック」を再録音したからといってラジオのカラオケを上回る出来になるかといえば案外未知数なのだ。


しかし、今回は普段のカバーとは大きな違いがある。言うまでもなく、なりくんの存在だ。

ズバリ、この1年でなりくんの歌唱力が飛躍的に向上していれば、たとえヒカルの歌唱に何の上乗せがなかったとしても、デュエットテイクの完成度も増強される。そこに期待するのが現実的だろう。

勿論、ヒカルの歌唱に「何の上乗せもない」事態がある可能性も相当低い。1年を無為に過ごしてきた訳がない。特に今はツアーに向けて歌唱を鍛えている時期かもしれない。更にパワーアップした歌唱も当然期待できる。ただし、それを確約する所にまで行くつもりは、ない。

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先週、ヒカルが椎名林檎姐様のトリビュートアルバムになりくんとのデュエットで参加する事が発表された。曲は「丸の内サディスティック」。昨年の3月、嗚呼もう1年前なんだね、にヒカルがなりくんのラジオ番組に出演した折、林檎姐から直接カラオケ音源を借り受けて同曲の「Exro Ver,」を歌ったが、今度はそういうクレジットがない為、オリジナルの丸サになるのではないかと予想される。

早速、そのラジオでの2人のカラオケぶりを思い出して、「カラオケでここまでなら正式版はもっとクォリティーが上がるに違いない」と期待に胸を膨らませる人たちが続出している。結構な事だ。

が、そううまくいくのかなと少々疑義を感じたのが第一印象だ。カバーというのは既に出来上がった楽曲をある程度なぞる作業である。故に、自分でいちから作り上げた楽曲を歌う時とは異なるアプローチが必要となる。

往々にして、余程凝ったカバーでない場合は、カバーを歌った時にいちばんいい出来が最初のテイクだったりするものだ。鍵は新鮮さにある。自作曲は隅から隅まで知り尽くしていて、レコーディングの段階では新鮮さというより「実際どうなるのだろう?」とか「うまくいくかな」といった観点から歌いがちである。

カバーを歌うとなると、そのオリジナルを聴いた時に「うわ! いい曲! 歌ってみたい!」となるのが本道だ。なれば、やはりその新鮮な感動を持ち込んでレコーディングするのが得策となる。

今度のバージョンではその"新鮮さ"が担保されていたかどうかがポイントとなる訳である。

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個人的な事を言わせてもらえれば(手前の日記なんだから好きに書けばよかろうに)、いまでもいちばん好みの作風は『EXODUS』だ。プロデュースできるならこういう方向性でいくだろう。しかし、曲の出来がいちばんいいなと感じているのは『HEART STATION』である。最も強烈な瞬間を与えたアルバムというのなら『桜流し』と『真夏の通り雨』を擁する『Fantome』だろう。そしていちばんよく聴くアルバムは『This Is The One』である。ただ、Pop Musicianとしてのヒカルのピークを指し示したアルバムといえば『Single Collection Vol.2』だろう。『Goodbye Happiness』と『Can't Wait 'Til Christmas』はひとつの到達点を示したといえる―

―という風に、Hikaruの作品は単なる個人的な好みだけで語るには余りにも豪華なラインナップが並ぶのだ。単なる「好き」以上の何かを歌が常に運んでくる為、自分の好みにこだわる姿が酷く小さく感じられる。だからといって普段自分の好みを卑下しているのかというとそんな事はなく、寧ろ全開であんなアルバムやらこんな曲やらを買って聴いている。ある意味Hikaruだけが規格外の「惹きつけて止まない何か」を持ち続けていて目が離せない。

今、『大空で抱きしめて』『Forevermore』『あなた』『誓い』と来ている。既に豪華で名作は確定なのだが、一体次作は自分にとってどんなアルバムになるかというと想像がつかない。まぁ曲を全部聴いた後でも「このアルバムは自分にとって何なのか」という問いに答えるのは難しい。今考えても仕方がないのだが、『Single Collection Vol.2』でひとつのピークを作ったヒカルが『Fantome』から新しい山に登り始めている以上、2010年までとは違う新しい何かを模索している段階だとみるのはそこまで間違いではないだろう。こちらの感性の受容度でいえば既に『Fantome』がもうひとつのピークを形成しているようなものなのだが、このアルバムは何だかんだ"隙だらけ"なので、どちらかというと『First Love』の無防備さが近い。ここから煮詰めまくって『DEEP RIVER』以降の隙のない高密度な作品を作れるのだとしたら、身震いするほど恐ろしい。そんな領域はこちらの感性の受容度を遥かに超えて「何が何だかわからないも
の」になっている可能性がある。そこまできたら私も「もっと若い感性で居たかった」と詮無い"後悔"をする羽目になるだろう。

取り敢えず次はまだ『Distance』程度の密度でいて欲しいところだが、次作は『誓い』が収録される以上同じくキングダムハーツシリーズの主題歌を擁する『DEEP RIVER』と『ULTRA BLUE』の"続編"でもある筈なので、その複合的魅力は計り知れないものになるだろうな。全く、嫌になるw

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両面待ちといっても積極的なのか消極的なのかよくわからないんだけどな。

人として、と言っても近年ヒカルからのアウトプットは、主に『Message from Hikki』的な意味で目減りしているから今のヒカルがどういう人なのか、というのは実はよくわからない。が、ツイートの端々から窺える感性は「特にこの人変わってないな」と確認させるに十分な材料だろう。定期的にラジオでもやってくれりゃいいんだけどね。

「当初の誤算」というのは、ある。昔、大体2000年頃位までは宇多田ヒカルという人は天才過ぎて、歌にとどまらない活動に手を伸ばすのではと予想していた。レオナルド・ダヴィンチのように、あらゆる方面で一流の仕事をするような。デビュー作で掛け値なしの頂点に立ったのだから以後どんな活動でもできるだろう、音楽性云々より人として興味がある、という視点に立った場合、こちらに届くアウトプットが存在すれば何でもよく、それが音楽に限られる必要はない、そう思っていた。

だから売れまくってるのに大学に行くときいた時も、嗚呼きっと色んな事がやりたいのだろうなと解釈していたのだがそこらへんから事情(こちらの解釈)が変わる。ますます音楽制作のペースが早くなり、音楽への「これ賭け感」が強まっていった。特に『FINAL DISTANCE』以降のフロー状態、イン・ザ・ゾーンなアウトプットの数々に「命削り始めてない?」という疑問を抱くに至った。ここから3rdアルバム、1st、4th、5thと「これ賭け感」そのままの作品を次々発表していく。思えばこの20代前半に極端に音楽に振り切った生活を営んだ為、有り体に言えば脳の形が決まってしまった。故に「歌は家業」と言われて「ああ納得だよ」と最終的に言うしかなかったのだ。

だからこちらも音楽に、歌にこだわっている。私の中ではそういう順序なのである。それまでは、歌うのはいつでもいいし、小説を書いたり声優に挑戦したり(誰だ笑ってんの)科学者になったり(これは『EXODUS』の頃まで言ってた)と人生を多角的に構成するのについていこう、なんて思ってたのだけど、今やこんな感じ。脳の形が決まる頃に音楽で塗り潰したのだからもう後戻りはできない。

6年半の間音楽以外の活動もあっただろうし一時期はもう曲が書けないのではないかと落ち込んだりもした。でも、総てはもう遅い。音楽以外に携わってもそれは息抜きでしかないし、代わりに歌えば必ず成功する。つまり、歌って成功するか、歌わずに大人しくなるかの二択でしかない。きっと小説を書いたら素晴らしいものが出来上がるだろうが、何年もかけて書き上げた長編小説より2時間で作った歌の方が評価が高くなるだろう。そうなるように生きてきてしまっているのだから。なので人としてみても音楽家としてみても同じなのだった。

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アングラの新譜を聴きながら「やっぱ小室哲哉と同じだなー」と呟く。今現在の心は違う所にあるのに、過去に成功を掴んだスタイルを繰り返す。少しましな瞬間が感じられるのは、過去の感性が僅かにでも生き延びているからか。今の感性から発せられたであろう音色を耳にした時に現れる強烈なリアリティ。なぜに人の好みは斯様に強く実在するのか、と。

ただのリスナーとして無責任な立場に居るなら「いいなー」とか「つまんないなー」とか言ってりゃいいのだが、例えば、わかりやすい例として、i_さんとヒカルさんの感性がズレてきたらその時はどうすりゃいいんだろうね。これ例っていうより本題か。i_さんに限らず、ここを読みに来るような熱心なヒカルファンの皆さんにとっても切実な問題かもしれないな。

心が離れるままに振る舞えばいい、と理想論をまずは告げよう。ファンでいる、なんて事に無理をする必要はない。興味が無くなれば去ればいいし、湧いてくればまた戻ってくりゃいい。それがファイナルアンサーであるとして、もう一方。ヒカルの音楽性はいまいちよくわからないけど宇多田ヒカルという人は大好きだ、という人が感じる寂しさを、どう受け止めればいい?

そしてその様な人こそ、誰よりもヒカルを長く見続ける。音楽性の変化が離れる理由にならないから。もっと言えば、離れる理由なんてどこにもない。ただ、常に、「曲はまぁよくわかんないんだけども」という寂しさはついてまわる。私から言わせて貰えばとんでもない強運である。誰しもヒカルの音楽の強さ無しには宇多田ヒカルに辿り着けなかった筈なのに、貴方はここに居る。選ばれたとしか思えない。ヒカルからしても、音楽性を好きに変えても変わらず応援してくれる人の存在は…最終的には、嬉しいハズだ。本当に、心強い。

その代償が寂しさ・疎外感・孤独感なのだとしたら、何とヒカルの本質を突いた"状態"なのだろうか。そして、ヒカルはそこから音楽を生むのである。そして相変わらず貴方は「曲はよくわかんないんだけども」と言いつつ、写真がかわいいとか呟きが面白いなどと言っては今日もヒカルの動向をチェックし、こんな所にまで上がり込む。どうぞいらっしゃい。ようこそ。

そんな私i_さんは両面待ちなので実はそんなに悩んでいない。音楽は素晴らしいし人としてはもっと素晴らしい。両方心から愛している。羨ましがってくれていいですよ。傲慢で御免な。

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22時過ぎて何か書くといつもヘロヘロだな(笑)。まなんもないよりいいだろ。

さて3月。「2月は逃げるとはよく言ったもので」から「3月は去ると申しまして候」に切り替わった。特に何という事はないがEPIC移籍1周年、かな? 『あなた』が20万ダウンロードを突破したようで、まずまず社内での位置は安泰、といったところだろうか。まぁ誰も疑ってなかったと思うけど。それに、チームごと引っ越したので「軒先を借りてる感覚」のまんまかもしれへんし。

実際、ユーザー体験(?)には何の変化もない。購入したCDの商品番号をみれば実感が湧くかと思っていたが、この1年、新曲は次々と発表されてもCDは1枚もリリースされていない。一応、THE BACK HORNとのコラボシングル「あなたが待ってる」はあったが、他社だし、一年以上前だ。6年半の間も桜流しだ初恋15周年だ宇多田ヒカルのうただと何だかんだフィジカルリリースがあったので、案外この間隔は珍しいというか「あれれ」という感じだ。

更にここから『Lonely One』に至っては"ストリーミング・オンリー"と来た。なりくんは別アーティストであるとはいえレーベルメイトで、もしかしたらプロモーションチームのメンバーも同じである。更にフィジカルから離れていく予想を立ててもおかしくはない。

"流れ"が"消費"以上の"flow"、いや"float"みたいな雰囲気を運んでくる。「ただ一切は過ぎていきます」と諦念にかられるのも悪くはないが、楔が欲しいと思うか、いや浮き流れても迷いやしないよ、と思うか。慣れだと言ってしまえばそれまでだが、歌は立ち止まって向き合って聴くといい。一緒に散歩するなら悪くないけど。ただ、声ばかり大きくて立ち止まって振り返ってくれたのにそこから言う事がない、というのも困る。何より、聴いて貰った後にまた"流れ"に戻るべきか否かもわからない。ついていけない、と思う度に案外待っていてくれるのは嬉しいけれど。

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