無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今夜放送のゲスト回では宇多田さんも飲んでるのか。それは朗報、と言い切っちゃっていいのかな。

酔っ払ったヒカルってそういえば知らない、かな? ヒカルと酒といえば前歯を折った話(歌手としては致命的な失敗なのに何で誰も咎めなかったのだろう。俺もだけど)とかを思い出す。皆で飲んでたら皆酔いつぶれてしまって朝方宇多田ヒカルと唐沢寿明だけが起きてた話とか。冷静に考えなくても凄いツーショットだ。

ヒカルは酒に強いイメージな為、0296君と飲んでいるからといってへべれけになっているのは想像しづらい。第一、我々は16歳17歳頃の"High Tension Hikki"をよくよく御存知なのである。あれって素面で酔っ払ってたようなもんでしょ。違う? それと比較してしまえば、34歳バツイチ子持ちの人妻が少々酔っ払ってたって、"たかが知れてる゛。まぁ安心して放送を聴けばいい。残念ながらヨーグリーナを貶してるくだりはカットだろうが。残念だな〜聴きたかったな〜(白々しい(笑))。…あ、嘘ですからね☆

ただ、またもやJ-waveでの放送というのが気に食わない。仕方ないのは重々承知の上でな。これが、六本木周辺の話ばかりする番組だったらわかるよ。ローカル過ぎるからローカルで放送する。わかりやすい。しかし、そうじゃあないんでしょう。いや、私も大人の事情は気の毒に思うし、ここまで来て漸くタイムフリーやRadikoプレミアムといった仕組みができつつあるのだから物事は望ましい方向に動いている。だからこそ歯痒い。

ってこんな事書いてる自分が住んでる場所は「受信できるFM局のうちいちばん入りやすい局がJ-wave」だったりして、なんか高みの見物みたいにみえてるかもしれないが、そんな事はないぞと言い訳をしておく。小さい頃首都圏のラジオが聴けなくて何度も悔しい思いをした。今夜もその悔しさを共有できるファンが何人も居そうだ。まぁ、大人の人は大人しくRadikoプレミアムやLISMO WAVEを利用してくださいね、と。


さて、ラジオまであと4時間ないのかな。きっちり起きておきたいので、しっかり仮眠をとっておきますかね〜





………朝まで寝落ちフラグ(笑)。

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需要と供給の一致は難しい。松本人志が昔「普段飢えてる子でも出された食事が多すぎたら残すっちゅうねん」みたいな事を言っていた気がするが、何事にも満腹というものがあり、一時的ではあれ「もう結構」というのは何にせよ有り得る。

人間活動期間最中はヒカルの情報が少なくて飢えていたが、昨年復活してからは「消化しきれない」情報が幾つもある。ずっと欲しい欲しいと言っていたのに何を贅沢な、と言われるかもしれないが一度に消化できる量には限りがあるのだ。

先日も「なんだよスペシャアプリってよ」と思ってる間にアワードが発表になってコメントが会場で流れテレビでもオンエアされ…正直「ついていけてねー」と思った。もっと貪欲になりなはれやというのもまた真実だが、いきなりだと頭が追いつかないだけなんですよ。

「情報の厳選」が今の時代に重要なのは「けものフレンズ」のヒットからもわかるが、我々のこども時代とは違い、情報は水道水同様「常に溢れているもの」だ。その中の何を選べば満足出来るのかを自分で探し出すのも大変なので誰か教えてくれ、というのが「現代の本音」である。

その意味で「マーケティング」の意味合いが情報の世界では変わってきている。よく「飢餓感を煽る」手法が話題になるが、今はこっちで得られなければすぐよそに移るだけだ。そこらへんを梶さんはよぉく心得ていて、巷に溢れる「!」を配るより「?」を仕掛ける企みに変えてきている。飢餓感を煽るというより寧ろ「新しい(空っぽの)胃袋を作る」のが今の時代のマーケティングである。煽るのではなく作る。もっといえば"罠を仕掛ける"。煽るのは空腹感ではなく能動性である。

知の基本は飢餓の消失であり且つ飢餓の創出である。1を知りたいと思い1を得たら同時に10の知らないを得る。その10を知ったらそれぞれの1がまた新しい10の知らないを連れてきて…と連鎖に終わりがない。平たくいえばそれが創造であり宇宙だ。途切れるかどうかは誰もわからないが、誰もそれが明日明後日や数億年後に途切れるとも思っていない。知の空腹は空腹をもって埋められ続ける。

しかし、音楽が与えるのは本来充足であり満足であり満腹である。どんなに素晴らしいコンサートも24時間聴かされ続けたら飽きる。知的でないと言われればそれまでだし、またインターバルをあければ欲しくもなるのだが取り敢えずその日は満足をする。その為が音楽である。マーケティング的には「いつまで経っても歌が聴けない」というのが正解になるが勿論これは誤謬であって、我々はどこかで間違っている。その間違いを埋める方法についてはまた次回のお楽しみに…して大丈夫かお前?(笑)

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ラジオもう明日なのか。早いな。OBLRNRAK君の事何も知らないので、いい機会ではある。3週に分けれるほどヒカルと沢山話せただなんて羨ましい(直球)。

曲として『ともだち』の話は出るだろうか。トラックのオンエアはあるかもしれないけれども。ただ選曲はダヌパらしいので、その点はまぁ。そいやテレビでドラマ「ラスト・フレンズ」の再放送やってるんだって? 君は暴力が得意なフレンズなんだね!すごーい!だなんてサーバルちゃん口が裂けても言いません。けものフレンズは第9話までオンエアされたと。皆いろんな"ともだち"なんだな、って書くとやっぱり浦澤直樹の「二十一世紀少年」を思い出してしまうわ。

最初「ともだち」っていうから『Making Love』みたいに仲のいい人との事を歌ったのかと思いきや、『ともだちにはなれない』だもんなぁ。タイトル全否定みたいなもんだよ。これ、『真夏の通り雨』も同じで、タイトルから悲しみの涙雨はすぐ止むのかと思いきや『降り止まぬ 真夏の通り雨』ときたもんだ。通り雨、なのに止まないという絶望感。一方『ともだち』の『にはなれない』はグッと堪える切望感だ。『真夏の通り雨』は、従って、音像も重みのあるものになっていて、『ともだち』は抑えてカラッとした質感に仕上げている。しかし本音のところは違うのですよ、と。

タイトルが「ともだち」なのに、驚くほど「ともだち」というものについて歌っていない。そこらへんのところを、ヒカルが0296君と突っ込んだ話をしてくれていたら面白いんだが、両方酔っ払っていたら無理か。てか何故飲んだんだナリアキ(笑)。

という感じで、というと何のこっちゃわからないが、取り敢えずラジオ出演が楽しみだ。各オフィシャルは、ここぞとばかりに収録時の写真をアップするのですよ。宜しくお願い致します。

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スペシャアワでは2部門とったという事でコメント2種が流れたようだが、これは最初ったから地上波の情報番組で流されるのを想定して?だったのだろうか。それともスペースシャワー限定のつもりで喋ったのだろうか。それで受け止め方が結構…そんなに違わないか。

計画、と言われたらLIVEしか思い浮かばない訳で、他の何かだったらガッカリする人続出だわ。思わせぶりな言い方をしても、今はネットで先走った憶測の方が大きく拡散してしまう。たった今それに荷担した訳だが、今回みたいに動画が出回れば多少は抑止力になるだろう。…いや、1分もあるのか。観ずに憶測を書き写す方がラクかなぁ。

しかし、エルミタージュ以外何もないだろうと思っていた3月にここまで続々と情報が供給されるとは嬉しい悲鳴を上げ続けざるを得ない。ほんと、どうなっているの。そんなにユニバーサルが退屈…、いや、そこでは自由に振る舞えなかったと、いうことかな。今自由を謳歌満喫できているのなら、よい事だ。

一転攻勢、だなんて書くとニューアルバムを出してまだ半年も経っていないアーティストに対しては不似合いなんだが、まるでこの一年が"助走・序章に過ぎなかった"かのようなエンジンのアイドリングを感じる。小出しにしておいてこんな感じでは一体4月からはどうなるのやら。兎に角、健康にだけは気をつけて頑張って欲しいものであります。

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「今のヒカルはあしたのジョーでいえば2だ」とは自分で言ってて示唆に富んでいるなぁと思うのだけど話は広げない事にしよう。今はそういう雰囲気じゃない。


では、ちらっと『俺の彼女』の話でも。


『俺の彼女』の肝はその二重構造にある。特徴的なのは、何と何に跨って二重なのかにバリエーションがある事だ。

この歌でヒカルは男役と女役を演じている。そして歌詞の中で女の子は男の好みの女の子を演じていて男はステロタイプな男子を演じている。ここには芝居の二重構造がある。

『からだよりずっとおくにさわりたい』と女の子は言う、という状況をヒカルが演じて歌っているが、この歌によってヒカルはリスナーの"からだよりずっとおくにさわる"事ができる。それがまるで我々の隠れた欲望であるかのように。芝居を通じて、ヒカルは歌っている今何をしているのかを述べる。歌詞の内容と状況と我々の現実、つまり、歌の中の(架空の)世界と歌を聴いている我々の(現実の)世界が交わり重なる。それもまた二重構造であり且つ多層構造だ。

男は『望みは現状維持』と言う。ヒカルはそれを演じそう歌っている。楽曲は最終盤、『俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい』と歌ってカットアウトする。これは楽曲冒頭と同じ歌詞である。即ち、5分以上の楽曲を通じてそれぞれの心境は吐露されたが、結局何も変わらなかった。以前と同じままである。男の望みは叶えられた。現状維持である。つまり、歌詞が楽曲の構造に言及しているのだがそれは登場人物の願望の吐露を通じて、なのだ。歌詞の内容と楽曲の構造が互いに言及し合っている。これもまた二重構造だ。


何を言っているのかわからなくても結構。この歌が、そんじょそこらの一流ミュージシャンには到底達成できないとんでもない複雑な二重構造、多層性を持っているのだと朧気にも感じてうただければ十分である。もう誰も敵わないだろう、日本語歌詞の使い手としては。ノーベル賞ですらそのうち間に合わなくなるだろうな…。

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スペシャアワードで2部門受賞、という事でそれはめでたいなぁ、と思ってみたら何とコメント出演ですか。それも新しい髪型で。全くノーマークだったでわないですか。いやはや。にしても、レコード大賞のコメント出演は完全に「ついで」で収録されていたというのにこの落差。いや勿論今回も何かのついででコメント収録したのだろうしたまたまスペシャアワードのタイミングが早くて結果的にニューアピアランス初披露になってしまっただけなのだろうが、視聴者からすると「Hikkiはレコ大よりスペシャの方が重要なのね…」って解釈するしかないわけでな。いや事実そうかもしれんけど。元々地上波テレビ出演より先にCS放送に登場していたんだし、デビュー以来スタンスに変化無しというね、そんな風に捉えちゃうよね。

アウォード自体は勝手に催されているだけなので偶然でしかないのだが、俄かに「Hikkiがまた動き出した」と感じさせるアウトプットが続いている。ベリーショートとはいかないが、随分とまぁ短めの髪になったもんだ。減ったって感じ。あの様子だともう新しいフォトセッションに入ってるかもわからんね。アクティブなイメージを持たせる春らしい一枚を撮っているのだろうか。年度が始まったら早速新曲情報、みたいな流れがあるのかな。いや先走り過ぎだぞ手前。

先日のインスタグラムもそうなのだが、なんとなくヒカルの周りを取り囲む空気の「クォリティーが高い」。こういうのはのんびりした私生活からは出てこない。幾ら籍が移ったとはいえスタッフの皆さんももう少しの間は準備期間、お引越や引継があるのかもしれないし、バタバタと次の仕事が始まってしまうよりは、皆で足並み揃えてスタートがよろしかろ。

実際、ややこしいんだよね。「もう直接何もすることはない」、というのならエルミタージュ美術館展に『人魚』を提供した件も大体忘れていいんだろうし、なぜか今のタイミングでほどほど再配信するし。ユニバーサルでの仕事なのにね。

もしかしたら今日もまた新しい動きがあるかもしれないし、暫くは素直に待っていましょうか。

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移籍に関して、さらっと書いてあったがいちばん気になったのは「年内に新作を発表予定」、これである。どこまで本気なのだろうか。

新曲を発表、ならまだわかる。しかし、「新作」という風に書かれてしまうとどうしたってニュー・フル・アルバムなのかと色めき立ってしまう。罪作りな表現である。だってまだ『Fantome』から半年経っていないのだぜ…。

しかし、過去のHikaruはほぼインターバル一年で新作を出した事が二度ある。2ndアルバム『Distance』は2001年3月末の発売で、3rdアルバム『DEEP RIVER』は2002年6月の中旬だった。約15ヶ月弱であれだけの力作を作ったのだから、いやはや、言葉を失う。

もう一回の方は更に極端だ。5thアルバム『HEART STATION』の発売が2008年3月下旬、UTADAの2ndアルバム『This Is The One』が2009年3月の中旬だった。何と一年かかっていないのだ。更にこの時は『点』と『線』の編集まで携わっていたのだ。正気の沙汰ではなかった。狂気だった。我々は爆速で新譜が聴けて驚喜乱舞してはいたが。

後者の場合、2007年の時点でヒカルが『日本語のアルバムと英語のアルバムを同時に作っているようなもの』と言っていた位だから少々特殊な事例といえるが、兎にも角にもヒカルがその気になったらインターバル一年で一枚のアルバムを出し本を二冊出すくらいのパワーを発揮するのだ。今回、『Fantome』の大好評を追い風にもう一枚アルバムを作ったとしても驚くにはあたらない。SONYも本気で正気なのかもしれん。

しかし、仮に例えばちょうど一年後に新譜を出す(例えば、2017年9月末に、ね)とするなら、そろそろ新曲のアナウンスがあってもいい頃、となってしまう。昨年の『花束を君に』を想起。いいのか。いいのかそれで。何だか我々、6年も待ったからか、待たされない事に慣れられていない気がする。「え、もう」と言いながら新曲を迎えてしまう事態。なんだかそういうのもちゃんと受け止められるように心境の準備をしておかないといけないかもね。嗚呼、何て贅沢な時間なんでしょ。

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へぇ、@hikki_staff がアイコン変えたのか…ってこれ何て読むの?(きょとん) 最初っから「ERJ」にしておけば「EMI RECORDS JAPAN」から「EPIC RECORDS JAPAN」で、アイコン変更せずに済んでたんだけどなぁ、なんて今頃言っても後の祭りか。少なくともこのアイコンを作った時点ではお引越は考えてなかったんだろうね(そりゃそうだ)。

『30代はほどほど。』の再配信が始まって、相変わらず海外からはアクセスできずUBlogの中の人が憤慨してはったが、確かにGyao!との仕事ってなどう解釈したらいいかようわからん。全体的にぎこちない。そこらへんは梶さんも、VEVOの利用などが後手にまわった事からも、最初は余り意識していなかった模様で、その感覚の延長線上と思っておいた方がいいか。

国際展開だなんて、最初っから計画的とは限らない。今や主戦場が「世界」のBABYMETALだって結成当初は「アイドルユニット内ユニット」でしかなく、世界どころか全国展開だって夢みたいなもんだったろうに。やってるうちにこうなった。それ以上でもそれ以下でもない。

UTADAはその点最初っから大型契約だったから巨大プロジェクトかと思われたが、いやはや、A&Rの差がこうも出るかね。結局、我々のようなファンですら実際に仕事したA&Rが誰だったか認識しないまま今に至っているという事実が総てを(は大袈裟にしろ)物語っている。

梶さんも、『光 Ray Of Hope Mix』の"実験"を通してそこらへんの肌感覚を掴もうとしているところだろう。お子さんも小さく、単身赴任もどうかと思うので(?)国内で活躍されるとは思うものの、他国や本社のEPICのA&Rとの連携方法を模索する段階は避けて通って欲しくない。

と言っても、果たしてどんな方法があるのやら。Utada Hikaruの場合Epic Japanが"本社"として機能せねばならないが、そんなの可能なのかね。あんなデカい企業の体系なんて知ったこっちゃないし、実際確立されてもそれがこちらに知られる事もなさそうだから考えても仕方のない話だったりしますが。

でも、例えばアイマスなんかを見ていると(見てるんかい)、昨今のA&Rは顔を出せとは言わないまでも、ファンに名前を覚えて貰う位の露出があった方がいいのかもしれない。タブロイドにK氏だのO氏だのと書かれて「暗躍する連中」と思われるのは損だ。ああいう記事は、梶さんや沖田さんを知ってる人間からすれば笑い話でしかないが、知らない人間にとってはそうではない。皆から嫌われているジャスラックだってひとりひとりに会えばまじめに働く人たちばかりかもしれない、というかまず間違いなくそうだろう。

ヒカルのようにファンクラブを持たないミュージシャンの場合、確かに裏方が顔を出し過ぎるのもでしゃばりと謗られるリスクがあるのだけれど、そこにどんな人が関わっているか知るだけで安心感は桁違いだ。タブロイドの記事が出回るやいなやお二方のインタビューがカウンター気味に入ったのはとてもよかった。あれ位の攻めの姿勢で丁度いい。今や、お引越まで一緒になって、"team utada"という認識はこれまで以上に広まる筈だからね。

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「ユニバーサルとどこまで友好的に別れられたか」なんて非業界人のこちらは知る由もないが、外から見た流れというものはある。

こちらが概略として解釈しているのは次のようなものだろう。元々ヒカルはEMIから離れるつもりはなかった。人間活動宣言をしてアーティスト活動を休止しますよと言うや否やEMIと世界契約を結んだ。それはつまり、(2010年の時点では)いつになるかはわからないが、必ず復帰しますよという強烈なメッセージだった。そこに付随して「で、復帰した時も相変わらずEMIと仕事をするつもりでいますよ」という意味も持たせていた。

その心づもりを変化させた案件が、ユニバーサル・ミュージック・グループによるEMIの買収だった。形式上、親会社が変わっただけでEMIというレーベル自体はほぼまるごと存続になった。ダイエー・ホークスがソフトバンク・ホークスに変わっても選手が同じだったように。

しかし、やはりここで何らかの居心地の悪さがあったのだろう、でなければわざわざ契約の更新を断る筈がない。いやそもそも複数枚の契約でなかった事に吃驚だけど。結局、誰が言い始めたかは不明だが、「皆で引っ越そうよ」という事になり今に至る、と。元々現在でも主だった楽曲の出版権管理はソニー・ミュージック・パブリッシングに委託しているし、EPICのトップはLAリードだしで移籍先がSONYに決まったのはかなり必然的な流れだったように思われる。というより、世界規模のメジャー・レーベルって今やユニバーサル、ワーナー、ソニーの3つしかなく、ユニバーサルを出るんだったらワーナーとソニーの二択になるのだ。結局どっちかを選ぶだけであり、縁のある人々がソニーに居たという事だろう。

今のヒカルは海外に多数のファンを抱えている。創作自体には妥協しないだろうが、こと出来上がった音楽を届けるに際して国籍によって有利不利が出るとかいちばんヒカルにとって屈辱的な事なのではないか。メジャーレーベルと契約するのが、絶対である。いやインディーズでも国際的に強いレーベルならいいんですが、日本でだけ強い、というレコード会社はパスだろう。如何にキングレコード(後株ですっ!)が業績好調でもヒカルが移籍先に選ぶような事はない、と言い切れる訳である。


…というのが、こちらからみた概略である。物事の順序はわからないが、ストーリーとしては納得のいくものだ。不可解なのは、何年経ってもヒカルに忌避され続けるユニバーサルという会社の体質なのだが、あんまりにも図体がバカデカすぎて末端まで神経が行き届いていないのかもしれない。なるほど、ならば移籍した方がいい。

ここからはEMIの事は過去として、SONYと今と未来をみる事になる。特に新しい登場人物が出てくる訳ではないだろうから日本国内では変化がないかもしれないが、国際展開が激変すれば、ウォッチャーとしては面白くなる。2004年や2009年を振り返りつつ、追々予想を立てていきましょーかねっ。

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「あなたが待ってる」のプロデュースの話より、『忘却』のMV販売の話より、スタッフの移籍の話より昨夜のヒカルの連ツイの方が「おぉ、動き出したな」感が強いのは何故なんだぜ。昔はこの役割を『Message from Hikki』が担っていたんだが、まぁいいか。

インスタグラムに上げられた写真は左が「80年代や90年代のヒップホップってこんなポーズで写真撮ってたよね」という雑誌の表紙で、右がヒカルによる「80年代や90年のJ-ポップってこんなポーズで写真撮ってたよね」というパロディだ。きっちりしたフォントを持ってきてて雑コラ感がないのは写真の解像度が低いせいなのか何なのかよくわからないが、手に持っているものが意味ありげだ。遠目にもわかる「SONY」の4文字。ヒカルなりの「お引越しますた」という挨拶代わりなのだろう。

しかし、その"手に持っているもの"が何なのか判然としない。タブレットなのかフォトフレームなのかはたまた裏表紙にSONYの広告を入れた雑誌なのか。ヒカルとしてはSONYの4文字が入っていれば何でもよかったのか或いは何か新製品のCMに出演する予定があるのか…。「この豆腐の白は現代の不安を象徴していますね」「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」というやりとりが思い浮かぶわ。(←お前が雑コラやんけ)

その昔、UTADAというワンワードネームにしたのは「SONYとかHONDAとかみたいな」ジャパニーズ・ブランドのイメージもあったというくらいだから、「SONYのUTADA」という組み合わせは非常にキャッチーに響く。アーティスト名は、特に国内では宇多田ヒカルで変わりないと思うし、Utada Hikaruという名前も『光 Ray Of Hope Mix』のヒットで全米でも通用するようになった為果たして"UTADA"という5文字がまた使われるかというと微妙に揺れ動くところだ。

私としてはシンプルに「UTADAの3rdアルバムが聴きたい」という願望があるし、Hikaruとしても全力で2枚のフルアルバムを作ったという自負があるだろう。しかし、UTADAという5文字を優先的に使用できるのは誰なのかという問題もある。こうなると著作権より商標権の話になるが。Webで登録調べられるのかな。

ここらへんはユニバーサルとどこまで友好に別れられたかが鍵になる。どういった理由で移籍を決断したかはわからないが、ファン側からすると『Utada The Best』みたいなのはもう懲り懲りなので出来るだけ穏便に済ませて欲しいのですよ。

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昨夜スペシャアプリで放送された『30代はほどほど。』メイキング映像が大変よろしかったらしい。観れなかった私は激しく嫉妬中である。

「あなたが待ってる」の時も突っ込んだが、どうしてDVDにメイキングを入れないのだ。CDについてるDVDはただの付録だとはわかっている(わりに容量はCDの何倍もあるんだが)けれども、今時ミュージックビデオなんてYouTubeで観るもの(観れるもの、とは言ってない)だと相場が決まってしまっている訳で、そんなのだけつけてファンを釣れるのかとな。

熱心なファンほど本編よりメイキングを欲しがる。理由は明白で、ミュージックビデオは大体において自分が好きなミュージシャンの作品ではなく、名前もよくわからないどこぞの映像監督の作品だからだ。そのミュージシャンが映っていなければ殆ど用はない。というか、アピールすべき層が違うだろう。

ヒカルに対してそういうニーズが分厚いとも思わない。今更34歳のおばちゃんがなんかしてるからって気になるようなヤtうるせぇ、気になるんだよっ!何歳になろうがヒカルはずっと6歳年下の女の子なんだよっ!(私にとっては)

という訳で、特に『30代はほどほど。』はメイキングをメインにしてDVD化を希望。メイキングって別に新規に映像を撮影する訳ではないよね。編集だけだよね。こんなにコストがかからずにファンを大量に(でもないか、特に宇多田ヒカルの場合はミュージシャンとしてみられてるし)釣れるコンテンツはそうそうないよ。

舞台裏に興味がある、というのもなくはないが、十何年もファンをやっている人間は素のヒカルが観たいのだ。憧れとか歌が上手いとか皆いろんな感情があるだろうが、圧倒的第一位の感情は「ともだちになって話を聴いて欲しい/話を聴きたい」だと思う。ともだち感覚を覚える為には、歌う前で緊張気味のテレビのフリートークより、居慣れたスタジオでの自然な振る舞いが欲しい。そりゃそうなる。

それこそ、初回限定盤と称して高い金ふんだくってくれんかな。その分通常盤の値段をぐんと安くして還元しよう。本来の意味での「限定」を取り戻そう。みんな初回限定盤ばかり買うものだから市場的には常に通常盤の方がレア度が高いという本末転倒になっている。それなら、1500円で済むところを3000円とか5000円くらいとって、何の工夫もなく延々普段のヒカルをシューティングしただけの芸のないDVDをつけて欲しい。こちとら即購入決定だ。

どうしたって昨年一年は「復活」の合い言葉とともに、いろんな人がヒカルに重さを背負わせた。息苦しかったとまではいかないけれど、更にリラックスした表情をもっと観たいと思い始める欲張りぶりが今こちらにはある。それにのっかって搾取してはくれまいか。ほんに色々と勿体無い。『30代はほどほど。』本編は、再配信でも如実にわかるとおり、配信の不具合でどこかぎこちない、緊張した空気が画面から漂ってくる。そのなかで緩い空気を守りきったヒカルは偉大だったが、なぜあんな楽しくなる筈の配信でヒカルが謝らなければならなかったのかが腑に落ちn(以下書き過ぎて疲れたくらい書いた事なので省略)。

メイキングなら、まだスタジオに緩い空気が流れていた事だろう。嗚呼、観たい。自然な流れで笑い転げるヒカルが。そういえば今でもスタジオの床をゴロゴロ転がっているのだろうか。それの撮影に成功していたならメイキング撮影班は賞状トロフィー金一封トリプル授与モノのファインプレーなのだが…撮ってない?(誰に訊いてんだよ)

まぁなんというか自分でも自分が本当に気持ち悪いが、そういう本音に触れると財布の紐ってあって無きが如くになるよね。せっかくSONYに移ったんだし、もっともっと商売に貪欲になっていいんじゃないかなーっ?w

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え、なんですって、obkrクンのラジオ番組に3週連続出演!? ひぇぇ、寝耳に水。

J-waveってまぁお馴染みとはいえローカルだな。ついこの間全国101局ネットの番組を放送した人の、この落差。内容にも落差が生じるだろうか。

ラジコプレミアムに入ってる人ってどれくらい居るのだろう? 金額より手続きが面倒で忌避している、という人は多そうだ。これを機会に如何かな。よく知らないが、タイムフリーも使えるならまさに全国のラジオが聴き放題になる。なお、総ての番組に対応している訳ではない。この間も山下達郎が「夜の珍盤奇盤特集」のタイムシフト聴取を断っていた。確認が必要だ。

日程は3月10日金曜日の深夜から3週連続で。3月10日といえば『First Love』発売18周年記念日だ。ヒカルがそんな事覚えているかどうか。ラジオブースでの撮影写真も掲載されているようだし、既に収録は終えているのだろう。このあと3週間で不適切になる選曲が出てこない事を祈ろう。不自然な差し替えはヨーグリーナだけで十分である。

それにしても、え、なんですか、息子の選曲??? 『ぼくはくま』とかやっちゃうのかな。それともBBCのこども向け番組の主題歌が流れてリスナーが皆ポカーンとなるのも面白いけど。てか今何歳何ヶ月だダヌパは。

そして。2人のカラオケタイムがあってハモっちゃったりするですと!? ラジオで独自音源振り撒くなんて久々じゃない? 『20代はイケイケ!』の井上陽水とヴァネッサ・ウィリアムス以来じゃなかろうか。あ、「Part Of Your World」もあったか。「Boulevard Of Broken Dreams」とか。いずれにせよフルコーラスとなると「いとしのエリー」以来とかなんかそんな話になってこないか。派手な話である。OBちゃんぐっちょぶと言うしかない。いやでもそれならまた『ともだち』もやって欲しいけどね。

い・ず・れ・に・しても、30分番組という事でスペシャル版扱いでフル出演してくれれば90分の新しい音源が手に入るんだぜ。テンション上がってしまうわ。3DVRと違ってRadikoはアクセス過多で接続不能とかないから安心だ。関東民は普通にラジオで聴けるから更に安心。いやはや、へんちくりんなタイミングで「SONYでの初仕事」が転がり込んできたな。しかし中身は「ユニバーサルでの最後の仕事」という背徳感。「26歳唯一のLIVE」とかに通じる特別感ですな。来週の金曜日夜を手ぐすね引いて待ち構える事にしようぜw

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チャック・ベリーの事を持ち上げまくっているが、60年前、想像するに、R&R(ロックンロール)が勃興した時代は随分と馬鹿にされていたのではないかとな。

R&Rは、ブルーズをベースにしながら全くブルーズらしくない所が特徴だ。同じようなコード進行を持ちながらbluesと言った時の憂いや味わいがまるでなく、まるでお祭りのような音楽になった。古典的なブルーズを信奉する伝統的なミュージシャンたちは、さぞかしR&Rを"破壊的"いや"破戒的"だと感じた事だろう。

もっとも、急に50年代にR&Rが突然変異的に現れたのではなく、30年代40年代に"リズム&ブルーズ"と呼ばれるジャンルが隆盛し、その頃の音楽は既にR&Rと言ってもさしつかえない、アッパーで陽気でエネルギッシュな"ブルーズ"が演奏されるようになっていた。ある意味、50年代のR&Rの大ヒットは、短期間であったが、歴史的必然であったのだ。

この頃"リズム&ブルーズ"と呼ばれていた音楽はその後ゴスペルやジャズといったジャンルとつかずはなれず交わりながら60年代頃には"R&B"と呼ばれるようになっていく。元々"Rhythm & Blues"の略なのだが、最早それは"アール・アンド・ビー"という新しい音楽ジャンルとなっていた。

R&Bは昔のリズム&ブルーズに較べても随分都会的に洗練され、70年代にかけて"ソウル・ミュージック"の中心部を担うようになる。これ以降、ブラック・ミュージック(うわぁ、昭和な響きだぜ(笑))のメインはソウル、そしてヒップホップへと移っていく。アレサ・フランクリンが60年代以降"クイーン・オブ・ソウル"と呼ばれ、90年代にはメアリーJ.ブライジが"クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウル"と呼ばれたのは、それぞれの時代背景があっての事だ。


宇多田ヒカルの元々の歌唱スタイルは、この、R&B/ソウルと呼ばれるものだ。曲作りのスタイルは、対照的に、R&B/ソウルに全く囚われないジャンルレスなものとなっていったが、歌い方の基本は、なんだかんだで"アール・アンド・ビー"のそれである。少なくとも英語の歌は。

ヒカルの声質は、なぜかどこか暗い。その意味で本当に母上様そっくりなのだが、お陰でなのかなんなのか、明るい歌を歌っていてもどこか陰がある。そう考えると『ぼくはくま』の歌い方の明るさは極めてテクニカルだな。『ママ』の一言で総てがバレてしまうのだが。

この『ママ』、いや、母上藤圭子様の歌声はしばしば「bluesy」と形容される。ヒカルがその声質を継承しているとするとその歌声には、R&Rの倍の長さの歴史があるブルーズ(blues)の魂(soul)が宿っているともいえる。ヒカルの歌い方は早熟な83年生まれらしい、90年代初頭に活躍したソウル・シンガーのそれがベースになっている一方、日本語の歌を究めていく過程で母・藤圭子の歌唱が、そうだな、なんて言おうか、そう、"立ちはだかる"ようになった。

藤圭子といえば演歌の歌姫の代表的な存在である。一方、強烈にその"演歌の世界"に対する愛憎がせめぎあっていた。ヒカルが歌を歌うのは嬉しいが演歌を歌うのは嬉しくない、人生が不幸になると説きヒカルを演歌から遠ざけたが、一方のヒカルは母を尊敬するあまりカラオケで「面影平野」を披露するなど母へのリスペクトを隠さない。結局それはまた演歌に接近する事でもある。皮肉だね。


演歌は「日本のブルーズ」とも言われるジャンルだが、歴史はそこまで古くない。現存する歌手のレパートリーがあれば歴代の演歌のヒット曲の7割くらいはカバーできるのではないか。着物等を着て歌うものだから日本の心云々言われるが、その演奏形態をみればわかる通り、サウンド自体は輸入音楽の継ぎ接ぎである。それで何の問題もないのだが、それを"日本の伝統"だなんて言うからおかしくなる。

ヒカルなら、しかし、継ぎ接ぎでなく、日本語そのものに根ざした日本語の歌を作り歌えるようになるかもしれない。一方で、英語の歌においてはしっかりとブルーズの伝統(こちらは正真正銘だ)に則った歌い方ができる。演歌との距離感、ブルーズ/R&B/ソウルの経験。どちらも兼ね備えているとなると美空ひばり以来、それを自作するとなると勿論前代未聞である。


話が長くなっているが、主旨は伝わり始めているだろうか。珍しく、歴史の中での歌手・宇多田ヒカルの立ち位置について語っている。ヒカルなら、「演歌ではない日本のブルーズ」を歌える。それが結論であり、話のスタートだ。ヒカルが人間活動中にどれだけ日本語の歌のルーツを調べられたかが鍵である。熊野まで赴いて何を見聞きし、何を閃いたのか。そこを知る事で次の流れが…見えてくるまではしないまでも、見えてきた時に理解できる下地は育まれよう。

育ってきたヒップホップ/ソウルからR&Bを手繰ってブルーズを引き寄せる。母を通して、演歌を歌いながら日本語でのブルーズに近づいていく。恐らく、多くの人々にとってヒカルの英語の歌と日本語の歌はかなり別々のものだろうが、しっかりと地に足をつけてそれぞれのルーツを辿っていくと、100年以上の歴史の中で最も伝統的で、且つどこでも聴いた事のない異様にオリジナルな歌をヒカルが(今後)歌う必然性がみえてくる。まだまだ朧気だが、母と向き合った『Fantome』はその先駆けである。この意識的なチャレンジはまだ始まったばかり。ヒカルが「私、ママよりいい歌を歌えるようになったよ」とヒカルが言う瞬間は未来永劫訪れないかもしれないが、それ位を目指して欲しいものである。

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よく1日で音楽を聴き過ぎて感覚が麻痺してくる事があるのだが(あるある…なのか?)、そういう時にリセットと称して聴き直すアーティストというのがある。自分にとってはチャック・ベリーがそのうちの一人だ。

麻痺、というと大袈裟なのだが、文章を読み過ぎるとゲシュタルト崩壊というのが起こるが、それがリスニングにも起こると思って貰えれば。「ちょっと何言ってるかわからないんですけど」状態になる。

そんな時でも、チャックを聴いていると途端に楽しくなってくるから困る。リセット力は非常に高い。それ位音楽的な基本がしっかりしている…というか、基本そのもねだからな。ジョン・レノンが「ロックンロールに別名をつけるとすればチャック・ベリーだ」と発言したが、もうそれ位にこのチンピラ親父がギターを弾いて歌えば即ちロックンロールになる。なんかもう凄いを通り越して呆れる。そして笑うしかない。

もしジョン・レノンが生きていたら、どんな小さなクラブだろうが喜んでチャックのLIVEのオープニング・アクトを勤めるだろう。この間も冗談で言っていたのだが、全世界でスタジアムをあっさりソールドアウトにするような、ロックフェスを開催して百のバンドを呼ぶよりそのバンドひとつ呼んだ方が手っ取り早いような、ビッグ中のビッグなバンド、ポール・マッカートニーやザ・ローリング・ストーンズがもし仮に今現役のミュージシャンの前座を務めてもいいと言えるとすれば、もう恐らくこのチャック・ベリーをおいて他に居ないのではないか。歴史的な偉大さでいえばそれくらいにグレイトなのがチャックである。エアロスミスが解散ツアーかと言ってるのなんて彼からしたら孫がダダこねてストリートでのたうちまわっているようなものだろう。

しかし、実際のこのおっさんは、いや俺も実物みた事ないから結局は知らないんだけど、とにかくただの小物、チンピラなのだ。ロックンロールのオリジネーターと呼ばれているが、多分当時は「なんか流行ってる音楽があるから試しにやってみた」程度だったに違いない、と私なんかは思う。それがやってみたらそれこそ天性の感覚がロックンロールにジャスト・フィットしてしまったというか。歴史的経緯なんて吹っ飛ばして、このおっさんの生きてるリズムがロックンロールそのものというか。こんなにも音楽性が一人の人間の「生きる」を体現する事があるのかと。歌も別にうまくはないしパワーもない。ギターなんか添え物だ。昔からちゃんとした演奏はサイド・ギタリスト任せなんだから。なのに、このおっさんが出てこなかったら20世紀後半の音楽市場はまるで違ったものになっていたのだから怖い。売上は大した事ない(全盛期に全米1位をとってない)くせに、その影響力たるや桁外れなのだ。いやはや、偉大なチンピラである。


…あれ?なんでこんな話になったんだっけか…嗚呼、3月1日で色々と状況がリセットされたから、じゃあチャック・ベリーでも聴きますかとなって聴いてみたら相変わらず楽しかったので。他意はない。本当にただそれだけですじゃ(笑)。

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おぉ、梶さん沖田さんも3月1日付でSONY/EPICにお引越か。人事異動情報が無かった、という事はお二人の後任は無し、と。部長クラスが2人消えて後任不在ならつまりひとつのプロモーション体制・チームが消滅した、とみるのが妥当かな。

ちょっとそこらへんは微妙な所で、お二人が完全に"宇多田専属"のA&R/Directorだったのなら「チーム・ウタダ」が消えたという事で何の問題も無いのだが、実態はそうではなかっただろう。でないと6年間何してたんだとなる。

となると、ヒカル以外の担当アーティストに関しては、他のチームに引き継いで貰えたか、或いは契約を更新せず、次はEPICとの交渉に入る、などする腹積もりなのかもしれない。これは個別の案件で、立ち入る気もサラサラないんだが、動きが甚だしすぎるとEMI/VirginというレーベルごとSONYに移籍する感じになる。ちょっとそこまでは考えづらいか。ユニバーサルが怒る案件になってしまいそう。

兎に角これで、ヒカル照實梶沖田ラインは一蓮托生となった。三宅さんは既に自由人だけれど勿論ここに飛び込んでくる。何しろ『Fantome』の共同プロデューサーだからね。ヒカルの制作における最重要人物だ。そろそろ彼の情報も欲しい、かな。

おっとっと、この話題は止めるんだっけか。一応、新情報という事でひとつ。


これでここからのスケジュールが見えてくる、かな。極端な話皆所属が変わっただけで、仕事内容は全員継続だろう。ただ、本格的な全国・全世界ツアーはすぐにはなく、まずはSONY/EPICでのリリース実績を作って、という事になりそうだ。レコード会社は所属アーティストのツアーには主催・後援・協賛…まぁどれでもいいんだけど、かなりの割合で出資をする。であれば、ツアーに伴って自社の商品が売れて貰わないと意味が無い訳でして。ヒカルも、ツアー前までに"SONYとして売る商品"をある程度揃えておかねばなるまいて。

もし原盤権をヒカルと照實さんが今持っているなら(その場合Utada時代の音源はどうなっているか気になって仕方がないんだけれども)、バックカタログを再編纂してSONYからリリースしてもいいんだけど、「新しい音源が入っていない」という理由(あと発売日な)で『Utada The Best』を叩いた人だ、そりゃあ新曲・新作をリリースしてくるでしょうて。うーん、じゃあくまちゃんUSBはあれでよかったのかよと言いたくなりますが。ちな!みに2つ買いました。

3月1日付で皆移籍という事は、すーさんの仰る通り新年度一発目から本格始動という予定だろう。あと半月くらいは前の会社の引継作業が残っているかもしれない。そこらへんは、いつ誰がこのお引っ越しを最初に言ったかにかかっているので、何とも言えない。『人魚』(出版はちゃっかり日テレだったりする)エルミタージュ美術館展が始まる頃には何らかの情報が解禁されている可能性がある。引き続き注視していきましょうぞ。

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