無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「けものフレンズ」第11話がなぜ「衝撃的な展開」と言われているのか、冷静になって考えてみたいと思う。

ストーリーのプロットとしては、別段新奇なものがあるとは思えない。大体、どの1クールアニメも第11話あたりは強大な敵が出てきて主人公たちがピンチに陥るものだ。「まさかそんな展開になるとは」という意外性によって"衝撃的"と言われている訳ではない。

敵として扱われるセルリアンの"脅威の度合い"については、視聴者の中でも予想に幅があった、という事はありえる。もっと穏やかな状況で相対するんじゃないか、という予想というか心づもりをしていた人もおられよう。そういう方々にとってはやや"脅威の度合い"がどぎつすぎたかも、わからない。

とはいえ、そういう人たちにとっても、今のセルリアンの"脅威の度合い"が、最初の登場の時の怖さからして不自然な域にまで来ているかと問われれば「言われてみたらそんな事もないな」となるのではないか。セルリアンは、少々スケールは小さめながら、最初の登場時から不気味で不穏で怖い存在だった。その延長線上に第11話はあったとみても、不自然とは言えないんじゃないかなと。

基本的に、おおざっぱな展開として、どこかでセルリアンと真正面から対峙しなければいけない場面が来るというのは序盤から"期待"されていた事だった、とそう言いたい訳である。

思うに、こういう、石鹸枠と変わらない"ベタな展開"に皆が"衝撃的"と言うのは、展開の意外さや新奇性に原因があるのではなく、「視聴者がかばんちゃんやサーバルちゃんに感情移入しているから」なのではないか。

「何を当たり前の事を」と言われそうだが、最近の深夜アニメがいちばん不得意だったのがこれなのだ。皆目が肥えてしまって、こういう"謎めいた展開"を盛り込もうものならそれはもう生き馬の目を射抜く位の気合いで頭を捻らなければ、衝撃を与えられなかったのだ。皆、内容に苦心惨憺していた。

けもフレはそっちに行っていない。当初指摘した通り、ストーリーのプロットは寓話や童話のレベルに普遍的で王道である。第11話はその中でも"英雄タン(うわ変換が出ないぜスゲー間抜けだ(笑))"と呼ばれる類いのものだ。やはり、何も捻りはない。

しかし、今までの10週を通して我々のかばんちゃんとサーバルちゃんに対する愛着はMAXにまで達していた。サーバルちゃんが「すごーい!」と言う度に「おぉ、すごいな。」と思い、「たのしーっ!」と叫ぶ度に「おぉ、楽しいな。」と思ってきた。たったそれだけの事なのだが、これが出来るアニメは数少ない。それをやってのけたからけもフレはすごーいのである。展開自体がお話として衝撃的なのではなく、我々が彼女たちの感情を共有する構造に巻き込まれているから、たとえベタで王道な話の流れであろうとそれを衝撃的に感じられるのである。

キャラクターへの愛着。それは最近深夜アニメではストーリー性と分離していた。キャラクターを前面に押し出した作品は「萌えアニメ」として扱われ、キャラはかわいいがストーリーは皆無、という見方が定着していた。一方、ストーリーのプロットで勝負するタイプの作品は、展開自体を衝撃的に仕組む為に、例えば次から次へと登場人物を殺していくなどしてキャラクターへの愛着なぞ別世界の話だった。けもフレは、視聴者にキャラクターへの愛着を持たせながら、(どれだけありふれた内容だろうと)物語をしっかりと作り込むという、分離していた深夜アニメの2つの側面を融合させた。…いや、再融合させた、と言った方がいいか。本来、アニメの王道として、その両面を備えているのが理想だったのだから。

したがって、最終回も、特に意外な展開をみせないだろう。1クールアニメらしく、王道の大団円をみせてくれる、即ち、普通に終わる筈だ。しかしそれでこそ我々は感動できる。感情移入によって、その世界に入り込んでしまっているのだから。名作の、名作たる所以である。

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けもフレ11話まで観た。本当によくできた、丁寧に作り込まれた名作だが、当初言っていた「情報量の厳選」がこの3話でやや蔑ろにされているようでそれが残念だ。いや勿論、不必要なカットは極力カットされていて重要な場面ばかりで構成されているのだが、如何せん尺が絶対的に足りていない。今の演出の余裕の無さはスケジュール管理より寧ろ1クールに話を詰め込む為の妥協案、みたいな感じだろう。視聴者層を考えると、リズムと「話のまとまり」なら後者が圧倒的に重視されるので現実的な選択としては大正解だが、もっとゆったりのんびり眺めていたい人間は前者を重視するので、そこはやや物足りない。しかしこれは、物語を生み出すものの宿命である。

この作品と比較されるべき「ワンピース」の方は、最早「情報量の厳選」とか贅沢を言っていられない状況にある。兎に角物語のプロット・アイデアが多すぎて、今や完全に尾田栄一郎の寿命との一騎打ちである。細かいコマ割りと長台詞でダイジェストのように進行させていくしかない。初期のように大ゴマを使った迫力のある場面は最低限になってしまった。それでも譲らない場面はちゃんと描写してるのは流石だけど。

尾田は宮崎駿を「描きたい絵が多すぎて物語の整合性に構っていられない状態」だから「もののけ姫」を境にして宮崎アニメから物語の魅力が失われた、と正しい原因の分析をしていたが、尾田は全く逆に「書きたい物語が多すぎて絵に構っていられない状態」に陥っている。あれだけ本編で大量のキャラクターを描いておきながら、サイドストーリーを幾つも抱えて(いて漫画に描ききれていない)のだから驚きだ。

普通のクリエイターは、日々アイデアが出てこないのが悩みになっているが、彼らのような天才たちは「アイデアがありすぎて表現しきれない」のが悩みだ。全く逆ベクトルに悩んでいる。目を瞑ったら頭の中に勝手に完成された交響曲が流れ出す(のでやる事といったらその曲を"記憶して"楽譜に記す事くらいだった)モーツァルトとよく似た状況である。

けもフレがそれにあてはまるかどうかは、12話目で明らかになるだろう。物語的には何も心配していない。今もって、ありきたりな、王道ともいえるお話が続いている。あとは尺に入りきったかどうかだけが懸念だ。それが判明するのはまた来週のお話だな。あの空気感は、きっとそのままでハッピーエンドを迎えてくれるだろう。

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