無意識日記
宇多田光 word:i_
 



@utadahikaru : ・Walking down a long, straight path + cold wind battering hair and face + Frank Ocean's "Solo" blasting in earphones = perfect

「真っ直ぐ続く長い小径を歩く+冷たい風が髪を乱し顔を叩く+イヤフォンからフランク・オーシャンの"ソロ"が流れてくる=完璧。」

英語でツイートしたのは、場所がロンドンかニューヨークだからだろうか。はたまた、フランク・オーシャンが日本でまるで人気がない(別に悪い事ではない)からなかなか共感を得られないと思ったのか。英欧米では物凄いビッグなようですが。

フランクは一曲『Kuma Power Hour』でもかかっているし、昨年は『Fantome』の『忘却』に参加したKOHHくんのプロフィール毎にフランクの名前が出ていたから、どこかで聞き覚えがあるなと思った人も在ったろう。なりくんとの会話にも名前出てきてたっけか。いずれにせよヒカルのお気に入りのアーティストだ。

この"Solo"という曲は、昨年の彼の最新作の収録曲。オルガンの独奏をバックに切々と、ちょっと早口に歌うバラード気味の曲がイヤフォンから"blast(突然に(風が)吹き付けること)"するというのだから、シャッフルで曲を流していたか、或いはラジオかストリーミングサービスを聴いていたという事だろうか。

その曲が、今自分に向かって吹いてくる(たぶん結構きつい)風のように、突然耳に吹き付けてきた、なんかシンクロしてるなぁ、というのがこのポエム・ツイートの趣旨だろうかな。

"Solo"の静謐だが力強い曲調は、ヒカルの好きな曲でいえばブルース・スプリングスティーンの"ストリーツ・オブ・フィラデルフィア"なんかを彷彿とさせる。あの曲もフィラデルフィアの通りを孤独に歩く歌だったが、ヒカルにするとこういう曲調は"孤独な散歩"のバイブがあるのかもしれない。わからなくはない。

3月下旬。国によってはまだまだ寒い。風が吹いてくるとペシペシと顔を叩かれているようにも感じるだろう。その寒さに呼応しながらどこか暖かみのあるオルガンの音色がヒカルに『perfect(完璧)』の一言を言わせたのか。

もしかしたら歌詞にも意味があるかもしれない、と思って読んでみたが、何を言っているのか意味がわからない。フランクの事を知らない身からしたら取り留めがなさすぎて何の事やら。これは素直に降参です。

で。単純至極に連想すると、英語詞の歌を書いているかもしれませんねと期待しておきますか。ツイートの時間帯からして今どこに居るかも含めて、続報を待ちたいと思いますよっと。

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「?」
「!」

…これは、「史上最も短い手紙のやりとり」として有名な、ビクトル・ユゴーとその編集担当者の問答である。それぞれ、

「(本の売上はどう)?」
「(驚くほど売れてるよ)!」

という事らしい。史実かどうかは私は知らないが、なかなかに気が利いている。

ま、それとは関係なく。

昨今の(に限った事ではないけれど)コンテンツに必要なのはこの「?」と「!」だ。音読し難いなぁ、ったくもう。特に、情報量の飽和した現代においては前者の「?」を提供できるかどうかでコンテンツの訴求力が決まる。

インターネットにはコンテンツが溢れている。美しい曲、美しい絵、美しい写真。かわいい女の子、イケメン男子、もう幾らでも手に入る。世界が「!」で溢れていて、何の新鮮味もない。飽和した情報の、どれを選べばいいかわからない。

そこに「ん?これは一体何なのだろう?」と興味を引くものがあれば、一気に注目を集める事が出来る。どれを選べばいいかわからない、と言っていた人たちもいつのまにか、自分でも気がついていないうちにコンテンツを選んでいるのだ。

目下大評判のアニメ「けものフレンズ」はまさにこの「?」の提供が巧みだからこそ大ヒットしている。謎が謎を呼ぶ展開が、アニメとしての画面の稚拙さなど総て押し切って魅力として機能している。2017年現在、ハイクォリティーな作画は最早珍しくない。「!」と目を見張るような美しい動画だけでは、もう皆の気を引き続けられのだ。もし美しさだけで気を引こうと思ったら現代では新海誠(君の名はの監督ね)クラスの病的なまでにウルトラハイクォリティーな作画が必要になっている。あそこまで行くともう、ねぇ? 逆に、そんなものが全く無くても「?」さえ与えれば視聴者は次々と増えていく。それを「けものフレンズ」は証明してくれた。

もっとも、私個人は「けものフレンズ」に「?」は余り求めていない。確かに謎は気になるが、視聴の主な動機はそこにはない。どちらかというと、皆が最初に見た時に感じる優しく丁寧な世界と物語の「つくり」そのものに惹かれて観ている。故に、どうせなら謎なんて解けずにずっとかばんちゃんとサーバルちゃんがジャパリパークを探検してくれてもいいなぁ、とすら思っている。勿論12話で綺麗に完結してくれるならそれはそれでいい。また第1話に戻って、あの空気感を堪能しよう。

その"空気感"を演出するのに欠かせないのが、オープニング・テーマやエンディング・テーマ、バック・グラウンド・ミュージックといった音楽の数々である。「ようこそジャパリパーク」が流れてくると、ああ、今週分も楽しそう、と思えるし、オリエンタルでトライバルなBGMをバックにかばんちゃんとサーバルちゃんが連れ立って歩き始めるとそれだけで楽しい気分になってくる。少し展開がシリアスになるかな?と一瞬思ってもそこにほのぼのとした音楽が流れてきて「ああ、ジャパリパークでは、そんなことには、ならないな。」と思い直せる。この作品における音楽の力はとても大きい。

とは言ってみるものの、現代の、「?」で惹きつけるべき数々多種多様なコンテンツの中で音楽は「?」を与えるのがいちばん下手なジャンルと言える。幾ら美しい曲を聴いても、そこから「ん?もっと聴いてみたい」と思わせてくれる曲は滅多に現れない。もっと平たくいえば、音楽で「この続きが気になる」と思わせるのは、極めて難しい。

そこをどうするかは、今はプロモーション戦略にかかっている。コンテンツにおいて「?」を重視する話は、直接梶さんが(最近いつも)している話だ。もしこれが、歌や曲のコンテンツの中に内包されていたら、強力な事になるのにな。

裏を返せば、音楽は常に「!」を与える側面においては王者に近い。特にライブ・コンサートというコンテンツは「その夜に向けてみんな頑張る」という意味においてそれはもう太古の昔から最強のもののうちのひとつだ。演奏会と競技会の2つは、人間にとって究極のコンテンツだから。

問題は、そこにまでどう「!」と「?」を組み合わせて招き入れるか、だ。今宵は話が長くなったので続きはまたいつか。

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今朝方資料画像ツイートがまわってきた。昨年のユニバーサル全体のアルバム売上十傑に『Fantome』が含まれているらしい。ジャスティン・ビーバーやアリアナ・グランデの名前に混ざってUtada Hikaruの名も。今や企業複合体として肥大化し過ぎて最早どこまでがユニバーサルかわからない位の規模の中で十傑とは素直に凄い。

もっとも、その十傑の中にはBACK NUMBERの名前もあるし、一昨年2015年の十傑にはDREAMS COME TRUEの名前もある。「ドリカム」がローマ字で"dorikamu"になっているのが微笑ましいが、Hikaruが極端に突出している訳でもない。しかし、それでもやはり昨年のユニバーサル(日本)にとって最大のコンテンツだったのは間違いない訳だ。

ますます、なぜSONYに移籍が可能だったのかがわからなくなる。普通、全力で慰留するよね。それとも、表立っていないだけでそれはそれは血生臭い政治的闘争の挙げ句に辿り着いた結論だったのだろうか。それとも、あまりにヒカルが「にべもない」態度だったので慰留するだけ無駄と早い時期に悟れたのだろうか。過ぎた事を蒸し返しても一円の利得もないのだが、「不自然」という印象は残ったままだ。

移籍がどれだけ円満だったかは、今後のバックカタログの取り扱いで決まるだろう。原盤の行方だ。果たして『EXODUS』と『This Is The One』の各曲の原盤は誰の手元に在るのだろうか。『Simple And Clean』と『Sanctuary』は? 次にHikaruの英語曲がリリースされた時、或いは海外でHikaruの活動が話題にのばった時などにまた『Utada The Best』みたいな作品が発売されるかどうかで、移籍の円満さと原盤の行方がわかる。

もしHikaruが過去作品の原盤を手にしていた上で移籍したというのなら、ユニバーサルは踏んだり蹴ったりである。いや勿論『Fantome』でしこたま稼いだのだからそれはウハウハなのだろうが、今後とれる筈だった収益を取り逃がしてしまったのは大きい。とんだ狸の皮算用だが。

前も触れたが、原盤権と自然著作権、出版権はそれぞれにゆるく別々の権利なので、例えば原盤権を持っていなくても同じ曲の新録音バージョンを制作すれば問題ない。そう字面通りにはうまくいかないのが音楽ってもんだが。

取り敢えず、今は次にSONYから出る新曲をひたすら待つだけである。現在でもヒカルが屈指のヒットメイカーである事を裏付ける資料であった。呟いてくれた方どうもありがとう。

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先週金曜深夜の「MUSIC HUB」2回目のゲスト出演は、いやはや、全部もってかれちゃったねぇ。

番組はとってつけたように『ともだち』のオンエアから始まった。「それは初回にやるヤツや」と思わずツッコミを入れてしまった。好き好んで周波数を合わせている我々には周知の事実だが、たまたま聴いていた人が「あ、宇多田ヒカルだ。なんでこんな時間にラジオ出てるんだろ」と思ったタイミングで「実はこの番組のパーソナリティが『Fantome』収録のこの楽曲に参加してまして」と紹介するのがセオリーだろうに。2週目にオンエアしちゃったよ。今更だよ。

多分、番組の編集も行ったり来たりのグダグダなのだ。編集の人に同情するよ。酔っ払い同士の会話を、なんとか辻褄が合うようにと切り貼りしているのだろうから。安心して欲しい、しっかり元々の2人のグダグダさが伝わってきてますよ(にっこり)。

しかし、それも最初の27分だけ。いやそれ30分番組の9割、90%やんと言われたらその通り。でも最後の1割、10%、3分間が凄まじかった。前々から予告していた「カラオケ」タイム。聴いた全員が非難轟々であった。「こんなハイクォリティーなパフォーマンスをカラオケ呼ばわりするなんて」と。「羊頭狗肉も甚だしい!」と。恐るべきバージョンが最後の3分間に待っていた。

選曲は、椎名林檎嬢直々提供の「丸の内サディスティック(EXPO Ver.」マイナスワン(ツーかな?)トラック。即ちリード・ヴォーカルを抜いてあるミックスだ。確かにこれはシングルのB面に「(karaoke version)」と表記されて収録されるヤツだけれども、だからってそれを「カラオケ」と呼べるのは、誰の歌も乗っていないか、乗っていても素人がカラオケボックスで酔っ払いながら歌った場合だろう。如何に同じく酔っ払っていようが(いまいが)本家より歌唱力が上な人間が本気で歌ったテイクをそう呼んではいけない。

おとろしいことに、なりくんのツイートによるとこのテイクは一発録りらしい。確かに2ヶ所ほど音程がフラついていて普段のヒカルなら直したがる感じだったのをそのままオンエアしていたのでもしかしたらそうなのかもとは思っていたが、いやはや。それにしても、唖然とさせられるぜ。

基本的にデュエットだし、EXPO Ver.という事で演奏時間3分足らず、そんなにヒカルが登場する場面が多い訳ではないが、その時の迫力たるや。こんな化け物とデュエットしてサマになっているなりくんの歌唱力もかなり図抜けている筈なのだが、それでも添え物にしか聞こえないのだから、いやはや、凄い。

ヒカルは丸サを(そういやこの曲の略称なんていうの?丸サ?丸サド?なんだかマルキドサドご当人みたいになるなー)日本語詞パート中心に組み替えて歌った。英語でこのレベルの歌唱力の人はザラにまではいかずともそれなりに居るかもしれないが、日本語でここまで歌えるヤツは居ない。椎名林檎嬢のオリジナルと聴き比べると、オリジナルは全く線が細くどちらがカバーかわからない程だ。紅白に出れば他のJ-pop女性歌手を圧倒する歌唱力と存在感を示すあの椎名林檎がまるで幼く心細い妹のように聞こえる。日本語歌手宇多田ヒカル、あらためて恐るべし。J-waveは1ピコナノ秒も悩む事なくこのテイクを公式音源化すべきだ。これはもう音楽産業に携わる者の義務であるよ。

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チャック・ベリーが逝った。あれやこれやは昨晩呟いたので略。いちばん多い反応は「お疲れ様」「まだ生きてたのか」「バック・トゥ・ザ・フューチャーの人」の3点だったな。日本だとそんなもんだろう。やっぱり大ヒット映画で取り上げられると知名度が桁外れになる。

それは別に日本に限った事ではない。アメリカの歴代レコード(CD)売上上位には、マイケル・ジャクソン、AC/DC、イーグルスなどに混じって「サウンド・オブ・ミュージック」「サタデー・ナイト・フィーバー」「ボディガード」といった各時代の映画サウンドトラック盤が名を連ねている。全国民を巻き込むような特大ヒットの為には映画の力は欠かせない。

そもそも、ロック&ロールだって最初のヒット曲は「ロック・アラウンド・ザ・クロック、映画「暴力教室」の使用曲である。そういやこの映画観た事ないや。この曲が1955年に8週連続1位に輝いた所からロックの歴史は始まっている。時計の針が動き出したのだ。

その事実を踏まえるとチャック・ベリーの訃報が「ロックの創始者死去」という見出しの許でリリースされているのは奇異といえるかもしれないが、前も書いたように彼はその1955年当時の流行にうまく乗っかった「調子のいい男」に過ぎない。様々な要因が伝えられているが、1950年代半ばの「R&Rブーム」は短命であり、ディスコグラフィをみてもチャックのヒット曲はこの数年だけでピタッと途絶えている。恐らく、60年代には「時代遅れ」として忘れられていたのだろう。

彼が今こうやって「ロックの創始者」として崇め奉られているのは、彼の次の世代が恐ろしく巨大な存在になったからだ。ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンである。彼らはチャックからの影響を隠さなかった。黒歴史だろうがストーンズのデビュー曲はチャックのカバーなんだから。彼らがロックという大衆文化を肥大化させた事でチャックは伝説的な存在になったのだ。実態はただのチンピラ親父である。

なので、若い人たちが彼の事を知らない、聴いてみても全くピンと来ない、というのも無理はない。世代が違い過ぎる。しかし、ジョン・レノンやキース・リチャーズ、ジョー・ベリーといったロックの巨人たちが同じフレームに収まっている写真や映像を目にすると、彼らが途端に少年のような表情になっているのが手にとるようにわかる。彼ら巨人にとって存命する真のスーパースターの1人が、チャックだったのだ―という事実は、今回の訃報で知れ渡る事になったのではないだろうか。それでもう十分だ。彼の遺したものの巨大さに較べれば、彼が今生きているかもう死んでいるかなんて関係がない。彼がどんな人間だったかなんて更にどうでもいい事だ。そう言い切ってしまいたくなる。しかし、これから、彼の名前を皆忘れ去ったとしてもロックンロールの遺伝子は末長く受け継がれていくだろう。なんだか、それで総てはOKなんだ。気にする事はない。

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前回「人」としつこく書いたが、ヒカルが他人様のラジオ番組にゲスト出演して自分の曲をかけて貰わなかった回は極めてレアなのではないか。普通挨拶代わりに『ともだち』くらいかけるっしょ。ダヌパの選曲(?)したサンダーキャットとサンファってのもまた。ある意味、ここまでゲストとして"軽く"扱われたのが初めてだろう。

ヒカルのメディア出演は、特に地上波テレビ出演は1999年当時誇張無しに"事件"だった。登場する番組の大半で、その番組の歴代最高視聴率を更新したのだ。金メダルを4つや5つ獲った程度ではこんな数字は叩き出せない。総てが規格外の注目度で、Hey!x3に出た時に松本人志が「へー、、、煎餅とか食べるんや、、、。」とコメントした、といえば伝わるだろうか。そんな事すらするかしないかわからない位に神格化・神秘化されたのが18年前の宇多田ヒカルだった。「ほら、ミステリアスなヒカルが来るよ!(笑)」とご学友の皆さんに囃し立てられる筈である。

今や、隔世の感。というのすら飛び越えて今回「MUSIC HUB」に、ノンプレッシャーで出演し…いや、遊びに来ている。タメ口を貫き通す0296君をみて(聞いて、だけど)18年前の「宇多田ヒカルのタメ口は是か非か」論争を思い出した人も居たかもしれない。

当時を知らない人には信じられないかもしれないが、ヒカルがテレビ地上波に初出演した時の馴れ馴れしいタメ口が論争の的になったのだ。『Addicted To You』をリリースした時なんぞ日本中で「宇多田ヒカルのメイクと髪型が変わった!」と話題になったのである。オーバーに言っているのではない。本当なのだ。まさに一挙手一投足に総ての注目が集まった。もし当時Twitterがあったら、今の感覚でいえば100万RTくらいの"国民的関心時"だったのだ、宇多田さんは。

それが今や飲んだくれてざっくばらんに語っている。井上陽水や桑田佳祐といった邦楽市場のディケイド・レジェンズがヒカルを尊敬の眼差しで―もう殆ど「宇多田ヒカルさま」と呼びかねないほどに敬い、一目置いている中で、年下の0296くんが臆する事なく友達感覚で接してくれている。15歳のヒカルはそのタメ口で世間を賑わせたが、34歳になった今、年下の男の子の口調が(極々一部で)話題になっているのだから…いやぁ、長生きはするもんですな。

という訳で、どこからみても初尽くしというか、レア度満点なのが今回の3週連続ラジオ出演なのである。ここまで"ぞんざいに"扱われると、いやぁ、嬉しいもんだねぇ。今夜の回ではヒカルが天然ボケを食らわして小袋くんに激しくツッコミを入れられる場面を是非オンエアしてほしい。そんなんあるんかしりまへんのやが。

さぁオンエアはもうすぐデス。リアタイ組は寝落ちしてしまわぬよう。タイムフリー組はおやすみまた明日っ!

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『人魚』の話の続きを…ってあーもうラジオの出演が今夜か。事前に「酔いどれ放送」と告知されて俄然俄かに期待が高まったが果たして聴いてみた結果更に次の放送が楽しみになるという好循環。これ今夜は先週よりリアルタイムで聴く人増えるかもね。でも今週と来週で終わり。何とも勿体無い。「毎週やれ」という声が聞こえてくるようだ。(自分から)

あれだけ丁寧に作り込まれた『Kuma Power Hour』より反響がよかったらどうしよう、と要らぬ心配もするけれど、世の中そんなもんである。ニーズに合致するかが重要であって、どれだけエラボレイトでも要らないものは選ばれない。コロコロ変わっていく(曲毎に)音楽性自体のファンになるのは極めて難しいので宇多田ヒカルという「人」を好まなくては継続的にファンで居続けるのは難しい。

曲毎のファンはそりゃあ沢山居る。現役のミリオンヒット・アーティストなんですからね。なので、CDは売れるけれども宇多田ヒカルという「人」は、多くの人にとってただの有名人である(超有名人、かな)。SMAPや嵐はCDやDVDをヒカルより売っているが、心に残る名曲が幾つかあっても、彼らの個々の名やグループの名前の方が遥かにデカい。「人」が主役だ。言うまでもない。

ヒカルは、本来なら、音楽の壁に囲わせて自分は見えない場所に居た方が、よかったのかもしれない。しかし現実にはそうではない。「人」に惹かれて居着いている人間が何人も居る。多くはないけれど。

ラジオのゲスト出演を通してファンの方がそれを再確認をするというのも、一言で言えば「間が悪い」。しかしまぁ、ないよりは遥かにいい。今やもう、ヒカルも総てひっくるめて「そういうことでしょ」と割り切っている節がある。今更それがいい悪いとか言い出すのもマイトレンドじゃない、と。そうだろうかなぁ。

まぁいっか。肩肘張らずに楽しむ事にしよう。それをみてヒカルが何をどう感じて次の行動に移るのかは、こちらから何を言ったって決まる事ではないわ。きっと、ほどほどに斟酌してくれるでしょ。

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明日はラジオゲスト出演第2回だが、明後日からはエルミタージュ美術館展が始まる。全く、結局この一年全然話題が途切れなかったなぁ。途切れようが途切れまいが無意識日記は(休み休みしながらも)途切れませんが。

さて、ヒカルは美術館展に『人魚』をテーマ・ソングとして提供している。展示会・展覧会にテーマ・ソングって一体何なのだろう?という疑問もさほど回収されないうちに開催が目の前まで来てしまった。TVCM等で歌がBGMとして流れる以外に、何か用途はあるのだろうか。私は初日から行かずに何がどうなっているのかをインターネットで情報収集してから行こうかな。あそこらへんの街はどうも色んな意味で行きづらいので。まぁ、朝起きた時の気分で決めよう。特にどういった思い入れもない。

で。歌自体。『人魚』は、たぶん、数あるヒカルの歌の中でも取り分け地味な部類に入る。あれだけ種々の、異種格闘技戦かと見紛う程に個性の強い楽曲たちが犇めき合う『Fantome』において、まさに(こういう時に使うんだな〜このフレーズ→)"一服の清涼剤"と呼ぶに相応しい涼やかな空気を、こちらに運んできてくれる楽曲である。

ぶっちゃけ単独曲としては弱い。だからこそ、アルバムという単位で聴いた時に光る曲なので"テーマ・ソング"という風に力まれると「そちらの御期待に沿え応えかねるのですが」と言いたくなる。いや、美術館展だから「主役である美術品たちを引き立てるような奥ゆかしい歌が欲しい」というのであったなら、どんぴしゃである。出版権管理者が日テレでも許したくなるってなもんである。何様。

何より、この歌は、あの事があってから音楽を作った事がなかったヒカルが最初に完成させる事で創作に対する自信と情熱を復活させる事のできた、その歌なのだ。この歌が仮に万が一完成させられなかったとすると、ヒカルは未だに復帰出来ていなかったかもしれない。そう考えると恐怖で震えたくなる。まさに歴史の転換点となった楽曲なのだ。

曲調は、楽曲の大半をハープのみで引っ張る、歌モノとしては『ぼくはくま』すら上回るシンプルさがまず印象に残るものだ。歌も、エモーショナルの権化として名高い宇多田ヒカルの歌唱の中でも最も抑揚がなく淡々としたもの。まさに"フル・フラット"とでも言いたくなる位に「凪」の楽曲である。

その凪さ加減に強い意味を与えようとは思っていない。絵本のページをめくるようなそんな調子で人魚の物語…とまではいかないか、人魚の居る情景を切り取った一枚の絵画のような、そんな歌。ただそれだけで十分だろう。

この歌でいちばん注目したいのはヒカルも言っていた『水面(みなも)』の話だろう。それは…という話題は触れ始めるとほんのちょっぴり長くなるので続きはまたのお楽しみという事で。

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宇野さんがまたヒカルに関する新しい記事をリリースしている。メディアの中で彼ほどヒカルの実情を正確に把握して執筆してくれるライターさんも稀なので、大変ありがたい。SONYに移籍してもうすぐまたヒカルに注目が集まる時期がやってくる。是非踏ん張ってうただきたい。

本文の大意については同意で、こちらから付け加える事はない。そのまま鵜呑みにして貰って構わないだろう。こちらとしては、ファン向けに重箱の隅でもつついておこう。

勿論私が突っつくからには『This Is The One』の所である。『EXODUS』と共に「失敗」扱いをされているのに違和感を感じる。再三再四指摘してきた様に、この2作品に対する市場の反応は別物であり、そもそも同時に論ずる事自体に無理がある。

何をもってして「成功」「失敗」と判断するかは難しい。しかし、宇野さんの書き方だと2作品が同じ理由で「失敗」したかのような誤解を与えかねない。仮に「失敗」と断ずるにしても、その原因は別々に考えなくてはならない。

『This Is The One』は、音楽的実験精神に溢れた『EXODUS』とは異なり、2009年当時の米国国内市場に合わせて制作された「メイン・ストリーム・ポップ」アルバムであった。ここを踏まえなくてはならない。

従ってプロモーションの方向性も基本的に一貫していて、R&B寄りのラジオ局でのオンエアを中心に人気を獲得していった。リーダー・トラックであった『Come Back To Me』はアルバムのフィジカル発売直前にはリズミック・チャート(ソウル/R&B系専門局を対象としたチャート)では39位まで上昇、総合ポップ・チャートやアーバン系ステーションも合わせると一週間で1000回前後のオンエアを獲得するまでになっていた。何度も繰り返してきているが、YouTubeの再生回数からも明らかなように『Come Back To Me』はそれなりに普通にヒット曲なのである。

これ位の小規模ヒットでは、ヒカルのポテンシャルからすると市場で成功したとはいえない、という評価なら同意する。しかし、それまでの一般常識的な感覚では『This Is The One』のビルボード総合69位という成績はLOUDNESS以来の好成績であり、これを「失敗」として片付けるのは無理がある。

そのチャートインは2009年5月の話だが、それはフィジカルCD全米発売のタイミングであって実際は2009年3月の時点で全米他向けにデジタル版が先行リリースされていて、その時点でビルボード総合178位に初登場している。69位という成績は、この初登場分の数字を割り引いた末の順位だ。なお、iTunes Storeではポップチャート2位、総合チャート18位まで上昇が確認されている。

更にその半年後には全10都市を回る全米横断クラブツアーを成功させている。完全ソールドアウトとはいかなかったようだが、その際にお互い全米や英欧で小さいながらも確固としたファンベースが築かれていた事を確認した筈である。

そういった前提を踏まえた上での『Fantome』の3位や『光 Ray Of Hope』の2位である。ヒカルの力からすれば本来これらも失敗扱いすべきだが、それを言い始めたらキリがないのでやめとく。

ともあれ、『This Is The One』が「失敗」扱いに押し込まれるとすれば私は不本意なので、何度も何度も書いてきた事をまた蒸し返させてうただいた。我ながら相変わらず大人気ないなぁ全くもう…。

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次の「MUSIC HUB」があさって放送だ、と今言われて愕然としているところ。ほんとすぐ来るんだな一週間って! 『KUMA POWER HOUR』が1ヶ月とか2ヶ月とか待たされていた事を思い出すと「矢継ぎ早」と形容したくなるほど早い。いやぁ楽しみだね。

番組アカウントによると次回は2人のカラオケらしい。ほんまにただの飲み会垂れ流しやんけ(笑)。だがそれがいい。椎名林檎を歌うとあるので期待大だ。もしこれを小袋君の方がフルで歌っていたとなるとこちらの期待感を粉々に砕け散らした罪で彼の好感度は地の底の底まで落ちるであろう。ヒカルの林檎嬢のモノマネは古いファンにはお馴染みだが、果たして真似て歌うのだろうか。寧ろ宇多田ヒカルの歌声で椎名林檎の楽曲を歌って欲しい気もするがラジオでそんなんオンエアしたら「光の速さで音源化しろやこの六本木界隈のドグサレどもが!」と悪態を吐きたくなる事必至なのでモノマネ披露くらいがちょうどいいかもしれない。

しかしヒカルに酒を飲ませるとここまでノリがいいのか。ならばリカちゃん(※ミラクルひかる)を呼んでお互いのモノマネをして貰うというのはどうだろう。宇多田ヒカルによる宇多田ヒカルのモノマネをするミラクルひかるのモノマネである。何ともややこしいが、面白そうだ。大橋彩香のモノマネをする西明日香のモノマネを大橋彩香が…とかなかったっけ。そういうヤツだわな。

昔は幾らかヒカルがオンエアで歌ったテイクあったよねぇ。「いとしのエリー」とか"Moon River"とか。ほんのちょっとでも嬉しかったもんだ。いつかヴァネッサ・ウィリアムズの"Save The Best For Last"や「リトル・マーメイド」の"Part Of Your World"をフルコーラスで歌って欲しいわい。まぁ、トークの中で一瞬だけ歌うからインパクトが強い、ってのもあるかもわかんないけど。

でも、歌が上手い人は沢山の歌を歌って披露して記録する事は神様から才能を与えられている以上人としての義務であるように思うのですが(←いつもと言ってる事が違う)。ヒカルくらいになると歌われた歌の方が喜ぶので、まぁ歌を喜ばせると思ってどんどん歌ってくれればな。いいんだけどな。

しかし、さっきは評価が地に落ちる恐れとまで書いたが、この三週間(正確には二週間と一日、十五日間)で宇多田ファンの中での小袋君に対する評価・位置付けってどうなるんだろうねぇ。ヒカルのアルバムでヒカルより長い時間マイクを占拠した廉でKOHHちゃんはえらい散々な言われようになり申したが(笑)、小袋君の場合目立たないバックコーラスだったから、はっきり言ってどうでもよかった。しかしこうやってヒカルにタメ口で馴れ馴れしく話し掛けつつ子育てをはじめとしたプライベートなエピソードを聞き出し(写真で性格を当てる話とか、普通のインタビューじゃなかなか引き出せないぜ)、挙げ句マイクを持たせて歌を歌わせるだなんてヒカルがゲストできた番組のホストがした仕事の中ではトップクラスの偉業じゃないか。一方で、だからこそヒカルの懐に入っている感じがして主にヒカルファンのお姉様方から評判がよろしくなくなる可能性もあり。あと2週、まだまだ油断と予断を許さないぜ。

こちらとしては、カラオケにまで引っ張り出してくれてどうもありがとうという気持ちしかない。寧ろこのままヒカルが「MUSIC HUB」を乗っ取ってくれればいいのに、と。或いは対抗して「MUSIC MONGOOSE」という番組をだな…(没)。

いずれにせよ明後日が楽しみだ。実況にも気合いが入る。あとは金曜深夜という眠い時間にどうやって番組開始まで起きてるか、だわ。何か妙案がありましたら提案よろしくw

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一昨年から昨年にかけて、「え、そこ思い切って行く?」と唸らされる声優アーティストデビューが続いている。その程度のキャリアと知名度でプロジェクトしかけて果たして大丈夫なのかと。しかし、個別の例をみてみると、どちらかといえば、アイマスとラブライブの成功で声優アーティスト・ブームに乗っかっているのかと思いきや、関わっているスタッフたちが個々の声優さんに惚れ込んで頑張っているケースばかりが目に入る。へぇ、ならいい傾向じゃん。

で、なんでそんなに声優アーティストたちが音楽業界で人気なんだろうと考えてみた。

歌をプロデュース/作詞/作曲をする立場にたってみると、なるほど、まず彼ら/彼女らは例えばアイドルのジャンルに区分けされる人たちと比べると抜群に歌が上手い。ジャニーさんの「歌の練習をする隙があるならダンスの練習をしろ」主義がアイドル業界には根強いのかアイドルの皆さんの歌唱力はとても低い場合が大半だが、声優の場合ハズレにあたる確率がグンと減る。なぜなら殆ど全員が声優の専門学校や養成所で発音や発声の訓練を受けているのだから当然だわな。作曲家としては、歌の巧拙より歌心というのは勿論真実だけど上手いにこした事はないというのもまた本音だ。

また、そうやってしっかり訓練を受けてきている分、声を出す仕事に対するプロ意識がおしなべて高い。例えば、ボーカルのスキャットのみでアルバムを作ろう、となっても根気よく地道な作業に付き合ってくれるし、ボーカロイドの音録りみたいな苦行な仕事もしっかりこなしてくれる。プロデュース側が実験的なアプローチをとりたくなった時に実際的な困難を乗り越えるだけの技術的な基礎をもっている。これはかなり有り難い。

また、声優というからには役者であるのだから"演技力"もまた高い。様々な作詞家作曲家から楽曲提供を受けるシステム上、曲調がバラエティーに富むのは必定だが、それぞれの歌のキャラクターに合わせて芝居がかった歌唱を聴かせるのはお手のものだ。普段からキャラクターソングで別人になりきって歌っているのだから容易い話だろう。

そういった職人肌に伴って、アーティストとしてのアクの強さみたいなのが希薄なのもポイントが高い。これがインディーズからのシンガーソングライターさんだと確固たる自分の世界を持っていてこちらからの提案はなかなか聞き入れてもらえないが、声優さんの場合もともとアーティストとしてのエゴが無いので、こちらからの音楽的アイデアを具現化するのに非常に協力的だ。

なるほど、音楽業界の作り手側としてはアイドルやシンガーソングライター/バンドより、余程自分たちの"音楽的な夢"を叶えるのにうってつけの存在だな、声優は。

更に、ある程度の声優さんなら固定ファンがついているのでCDの売上やイベント・ライブの集客力にあらかじめメドがたつ。レコード会社としても予算をくみやすい。また、ルックスも時代の要請に従って非常にレベルが高いのでミュージック・ビデオもアイドル並みに作りやすい。様々な世界観を表現できる。


こうしてみてみると、音楽業界で声優アーティストの人気が高く、次々とデビューが決まるのも納得である。作り手側だって音楽ファンだ。こういう音楽をやってみたいという夢がある。それを叶える手助けをしてくれる人を探したら声優に多かった、という事なのかもしれない。もう暫くこのトレンドは続くかもしれないね。

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『30代はほどほど。』と「MUSIC HUB」を視聴をしていて印象的だったのは、ヒカルが「自分のおかれた状況を戯画化して笑い飛ばしていた」とこだ。鶏団子鍋と腕鳴らしの場面、といえば通じるかな。あぁ、あと3DVR眼鏡を覗いて『誰が得するんだ』と言ったとことかな。

もう癖になっているのかもしれない。どんな窮地やピンチになったとしても、そういう状況に置かれた自分を外から眺めたら滑稽に映る。そういう風に自分をみる事で余裕が生まれ、何でも笑い飛ばせるようになる。悪くない。

そこらへんの「センス・オブ・ユーモア」は、曲作りにも少しずつ反映されてきているようにも思える。毎度言っている、『Fantome』の熱くなりきらない感じ、な。『ともだち』はもっと派手にパーカッションを鳴らせばもっと賑々しくなるし、『荒野のおおかみ』はもっとストレートな構成と編曲にすれば爆発力が上がる。それをしなかったのが『Fantome』の個性だった。

もともと、ヒカルは音楽にセンス・オブ・ユーモアをあまり持ち込まない人だった。歌うとどうしてもシリアスになるからで、『traveling』のようなアゲアゲな曲ですら『少しだけ不安が募ります』と言ってしまう。98〜99年にヒカルが登場した時に自分がこう呟いたのを覚えている。「コイツ、マジやん。」

日本の邦楽市場というのは、どこか真剣になり切れないところがあった。途中全部すっとばして原因をいえば、それは音楽性とアイデンティティが結びついていないからで、どんなスタイルの音楽をやっても、自らの根源を危機に曝さないのだ。音が借り物だから、それに対するリアクションも自分の魂に響き切らない。従って日本の邦楽はいつもどこか無責任で、「憧れ」と囁いて済ませる傾向があった。

ヒカルの音楽は、この国では異質な、血肉から出た音楽であった。故にそれをリリースするのは魂を丸裸にして傷に曝し続ける事を意味した。音楽によって自身を開示するといっても「○○風」「…というジャンルの」という表現手法を用いた時点でそれは魂の叫びになりえない。例えば尾崎豊などはそういった「自分の声で」歌う人種でありながら一定度の知名度を得た希有な例だが如何せん不器用過ぎた。途中で死んどるからね。

ヒカルには魂があり、アイデンティティと音楽が結びついていて、その上技術も身体(喉!歌声!)もあった。

今でもシリアスに振り切った時のヒカルは凄まじい。『桜流し』『真夏の通り雨』。しかしその『真夏の通り雨』ですら、2つの異なった解釈を重ね合わさせる"俯瞰の視点"をもつ。各々のストーリー自体は至極シリアスなのだが、その2つを並べてみた時には「これは何だ」という気分になる。笑うところまでは行かない。即ち過渡期である。

本来なら徹底した俯瞰は手法の徹底を生む。今日もKING CRIMSONを聴いていて、彼らのセンス・オブ・ユーモアの深さと幅が、20世紀最高のシリアスさと直接結びついている事を実感した。まだまだヒカルには笑いが足りない。女子にどこまで出来るかわからないが、今「おばさん」として開き直れるのは途方もない武器かもしれない。もっと笑い飛ばそう。そして誰よりも泣かせてくれ。どちら側からも、涙を搾り取ってくれ。

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CDショップ大賞の受賞コメントがYouTubeにアップロードされていた。最近はちょっとした動画も高画質だから有り難い。これでも今の標準的なスマートフォンで録画したものよりビットレートが落ちるというのだから、いやはや。DVDって何なんだろねというレベルだわ。便利だから買うのだけれど。Blurayは何かと面倒なので。

中身は先日のスペースシャワーアワードの時に纏め録りしたものらしくアピアランスに新味はないのだが、あの新しい髪型似合ってる? ああいうのって顔の大きさを隠しだいと思ってる人がやるんじゃないの?(直球) あんな細い顎の顔に要るヤツだとは思えんが。寧ろ、ああしてる人は顔の大きさを気にしているという先入観がはたらいて顔がやや大きく見えるという謎の逆効果をウチの脳は作り出してくれたくらいで。今のヒカルは「今くらいなら許容範囲だけど、それ以上痩せるとマズいよ?」というレベルにみえてるんだけど…

余計なお世話だな。

しかしまぁ、たった一分足らずの動画なのに次から次へとクリクリコロコロとよく表情が変わること変わること。普段からあんな感じで生きてたらそら疲れるわ眠くなるわ。またその表情の遷移がドラマティックでメロディアスでもう。あれをみただけであぁこの子は芝居が上手いな歌が上手いなと思わせてくれる。芝居の経歴はウェイトレスとピノコなんですがね。

この子は四六時中曲作りしているようなもんなんだな。感情の流れ、動き。主題の提示から展開、結論。構成だけなら話術だが、エモーションにはたらきかけるプロセスが加わる。メロディアスとはそれの事だ。何をどうやれば直立不動で喋るだけで人にこんな印象を与える事が出来るのか。全くもって嘆かわしい(?)。この動画だけで1000円で売って欲しいくらい。瞬く間に瞬速しちまいましたがね。

そのエモーショナルな部分は今朝方のリツイートにもよく表れている。11日の陸前高田での梶さんツイートを黙ってRTしただけなのだが、無言なのが逆に思いが伝わってくる。普通の無言だとそんな風には思わないが、普段の言動を見聞きし、件の動画を観た直後だとその沈黙に解釈が加わる。祈りの力の強さとでも言おうか、背景を想像させるのだ。U-turnプロジェクト、あまり関連発言はなかったが、思い入れが強かったんだねぇ。クリスマスにも土まみれになって取り組んでたんだから当然か。いや正確な場所は知りませんが。栄村だったのかもしれないし。

いずれにせよ、大人になっても相変わらずエモーショナルなヒカルの一端が垣間見れてよかった。きっとまたいい曲を書いて歌ってくれるに相違ない。遠慮なく曲作りに取り組んで欲しいデス。

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前回も誤字が多いな〜。読み直して訂正すりゃいいのだがそれを始めると際限なく"編集"したくなってしまう。それが昔の短い(総て0.5bytesの)日記だった訳で、もしかしたらいつかそのスタイルに戻すかもわからない。明日の事なんて知らない。

CDショップ大賞とったのか。おめでとう。今の若い子にとってCDは我々がLPに対して抱くのと似た感情を抱いているのだろうか。ちょっと違うかな? そもそも「音源に金を払う」こと自体が奇妙なのかもしれない。今はお金を払うとしても定額観放題聴き放題じゃないとねぇ。

実際、新しいコンテンツも古いコンテンツも、無料のものですら総てチェックしきれないのが現状だ。一体この情報過多の時代にどうやって各々情報を取捨選択しているのだろう。

ひとつは、「この人を応援する!」と決めてしまう事だ。わかりやすい。幾ら情報が溢れているといっても流石に1人の人間のアウトプット量は限られている。なんとかついていけるだろう。

ひとつは、ひたすらその時流行っているものをチェックし続ける事だ。TwitterのトレンドやらRT&FAV数やら、各種ランキングやポータルサイトの記事量など、その時々にバズっているコンテンツを食い散らかす。これはこれで方針がしっかりしていて過ごしやすい。

この、「人を決める」にも「流行を追う」にもアジャストしきれない人間は、結構ツラい。誰か特定の人に決め打ちするほど情熱的でもないし、かといって流行りを追い掛けるバイタリティもないしなぁ、なんか、それなりに楽しい事を出来るだけ少ない労力でチェックする方法はないものか、という気分の人、結構居るんじゃないかな。

ここで私が「そういう人たちはこうすればいいよ」と具体的な提案が出来ればカッコいいのだが、残念ながら今日も私はカッコ悪いのであった。あ、いや、勿論「宇多田ヒカル聴いてればいいよ!」という助言は最初にあるのだけど、それここの読者にいちばん必要ないヤツだからね。今更過ぎてもうね。

本当だったら3年前に『KUMA POWER HOUR』特集をもっとガッツリやるべきだったんだな。取り上げたミュージシャンたちを掘り下げるっていう企画。ただ、やったとしても読者の反応は薄かったろうね。どちらかというと、ヒカルの好きな音楽より、その時読んでた漫画とかを取り上げた方が食いつきがいいくらいで。

でも例えば。『荒野の狼』のタイトルのもとになったヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」なんかは、こっちががっつりその長編小説を読んだのだから結構大々的に特集が組める、筈だった、のに、実際に読み終わってみるとあんまり歌と関係無い内容でしかも中身は今日本に生きてる人たちには非常に厳しいものでな。いやさちゃんと傑作と言われる所以は全部読み切れば伝わるだろうと思うがそれにしたって冗長過ぎて。とてもうちの読者にすすめられるようなものではなかった。この日記を読んでくれている時点で極めて忍耐強い本読みさんの皆さんだとわかっているのに、である。

という感じで、話を広げられるコンテンツを掴み損ねたりしながらここまで来ている気がする。そうこうしているうちに新曲もリリースされるだろうし、もっとこう、こちらも、「毎日宇多田ヒカルを楽しめる切り口」をコンスタントに提供しないとなぁと思い直した次第でしたとさ。いやはや、わかりきった事でもたまにこうやって書かないと軌道修正できないんですよ、えぇ…。

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金曜深夜のラジオ出演は楽しかったね。インタビューではない対談、しかも雑談形式の音声がオンエアに乗るって今までの活動の中でもかなり希少なので、その物珍しさもあったかもしれないが、相変わらず「世間での知名度や論者の評価なぞどこ吹く風」という豪放磊落なスタンスでゲラゲラ笑っていた。ただ、その笑い方が年相応になってきてるのは未だに「どうつっこんだものやら」な心境ではありますが。何言ってもおんなじように笑い飛ばされるだけなので気を遣うだけ損なんだけどね〜。

子育てを楽しめているようで何より。選曲が彼というの場合、ディスクジョッキーとしてのクレジットは貰えるのだろうかとか余計な事を考える。いろんな流れの中から切り離された母と息子の空間に響いてるのがサンダーキャットとサンファという"今が旬な(だけどもしっかり経歴を積み重ねてきている)"アーティストたちのトラック、という所に、なんていうの、ヒカルのキャラクターが裏から回り込んできてるみたいな事を感じている。

本来、そういう所から切り離された場所で、こどもの歌は歌われている、という思い込み&共通認識もある。文部省唱歌として指定されてる類がその最たるものなのだが、ひとつひとつの歌はバラバラの時代に作られていて、比較的新しいものもあり、何をもってして。童謡"というものが決まっていくのかは判然としない。

そういった"童謡"も、ヒカルは聴かせていると言っている。ただ闇雲に自身の趣味に走っている訳ではない。それでも息子がサンダーキャットやサンファを選んできたのだから一緒になって楽しめばいい。ただ、こどもの場合「お母さんが楽しそうなだから自分も楽しくなってきた」という歌も好むものなので、それについてはまた別個に捉えておこう。いずれにせよヒカルが楽しそうで喜ばしいぜ。

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